第6話

 午後は庶務員室の隣にある書斎で書類仕事と電話対応を教わった。書類は文面を確認し、ジーヴルに確認が必要なもの、経理仕事時に必要なもの、資料などで振り分けてファイリング。電話対応は、受信時の挨拶と、ジーヴルに取次ぎを頼まれたらいったん保留の旨を告げる練習。決してすぐにジーヴルに繋がず、電話の相手と内容を記録し、キャロテに確認を取るように言われた。

 庶務資格を取れば相応の能力があるとみなされいきなり単独で対応させる事業所も少なくない、と学校で聞いていた。だが、キャロテは明らかに難易度の低い仕事から教えてくれている。そのうえつきっきりでクラネを見てくれていて、物腰やわらかに指導やアドバイスをしてくれて、その横で素晴らしい手さばきで書類や経理の仕事を片付けたり、クラネから電話を引き継いだりしてくれた。

 キャロテは親切で、やさしい人だと思う。

 顔を合わせて最初はクラネを悪者ではないかと疑っていたらしいのに、丁寧に確認し、信じてくれて、もてなしてくれた。

 早々にクラネがジーヴルを怒らせて巻き込んでしまったのに、嫌味も嫌な顔も見せることなく、むしろ励まし、そして忠告をしてくれた。クラネが悲しい思いをしないようにと、祈ってくれた。

「あ、そうだ。今日、末の弟のお迎えに行かなくちゃいけなくて、定時から一時間くらい早く上がる予定なんだ。初日から一人になるのは不安だろう。ジーヴル様には先日のうちに尊段してあるから、クラネ君も一緒に上がっても大丈夫だよ」

「ええっと、僕ひとりでもできる仕事があれば、最後まで働かせていただきたいです」

「真面目だねぇ。じゃあ書類仕事を続けてもらおうかな。ファイリングが必要なものがまだあるから、それで定時になると思う」

「分かりました!」

「あと、退勤の定刻以降はこの敷地に足を踏み入れてはいけないことになっているから、遅くとも定時の十分前には退勤手続きを済ませてね。手順は覚えているかな」

「門にある黒猫の置物の背中に従業員カードをかざして、開いた猫の目が青色になったら、ジーヴル様のところに退勤通知が届いて手続き完了……ですよね」

「うん、正解」

 キャロテがにっこりと微笑む。

「キャロテさんは、すごく良い先生って感じがします」

「えっ、そうかな。家で弟たちに勉強を教えたりしているから、それっぽい振る舞いが身についたのかも」

「そういえばさっきも末の弟さんのお迎えに行くって言っていましたけれど。兄弟たくさんいらっしゃるんですか」

「五人兄弟なんだ」

「五人! 大兄弟ですね」

「正確には男四人兄弟に、妹がひとりいるんだけれど。僕が長男で、一番末の弟は三歳で保育学校に通っているんだよ」

 家族について話すキャロテの表情はやわらかで、楽しげだ。

 ——やさしい人だ。

 そんなキャロテが忠告してくれても、なお、クラネのその考えが変わることはなかった。

 ——ジーヴル様も、きっと、やさしい人だ。

 働き始めた頃の実体験、そして三年間のかかわりの中でキャロテは、傷つき、学び、ジーヴルに関してクラネに忠告するに至ったのだと思う。そしてキャロテから聞いた話や規則を見るに、ジーヴルが他人と関わるのが好きではないのだろうとも思う。

 それでも。ジーヴルの試作成果書には、扱いやすさ、丈夫さ、コストなどの項目が用意され、細かく、厳しく採点されていた。それに、ジーヴルはクラネの魔核を理由に規則違反を見逃してくれた。

 たとえ他人と関わることが苦手だとしても、民草を取るに足らないと思っている人が、そこまで思いやりの籠った魔法道具を開発できるものなのだろうか。不出来で不快な職員にチャンスを与えてくれるだろうか。

 ——もしかしたら、ジーヴル様は、人との関わりによって傷ついたことがあるのかな。

 防御癖として箱を被り、態度が少しばかり攻撃的になってしまうに至った、深い傷が。彼の中のどこかにあるのだろうか。傷はときに、人を大きく変えてしまうから——。

「クラネ君、お腹痛いの?」

「え?」

「お腹、さすってるから」

 キャロテにそう言われて、自身の左手がいつの間にか、シャツ越しに腹を撫でていたことに気づいた。

「いえ、大丈夫です。元気で健康です!」

 腹から手を外し、きゅっとこぶしを握って見せれば、キャロテは小さく笑った。

「それならいいけれど。具合が悪くなったりしたら、遠慮せずに言ってね」

「はい、ありがとうございます!」

 キャロテが退勤してからも、クラネは書類仕事を続けた。その傍らでずっとジーヴルのことを考えていた。

 理由があろうとなかろうとなんにせよ、今日の挨拶で一部語弊と誤解はあれどジーヴルに不快な思いをさせてしまったことだけは間違いない。

「謝りたいけど……ジーヴル様、僕と会ってくれるかな」

 ひとまずクラネがここで働き続けることは許してはくれたものの。

 ——私に対して、余計な干渉はするな。余計な感情は持つな。必要以上に関わるな。庶務員として職を失って、無様に泥水を啜ることになりたくなければな。

 そう告げるジーヴルの声の、表情の、空気の冷たさを思いなぞる。嫌われてしまっていてもおかしくはない。

「手紙をしたためて部屋の前にそっと置いておく、とか。でも、キャロテさんの話からして、読んでもらえる気があんまりしないかも」

 それに仮に会ってもらえたとしても、手紙をしたため読んでもらえたとしても。もしかしたら、ジーヴルにまた、不快な思いをさせてしまうかもしれない。

 クラネはジーヴルに対して邪な感情は抱いておらず、あのときも愛の告白をしたつもりはなかった。クラネが告げた言葉はあくまで、感謝と尊敬からなるものだった——ジーヴルに謝罪をするにあたって、クラネはその真意を話さなくてはいけないだろう。

 そしてキャロテの推理では、感謝や尊敬も、余計な干渉や感情と捉えられる可能性がある。就業規則を知ったうえでの、二度目の違反。今度こそ、クビになってしまうかもしれない。

「庶務員として職を失って、無様に泥水を啜ることになりたくなければ、か……あ」

 捲った書類の端が、人差し指に擦れた。反射的に書類を手放す。ちり、とした痛みに次いで、細く小さな切り傷から血が滲む。

 クラネは机上の書類に目を向けた。触れていた部分には血はついておらず、ほっとした。

 それから、指に滲む血を舌で舐めた。錆びた鉄の味をじんわりと感じる。何度か舐めても、血は滲み続ける。

 仕事を続けたいけれど、書類に血をつけるわけにはいかない。仕事を続けたいけれど、嘘は、吐きたくない。そもそもあれだけ正面から「好きです」と言っておいて一切好意を持っていないふりをするのは無理があるが。

 苦笑したクラネは、懐から白布のハンカチを取り出し、適当に千切り、きつく指に巻き付け縛った。指がある程度動かせること、それから布に血が滲んでいないのを確認する。

「よし」

 ジーヴルの性質は定かではない。

 それでも、クラネが彼に救われた事実は変わらない。彼が他人に役立つ魔法道具を世に生み出している事実は、変わらない。

 ジーヴルがどんな人であれ、クラネにとってジーヴルは良い方だ。

 そしてクラネは世界や他人のための頑張っている良い方の力になりたいと願っている。クラネが人生で掲げる唯一の指針で——絶対的なエゴだ。

 その思いを見つめ直せば、考えは先よりずっとシンプルになる。

 謝っても、不快にさせてしまうかもしれない。それでも、良い方に対して不誠実でありたくない。この思いはクラネの中でしまったり消したりすることはできないから。例え、クビになってしまったとしても、残念には思っても、傷つくことはないのだから。

「そうと決まれば、思い立ったが吉日!」

 クラネは決意におされるままに立ちあがった——が、ふと思い出す。

 ここのところジーヴルは連日徹夜で作業をしていた、とキャロテが言っていた。だとすれば相当疲労がたまっているだろうし、挨拶に行ったときには「寝る」とも言っていたから、今日は彼にとって久々の休養なのかもしれない。それを邪魔するのは申し訳ない。

「明日。明日、ジーヴル様のもとを尋ねよう」

 ぐっとこぶしを固めて改めて決意し椅子に座り直そうとしたが、ふと仰いだ書斎の時計の針はすっかり定時に近づいていた。

 クラネは慌てて書類を片し、庶務員室でささっと着替えを済ます。そうしてなんとか十八時のきっかり十分前に、クラネは外門に出ることができた。

 研修前、出勤の仕方を教わったときに貰ったクラネの名前が記された従業員カードを黒猫の置物の背にあてる。黒猫はおもむろに瞼を持ち上げ、瞳を青く光らせた。

 いろいろあったけれど、明日もいろいろあるかもしれないけれど、ひとまず、一日目の勤務が終了した。

 ぐっと伸びをして、ほっと息を吐き、それからくるりと振り返り山道と向き合う。

「あれ」

 そこでクラネは何か忘れているような気がした。

 ぽく、ぽく、ぽく……三拍の間を置いて、クラネは思い出す。

「通行蝶、発行してもらうの忘れてた」

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