第2話「廃墟からの招待状」



「その廃病院には絶対に入らないでください」


中年の男性が険しい表情で私に告げた。私はメモ帳にその言葉を書き留める。


「伊達さん、具体的にどんな噂があるんですか?」


私、佐倉麻衣は「本当にあった怖い話」の記者だ。今回は「霊が宿る建物」特集のため、閉鎖された旧白石精神病院の取材に来ていた。地元では心霊スポットとして有名な場所だ。


「あそこで自殺した患者が多いんです。特に東館の三階…」伊達さんは声を潜めた。「302号室だけは絶対に入っちゃいけない。入った人間はみんな何かを持ち帰ってしまう」


「何かを?」


「見えないものを…」


私は眉をひそめた。典型的な都市伝説のようだ。しかし、雑誌の売上が落ちている今、センセーショナルな記事が必要だった。


「明日、現地を見せていただけますか?中には入らないので」


伊達さんは渋々同意した。


翌日、私たちは旧白石精神病院の前に立っていた。朽ちた三階建ての建物は、かつての威厳を失い、不気味な姿で佇んでいた。窓ガラスの多くは割れ、壁には落書きが散見される。


「昭和40年代に建てられて、10年前に閉鎖されたんですよね?」


「ええ。経営難でね。でも、閉鎖の本当の理由は別にあると噂されています」


「本当の理由?」


「患者の集団自殺です。東館で一晩に五人の患者が…」


心臓がドキリと鳴った。これは良い素材になる。


「写真だけ撮らせてください」


デジタルカメラを取り出し、建物の外観を数枚撮影した。ファインダー越しに見る廃病院は、なぜか生々しく見える。何かが這うような影が見えた気がしたが、気のせいだろう。


「伊達さん、噂の302号室はどの窓ですか?」


伊達さんは東館の一番端の窓を指差した。「あそこです。でもあまり見ないほうが…」


その時だった。302号室の窓に人影が見えた。私はカメラを向け、ズームした。窓際に立つ白衣の人影。シャッターを切る。


「誰かいる!」


「え?」


伊達さんも驚いた表情で窓を見上げたが、「誰もいませんよ」と言う。再び窓を見ると、確かに誰もいなかった。


「さっきまで…」


「幻かもしれませんね。この病院には幻を見せる力があるんです」


取材を終え、家に戻った私はカメラの写真を確認した。廃病院の外観、割れた窓、剥がれた壁…そして302号室の窓。


「あれ?」


窓に映っていたはずの人影がない。代わりに、窓ガラスに何かが書かれている。ズームして確認すると、逆さまの文字で「来て」と書かれていた。


「気のせい…編集で歪んだのかも」


しかし、何度見ても「来て」という文字は消えない。


その夜、私は奇妙な夢を見た。白い廊下を歩いている。壁には「302」と書かれたドアがある。ドアの向こうから誰かが呼ぶ声が聞こえる。私はドアノブに手をかけ…


「ッ!」


目が覚めると、汗でシーツが濡れていた。時計は午前3時2分を指していた。


翌日、私は再び伊達さんに連絡した。


「実は…中に入らせてもらえないでしょうか」


電話の向こうで伊達さんが息を飲む音がした。「危険です。やめたほうが…」


「記事のためなんです。ちゃんと許可を取ります」


結局、地元の管理会社から特別な許可を得て、伊達さんの案内で廃病院の内部に入ることになった。伊達さんは東館だけは避けるよう強く忠告した。


「撮影だけで、すぐに出ましょう」


廃病院の内部は想像以上に荒廃していた。床には医療器具や書類が散乱し、壁には不気味な落書きが残されている。空気は湿っており、カビの匂いがした。


西館を一通り撮影し終えた頃、私はトイレに立ちたくなった。


「ちょっと失礼します」


伊達さんに言って、近くのトイレに向かった。用を足し、手を洗おうとしたが、水道は止まっていた。仕方なく、ハンカチで手を拭いて出ようとした時、鏡に映った自分の後ろに白衣の人影を見た。


「!」


振り返ると、誰もいない。再び鏡を見ると、そこにも誰もいなかった。しかし、鏡には息で曇ったような跡がついており、そこに「302」と書かれていた。


恐怖で足がすくむ。早く伊達さんのところに戻らなければ。しかし、トイレを出ると、見知らぬ廊下に出てしまった。


「あれ?こっちから来たはずなのに…」


パニックになりそうな気持ちを抑え、来た道を探そうとする。しかし、廊下はどんどん見知らぬ場所へと続いていく。気がつくと、「東館」と書かれた札の前に立っていた。


「嘘…こんなところまで来るはずがない」


逃げ出そうとした時、廊下の奥から足音が聞こえた。誰かが歩いてくる。伊達さんだろうか。


「伊達さん?」


返事はない。足音だけが近づいてくる。恐怖で動けなくなった私の前に、白衣の医師が現れた。顔はぼんやりとしており、はっきりとは見えない。


「302です。お待ちしています」


低い声が響いた。次の瞬間、医師の姿は消え、代わりに一枚の紙が床に落ちていた。拾い上げると、それは病院の診察券だった。名前の欄には「佐倉麻衣」と書かれている。


「私の名前…」


裏には手書きで「302号室 15時診察」と書かれていた。時計を見ると14時55分。


心臓が早鐘を打つ。逃げなければ。しかし、足は逆の方向に進んでいた。階段を上り、三階へ。廊下を進み、302号室の前に立つ。ドアには「隔離病棟」と書かれていた。


時計は15時ちょうど。


ドアが内側から開いた。


暗い病室の中には、ベッドだけがぽつんと置かれていた。ベッドの上には何も見えない。しかし、シーツには人が横たわったような窪みがある。


「佐倉さん、お座りください」


声はどこからともなく聞こえてきた。部屋の隅に椅子があることに気づく。恐怖で震えながらも、私は椅子に座った。


「あなたの症状を教えてください」


「症状…?私は患者ではなく…」


「幻視、幻聴、妄想…典型的な統合失調症の症状です」


「違います!私は取材に…」


「そうですか。では、これを見てください」


目の前に一冊のノートが浮かび上がった。開くと、そこには私の筆跡で書かれた日記があった。


『今日も幻が見えた。医師は私の言うことを信じてくれない。私は記者だと言っているのに、みんな患者だと言う。でも本当だ。私は本当にあった怖い話の記者なんだ…』


「これは…私の字だけど、書いた覚えはない」


「記憶の欠落も症状の一つです。あなたは三ヶ月前からここの患者です」


「嘘だ!」


立ち上がろうとした瞬間、体が動かなくなった。何かが私の手足を拘束している。見ると、拘束具が私の手首と足首を締め付けていた。


「治療を始めましょう」


空中に注射器が浮かび上がる。針が私の腕に近づいてくる。


「やめて!誰か助けて!伊達さん!」


その時、ドアが勢いよく開いた。伊達さんが青ざめた顔で立っていた。


「麻衣さん!何をしているんですか!」


伊達さんの声で現実に引き戻された。私は椅子に座っていた。拘束具も注射器もない。しかし、手首には赤い痕がついていた。


「302号室には来ないでって言ったでしょう!」


伊達さんは私の腕を引っ張り、部屋から連れ出した。足元がふらつく。頭がぼんやりしている。


「何が…あったの?」


「この部屋にいた医師…渡辺先生は患者を死に追いやったんです。そして自分も…」


病院を出ると、新鮮な空気が肺に入ってきた。生きている実感がよみがえる。


「大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」


「ええ…ただ、少し気分が悪くて」


その夜、私は高熱を出した。悪寒がし、体が震える。医者に診てもらうと、原因不明の感染症の疑いがあるという。抗生物質を処方されたが、効果はない。


熱にうなされる中、私は白い廊下を歩く夢を見続けた。そして302号室のドアが開き、ベッドに横たわるよう誘われる。


三日後、熱は下がった。しかし、頭の中にぼんやりとした記憶が残っていた。私は精神科医院に通っていたのではないか。統合失調症と診断されていたのではないか。


記事の締め切りが迫っていた。私は「霊が宿る建物」の特集記事を書き上げた。旧白石精神病院の不気味な雰囲気、302号室の謎、地元の噂…すべてを盛り込んだ。


編集長からは「最高の出来だ」と褒められた。読者からの反響も大きかった。


しかし、記事が出てから、私の体調はますます悪化した。夜、冷や汗をかいて目覚めると、部屋に白衣の人影が立っていることがある。鏡を見ると、自分の後ろに誰かがいるような気がする。


そして時々、診察券が机の上に置かれていることがある。名前欄には「佐倉麻衣」、裏には「302号室 15時診察」と書かれている。


今日も15時が近づいている。窓の外を見ると、そこには見覚えのない景色が広がっていた。白い壁、長い廊下、そして「302」と書かれたドア。


私は誰なのだろう。記者なのか、それとも患者なのか。

これが現実なのか、それとも妄想なのか。


答えを知りたければ、302号室のドアを開ければいい。

診察の時間は、もうすぐだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る