ルブラン探偵事務所

hekisei

第1話 旧居留地にて

 神戸旧居留地の一角、歴史的な洋風ビルが立ち並ぶ通りの端に、その探偵事務所はあった。

 通りに面した一階の窓からは、西日が斜めに差し込んでいる。

 ビルの外壁は古びたレンガ造りで、扉のガラスには「ルブラン探偵事務所」という金文字が書かれている。


 冬木遼介は事務所のデスクに腰を下ろし、午後のまどろみの中で足を組みながらコーヒーをすすっていた。

 壁際の本棚には英語やフランス語で書かれた推理小説が並んでいる。アーサー・コナン・ドイル、エラリー・クイーン、アガサ・クリスティなど。

 探偵事務所を名乗るに相応しい……といえるかはいささか微妙だ。


「ルブランか……」


 遼介はふと、デスクに肘をつきながら金文字を思い出して苦笑した。

 いっそベーカー探偵事務所にすればよかったんじゃないのか。

 シャーロック・ホームズの下宿がベーカー街にあったことくらい、オーナーだって知っているだろう。

 何だって追われる側の名前にしたわけ?

 だが、あの調子のいいオーナーは「ルパンの方がかっこいいじゃないか」と言って譲らなかった。

 何ら特別な美学があるわけでもない。

 ただ単にルパンに憧れていた、それだけの話だ。


 もっとも、そんなことを口にしても無駄だろう。

 オーナーは「ルブラン」の名前を気に入っているし、遼介自身も特に不満があるわけではなかった。


 ただ、一つだけ気に入らないことがある。

「どんな依頼でも受けろ」というルール。

 長期不在のオーナーから留守を任された時に、遼介が唯一厳命されたことだ。

「依頼を断ったら次が来なくなる」、オーナーは本気でそう信じているらしい。

 だから、どんな無茶な依頼でも、とりあえず引き受けることになっていた。


 まあ、理由をつけて断ってもオーナーには分からないだろうけど。

 そんなことを考えていた時だった。

 事務所の入り口につけられた小さなベルが鳴った。


 ガラス戸越しに、西日を背にした人影が立っている。

 ドアが開き、シルクのスカーフに包まれた女性が入ってきた。

 長い黒髪に、濃いグレーのスーツ。

 スラリとした長身に、まっすぐな視線をたたえた瞳が美しい。


「探偵さんですか?」


 声までが、まるで音楽のようだった。

 遼介は姿勢を正し、無意識に笑みを作った。


「はい、ルブラン探偵事務所です。どうぞお掛けください」


 彼女は扉を静かに閉じ、足音を響かせずにデスクの前に進み出た。

 革張りの椅子に腰を下ろすと、細くしなやかな指が膝の上で組まれる。


「月村紫乃と申します」


 紫乃……その名にふさわしい、静かな佇まいだった。


「ご依頼でしょうか?」

「はい」


 遼介は懐からメモ帳を取り出した。

 紫乃は一度視線を落とし、それからまっすぐに冬木の目を見た。


「依頼を受けていただけるんですよね?」

「もちろん」


 紫乃の唇がわずかにほころんだ。


「よかった。実はこれまでに2、3軒の事務所に断られているんです」

「それは気になりますね。どのような依頼でしょうか?」

「主人を殺した犯人を……見つけていただけないかと」


 遼介は一瞬、手にしたメモ帳を閉じかけた。


「犯人をみつける?」

「それだけではありません」


 紫乃の目がすっと細くなる。

 静かに、だが鋭く。


「見つけたら……その犯人を殺してほしいんです」



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