「……などの後進国において、レナトスが戦闘員として戦場に出るといった事態が増加したんだな。もともと少年兵については、一九七七年のジュネーブ条約追加議定書による十五歳未満の戦争参加禁止を皮切りに、その後の国際条約においてさらに年齢が……」


 紙面を炭素がなぞるむず痒い音が乱立していた。教室には暑い空気が、気怠い退屈と混ざり合って醸造されていた。


「これはいかんということで、国連が中国海南省で締結したのが海南条約であり……」


 私は手持ち無沙汰で教科書をめくる。ある文章に目が留まった。「レナトゥスの名前の由来について」と題されたコラムだ。


『レナトゥス【Renatus】は、「再生者」を意味するラテン語で、特殊民間人を口語で示す際の呼称である。どのようにしてそう呼ばれるようになったか諸説あるが、最も有力な起源として「4.14」に亡くなった被災者の……』


 なかなかロマンチックなことが書いてあるコラムだった。ページをめくっても、他に興味を惹かれる文章はなかった。私は諦めて前を見る。黒板はそのまま教科書を引用しただけで、新しい情報は載っていない。つまりノートに取るだけ無意味、ということだった。世の中にある無意味さを気づかせるための、酷く遠回りな授業かもしれない。私は欠伸を噛み殺し、桂馬飛びの席に視線を移した。二週間の謹慎から帰ってきたばかりのシズクの凛々しいうなじが、樹木のように真っ直ぐ黒髪を貫いていた。シズクは隣の席のやつとは違い、忙しくペンを走らせることなく、ただ姿勢正しく座っていた。


「海南条約の締結により、事実上十九歳以下のレナトスは、戦争行為への参加が認められなくなったんだな。青少年の保護と同時に、領地奪還の促進が締結の理由として提出されたが、これには矛盾があると指摘する声もあり……」


 シズクがこの酷い退屈を破ってくれないかと凝視していたが、何も起こらなかった。彼女は仏像のように超然と前を向いていた。


「……とまあ人権以外に、奪還した土地の取り扱いに関しても、条文に含まれるんだ。取り戻した領土が元は他国のものであっても、報酬として自国の版図に加えられるようになったわけだ。これにより他国の領土だった土地を奪うという、レナトスを使った代理戦争が……」


 鐘が鳴った。途端に教室の空気が緩み、凝り固まった時間が動き出す。途中入隊の私は放課後に補習があるため、すぐに支度しなければならない。鞄に教科書を詰め込みながら、横目でシズクを盗み見る。彼女も素早い手つきで帰り支度していた。確か今日はクラブ活動はなかったはず。なぜそんなに急いでいるのか。


 どこに行くのか無性に気になった。


 シズクが先に教室を出た。私はカノンにバイバイしてから、後を追うように教室を出る。歩く方向も同じだった。別に尾行しているつもりはないのだが、後ろめたい気分になった。


 しばらく合成ゴムタイルの白っぽい通路を歩く。横から歓声が聞こえ、振り向くと中庭でバレーを楽しむ集団が見えた。青と黄色の鮮やかなボールが跳ね上げられて、白雲を背景にきわやかに映えた。……違和感を覚えて前を向くと、シズクがいなかった。いつの間にか目的の教室の前だった。私はほっと溜息を吐いた。話しかけようか逡巡していたのだが、それが無理になったので重責から解放された気分になったのだ。扉を開ける。シズクが一番後ろの席に座っていた。


「……」


「……」


 思い切り目が合ってしまった。固まる私をよそに、シズクは鷹揚に視線を手元に戻した。まるで何も見ていないような振る舞い方で。これで私の手は封じられたに等しかった。それは明らかな無視であったからだ。


 なす術なく私は一番前の席に座った。道具を取り出しながら考える。この補習は一年生の授業を履修していない生徒が対象である。つまりシズクが受ける必要はないのだ。


 しばらくすると教師が入ってきて、シズクについて何ら言及せず、いつも通り補習は始まった。わけが分からなかった。


「……このように丁級は適正人数が一人なんだ。だから二人敵対すると一つ上の丙級になってしまう。丙級の適正人数は二人、乙級は四人、甲級は五人だな。適正人数の超過によってクリーチャーは上級に激甚化するが、いきなりホールから甲級が排出って場合もある。続いて敵対状態の解除について触れようか。基本的に敵対状態は時間の経過でしか解除されないんだ。これはけっこう重要で、たとえば乙級に対して適正人数ぴったりの四人が敵対しているとする。そのうち一人が戦闘から離脱した後、新たに違う一人が敵対した場合、激甚化が起こってしまうんだな。逃げてもクリーチャーの中では敵対状態が残っているわけだ。昔はクリーチャーの挙動から敵対状態の有無を判断していたが、誤って激甚化を引き起こすケースも多かった。今では画像解析技術の発展でそんなことも大分減ったな。ヘルメットのカメラを通してクリーチャーを解析、データベースと照らし合わせることで、階級どころかその個体が何分前に誰と交戦したかまで……」


 空虚な一時間半だった。補習中、頭がぐらぐらして集中できなかった。外はすっかり闇の帳が降りていて、いつの間にか補習は終っていた。


 号令を終え、広げたノートと文房具を片付ける。扉の開く音がして、見ればシズクの乱雑に結ばれた団子髪が廊下に消えていくところだった。私は急いで後を追った。


 早足に進む彼女を呼び止める。


「ごめん、ちょっと」


「なに?」


 シズクは物憂げに言って振り向いた。とても眠そうな顔をしていて申し訳なく思ったが、会話を続けなければと自分を振るい立たせた。


「私、ニコっていうの。同じクラスなんだけど」


「ああ」シズクは意外に頬を綻ばせた。「ニコね。あんまり話したことないけど、どうした?」


 一つ、ばれないように深呼吸する。


「……前の演習、あなたの活躍を見て、かっこよかったから」


 言ってから、よく分からない理由だと思った。いや理由にもなっていない。だから何だという話だ。


 シズクは苦笑して「ありがとう」と言った。


「あそこにいたんだ。ごめんね、迷惑かけて」


「そんな。迷惑なんて別に」


 私の言葉に、シズクはないしょの告白をするようにつけ足した。


「あれね、自分でも分からないんだ。記憶が飛んでるっていうか。気づいたら手が出てる。ほんと困ってるんだ。レナトスだけに発病する、新手の病気かもしれない……で」


 もういいかな、とシズクは言った。最低限の礼節は果たしたぞと主張しているように聞こえた。私は首を横に振った。ここで逃したらいけない気がした。


「つまり、ついクリーチャーを殺しちゃうのは、自分の意思じゃないってこと?」


「そうだね。説得力ないかな?」


「まあ、うん」


「姉が殺されたんだよ。クリーチャーに」


 と、シズクは事もなげに言った。あまりにも淡々としていたので、思わず信じてしまいそうになった。それ以上のことを聞くと危ないと、シグナルを焚いているようだった。


「だから?」


「うん。あんまり話したくなかったんだけど……」


 いい手を使うと思った。ばれやすい嘘の影にそれらしい真実を用意する。大抵の者はそこで怯むか納得するか、己の良心を誇示したいがために身を退くだろう。


「それも嘘だよね」


 シズクは初めて真顔になった。が、すぐに不機嫌に口端を歪ませた。周辺の空気が薄くなって、きっと、宇宙と大気の狭間はこんな感じなのだろう、と思った。


「……ニコっていったっけ」


「うん」


「お前、なに?」


 少し迷ってから、友達になりたいの、と言った。


「誰と……私と?」


「うん、そう」


「なんで?」そう聞く彼女は、口は尖らせていたが、目元がにやついていた。


 軽蔑したようなにやつき。


「似てるから」


 私とあなたが。


 そう、と。


 シズクは無表情に戻っていた。空気も元の濃度を取り戻した。


 やっと呼吸ができると思った。


「そう、似てるの。でもそれが何? あなたは似た者同士くっつくのが好きみたいだけど、私は別に要らない。片方が拒否すればこの手の話はおしまいだ。いいよね? もちろん」


 私は首肯することしかできなかった。シズクは笑顔を張りつけて頷くと、踵を返して歩いていった。私は一人、暗くなった廊下に取り残された。しかし不思議とシズクの拒絶は嫌ではなかった。この激しい拒絶が彼女が大切にしているものの価値を、そのまま表していると思ったからだ。その大切なものが私と同じであればいいなと思った。

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