アドレナリン・ラッシュ・エナジー

アドレナリン・ラッシュ・エナジー


 耳の裏がピンと強張る。

 喉の奥が焼けるように乾く。

 震えた文字は汚らしく、歪で、どこか不安げに細い。

 答案用紙に広げた解答は、どれもこれもが不安定に震えている。


「ま、まずい……」


 教室の時計を見る。


 残り十五分――。


 全体的に設問は網羅して、解答も揃えた。

 見直しもしているが……胸を張って答えられた問題は少ない。

 僕はごくりと生唾を飲み込み、前回の定期テストの結果を思い出す。

 夏休みが始まり、予備校の夏期講習の第一週目に行われた『実力判定テスト』は……頭を抱えたくなるような結果だった。

 平均点が七十八点であるところで、僕の五教科平均は六十二点――。

 高校三年生の夏休み前までの総合力を試される予備校のテストで、ここで七十五点以上――なんなら八十点以上の五教科平均を取らなければ、志望大学への合格は難しい。

 実力のある『現役生』たちは楽々と平均点を越えて、休憩時間に談笑している。

 一方で僕は――二浪して平均点に届かない。

 彼らが学校へ行っている間も、自習室や講習を受けて……それでも届かない。

 あまりの不甲斐なさに、母は激怒し、父は無関心で、兄は嘲笑してくる。

 父は開業医で、僕と兄は医療関連の仕事に就いた方が『コスパがいい』と昔から口癖だった。他人がカネでやってくれることはカネで解決する。自分は手を動かさず、誰かがやってくれるのなら、人を雇ってやってもらう。これが世の中の常だ。

 しかし、唯一……それが通用しないものがある。

 それが受験だ。

 出来の良い兄は国立医大を卒業して大学病院で勤務医をしている。数年後には父の病院を手伝う未来だって見えている。

 会計士の資格を持つ母は、父の医院の財務会計をやりながら家事までこなす。

 どこからどう見ても、出来た家族だ。

 そんななかで、僕だけがずっとずっと成績が悪くて『一族のバグ』みたいに扱われている。

 思い返せば中学生のころから、家庭教師付きの環境で勉強していた。それなのに、高校は第一志望に落ちて第二志望になんとか乗り込んだ。

 その高校でも成績はさほど振るわなかった。

 最初こそ上位層だったが、最終的には中間ぐらいで中途半端――。

 おまけに現役での大学進学に失敗し、起死回生をかけて翌年にも受験したが――そこもスベった。父は僕を諦めているし、兄は「無理すんなって。サラリーマンでいいだろうよ」と蔑んだ表情で追い打ちをかけてくる。

 母だけが半狂乱に「ちゃんとやんなさい」「しっかりしなさいな!」と声をあげて迫って来る。

 母にも言われなくなったら……おしまいだ。

 そうしたプレッシャーがあるにもかかわらず、答案用紙の答えに自信を持てなかった。


「はい、そこまで!」


 予備校の講師が声をかけて、答案用紙を回収する。

 現役生がくすくす笑う。

 みんなより少しだけ年齢が高い僕をバカにしているのだろうか。

 鞄に荷物を詰めて、僕はスマホを睨みながら駅へ向かった。

 どうして僕はこんなにうまく出来ないのだろうか。

 世の中には予備校にも家庭教師も使わずに、現役で国立大学に合格する人だっている。それに比べたら、僕はたくさんのものがそろっていて、明るい未来が約束されていたはずだ――!!!


 なのに、なのに――!!!


「うわっ!」

「おっと!」


 どんっ、とサラリーマン風の男性にぶつかってしまった。

 予備校から駅へ向かう歩道でのことである。

 スキンヘッドの柔和な表情を浮かべる男性は「大丈夫ですか」とぶつかったはずの僕に謝ってきて。

 僕は「いててて……」と落としたスマホを拾い上げて「す、すいません。前を見ていなくて……」と謝った。

 すると男性はまじまじと僕を見て。


「学生さんですか?」

「えっ、ああ……まァ――」

「いまの時代は受験も大変でしょうに。わたしの時代はそこまででしたから、ぬるっとうまい具合にできたものです」


 彼はそう言って予備校の校舎を見上げる。

 どうやら僕が大学受験で血眼になっている人間だと察したのだろう。 

 すると彼は鞄から「ぶつかってしまったのも何かの縁ですから」と前置いて、三本の細い缶ジュースを取り出した。

 それは外国製のエナジードリンクのように見えた。


「これを飲むと集中力があがって、ここぞというときにいい結果が出ますよ。根を詰めすぎるのも体に毒ですから、時々はリフレッシュしたらどうでしょうかね?」


 そう言って彼は強引に三本のエナジードリンクを押し付けてきた。

 僕は思わず受け取ってしまったが、知らない人から飲み物をもらうなんて……ちょっと怖い。


「あ、あの……あなたは?」

「あっ、すいません。わたしは怪しいものじゃありません」

「エナジードリンクの、営業さんですか?」

「いいえ。都内でクリニックをやっているものです。ああ、団地の一室でひっそりとやっているので、お金は持っていませんよ。あんまり」


 そう言って彼はにいっと笑った。

 僕はエナジードリンクを返そうとしたが、彼は「もし足りなくなったら、わたしの診療所に来なさいな」と言ってクリニックの案内を渡してくれた。

 それは江東区内にある団地の一室で、あまり良いクリニックとは思えなかった。


「あ、あの……僕は」


 返そうとエナジードリンクを差し出したが、男性は意に介すことなく「ではでは……」と歩き去ってしまった。



* *



 その日の夜、エナジードリンクを試しに飲んだ。

 なんてことはない。

 どこかで飲んだことのある風味のエナジードリンクだ。

 読みにくいロゴで『アドレナリン・ラッシュ』と書かれている。

 だいじょうぶな飲み物だよな……?

 そうした不安はありながらも、机に向かう。


「よし、十二時までに……終わらせるぞ」


 そう意気込んでテキストを開いた。

 ボリュームのある英語のテキストで、苦手教科のひとつだ。

 スッと意識が遠のいて「ハッ……!!!」と気づいたときには、すでに二時間近くが経っていた。


「しまった、眠っちゃったのか……!?」


 慌ててテキストとノートを眼で追う。


「あ、あれ……?」


 そこには自分の字でテキストを進めた形跡がある。

 おまけに母親が持ってきてくれたと思われる夜食の焼きおにぎりも完食している。

 想定よりも二時間も早くテキストが終わり、その内容も「あっ、たしかにやったな、ここ」とあとから記憶が蘇ってくる。

 台所に立つ母親に夜食のトレイを戻したとき。


「今日はやけに集中していたけど……。定期テストの手応えが良かったの?」

「うぇっ……!?」

「だってすごく集中していて、声をかけても見向きもしなかったじゃない」


 母の言葉に僕は唖然とする。

 駆け足で部屋に舞い戻って、再びテキストを開く。

 するとスッと意識が遠のいて……。


 深夜十二時半――。


 ここまでやるぞ、と決めた明日の予習が、いつしか終わっていた。

 僕は江東区でクリニックを開いているという男からもらったエナジードリンクをまじまじと見つめた。


「ま、まさか……ね」



 翌日の確認テストは最高得点だった。

 予習と復習のポイントがバシンとあたり、絶対に間違えないだろうという確信があった。実際に、確認テストの点数は高く……講師から「上村さん、今日はすごいね」と褒められた。

 まわりから「珍しいなあー」と声が聞こえた。

 僕は嬉しかった。

 それ以上に……あのエナジードリンクだ!


 翌週に控えていた予備校での中間テスト――。


 その寸前にエナジードリンクを飲んだ。

 効果はてきめんで、一瞬にして試験は終わり……また最高得点を取った。

 その次の重要な判定テストでも、僕は最高得点を取った。

 これまで絶望的と言われていた志望校への進学判定はAを取ったし、もう少し頑張れば父の母校となる国立医大にも合格できるかもしれない、という評価をもらえた。

 母は大喜びだし、父は笑顔で頷いてくれた。


「次のテストも頑張るのよ!」


 母に両肩をぎゅうぎゅうと掴まれながら、多大な期待を向けられる。

 僕は「頑張るね、ママ!」と答えながらも、一抹の不安を抱いていた。

 あのエナジードリンクが、もうない。



 重要な試験は、これからも続く。

 僕は江東区のクリニックに向かい、エム医師と再会した。

 彼は街で出会ったときのように柔和な笑みを浮かべながら。


「ほえー、そりゃよかった。いい結果になってよかったですよ」


 そう言って幾度も頷いてくれた。

 僕は懇願する。


「あの、以前に頂いたエナジードリンク。それをもう少し分けていただきたいのです。できれば、売っていただけませんか?」

「売るのは構いませんが、上村さん……。あれはリフレッシュのためのエナジードリンクですよ。あなたが頑張って受験勉強に打ち込んできたからこそ、効果があるものです。まさか、あのエナジードリンクを飲むと成績が上がると錯覚して……ここに来たのではありませんよね?」


 ぎくりと胸のなかが震えたが「ち、違いますよ!」と嘘をついた。

 エム医師はねっとりとした視線を向けてきてから。


「では、お売りしましょう」

「ほ、本当ですか!」

「一本、二十万円でお譲りします」

「に、に、二十万ッ……!?」

「これはあくまで、リフレッシュなのです。旅行にいくのと同義です。未来は実力の上に獲得できますので、余暇として楽しむなら……これぐらいが妥当です」


 僕はそんな大金を持っていない。

 その日は肩を落として家へ帰った。

 しかし、四日後に大事な予備校の中間テストが控えている。

 頑張ってドリンクを飲まずに日々勉強して……問題に取り組んだが、集中力が散漫になってうまく進まない。


「二十万……ドリンク……二十万……ドリンク……!!!」


 ぐるぐると廻る思考のなかで、僕はタンス預金の封筒を握りしめていた。

 それはクリニックの売上であり、母が管理しているなんらかのお金だった。

 そのなかに百万円が入っていた。

 その金で、僕は五本のエナジードリンクを買い、秋口から年末にかけての試験をトップ成績で着地した。

 年が明けるとエム医師は「一本、五十万円ですね」と値段を吊り上げた。

 僕は胸がぐっと圧迫される思いだったが、父のドイツ車のなかから二百万円の現金を見つけ出して、それで四本を買った。

 白い封筒からお札の束を見つけたとき、ふんわりと漂ったカネの匂いは鼻の奥にじっとりと残っている。あの独特なインクと紙の匂いは、魅惑的だった。

 受験前の最後の仕上げの時期――。

 僕は大切な予備校の考査をトップで駆け抜けた。


 そうして迎える受験当日――。


 最後の五十万円は……キャッシングで確保した。

 僕は初めて無人のキャッシングコーナーで限度額いっぱいまで借りた。

 学生だから借りられないと思っていたが、なんてことはない。

 五社から十万ずつを借りた格好だ。

 そうして大学受験に挑み……見事に最高の手応えで試験を終えた。



 母のお金が、父のへそくりがなくなっていること。

 僕がキャッシングで作った五十万円の借金――。

 それらが問題として表面化したのは、受験が終わって二週間後の事だった。

 両親は僕の受験が終わるまで話題を保留していた。

 金が抜かれていることについて気づいていたが、わざと言わないでいてくれたのだ。

 僕は正直に顛末を話した。


「すごく効くエナジードリンクを買って、飲んでいたんだ。それを飲むと安心するし、成績もぐんぐんあがって……実際に僕はうまく出来たんだ」


 すると父はむっつりと口を閉じていたが。


「よかった。たかだか数百万円で未来を買ったんだ。よかったじゃないか」

「そうよ。安いものじゃない。五百万円? 七百万円……? いいじゃない。ちゃんと正直に話してくれたんだから、お金なんて払ってしまって。大切なのはこれからよ!」


 両親の温かい言葉に僕は救われた。

 すぐにキャッシングの借金は父が返済し、僕は何事もなく……大学の合格通知を待つことになった。

 そして、僕は志望校のワンランク上にあたる国立大学に合格し、晴れて来年からは大学生となる事が決定した。


「やった! これで僕の人生は絶対安定だ!」


 部屋で小躍りして、リビングで兄も交えてパーティを開いた。

 それはそれは、とても素晴らしい幸せな時間だと心から思えた。



* *



 高級住宅街の一角から、幸せそうな声が聞こえている。

 エム医師はコンビニの袋にたくさんの『外国製のエナジードリンク』を携えている。


「いやはや、うまくいって良かったですなあー」


 ぽつりと言ってから、エナジードリンクのプルタブを開けてぐいと飲む。


「富裕層からお金を頂くというのはボロい商売ですねえ。しかしぃ……大学に合格するだけが人生ではありませんよね。これから、高校生以上にたくさんの事を学んで吸収して、高度な試験に挑まなくちゃいけない。そのときに、あの方はこのドリンクに頼らなくてもやって行けるでしょうか……?」


 くるりと踵を返して、エム医師は江東区のクリニックへと帰っていく。


「さーて、次は一本二百万円で売ってみましょうかね。きっと彼なら、それでも買っていくんでしょうから」


 エム医師は笑いが止まらなかった。

 モノに依存し始めては……元も子もない。


「人生は実力勝負……。アイテムが助けてくれるわけではありませんよねえ」


 彼は残ったエナジードリンクを側溝にどばどばと捨てた。エム医師には、こんなエナジードリンクを飲まなくても国家資格を突破する能力がちゃんと備わっているのだから。

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