終章 ふたりは今日も通常運転

 「終わったあっ~!」

 夕顔ゆうがおが思いきり破顔しながらそう言った。最後の撮影が終わり、本日の仕事はめでたく終了したのだ。

 仕事が終わったことそれ自体を喜んでいるわけではない。自分のやるべきことをやり遂げたという満足感からの笑み。自分の役割に真剣に向きあっている人間だけが浮かべることのできる晴れやかな笑顔である。

 ――この笑顔があるから、どんなに甘えてきても許しちゃうのよね。

 と、朝陽あさひが優しい微笑みとともにいつも思う笑顔である。

 右腕を天井に向かって思いきり伸ばし、左手を右肘に当てた姿勢で大きく伸びをする。きわどい水着を着たままそんな姿勢をとるものだから、ただでさえ豊かな胸がよりいっそうふくらんで、胸元のビキニがいまにもはじけ飛びそう。おかげで、見ていてドキマギするというか、ハラハラするというか……。

 「ご、ごくろうさま……!」

 朝陽あさひはあわてて駆けより、周囲の目から夕顔ゆうがおの胸を隠すようにその前に立った。

 「今日もお仕事、大変だったね」

 「わあ、朝陽あさひ、優しい~。ありがとお~」

 夕顔ゆうがおは当然のごとくに抱きついてくる。きわどい水着姿のままなので素肌のぬくもりとスベスベした感触とがもろに感じられて……これがもう『ここって極楽?』というぐらい心地良い。

 そして、まわり中の女子から朝陽あさひに向かって放たれる歯ぎしりの音といまにも泣きそうな表情と嫉妬の視線。ついでに、殺意。

 朝陽あさひとしては、

 ――たはは。

 と、苦笑するしかないところなのだが、さすがにもう慣れてきた。冷や汗を流すどころか、気持ち良ささえ感じはじめている自分がいる。

 「ざまあみなさいっ! あんたたちの大好きな夕顔ゆうがおはあたしの嫁なのよっ!」

 と、ふんぞり返って豪語している自分が心のなかのほんの片隅にいたりするのを発見して、少しばかり怖くなる。

 「朝陽あさひこそ、がんばってたじゃない。いつも一所懸命だよねえ。良い子、良い子」

 夕顔ゆうがおは抱きついたまま朝陽あさひの頭をなでなでする。いつも、甘えたがりの夕顔ゆうがおだけど、ときにはこうして不意打ちで甘やかしてくる。

 これがまた、なんというか、

 ――ヤバいっ。これ、気持ちいい。

 と、思ってしまうようなもので……。

 朝陽あさひかがんばっていたのは本当だ。夕顔ゆうがおが撮影の仕事に励んでいる間、ただその様子を眺めて過ごしていたわけではない。

 朝陽あさひ朝陽あさひで自分の研究にいそしんでいたのである。

 医療学校で自習時間が長いのはそれぞれに自主研究を行わせるためだ。定期的に報告し、成果を見せなくてはならない。それを怠れば即、退学。わざわざ警告なんてしてくれないし、補習などという優しい制度もない。

 「自分で自分を律することもできない人間を、医療関係者にするわけにはいかない」

 という大前提が徹底されているので、そぐわない生徒は容赦なく切り捨てられる。

 そしていま、朝陽あさひが取り組むべき自主研究は環境と遺伝子の関係。どんな環境下であればどんな遺伝子がどんな発現の仕方をするか。

 それを調べている。

 そこで、朝陽あさひが選んだ環境がアイドル業界。アイドル業界という華やかで、それでも、裏にまわれば醜い嫉妬や権益が絡みあう百鬼夜行の世界。

 そんな世界に置かれたとき、どの遺伝子がどのような発現の仕方をするか。

 それを調べている。そのためにいま、アイドル業界という環境をくわしく知ろうとしている。

 これなら、夕顔ゆうがおと同じ場所にいられるし、自主研究も行える。

 「アイドル業界と遺伝子の関係? そんなもの調べて、なにかの役に立つのか?」

 そう問われれば『わからない』と答えるしかない。

 しかし、役に立つかどうかわからない、と言うことは、役に立つかも知れないということ。とにかく、どんな研究でもやっておくにこしたことはない。そして、こういう『役に立つかどうかわからない研究』というのは、プロの研究者より学生身分の方がやりやすい。学校側もまともな研究より『馬鹿馬鹿しい』研究を行うよう推奨している。

 「確実に『役に立つ』とわかっている研究はプロの研究者が行っている。諸君よりもキャリアも、知識も、人脈も、すべてにおいて上回るプロの研究者がこぞって行っているのだ。そこに、未熟な学生風情が参加したところで勝てるはずがない。それよりも、世間から『馬鹿馬鹿しい』と言われるような研究を行うことだ。生活の懸かっているプロの研究者が手を出しにくいそんな研究こそ、稼ぐ必要のない学生身分が行うのにふさわしい」

 という理由で。

 ちなみに、これまで学校がもっとも大喜びして研究予算を出したのは『ハエの糞にもハエはたかるのか』という研究である。校内の伝説では、とあるアマチュア研究者がこの研究を持ち込んだとき、教授たちは一斉に大笑いしたという。そして、

 「気に入った! 思う存分やれ!」

 その一言で予算を与えることが決定されてしまったという。

 なぜ、そんなことになるかというと『そんな馬鹿馬鹿しい研究にも予算がつくなら自分の研究だって……』と、多くの研究者がやってくる。そのなかには必ず『有望な怪物』が混じっている。一万にひとつでも『有望な怪物』が生まれるなら、残りの九九九九の無駄を受け入れる価値がある』という理由からである。

 もちろん、単純に趣味人の学者連中が気に入った、という理由もあるのだが。

 そういうわけで朝陽あさひも、誰に気兼ねすることなく思いきり『アイドル業界と遺伝子の関係』について研究できるわけである。

 もちろん、やるからには本気である。現場を観察し、話を聞き、自分でも経験し、夕顔ゆうがおが撮影に励んでいる間、自分でも懸命にアイドル業界という環境を知ろうとしていたのだ。

 ――夕顔ゆうがおは市長として市と市民のために体を張って仕事している。夕陽ゆうひは医者になってこの都市を築きあげた。あたしだって負けていられない!

 その一心で自分のやるべきことに打ち込んでいる。

 自分を愛してくれるふたり、自分の愛するふたり、そのふたりの前でいつでも堂々と立っていられる自分であるために。

 自分でも『あたし、がんばってる!』という思いがある。だからこそ、それを認められると嬉しい。『この人はわかってくれる』と思える。報われた気がする。

 普段は子どもっぽくて甘えたがりのくせに、いざとなるちゃんと『おとなする』のが夕顔ゆうがおのいいところ。同時に、

 ――夕顔ゆうがおってほんと、ズルいっ!

 と、朝陽あさひが憤慨するところでもあるのだが。

 ともかく、朝陽あさひの研究も一段落したし、夕顔ゆうがおの撮影も終わったので、ふたりは家に帰ることになった。夕暮れ時の都市のなかを、草花を踏みしめ、ヒツジたちの鳴く声に包まれながらふたり並んで歩いていく。

 ちなみに、夕顔ゆうがおはきちんと服を着ている。念のため。それでも、大きく胸元の開いた服に惜しげもなく脚線美をさらした巻きスカートという刺激的な格好なのが『さすが夕顔ゆうがお!』というところ。

 「あ~、今日も大変だったあ」

 帰り道を行きながら、夕顔ゆうがおは再び大きく伸びをした。そのまま朝陽あさひにしなだれかかり、抱きついた。

 「朝陽あさひ~。わたし、今日もお仕事すごくがんばったんだよお。帰ったらご褒美ちょうだいね」

 「はいはい」

 と、『お姉ちゃん』は微笑みながら返事をした。

 「夕顔ゆうがおがどんなにがんばってるかちゃんと知ってるから。あたしの膝枕でよかったらいくらでも使って」

 「やったあっ! 朝陽あさひ、きれい、かわいい、好き、愛してる!」

 「あたしも愛してる」

 ふたりの世界は今日も通常運転なのだった。

                   完

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