第7話

 クラネは、山道を下り、昨日も寝床にしていた小湖のほとりに来た。

 通行蝶——所有者の魔石のみを原動力とし、所有者が認めた利用者の魔核と特定の二地点の座標を登録すると、その区間を瞬間移動できるようになるとても便利な魔法道具。

 つまり今回の場合でいうと、ジーヴルが通行蝶の発行と魔石を提供し、クラネを利用者としこの邸とクラネの自宅の座標を登録してくれたら、出勤が一瞬にして行えるようになる、予定だった。

 だが、休んでいるジーヴルの邪魔をするわけにはいかず、そもそも規則として退勤の定刻から出勤の定刻三十分前までの間敷地に足を踏み入れるわけにはいかない。だが下山をすれば間違いなく明日は遅刻することになる。

 昨日もこの山に野宿をしたし、幸いパンの耳はまだ残っている。

 湖畔に立つ大きな木に背を預け、パンの耳をもそもそとかじる。美味しいしお腹には溜まるけれど、乾燥させている分口の中の水分が持っていかれる。水を飲むために小湖に近づくと、その水面がちらちらと輝いていた。

 仰ぐ夜空は今日も快晴で、数多の星が眩く瞬いている——。

「へっ」

 一筋の光が走り消えたのが見えた、気がした。

「流れ星?」

 しばらく夜空をじっと見つめるが、しかし、先に見た光の筋はなかなか現れない。見間違いだったのだろうか。でも、もしかしたらまた見れるかもしれないと思うと、目が離せない。

「あ」

 しばらく見つめていると、また星の筋が空に掛かった。見間違いじゃない、どころか、ひとつ、ふたつ、みっつと……いくつもの星の筋が空に浮かんでは消えていく。

「すごい」

 流れ星が群れとなり、絶え間なく空を駆けていく様は人生で初めて見る壮観だった。

「もっと近くで見たいな……」

 クラネはふと、背を預けるのに使っていた湖畔の大樹に目を向けた。

「よし」

 流れる星々を少しでも近くで見たくて、早速、クラネは大樹を登り始めた。まだ水を飲めていないこともすっかり忘れていた。

 保育学校に通っていた頃、クラネは毎日のように友達と遊んで、そこで木登りもよくしていた。頬にかすり傷を作ったり、服をほつれさせたりしながら帰宅して、そんなクラネに母は呆れながらも微笑み、「おかえり」と抱きしめてくれた。手当てをしてくれて、お風呂を入れてくれて、服を繕ってくれて……あの頃はまだ、母は元気だった。

 母がよく入院するようになったのはそれからすぐのことだった。だんだんと顔を合わせられる機会が減っていって、そして、クラネが初等部に入る頃、母は亡くなった。そのショックからクラネは無為に日々を過ごし、友達と遊ぶことはなくなった。

 下級部の半ばでまた木登りをするようになったけれど、ここ数年は木登りをしていなかった。

 それでも、体はその頃の動きを覚えているらしい。何も考えずとも、クラネの目は丈夫でひっかかりのよさそうな場所を見つけ、手足はそれに合わせて思考するより先に動いてくれる。

 すっかり地上は遠のき、空が見やすそうな位置に伸びている太い枝を見つけたから、クラネはそこに腰を下ろした。

 そうして空を仰ぐと。

「わぁ」

 さっきよりもずっと近い距離で、星々が流れていく。

「綺麗……」

 星を見ると、母が作ってくれた星座を思い出す。はなのな座。まだ、名前しか思い出せていない星座。

「流れ星が消えるまでに願い事を三回唱えると願いが叶うんだっけ」

 それを教えてくれたのも、母だった気がする。いつ、どんな会話の流れでのことだったか。

 ——近いうちに星が流れる夜が来るわ。それまでに、頑張って少しでも元気になるから。だから、一緒に星を見ましょう。そして、もっと一緒に過ごせるように願いましょう。ねぇ、クラネ、知ってる? 流れ星が消えるまでに願い事を三回唱えると願いが叶うのよ。

 ぼんやりと蘇る、母の声。きっと、父に連れて行ってもらって、入院中の母の見舞いをしたときのことだ。母となかなか会えないことにクラネはよく拗ねていたから、母が励ましてくれたのだろう。

 約束だと、小指を絡めたような気がする。子どものクラネからしても、とても細い小指に感じたことを、思い出す。ずっと昔このこと。それでも、胸がほんの少し、切なくなる。

「結局、お母さんと流れ星は見られなかったんだっけ」

 クラネは人生で流れ星を見た記憶がない。忘れたわけでなければ、きっと、あの約束は叶わなかった。母は入院してから病状が悪化していく一方で、帰宅が許される日もほとんどなかった。きっと復調しなかったのだと思う。

「母は、星が好きな人だったのかな」

 その子であるクラネは、もうずっと、星に無頓着だったけれど。星がとても明るいことすらつい昨日まで知らなかった。流れ星を見たのも、こんなに感動したのも初めてだった。星を好きになる理由が、少し、分かった気がした。

「願い事、か」

 星が現れてから、光の尾を引いて消えていくまでの時間は一瞬だ。だが、これだけの星が流れていれば、ひとつくらいはのんびりとした星があるかもしれない。それが流れるまでに願いを三回唱えることはできるかもしれない。

「なにをお願いしよう」

 クラネの脳裏には、箱をかぶった大きな男の姿が浮かぶ。

 良い方の力になれますように、少しでもジーヴルの不快が和らぎますように……そのためには、まず。

「ジーヴル様にお会いできますように」

 謝意を伝えるにはまず、どうにかしてそのドアを開けて貰わなくてはいけない。顔を合わせてもらわなくてはいけない。クラネは胸の前で両手を合わせ、星々を仰ぐ。

 そのとき、一陣の烈しい風が吹き抜けた。

 地上に居ればきゅっと目を閉じて過ぎ去るのを待てばいい、そんな

 だが——クラネは今、木の高いところに、しかも両手を離した状態で座っていた。

「うわっ!?」

 クラネの身体は見事にバランスを崩し、あっという間に背中から中空に放り出される。

 その浮遊感は、懐かしかった。

 遠ざかっていく空に、近づいてく地面の気配。

 胸の前で組んだ手はそのままに、きゅっと、瞼を閉じる。

 自分が壊滅する予感、訪れるだろう激しい痛みに構える。

 しかし、クラネのみに痛みが訪れることはなかった。

 よっぽど打ち所がよく一瞬にして絶命したのか——そう思って、瞼を持ち上げる。持ち上げられた。

「星」

 木々の枝葉の隙間から、先まで眺めていた夜空が見えた。

「しんで、ない……?」

 試しに力を籠めると、四肢はしっかりと動いた。そして目をきょろきょろと動かしたクラネは、自分が妙な状態になっていることに気づく。

 クラネの体はたしかに何かに支えられていた。かたくも、やわらかくもないなにかに。そして、クラネの視線は地面よりも数メートルは高い位置にあった。

「浮いてる」

 クラネの体は、中空に浮いていた。

 魔法を一切使うことが出来ない自分の体が、浮いている。

 死んで魂だけになったとかかと思って頬を抓る。痛い。

 夢かと思って頬を抓る。痛い。

「えっ、浮いてる!?」

「おい、暴れるな」

「へ」

 驚きのあまり思わず身を翻したとき、クラネは自分を支えていたなにかから外れた感覚がした。

 それと同時に切羽詰まった声が聞こえた。

 クラネの体は再び落下していったが、今度はやわらかくあたたかなものに抱き留められた。

 石鹸のような清涼な香りがふんわりと弾ける。反射的にぎゅっと閉じた目を開けると、クラネの傍には厚い胸板があった。顔を上げると、視界に美しい顔が映った。

 低い位置で結ばれた、青みがかった淡い緑色の艶やかな長髪。長い睫毛に縁どられた、深く甘やかな太陽のような黄金の瞳。鼻梁は高くすっと通り、唇は形よくふっくらとしている。

 もしこの世に天使がいるのならこのような容姿をしているのだろうなと思わせるほどに、幻想的な美しさだ。

 ……いや、天使なのか?だとすれば、やっぱり自分は死んだのだろうか。

 そう思いながら、しばし黄金の瞳と見つめ合っていると——その人は表情を盛大にゆがめたかと思いきや、次の瞬間、クラネを放り投げた。

 クラネは新たな知見を得た。美しい顔というのはどれだけ表情がゆがめられても美しいままらしい。

「わぶ」

 尻と腰を強かに打ち付ける。久々の接地。鈍い痛み。「いたた……」と尻を擦りながらも、クラネは上体を起こすと、そこには人が一人立っている。クラネを放り投げた人だ。

 すらりと背が高く、がたいもいい。声からしてもおそらく男性であろうその人は、非常に険しい表情でクラネを見下し、そして言った。

「今すぐその目を閉じろ——お前が私に惚れてしまう前に!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る