第3話「監視される部屋」
「もう三人目なんです。同じマンションの、同じ部屋で」
中里明日香(32)は震える手でコーヒーカップを持ち上げた。カフェの窓から差し込む午後の日差しが、彼女の青白い顔を照らしている。
「全員自殺…ですか?」
私、佐倉麻衣は「本当にあった怖い話」の記者だ。今回は「呪われた住居」特集のため、連続して入居者が自殺したという都内のマンションについて取材していた。
「警察は単なる自殺だと言いますが、違うんです。あの部屋には何かがある」
明日香さんはグリーンヒルズマンション703号室の隣人だった。彼女によると、過去2年間で703号室の住人が三人立て続けに自殺したという。
「最初の方は首吊り、二人目は薬物過剰摂取、そして先月の山下さんは…」
彼女は言葉を詰まらせた。
「山下さんは?」
「窓から…」明日香さんは顔を歪めた。「私、見てしまったんです。あの時の顔が忘れられなくて…」
「どんな表情だったんですか?」
「恐怖です。山下さんは恐怖で死んだんです。何かから逃げるように窓から…」
「何か見えたんですか?部屋に?」
明日香さんは首を横に振った。「でも、音は聞こえました。物音。誰かが歩いているような。でも山下さんは一人暮らしで…」
「管理会社は何と?」
「何も問題ないと言うだけです。今月また新しい入居者が決まったそうです」
心臓がドキリと鳴った。「新しい入居者?会えますか?」
明日香さんは不安そうな表情を浮かべた。「既に引っ越してきています。昨日会いました。若い女性で…とても明るい方でした。あんな方が…」
彼女は言葉を切った。
「マンションに行っていいですか?できれば703号室も見せてもらいたいのですが」
明日香さんは渋々同意した。
グリーンヒルズマンションは外観こそ普通のマンションだったが、なぜか重苦しい雰囲気を感じた。エレベーターで7階に上がると、廊下の照明が薄暗く感じられた。
703号室の前に立つと、ドアの向こうから物音が聞こえた。明日香さんがインターホンを押す。
「はーい、どちら様ですか?」
明るい声が返ってきた。ドアが開き、20代半ばの女性が笑顔で現れた。
「こんにちは、隣の明日香です。この方は佐倉さん、雑誌の取材で…」
「あ、どうぞどうぞ!折角だから上がってください」
703号室の新住人、野村さやかさんは予想以上に陽気な女性だった。部屋は明るく、家具は最小限だがセンスがいい。引っ越し箱がまだいくつか置かれていた。
「この部屋、気に入ってるんですか?」
「ええ、とっても!駅から近いし、日当たりもいいし。家賃も安くてラッキーでした」
明日香さんと視線が合う。彼女は何も言わなかった。
「あの…実は前の住人のことを調べているんです」
「ああ、自殺した方ですよね」さやかさんは意外にも平然としていた。「管理会社から聞きました。でも、私、霊感とかないんで平気なんです」
「何か変わったことは…ありませんでしたか?」
「変わったこと?」さやかさんは首を傾げた。「特には…あ、でも」
「でも?」
「昨日から、壁の向こうで物音がするんです。誰かが歩いているような」
明日香さんの顔から血の気が引いた。
「隣は…空き部屋ですよね?」私は明日香さんに確認した。
「ええ。701号室と702号室の間、704号室と705号室の間は階段とエレベーターホールです。703号室の向こう側は外壁です」
「でも、確かに聞こえるんです」さやかさんは壁を指差した。「特に夜、あっちの壁から」
「見せてもらってもいいですか?」
さやかさんは快く応じた。指差された壁に近づくと、何かがおかしいことに気づいた。
「この壁…少し出っ張っていませんか?」
三人で壁を見つめる。確かに、他の壁よりも20センチほど部屋側に出ていた。
「リフォームしたんでしょうか?」さやかさんは首を傾げた。
私は壁をノックした。通常より空洞の音がする。
「図面とか見られませんか?」
管理会社に電話すると、都合のいいことに、本日マンションの定期点検に来ているという。管理人が703号室に来てくれることになった。
「ここの壁、元の設計図と違いますね」
管理人の男性は眉をしかめた。「10年前にオーナーが変わってから大規模な改修があったんですが、この壁は図面上では…」
彼は言葉を詰まらせた。
「図面上では?」
「ありません。この壁はないはずです」
冷たいものが背筋を走った。
「壊してみてもらえませんか?」
管理人は迷った顔をしたが、住人の安全のためと説得し、工具を取りに行ってもらった。
壁を壊す音がマンションに響く。最初は何も見えなかったが、やがて壁の中から別の壁が現れた。そして、その壁に小さな穴が開いていることに気づいた。
「これは…のぞき穴?」
穴をのぞくと、部屋の全体が見渡せる位置にあった。さらに壁を壊すと、空間が広がっていた。その中には椅子と小さなテーブル。テーブルの上には録画機器が置かれていた。
「誰かがこの部屋を監視していたんです」
さやかさんは青ざめた。「私が寝ている間も?」
さらに調べると、空間の隅に小さなドアが見つかった。その先は狭い廊下になっており、マンションの非常階段へと続いていた。
「警察に通報しましょう」
警察の捜査により、監視空間は前のオーナーが密かに作ったものだと判明した。録画機器には山下さんの日常生活が記録されていた。そして、自殺の前夜の映像もあった。
私たちは証拠品として押収される前に、その映像を見せてもらった。
画面に映る山下さんは、普通に夕食を食べ、テレビを見て、就寝の準備をしていた。真夜中、彼がベッドで眠っていると、突然、監視空間のドアが開く音がした。誰かが入ってきたのだ。
カメラはその人物を捉えていなかった。しかし、監視者は何かをしていた。小さな音が聞こえる。そして、山下さんが突然飛び起きた。彼は何かに気づいたように部屋を見回し、恐怖の表情を浮かべ始めた。
何かが彼を追いつめていく。山下さんは後退りし、やがて窓に追い詰められた。そして…
映像はそこで終わっていた。
「何が彼を追いつめたんですか?」
警察は監視者の存在には気づいたが、山下さんが何を恐れたのかは特定できなかった。事件は「ストーカーによる精神的苦痛が引き起こした自殺」として処理された。
しかし、私は納得できなかった。
その晩、帰宅途中、私の携帯電話が鳴った。さやかさんからだった。
「佐倉さん…また聞こえるんです。物音が」
「警察に連絡を」
「しました。でも、誰もいないと…」
その時、電話の向こうで叫び声がした。そして、通話が切れた。
私は慌ててタクシーを拾い、グリーンヒルズマンションへ向かった。
到着すると、既に警察が来ていた。703号室のドアは開いていたが、さやかさんの姿はない。
「窓から落ちたらしい」
警官が言った。マンション前の路上には、白いシートが掛けられていた。
私は震える足で警察の許可を得て、703号室に入った。部屋は荒らされた形跡はない。ただ、壊された壁の向こう、監視空間のドアが開いていた。
恐る恐る近づくと、小さなノートが落ちていることに気づいた。拾い上げると、そこには几帳面な字で記録が残されていた。
『被験者A:首吊り自殺。スプレー噴射後18分。
被験者B:薬物自殺。スプレー噴射後23分。
被験者C:飛び降り自殺。スプレー噴射後15分。
被験者D:』
最後の行は空白だった。
部屋を調べると、天井の隅に小型のスプレー装置が仕掛けられていることに気づいた。何かの薬品を定期的に噴射するようプログラムされていた。
警察の科学捜査班の分析により、それは幻覚作用のある薬物であることが判明した。微量を長期間吸引すると、被害者は幻覚を見始め、やがて恐怖に駆られて自殺に至るという。
この事件は「連続殺人」として捜査されることになった。犯人はいまだ特定されていない。
私は取材をまとめ、「監視される部屋」という記事を書いた。読者の反響は大きく、次号の特集も決まった。
しかし、記事を書き終えた夜、私の部屋の天井から小さな音がした。
カリカリという音。何かが這うような音。
見上げると、天井の隅に小さな穴が開いていた。穴からは小さな装置が覗いていた。
そして、わずかだが、何かが霧状に噴射されるのが見えた。
私は急いで窓を開け、外の空気を吸い込んだ。携帯電話を取り出し、警察に電話しようとする。しかし、画面には既に着信履歴があった。
知らない番号から、10回も。
留守電を確認する。
「佐倉さん、記事、読ませてもらいました。素晴らしい出来栄えです。あなたは次の被験者に相応しい。どんな恐怖を見せてくれるか、楽しみにしています」
低く歪んだ声。そして最後に笑い声。
窓の外を見ると、向かいのマンションの一室で、誰かがカメラを構えて私を撮影していた。
私はもう、被験者Dになっていたのだ。
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