第3話 稲福の御婆

 突如とつじょ、苗が故郷に帰ってきたのは、姿を消してから三十年余が過ぎたころであった。

 棚原之世高大祝女之子タナバルヌセダカウフノロヌクワ、すなわち苗の母、加那が死ぬ前日のことである。


 老いた加那の息が乱れはじめたころ、ノロの家格ある女たちがあつまった。

 ノロの後継あとつぎについてである。

 今、若ノロにいているのは、御婆の妹方の娘であるが、かねてよりの相談どおり、彼女がノロということでよろしいか。

 大名家だいみょうけ家督相続かとくそうぞくでもあるまいこと、ノロの継承者けいしょうしゃを誰にしようと、村で決めて届け出るだけの話ではあったが、やはり前任の承認を得ておくにしたことはない。

 それにうなずいてもらおうとするが、床上の加那は、

「心配せんでもよい、苗が帰ってくる」

 そう云うだけなのだ。

 呆けたようすはない。

 他のことについては、さまざまな後事こうじを、しっかりした口調でみんなにたくす。ただ、肝心のこととなると、苗が帰ってくる、苗にゆだねよ、と云うばかりで、とりつく島もないのである。

 苗とはいったい誰のことか。

 そうたずねるのは、脇ノロの若い娘たちであった。

 苗が失踪しっそうして久しい。知らないのは当然だった。


 かつてこの棚原に、自由に雨を降らせ、田畑をうるおし、人々の病を癒す、神威セジ高く、美しい若ノロがいた――。


 そういう話を、耳にしたことはある。だが、ほとんどの者にとっては、年寄りのただの昔話でしかなかった。苗を知る老人たちでも、加那の手前、あえて口にはしないし、彼女が生きているとは思っていなかった。

 その苗が、帰ってくる。

 そう云いつづける母の言は、死際しにぎわの老人のうわ言としか思われない。

 やむなく女たちは、後継こうけいを内々で決めていた。

 ところが、老いたノロの言葉どおり、まるで母親が逝くことを知っていたかのように、「苗」は帰って来た。


 村にあらわれた彼女は、もう六十をすぎるおうな

 もちろん若くはない。かつての黒髪は銀に染まり、目尻のしわも深くしている。

 だが、おだやかに笑みをたたえ、凛としたその姿は、閑雅かんがの香りに満ちていた。それは、年をとったというよりも、内面の美しさの発露はつろをおおっていた余計な美がぎ落とされた、といったふうで、完成された涸山水こさんすいのような神性が、全身からあふれていた。

 これが、あの若ノロ。

 苗を知る者も知らない者も、ただその姿に目をうばわれた。

 母加那と苗は、数十年ぶりの親子の対面であるはずだったが、たいした会話もなく、二人とも、笑みを交わすだけだった。それはまるで、ずっと共に暮らしていたかのような、母娘の様だった。


 母はき、そして苗は棚原の大ノロとなった。

 苗は、かつてと変わらぬ気安さで、村人たちに接した。

 手をかざして人々を癒やし、吉日をえらべば空は晴れ、航海にえば海はぎ、雨を願えば地は慈雨にうるおって、豊作がつづいた。

 やがて棚原村は「美味い米どころ」として知られるようになった。


 稲豊良多美与茂伊之神いなふくらたみむいぬかみ

 苗はいつしか、みんなから「稲福いなふく御婆おんばあ」と呼ばれて、親しまれた。



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