流れに逆らうシカ

踏切

第1話 胎盤の小鹿

 暑い。


 どこ?エルサレム?


 目を見開く。しかし、何も見えない。


 瞼を開くことはどうやらできなかったらしい。しかし、開いたという実感だけはある。


 整理しよう。


 私はヨーロッパ旅行で出会った現地男性と結婚したハネムーンの最中で、今はエルサレムにいたはずだ。壁に祈りを捧げる人を見て敬虔けいけんな光景に胸を打たれた次の瞬間、私はにいた。


 エルサレムは日本人には異様だったけれど、今いるこの場所ほどではない。この場所がおかしな点は3つ、そう、3つもある。暑くて、浮遊感があって―――――


 そして、今の私は身体がない。これが一番おかしい。


 これは正確な表現だと断言する。でも変だ。矛盾している。暑いと感じて、浮遊感もある。身体の感触は確かに感じられる。けれども、私の身体が存在する。まるで、次世代の映画館で現実以上に細部が克明な映画を見るような、あるいは他人の記憶を電極をつないで見せられているような――そんなヘンテコな経験はもちろんない――そういう違和感がある。


 これは私の身体ではない。


 私は予感した。これは空想上の異世界転移でも転生でも、成り代わりでもない。だ。接続、つながること。何と何がつながったのか。それはきっとが繋がったのだ。


「冗談じゃない!!」


 私は人生で初めて叫んだがそれは声にはならなかった。……冷静になろう。私は頭の中で10を数える。動揺した時の私のおまじない。いつもの習慣ルーティーンだ。これによって激しい怒りはなりを潜めて、代わりにひたひたと恐怖がやってきた。


「元に戻れなかったらどうしよう」


 声にはならない。しかしその声は小さく、ひどく弱々しいものだったはずだ。幸福の山から、いきなり不幸の谷底に突き落とされたような気がした。いいかい、スイという彼の声が聞こえる気がした。


不幸なんてもの、存在しないよ。でも在るMisfortune is a phantom, but it exists within you.


 思い出すと哲学じみているが、当時は肯定されたようで嬉しかった。でも次の言葉は私にとって刃物のように鋭く、喉元に突き立てられたようだった。


「君は今、不幸に殺されたんだ。もう僕が愛した君はいない」


 私はひどく動揺した。私は振られたと思った。彼は続ける。


「でも、それでも僕は不幸の谷に落とされることはない。なぜだか分かるかい」


 彼の問いかけられたことさえ忘れるほどに呆然としていた。長い静寂の後、彼は言葉を続けた。


「君のその落胆と絶望は産声だ。君はここに再び生まれたんだ。僕はまた君との恋に落ちることができることを嬉しくさえ思う」


 君が一緒に笑ってくれると嬉しいな、そういって彼は赤子を扱うように優しく頬に触れた。その指先が冷たくて、心地よかった。それからの私はその幻影不幸は幸せの前兆なのだと思うようになった。そしてルーティン――10を数える私のおまじない――は始まった。


「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10」


 不幸は死んだ。私は産声を上げよう。


「フェーン!」


 なんと今度は声が出た。甲高く空気が振動したのを感じる。私の声ってこんなだっけと思いつつ我に返ると、冷たい地面と重力を感じるようになっていた。光は感じるが視界に広がる色は境界が定かではなく、色とりどりな絵具をキャンバスにぶちまけたみたいだ。


 視覚はともかく聴覚の方はもう少しまともに聞こえた。多くの気配を感じる。歓喜の混じった大きくてたくさんの声が上がっている。


「――――――!」


 人の声だろう。でも知らない言語だ。私は声を上げ続けている。自分で言うのもおかしいが、やたらうるさい。喚くのをやめて、誰かに助けを求めたい。しかし、産声は止まらない。


「スイ。聞きなさい」


 周囲の声と私の鳴き声でぐちゃぐちゃに騒音まみれになった中で、不思議なことに小さなささやき声が明瞭に聞こえた。母のような優しい声音だ。


「あなたは神の使いの雄鹿として、生まれ直しました」


「はい?」


 産声を上げながら、私はなぜか返事ができた。時間がありません、と彼女は言った。


「手短に要点だけ伝えます。ここはあなたの居た世界、宇宙とは全く別の異世界です。あなたは元の世界の神によって救済されました。あなたは神を通じてこの雄鹿と繋がっています。そして元いた世界のあなたは死の淵にいます」


 早口だが聞き取りやすい声をオウム返しにする。


「異世界で、雄鹿になって、元の私は死にかけている?」


「ええ、本来の意味での死です」


 あえて本来の意味で念を押すというあたり、彼女は私のことをよく分かっている。私にとっての死は幻影不幸として日常的なものだったからだ。声に聞き覚えはない。神とやらの知り合いなのだろうか。


「あなたには神からの使命が3つあります」


 1つ、4つの命を救うこと。

 2つ、この雄鹿が生涯人を殺めないようにすること。

 3つ、邪神を滅ぼすこと。


「これらの使命を成し遂げれば、元いた世界で息を吹き返すことができます」


「元いた世界にもどれる?」


 ええ、と声は答えた。


「成し遂げなければ?」


 一瞬、間が空く。


「……あなたは死にます」


 それは困る。死んだように生きていた5年前までならいざ知らず、婚約者の彼をを残して死ぬのは嫌だ。


「どうすればいいでしょうか?」


 私は少し冷静になって丁寧に、端的に尋ねる。対して、答える声は先ほどより小さくか弱くなる。


「使命を、果たすのです……」


 雄鹿に生まれ変わって、邪神を滅ぼす?


「邪神とはいったい……」


「ごめん、なさい。私はもう……」


 私の疑問に被せて、もう微かにしか聞こえない声が告げる。最後に、と。


「ごめんね。あなたに祝福を、スイMay you be blessed, Sweeney.


 彼女はこの身体――雄鹿――の母だったと、私は後日知ることになった。何はともあれ、と私は大きく息を吸う。


 やろう。元の世界で彼と生きる為に。


「ピィーー!」

「フェーン!」


 産声を上げならそう決心するのだった――と、そうはならないでしょ。

 いきなり死にかけて、神様からの使命を果たして邪神を滅ぼす。いったいどこの勇者だいそれは。


やめよう。こんな詐欺まがいな神様を誰が信じられるというのだ。夢に違いない。とりあえず、リセットしてから考えよう。そうして私は、心の中で目を閉じた。


「ピィーー!」

「フェーン!」


 止まらない産声を上げながら――使命なんて絶対果たすものか――そう決心するのだった。

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