第6話 東京でサヨナラを
「ねぇ、なんかあった?」
まどかが顔をのぞき込む。
「何もないよ、疲れてるだけ」
「ふーん」
浩輔が知る限り綾乃はあれから一度も家に戻っていない。医局からは特に連絡はないので何かトラブルがあったわけではないだろうが、連絡くらいよこしてもいいのに。
「ね、始まるよ。早く、早く」
まどかが急き立てる。浩輔も急いでゲームにログインした。
「はい、お二人さんこんばんは」
「遅いよー」
チーム長夫妻が明るく迎える。
【AI】「先生なんか元気ないんです、今日」
【DrK】「始めましょう」
ゲームはチームが無難に勝利したが、浩輔の心は晴れなかった。彼は画面に短く打ち込んだ。
【DrK】「もう自分いなくても大丈夫そうですね」
すると即座にメンバーがざわめく。
「暗いよ怖いよ」
「ほんとにダメみたいね」
チーム長夫妻が冗談めかして突っ込む。
【チーム長妻】「AIちゃん、後よろしくね」
【AI】「すいません。失礼します。」
二人は同時にログアウトし、浩輔はまどかの膝にうつぶせに寝転んだ。
「なに、どうしたの?」
「ごめん。ちょっと休ませて」
勘の良いまどかは何かを察して、浩輔をそのままにした。
彼女の膝の柔らかな温もりを感じながら、浩輔は自分の不甲斐なさに目を閉じた。まどかは何も言わず、ただそっと浩輔の髪を撫で続けていた。
その静かな優しさが、今は何よりも心地よかった。浩輔はただ誰かにそばにいてほしかった。その想いをまどかは言わずとも理解しているように思えた。
―――
あれから綾乃は東京へ移った。浩輔も引っ越しを手伝ったが、自分自身は京都に残ることに決めた。綾乃もそれ以上何も言わず、転居先は前に見せてくれたところよりは小さいところにしたようだった。
まどかは少しずつ自分のことを話してくれるようになった。出身や家族、好きなアニメのことを話す時はとても楽しそうで、浩輔にも熱心におすすめしてくれる。
今まであまりアニメや漫画に触れなかった浩輔にとって、彼女のすすめる作品はどれも新鮮で、自分の世界が広がっていく気がした。
仕事に明け暮れたこれまでの時間を取り戻すように、まどかが自分の人生に彩を与えてくれるように感じた。
ある日、まどかが珍しく相談を持ち掛けてきた。
「あのね、ちょっと相談なんだけど……」
「どうしたの?」
浩輔が尋ねると、まどかは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「実は、二次創作の展示会に参加してみようかなと思って」
「二次創作?」
「ほら、いつも遊んでるゲームのキャラで漫画を描いて、それを展示するの」
そう言って、まどかはスマートフォンを差し出した。画面には無数のサムネイルが表示されている。
「これ、全部その漫画?」
「ううん、これは他の人の作品。でも私もこんな感じで描こうかなって思って」
「すごいじゃん!やってみなよ!」
浩輔は純粋に感動し、称賛の言葉を送った。まどかは照れくさそうに微笑んだ。
「出しても大丈夫かな?」
「何を迷ってるの?絶対出した方がいいよ。まどか先生!」
「もう、やめてよ」
まどかは頬を赤らめ、照れ隠しに浩輔を軽く叩いた。
「ねえ、描いたやつ見せてよ」
「まだ描いてないの。締め切りは二ヶ月後だし」
「話の内容は決まってる?」
「うん、一応ね」
「じゃあその間は邪魔しないようにするよ」
「いじわる」
まどかは軽く拗ねたふりをして顔を背ける。そんな彼女が愛おしくて、浩輔はそっと後ろから彼女を抱きしめた。
それから二ヶ月後、まどかはようやく作品を完成させた。
「見せてよ」
「絶対いや!」
浩輔の申し出を、まどかは全力で拒絶した。
「なんで?」
「恥ずかしいから!」
「いいじゃん、減るもんじゃないし」
「だめ!」
頑として譲らないまどかに浩輔は苦笑した。
「まあ、しょうがないか」
「本当に見せられないくらい恥ずかしいの!」
浩輔は笑いながらため息をついた。
「どこでやるの、その展示会?」
「東京だよ」
「そっか、気を付けてね」
浩輔は微かな不安を抱きつつも、まどかにエールを送った。
まどかの展示会は予想以上の大盛況だった。イベント終了後、帰路に就く準備をしていた彼女のスマートフォンが短く震えた。
夫からの突然の連絡だった。
『少し、話がしたい』
そのメッセージを見つめるまどかの顔が静かに曇る。
彼女は帰りの切符をそっとバッグの奥にしまい込み、夫に会う決意を固めた。
―――
まどかの展示会が終わってから1週間後の週末、綾乃に呼ばれ、浩輔は東京に来ていた。
新居は都会的で洒落ており、彼女らしいセンスが感じられた。
久しぶりに再会した綾乃は溌剌としていて、まるで出会ったばかりの頃のように魅力的だった。
「あなたがいないと色々と苦労するわ」
「少しはありがたみがわかった?」
「そうかもね」
穏やかな口調で答える綾乃に、浩輔はどこか違和感を覚えた。
「どういう風の吹き回し? 話なら京都でもよかったんじゃ……」
「あなたにもこっちの様子を見てほしかったのよ」
笑顔のまま、綾乃は浩輔を連れて東京を巡った。彼女が勤務する大学は想像していた以上に素晴らしかった。
「やっぱり東京は違うね」
浩輔が素直に感心すると、綾乃の表情がぱっと明るくなった。
「そう言ってもらえると、なんか嬉しいな。あなたに認めてもらいたかったの」
綾乃が小さく呟いたその声には、まるで子供のような無邪気な響きがあった。
浩輔は一瞬、彼女の本当の気持ちに触れた気がしたが、深く考えることなく、そのまま言葉を流してしまった。
夕方になり、二人は予約してあったレストランに移動した。
食事の終盤、デザートを食べ終えた綾乃が、少しだけ緊張した表情で口を開いた。
「ねえ浩輔、やっぱりこっちに来ない?」
「僕には華やかすぎるよ」
一瞬の沈黙がテーブルを包んだ。
「そう言うと思ったわ」
綾乃は怒る様子もなく、静かに微笑んでいた。浩輔はますます戸惑った。
「ねえ、綾乃。一体……」
「聞いて」
綾乃は浩輔の言葉を遮った。彼女の表情から笑顔が消え、真剣な眼差しが彼を見つめていた。
「私ね、本当に感謝してるの。覚えてる? あなた、いつも私を助けてくれた。面倒だったでしょう? 一つも文句を言わずに。私、ずっと甘えてた。自分が成功すれば、あなたも喜んでくれるって勝手に思い込んでた。でも違ったのよね。あなたのこと、全然考えてなかった。今までごめんね」
浩輔が視線を上げると、綾乃の目には涙がにじんでいた。
「綾乃……」
「あなたが遠くなっていくの、わかってた。でも、どうしたらいいのかわからなかった。あなたが望むようにはなれないよ、私」
彼女の頬を涙が伝い落ちた。浩輔は何も言えず、ただ綾乃の涙を見つめていた。
「私、東京で正式に仕事を始める。もう京都には戻らないわ」
「綾乃……」
「別れましょう」
その言葉を言い終えると同時に、綾乃はナプキンで顔を覆った。
「ごめん、綾乃……。君にそんなことを決めさせて、ごめん」
「そうよ、あなたは何にも決められない人なの。昔から」
浩輔は、その言葉を黙って受け止めることしかできなかった。
やがて綾乃は静かに涙を拭き、落ち着きを取り戻していた。浩輔はそんな彼女を穏やかな目で見つめ、静かな口調で言った。
「綾乃、これまでごめん。僕もきちんと君と向き合うべきだった。僕自身も前に進もうと思う」
綾乃は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく微笑んだ。
「……そうね。お互い、前に進みましょう」
浩輔は静かに頷き、穏やかな余韻が二人の間に広がった。
綾乃は浩輔を東京駅まで送った。
「時々は連絡してよね」
「わかった」
「元気でね」
新幹線がゆっくりと動き出し、綾乃の姿が次第に小さくなっていく。
彼女を見送る浩輔の目には、もう他の誰かを映す余裕などなかった。
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