終章 

第24話 永らへば

「何、言ってるの……?」


 言葉が聞き取れなかったわけじゃない。

 意味が理解できなかったわけじゃない。

 理解できたからこそ、混乱している。


「そのままの意味だよ。わたしの前で、葉山文とキスしてみてくれないかと言ったんだ」


 ……耳がおかしくなったわけでも、頭がおかしくなったわけでもなかった。

 私の恋人は今、キスをしろと言ったのだ。恋人の前で、恋人ではない人と。

 これが罰、なんだろうか。それでも……、


「……嫌。したくない。二度としない」


 私は誓ったんだ。

 たとえ琴音の命令だろうと、聞けない。


「うぇぇ……する……していいっていったもん……」


 縋り付いてくる文から無理矢理意識を逸らして、琴音の真意を探る。 


「琴音は……やっぱり、私が嫌いになった? もう、要らない?」


 瞳を見つめて視線を逸らさず、問いかけた。

 浮気して何度も裏切った私を許すと言ってくれた。

 こんな私を愛していると、傍にいると抱き締めてくれた。

 嬉しかった気持ちは嘘じゃない。この人を愛していると本心から思った。

 それなのにまだ私は懲りずに文を想ってしまっている。忘れたいのに、忘れなきゃいけないのに。

 琴音も呆れ返ってるよね。琴音を利用して、文を傷付けて、傷付いてることぐらい見抜かれてる。

 なのに……私を見つめる瞳は、変わらず愛おしそうに、優しい瞳をしていた。


「ふふっ……中々回りくどいおねだりの仕方だね?」


 そう言ってニヤッと笑うと、徐ろに私を抱き寄せて、キスをしてきた。

 唇が触れ合った瞬間余計に頭が混乱して、琴音を押しのけようと腕を突っぱると、色っぽい声が鼓膜を揺らす。

 

「んっ……大胆だな、君は……」


 手のひらには柔らかな、丸みを帯びた感触。

 視線を落とすと、私の手が琴音の胸を掬い上げるようにして、鷲掴みしていた。

 ……。


「ちっ、違う! わざとじゃなくて! ごめん!」


 口元を抑え、乙女のような恥じらい方をしている琴音に弁解したが、何故か本人は慌てふためく私を見てけたけたと笑っている。

 それはもう楽しそうに。


 ほとほと自分に呆れた。私は何回琴音に助けてもらっているんだろう。

 琴音はどうしてそこまで私を好きでいてくれるんだろう。

 私はどうして……琴音だけを好きでいられないのだろう。


「愛しているよ、言乃葉」


 微笑む顔が、私には眩しすぎる。

 やめろ。喜ぶな。嬉しがるな。

 私に喜ぶ資格なんて、愛してもらえる資格なんてない。

 駄目だと言い聞かせても心が私の言うことを聞いてくれない。

 飛び跳ねそうなほど嬉しくて、同じくらいに苦しくて、私は子供のようにわんわんと声を上げて泣いてしまった。


「よしよし……ふふっ……泣き虫さんだね……」


 琴音に包まれて、頭を撫でられていると堰を切ったように涙が溢れてくる。

 甘えちゃいけないのに、この安心感に抗えない。

 私が犯した罪も忘れて身を委ねていたくなる。琴音はそんな私でも許してくれるのだろう。醜さも含めて丸ごと愛してくれる確信がある。

 だからこそ、一人で立たないと。

 琴音の隣に並んでも恥ずかしくない私でいるために。


「ひっぐ……もう……大丈夫。ありがとう、琴音」


 体を離しながら、礼を言った。


「こちらこそ。堪能させてもらったよ」


 ……何を?

 とは聞かないでおこう。聞くだけ無駄ってことは分かったし。


「初めてキスした日を思い出していた。あのときも君は泣いていたね」

「そうだったね。その後は、琴音も泣いてた」

「色々あったが……わたしは幸せだよ。言乃葉」

「……うん。私も」


 ここで謝るのは違う気がした。

 素直な気持ちを琴音に伝えて、互いに微笑み合うと、柔らかな陽光が降り注ぐ湖のように心が凪いでいった。私は多分、この人と一生を添い遂げる。他人が聞けば所詮子供の恋愛だと馬鹿にされるだろう。でも、確かに私はそう思った。

 結局ずっとあやされてしまったけど、そのおかげでいくらか落ち着いた。

 会話もできるし、何故か一緒になって泣いていた文も泣き止んでいる。

 いつまでも無視はできない。床に座り込み、足元に縋り付いていた文と目線を合わせて語りかける。


「文、ごめんね。傷付けたかったわけじゃないの。私は、文が好きだよ」


 自分の気持ちを偽らず、正直に全部伝えよう。

 琴音は私を信じて見守っててくれる。


「あたしも……死ぬとか言ってごめんね……ぐすっ……よがった……あたしもコトが好き……大好き……」

「でもね……文より、琴音が好きなの。だから、文と恋人にはなれないの。私達、友達に戻ろう?」


 好きだから、終わりにしなくちゃ。

 文だっていつかは好きな人ができる。人を好きになれる気持ちがちゃんとあったんだから。『昔はあんなこともあったね』なんて言って笑いあえたら、それはとても素敵だ。

 私は文と縁を切りたいんじゃない。幼馴染として、友達として一緒にいたいんだ。


「ぐすっ……いや……恋人がいいの……友達じゃいやなの……」

「……友達に戻るか、絶交するか、どっちがいい?」

「どっちもいや! 恋人になりたいの! なんでそんな意地悪言うの! 絶交なんか絶対しない! 友達にも戻らない!」

「文……あんまり困らせないで……」


 へそを曲げた文は一筋縄じゃいかないんだよね……。

 泣く子と地頭には勝てない、とは言うけれど骨が折れるなぁ……。


「コトも好きって言った! 川崎さんもキスしてって言った! 何でだめなの!?」


 私が弱いから、文を失うことに耐えられないと思われてるんだろう。

 琴音がいてくれるなら乗り越えられると証明すれば、キスしなくてもいいんだ。

 

「裏切らないって誓ったから。琴音以外の人とは、キスしない」

「コトの嘘つき! わかってるんだから! あたしとキスしたいって思ってるの!」


 もっと早く気付いてくれてたら、嬉しかったな。

 今さら言われても後の祭りだよ。嘘だってバレててもいい。琴音も分かってる。

 

「言乃葉、わたしはね……君を虜にする自信がある。わたしに操を立ててくれるのは嬉しいが、世間の常識や倫理観で選ばれるのは屈辱だ。、選んでほしいんだよ」


 静観していた琴音が、私を指差しながら話に割り込んできた。

 恥知らずなことに、ムッとしてしまったのは痛いところを突かれたからだ。

 でも、私だって正しくあろうとしてる。その努力まで否定しないでほしい。

 誇れる私でいたいから、あなたの隣にいたいから私は……。

 

「……琴音は、私をどうしたいの?」

「ふふっ……怒った顔も可愛いね」


 頬に伸ばされた手を払い、キッパリと言い放つ。


「ふざけないで。本当に怒るよ」

「むぅ……巫山戯たわけじゃないんだけどな……」


 唇を尖らせて不満をアピールする琴音に、さらに苛立ちを募らせた。

 真剣に話をしているのに茶化されたら誰だって怒るはずだ。後ろめたい気持ちもあるけど、怒るときは怒る。それとこれとは話が別だ。

 琴音は増長しやすいから、時たま叱らないと手が付けられなくなるし。


「それで?」


 腕を組んで、ジロリと睨む。

 私の態度を見て、流石に空気を読んだのか、んっ! と軽く咳払いして表情を引き締め、口を開いた。


「君は嘘をついている……いや、口に出していないことがあるよね。墓場まで持っていく秘密、だったかな?」


 どうせ琴音には全部お見通しなんだろうなとは思ってたよ。

 本当に全部分かってて、文とキスをしろなんて言ったんだ。

 ……ムカつく。私のことを知り尽くしてます、みたいな得意気な顔して。


「向き合おうとしてるのに……私はそこまで弱く見える? おんぶに抱っこしてあげないと駄目? 私を……信じてくれないの?」

「……わたしは君を知っているからね」


 私から目をそらし、どこか諦めたような、悲しげな声で告げられた。

 信じられない、と。文がいないと駄目になると、暗に言われてしまった。

 また浮気をするんじゃないかと疑われる方がまだマシだ。努力も無駄、琴音は……私を信じてはくれない。

 プツッ――と、私の中で何かが切れる音がした。

 

「そう……どうなっても知らないよ? 琴音がいいって言ったんだからね?」

「ああ、


 何があっても私の傍にいてくれるんだね。

 誓いなんて、無意味だったんだ。

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