第2話 朧げな邂逅
「お前はだれだ」
声が聞こえる。
彼は私に問いかけているのだろうか、それとも自分自身にか。私はおぼろげな意識の中で、ぼんやりと考えていた。しばらくの沈黙の後、彼は里の方角へと歩きはじめた。
里とは何だったか、と私は宙にはてなと浮かばせる。たしか私は……そう異世界。産まれたばかりの子鹿となった。産声をあげていた。あれは夢だったのか。そう思うのと同時、目の前の景色を視た。深い森しかそこにはない。光も入れない程に暗いが、木々の輪郭はハッキリと見える。
「The threshold shull yield. 境界を溶かす」
喉元が低く振動する。彼は言葉を発すると、続けてフーと小さく息を吐く。――すると、彼の口先からぱらぱらと何かが崩れていくのが見えた。木々の間の空間が崩れ落ち、遠慮なく光が差し込む。光の穴の大きさが通れるくらいになったところで、慣れた目にまるで現実のない光景が広がる。
街頭が浮いている。いくつもの大樹の幹が10メートルほどの位置で突然凸と横に広がっている。家の形を成している。枝は家々を繋ぐ道となって空を帯状に張りめぐっている。きれいだと、一切の思考を振り切って私は感心した。木漏れ日のようなや陽かい光が頭上から振りそそぐ。日の光が家々を照し、張り巡る帯の道それ自体が輝いているように見える。
太陽神に愛されているようだと思った。彼は里と言ったけれども、これは町と言って良い大きさで文明の発展も進んでいるように見える。
「オシーン様、おかえりなさいませ」
整った顔立ちをした男性が私に向かって声をかけてくる。オシーン、私のことだろうか。
「……どうも」
返すと自分の声に驚く。声の低い、知らない言語が発せられたからだ。目の前の男性も信じられないという驚愕の色を顔に浮がべる。
同時に私の身体が意図せずびくりと震えた。
「あ、あの……」
と言いにくそうに男性が言うと同時。
「気にするな」
私がピシャリと言葉を切った。意図せずに声が出た。いや、彼が私の口から男性に話しかけたのだ。驚きでぼんやりとしていた思考が、明瞭になっていく。彼は少し慌てた様子で逃げるようにその場を離れる。同時に私の手足も動きはじめ、景色も変わる。
「冗談じゃないぞ」
彼が知らないけれども意味が分かる異世界の言葉でぼやく。まったくだ、と私も同意する。
つまり、こういうことだ。
私は彼であり、彼は私なのだ。
現に私の身体は今も勝手に動き続けているし、彼のぼやきも私の口から発せられた。目に映る景色は彼と同じであると直感的に理解できる。今の私にとってこの場所は先ほど感じたような神秘的なものではなく、日常的な風景だと感ぜられずにはいられない。頭では今見ている景色がファンタジーな光景であると判断できるのに、そう感ぜられない。
「お前は誰だ」
先ほどよりも強い語気で彼は虚空を見ながらつぶやく。
「誰なのだと聞いている、聞こえているのだろう」
何と言うべきか、私はしばらく応えに窮した。沈黙、そして静寂。
彼はいつの間にか大きな水瓶に映る、立派な角を生やした自分の顔をのぞきこんでいた。誰なのか、私は誰であるというのだろうか。
「私はわたしと言う以外ないわ」
思ったままに言葉になった。少し威圧的だったかもしれない。弁明しようかと口を開こうとして、別の音が出る。
「高貴な在在である与であっても」
む、と言葉が切れた。
「何か言いかけなかったか」
彼は独りだが、水面に映る雄鹿を見ながら顎をしゃくる。先に言え、とでも言うように。私という存在をすでに個として、一つの意志として尊重しているかのようだ。私は言葉の代わリに首を振る。彼も私の意を理解したようだ。
「……与であっても、与が誰かという問いには答を持たない。故に、代わりに、お前の名を聞くところから始めよう」
与は、と彼は名乗りを上げる。
「太陽神の使い、オシーン」
彼、オシーンは再び顎をしゃくり上げる。お前は、ということだろう。
「私はスイ、ただのスイよ」
問われたその口で答えるのが,ふしぎな気分だった。オシーンは首肯して穏やかに言う。
「ではスイ、与はスイの存在を認めよう。そして、その上で言おう。与の身体から出ていくのだ」
と、続けて。
「そなたの存在はすでに役割を果たし終えたはずだ。どういう意味かは分かるか?」
私は間髪入れずに首を振る。なるほど、と彼はわずかに眉をよせた。
それにしても、と私は別のことを考えていた。この雄鹿――オシーン――は私が知っているシカとは全く別の生物ではないだろうか。これまでの言動を整理してみる。言葉を交わす知能を持ち、名乗り、自身の動揺をおくびにも見せず。私を諫め、その上で自分の要求を。ただのシカであるはずもない。
極めつけは、魔法だ。『境界を溶かす』という彼の言があの空も見えないほどの深い森を変容させた。あれが魔法と呼ばずに何とするか。
私があの美しい魔法に思いを馳せているとオシーンが次の策を講じてくる。
「では、そなたの本来の身体に戻すと言えばどうだ」
一番気持ちが悪いのは、これだ。名を名乗り、たったの一言を応えただけで、見透かされるように思わせる。常に私より上に構えている。神の御使いを肩書くのは伊達ではない。あの神々と同じ存在か、私は深いため息を吐きたい気分だった。神のハッタリはもう聞き飽きたところなのだ。
「……知っていたのね」
絶対に知るわけがない、と確信を持って言う。
「ああ」
オシーンはなんでもない事のように即答する。
そう、と私もまた無感情に言って続ける。
「じゃあ、あなたの身体頂くわね」
なんだと、と言いかけるオシーンを待たずに私は行動に移る。
「お前は要らない。You're not wanted here.」
私は詠晶する。先ほどのオシーンの魔法を思い出す。
たしかこうだ。
魔法を使うには、まず躰を巡る小さな存在を一つまみする。むんず、とつかむ。……少し多過ぎたかもしれない。次に小さな子達に指示を出す。指示の内容はこうだ。『水面の雄鹿は要らない。萎縮して小さくなるようにして』。だが、この子達にも独自言語があるのだろう。故に『you're not wanted.』と言い換える。
そうして小さな彼らを通じて、外に干渉するのだ。私は魔法の効果を確認する。
「気分はどうかしら、オシーン」
「……何のつもりかな」
やはり、そう上手くはいかないか。魔法なんて駄目でもともと。他にも手はある。私は次の策のため一歩下がろうとして、ガクッとよろめいた。
「バカな、あのような詠が効力を持つはずが――」
ない、という言葉はつづかない。呻くような声が漏れて、ドスンと巨体が地面に落ちる。どうやら成功したようだ。ホッと胸を撫でおろす。だがそれも一瞬のことだった。視界が暗転し、意識が沈んでゆく。
「失敗したなー」
本来の私とは似ても似つかない低い声で呻くように呟く。私は彼であり、彼は私なのだ。彼に放った魔法という名の呪いが私に返ってきた、それだけのことだ。例えオシーンが、大嘘つきであっても、詐欺師であっても、悪神であろうとも私は彼という存在から逃れられない。
そこまでで、意識は途絶えた。
そして私はまた夢の中へ落ちていった。
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