【短編小説】花と共に生きる ~南仏で永遠の庭を守るある老婦人の物語~(約22,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
第一話:四月の始まり――ラベンダーの芽吹き
南フランス、プロヴァンスの小さな村を照らす四月の陽光は柔らかく、エマヌエル・デュボワの庭園に優しく降り注いでいた。八十六歳になるエマヌエル、村の人々からは親しみを込めて「マヌー婆さん」と呼ばれる彼女は、今朝も日の出と共に目を覚ました。窓から見える庭園の中央に佇む小さな石碑に視線を向け、彼女は静かに微笑んだ。
「おはよう、アンリ。今日も良い天気ね」
三年前に旅立った夫アンリの眠る庭の中央へと、マヌーは毎朝欠かさず言葉をかける。その習慣は、彼女の日々の始まりであり、心の支えだった。
庭に降り立ったマヌーは、ゆっくりとした足取りでアンリの墓石に向かう。石碑の周りには、二人で大切に育ててきたラベンダーが植えられていた。プロヴァンスの象徴とも言える紫色の花は、まだ咲き始めてはいないが、緑の新芽が日に日に力強さを増している。
「春が来たわ、アンリ。あなたの大好きなラベンダーたちが、もうすぐ芽吹くわ」
マヌーは膝をついて、墓石の周りの土を優しく触った。少し乾いている。小さなジョウロに水を汲み、ゆっくりと注ぐ。
「のどが渇いていたでしょう? たっぷり飲みなさい」
彼女はラベンダーの新芽に語りかけるように言った。
庭の東側には、白と淡いピンクのアネモネ・コロナリアがすでに花を咲かせ始めていた。「風の花」の名を持つこの花は、プロヴァンスの春の訪れを告げる使者だ。マヌーはそれらの間の雑草を丁寧に取り除きながら、花々に話しかける。
「よく頑張ったわね。今年も美しく咲いてくれて」
庭の南側に目を向けると、ジャガイモの若い芽が土から顔を出し始めていた。マヌーとアンリは毎年、この小さな菜園でジャガイモやトマト、ナス、ズッキーニを育てていた。今年も変わらず、彼女はひとりでそれを続ける。
「今年も豊作になるといいわね、アンリ。あなたの好きなラタトゥイユをたくさん作れるように」
昼頃になると、マヌーは庭の西側にある古びたベンチに座り、持参したパンとチーズ、自家製のオリーブオイルで簡素な昼食を取る。目の前には、若葉をつけ始めたオリーブの木々が立ち並び、その向こうにはプロヴァンスの丘陵風景が広がっている。
食後、マヌーは再びアンリの墓石の前に立った。
「お昼ごはんは美味しかったわ。チーズは村のロベールさんからもらったの。あなたが好きだったカモンベールよ」
午後の時間を使って、マヌーは庭の北側に植えられたローズマリーとタイムの刈り込みを行った。芳香ハーブは冬を越して少し伸び過ぎていたが、刈り込むことで新しい芽が出やすくなる。切り取った枝は束ねて、乾燥させるために納屋の軒下に吊るした。
「今年も良い香りのハーブが育ちそうよ。あなたのために特別なブレンドを作るわ」
夕方になると、マヌーは最後にもう一度アンリの墓に水をやり、明日の約束をする。
「また明日来るわ、アンリ。良い夢を見てね」
彼女が小さな家に戻ろうとしたその時、ふと風が庭を通り抜けた。アネモネの花びらが揺れ、ラベンダーの新芽が微かに震えた。マヌーには、それがアンリからの返事のように感じられた。
彼女には聞こえなかったが、風に乗って花々は囁いていた。
「マヌーおばあちゃん、今日もありがとう」とアネモネたちが。
「もうすぐ私たちも芽吹くから、楽しみにしていてね」とラベンダーたちが。
南仏の陽が沈み始め、庭園は黄金色の光に包まれた。明日も、この庭は彼女を待っている。そして彼女もまた、この庭に生きる全てのものと共に、新しい春の日々を歩み始めるのだった。
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