毘沙門での親孝行

テタンレール

第1話 いよいよ

 六限の授業が終わり、ホームルームを聞き流し、掃除をして教室をピカピカにしてから、僕はお屋敷に帰り仕事着に着替える。

 お屋敷のドレスコードに従い、学校の制服から執事服へ。

 尻尾の長いテールコートの上質な生地は、決して安くない学生服を霞ませてしまう。

 蝶ネクタイをつけ、サファイアが埋められたカフスを外し腕を捲る。

 下ろしていた前髪をワックスで掻き揚げ軽くセットし、白手袋をはめ、最後の仕上げに腕時計をつけて完成。

 細く白い腕に巻かれた腕時計の輝く短針は『5』の文字の左側を隠している。

 仕事の時間だ。

「行ってきます」

 僕は自室のベッドに寝かされた猫のぬいぐるみ達に敬礼して重たい扉を開けた。

 お嬢様の部屋に行く前に、冬子さん達がいるであろう厨房へ向かった。

 きっと、夕食の準備をしている頃だ。小腹が減っているので賄いがあればいただきたい。

 僕の高校と同じくらい大きなお屋敷の廊下の長さにはもう慣れてしまったが、こうして早足で部屋を行き来していると移動教室を連想させる。

 僕の部屋から厨房までは一年七組から職員室までだろうか――と、意味のない距離の計算をしていると。

 角を曲がった先に二人の女性が歩いていた。

 僕は少し背筋を正してから声をかけた。

「風呂上がりですか?白狐さん」

 バスローブを巻いているのは母様の妹であり、お嬢様の叔母に当たる白狐さんだ。

「あら、鹿螻蛄ちゃん。そうです、一番風呂をいただきましたのよ」

 白狐さんは上品に応える。

 濡れた髪や上気した頬は儚くそして艶やかで、この僕でさえも魅了してしまう。

 それを見て唾を呑むと、白狐さんの隣から冷たい視線が僕に突き刺さった。

 白狐さんの隣にいる女性。屋敷のメイド服を着用し、白狐さんの着替えが入っているであろう網かごを抱えているのは白狐さんの担当メイドの綾瀬翠さんだ。

「昨日工事が完了したようで、今日からまた露天風呂が使えますのよ」

「ああ、そうなんですね。だから早めの入浴ですか」

 先月八月、屋敷一部の配管が故障して以来露天風呂の使用が禁止されていたのだが、なるほど、いつもより静かに感じたのは工事が終わったからか。

「そうです!また夕食後に入る予定ですのよ」

 白狐さん、どうやらかなりの風呂好きらしい。隣の綾瀬さんは少しため息をついたように見えたが気のせいだろう。

「いいですね、僕も久々に入ろうかな。深夜ごろなら空いているでしょう。ではまた夕食で、湯冷めしてしまったらいけませんしね」

 綾瀬さんが早く帰りたそうだったので僕は話を切り上げた。

 綾瀬さんの感情は非常にわかりやすい、というより、きっとわざとわかりやすくしているのだろう。

 白狐さんもそんな彼女を気に入っているようだし、なんというか、うまくやっているのだ。人には人の付き合い方がある。少なくとも、僕がお嬢様や、他の先輩メイドに対してあんな態度をとったら生きるのが困難になる程の罰を与えられそうだ。

「そうですわね、ではまた」

 白狐さんはそう言って部屋の方へ歩き出す。綾瀬さんは満足そうに頷いていた。

 これは本当に計算だろうか。

 ただ子供っぽいだけなのでは?

「鹿螻蛄くん」

 そんな二人を見送って厨房に向かおうとした時、後ろから声をかけられた。

 振り向くとそこには角を曲がったはずの綾瀬さんが立っている。

「綾瀬さん、どうかしました?」

 脱衣所に忘れ物でもしたのだろうか。

「昼間、母様が探してたよ」

「何を」

「お前」

「お前って…」

 母様。

 僕とは一切血の繋がっていない母。

 母様と言っても、別に僕は母様に育ててもらった訳でもなければ、愛情をくれているかどうかも怪しい関係。母と言えるのかどうか怪しい。

 じゃあお前は何処の、誰の子供なんだと聞かれたらそれこそ怪しいどころかわかりませんとしか答えられないような虚無であるのだけれど。

「母様が?僕を?どうしてですか?」

 僕ももう十八になるのだし、考えないといけないなと思った。

 思っただけだ。

 僕の思考は人といると著しく回転速度が低下する。

 早く一人になりたい。

 屋敷に、母様に生かされている僕が独り立ちすることなんてあり得ないことだけれど、この思春期真っ只中な、心の中が尋常じゃないほどに忙しい今だけでも――。

「知るわけないでしょう。帰ってきたら自分で聞いて」

 寂しさと不安とほんの少しの怒りの混じった僕の内情とは他所に、そっけない返事だった。

「わかりました。教えてくれてありがとうございます」

 心中を察してくれたのか否かはわからないけれど、僕の礼を聞き終えることなく綾瀬さんは去っていった。

 気を取り直して、僕は厨房へ歩を進める。

 自分の生い立ちなどには目もくれず。

 冬子さんが作る甘いお菓子への期待を胸に、ただ歩く。

 無心に歩いているとすぐに時間は過ぎる。これは高校の登下校でも実感できることだ。

 気づいたら着いていた、という感じだ。

 何畳とか何坪だとかの面積の単位はカレー屋さんの辛さ指数と同じくらいわからないけれど激辛カレーは口に入れれば自然と辛さがわかるように、この厨房に入ればまず広さの印象が強い。

 我ながら、よくわからない例えだ。例えられているかどうかも怪しい。

 全く、怪しいことばっかだな僕は。

 僕の期待通り、冬子さんは夕食のデザートをいつも通り余分に作っていた。

 僕は厨房に入るなりすぐに皿洗いをしている冬子さんを見つけ、余っているデザートはないかと尋ねた。

 商業製品を生産する工場のように無駄に広いこの厨房で冬子さんを探し出すのは最初は苦労したが慣れたものだ。匂いでわかる、と言うのは嘘で、冬子さんは非常に低身長で可愛らしい風貌をしているので、視界に入ると一瞬で冬子さんだとわかるのである。

「今日のデザートはプリンですか」

「そうですよ、二つ余っていますけれど、一つ食べますか?」

「是非」

 こんないつも通りの会話を交わしつつ僕は用意してあったプリンが乗った皿とスプーンを受け取った。

 めちゃくちゃ濃厚なプリンだった。

「美味しかったです。夕飯が楽しみです」

「間食をしすぎると太りますよ」

「――僕は太りませんよ。太らないというか、太らないように調整できますから」

 僕は食器を流しに片付けつつ、左手を隠すようにして言った。

 知られたくないことをさりげなくひらつかせてしまうのはただの弱さなのだろう。そんな自分がとてつもなく気持ち悪かった。これじゃまるで犯罪や加害欲求を誇示して調子に乗る馬鹿と一緒じゃないか。

「では夕食のときにまた」

「ちょっと、鹿螻蛄くん!」

 怪しい気分になりそうだったから、僕は足早にその場を去ろうとしたのだが、綾瀬さんと同様に僕を静止する。

「なんでしょうか、ひょっとして母様が僕を呼んでましたか?」

「あ、解決したんですね、ならいいんです」

 予想は的中したようだ。

 厨房での僕の勘は冴え渡っている様子。

 そこでふと僕は思いつきで口を開く。

「今日の夕飯はなんでしたっけ?」

 いつもは食卓に着くまでのお楽しみとしてそれを聞かないままにしておくのだが、今日はなぜか、気まぐれで聞いて見たくなった。

「カレーですよ。虎さん好みの、激辛カレーです!」

 自身ありげに、腰に手を当てて平らな胸を張る冬子さん。

「そうですか、僕は甘口が好みだから、辛くしすぎないでもらえるとありがたいですね」

 勘が当たるというか、僕の思考が世界に影響しているみたいだと思った。中二病か。だからどうということでもないのだけどね。

 ひょっとしたら、僕の生い立ちを愉快に妄想したら、もう少し愉快に生きられるかもしれないなと、一瞬くだらないことを考えたが、すぐに止めて厨房の扉を押し開けた。

 僕が厨房の外に出ると二人のメイド、鶴島さんと烏丸さんが並んで歩いていた。

「鶴島さんに烏丸さん、お疲れ様です」

「おお、鹿螻蛄もお疲れさん」

「今日のデザートはなんでしたか?」

 どうやら二人して賄い目当てらしい。

「プリンですよ。とびきり美味しかったです」

 僕がそう言うと二人は顔を合わせて微笑みあっていた。

 屋敷のメイドさんは僕を除外して、平均年齢は三十手前と言ったところだけれど、皆が一様に態度が若々しい。

 冬子さんと綾瀬さんは若いと言うより幼いと印象だが…、実際若い方だし。目の前の二人、鶴島さんと烏丸さんは僕の高校に制服を着て授業に参加していても違和感がないだろう。それも一種の幼さだろうか。人のことを言えたことではないけれど母様の躾の成果なのだろう。それが良いことなのかは一考の余地があるように思える。特に僕の躾は。調教と言ったらすこしアダルトな感じに聞こえてしまうかもしれないけれど、やっていることは大して変わらないかもしれない。

 嗚呼、嫌だ嫌だ。

 僕は頭を振って思考をかき消す。

「ではプリン楽しんでください」

「はいさー」

「はーい」

 厨房に入っていく二人を見て、確かプリンは残り一つだったっけか、なんて今更なことを考える僕だった。

 あとでどちらかに詰められる未来が目に浮かぶ。特に烏丸さん。

 仲良く半分こしていることを願おう。

 腕時計を見るともうすぐ五時だ。

 遅刻は良くないので僕はお嬢様の部屋に小走りで向かった。



「ただいま鹿螻蛄」

「お帰りなさい、お嬢様。今日も六時半から夕飯です。それと僕は母様に呼ばれているので夕飯後に一度離脱します」

 お嬢様の部屋の前で、軽く重い頭を下げながら僕は淡々と述べた。

 お嬢様は僕を見て、ため息をついてから部屋に入り、革のソファに腰を下ろした。

「また髪を上げて…、私の前では下していなさいと言っているでしょう?」

「すみません。でも、前が見えないと廊下を歩けないんです。だからと言って勝手に切ると母様に怒られてしまう」

「そうね…」

 お嬢様は上品に顎に手をやり思考する。

 今は学生服のままだがその馴染み切った仕草は誰が見ても『お嬢様』だろう。

 分けられた甘い茶色の前髪から覗く、てかてかとしたおでこを除いて、威厳のある表情も、僕より高い長身も豊満な胸も同じ十八歳とは思えない。

「そうだわ」

 思いついたようにとんと顎にやっていた拳を掌に打ち付けるお嬢様。

 そしてシワのない制服のブレザーの内ポケットをガサゴソと漁り始める――そこから取り出しましたるは――。

「――チョコレート、ですか」

 チョコレートだった。

「ストロベリー味ですよ」

 ストロベリー味らしかった。

 何故だ。僕はてっきりヘアゴムとかヘアピンとか、形あるもの頂くのかと…。それから――、えっとそれからそれを僕は宝物として命よりも大事にして、後々そのヘアピンを巡る泣ける展開が来る。そんな伏線となるシーンかと思っていたのに――ストロベリー味か。僕にまだ甘いと神が言っているのだろうか。

 衝撃により間を開いてしまったがそれを受け取り、包みを開いて口に入れる。

「あ、これ美味しいですね」

 美味しかった。

 そこらのチョコレートとは比べ物にならないほどに、美味。

 きっとコンビニなどでは買えないお高いチョコレートだ。

 お嬢様はきっと、僕に元気を取り戻してほしくてこんなご褒美をくれたのだろう。やはり僕の主人は最高だ。

「気に入ってよかったわ。調理実習で作ったのよ。高三にもなってまだ授業スケジュールに家庭科が含まれていることが癪だったけれど、調理実習は良いものだわ」

「あ、これお嬢様が作ったんですか。通りで美味しいわけです。てっきり一流のお菓子職人が丸一日かけて作ったものかと思いました」

「大袈裟すぎ」

 僕は勘違いを誇張して馬鹿を隠した。

 どうやら僕の舌はあまり肥えていないらしい。お屋敷のメニューの素材はどれも高級食材ばかりなので気づかなかった。

 別に良いのだ。逆に馬鹿舌ぐらいが、生きるのにはちょうど良いのだ。何万もするステーキを食べないと満足できない味覚より、隠れて牛丼チェーン店で食べる牛丼が世界で一番美味しい僕の味覚の方が良いに決まっている。間違いない。

 頭はすぐ良くなるが、なかなか悪くはできないのと同じだ。

 突き抜けられない有能が理解されず孤独に生涯を終えるならば、僕は無能のままで良い。全くの無能でありたい。

「まあ気に入ってもらえてよかったわ。じゃあ約束通り前髪を下ろしなさい」

 悪戯っぽい笑みを浮かべて、ソファから立ち上がり僕ににじり寄ってくるお嬢様。

 僕は諦めてなされるがままになった。嫌に気はしていないから。

 しかし、同い年の女子に、それもとびきりの美人に髪を触られても、僕は動じない。

 どうしても動じない。

 どうしようもなく、僕は動じてくれない。

 感情は母様に牙を剥こうと試みるがそれも事前に防がれている。

「はいできた――って、何?その顔。まるで死んだ兎みたいよ」

 髪をいじり終わり、僕の顔を見て微笑むお嬢様は優しい顔をしていた。いつもそれに毒気を抜かれてしまう――いや、毒は元から抜かれているか。

「それを言うなら死んだ魚じゃないんですか?」

「死んだ兎よ。この間軽井沢の別荘に行った時猪に殺された兎の死骸を見たでしょう?あれにものすごく似ているわ」

「具体的過ぎて気持ち悪くなるから控えてください」

 笑うお嬢様はわざとやっているのか、はたまた天然なのか。

 どちらにせよ僕の気を紛らわしてくれていることは確かなのでやはり感謝すべきなのだろうか。

「――冷たいお茶を用意してきます。お嬢様は制服にしわがよると大変ですのでお着替えください」

 小さい頃、九月は秋だった気がするのだが、今では十月半ばまでギリギリ夏だ。外は尚もメラメラとした空気が漂っている。僕の九月のイメージカラーは飴色から八月の朱色に同化されてしまった。ちなみに一月から順番に、白、白、白、桃、浅葱、紫紺、朱、朱、朱、飴、白、白となっている――なんてどうでもいい情報なのだろう。僕の『ちなみに』ほど無意味なものはないかもしれない。それが口癖なのがまた絶望的だ。

 僕はお嬢様の部屋を出て向かいのキッチンルームに向かった。

 お屋敷には厨房とは別にキッチンがいくつも散在していて、ますますあの厨房の広さを無駄にしているのだが、お茶を淹れる時や軽い夜食をお嬢様に用意するときに大活躍するので僕は多用している。厨房は冬子さんがほとんど一人で使っているのだが、このキッチンルームよりも掃除が行き届いているのは七不思議に数えても良いかもしれない。

「ケラもお茶か?」

 ドアを開くと、声をかけられた。どうやらキッチンルームには先客がいたようである。

 茶葉入れを片手にこちらを見ているメイドは夢見さん。

「夢見さん、お疲れ様です。そうですね。冷たいの、お願いできますか?」

「わかった、ちょっと待っていろ」

 僕の頼みに嫌な顔一つせず頷く夢見さん。

 白羅刹夢見。確か今年で二十五歳。年齢的に見てもまだまだ若いが外見は実年齢よりさらに若々しい。この人が僕より七歳も年上だと考えるとなかなか不思議な感覚だ。

 彼女は白狐さんの娘、お嬢様の従従姉である黒糸縅九を担当するメイドだ。

 立場としてはお嬢様に仕える僕の方が上になってしまっているけれど、黒糸縅家に江戸の頃から剣を捧げてきた、白羅刹家の末裔、というか、唯一の生き残りである彼女は僕なんかよりも父様や母様や爺様など、屋敷の権力者や屋敷外の関係者にも大事にされている。

 屋敷の中で暮らす以上、男っ気が無くなるのは当然ではあるのだが周りからはかなり心配されていて、本人はそれを煩わしく思っておると僕に教えてくれた。屋敷の男女比が偏りすぎているのは母様の趣味と価値観と貞操観念のせいなので誰も口出しはできない。

 しかしそれでも、夢見さんは決して驕ることなく僕に優しく親切に接してくれるし、たまに休暇をとって遊びに連れて行ってくれたりもする、素敵なお姉さんである。

 メイド服の内側に秘められている、白羅刹独自の護衛術により鍛えられた引き締まった体は僕に憧れを抱かせた。漆黒のポニーテールも、頻繁に僕を惑わせる。

「できたぞ」

 ボソリと呟くようにそう言うと夢見さんはお盆に二人分のお茶を置いて手渡してくれた。

「ありがとうございます」

「ああ、頑張れよ」

「夢見さんも頑張ってください」

 夢見さんは別れるときいつも『頑張れ』と言う。

 最初はよくわからなくて『はい頑張ります?』みたいな煮え切らない返しをしていたのだがここ最近はこの返しが定型になっていた。

 キッチンルームを出る際「前髪が可愛くなっているぞ」と、褒めなのかイジりなのかわからなかったけれど「お嬢様の趣味です」と答えておいた。

 部屋に戻るとお嬢様は部屋着に着替え終わっていた。黒のジーンズにワイシャツ。その上にカーデガンを羽織っている。どうやら僕は夏服より冬服の方が好みらしい。

「お待たせしました、お茶です」

 僕はテーブルにお盆を置いた。

 お嬢様は待ってましたと言わんばかりの速さでグラスに口をつけた。

「冷たくて美味しいわね。暑すぎるのよ最近。秋はどこに行ってしまったのかしら。もう九月ですよ、九月。月見バーガーの時期ですよ。秋刀魚の季節ですよ。日本の気候は馬鹿になってしまったのね」

「そうですね、でもだんだんと気温は下がりつつあるのでもう少しの辛抱かと」

 こんな日本で全員が済ませたような会話を交わしながら僕も夢見さんのお茶を楽しんだ。お茶はお菓子よりも味がわからなかったが、まあ、とても美味しかった。

「鹿螻蛄はどうだった?学校」

 空になったグラスをお盆にドンと置いてお嬢様は僕を向いた。

「どうって…まあ、普通の一日でしたよ。強いて言うなら、体育のマラソンがとても疲れました。僕が言うのもなんですが、受験を控えた三年生にあれをやらせるのは無情だと思いました」

 僕は答える。

「でも一位だったのでしょう?」

 愚痴る僕を見て、こいつは何を言っているんだという目でお嬢様は言った。

「はい。しかしタイムは酷いものでした。体育の授業ではやはり自分の中で周りの生徒と比較してしまうところがありますからね。反省です」

 別に体育の授業は自己強化に費やす時間ではないので不要な反省かもしれない。

 お嬢様はひょいと立ち上がるとテレビのリモコンを取った。そのまま80インチのテレビを狙撃するとすぐに電源がついた。

 女性のアナウンサーが真顔で何か話している。

 僕はなぜか、朝のニュースが苦手を通り越して大嫌いだったが、昼のニュースにはそこまで嫌悪感を覚えなかった。

「また行方不明者が増えてますね」

 ニュースの内容は最近話題の『連続消滅失踪事件』についてだ。

 七月下旬、十歳の女子小学生が失踪したことにより事件が始まる。

 小学四年生の福沢瑠花ちゃんはその日、夏休みの初日ということもあり朝から一人で公園へ出かけた。何人かの友達と待ち合わせをしていたらしいのだが、瑠花ちゃんはその待ち合わせ時間より少し早く公園に居たらしい。監視カメラの映像にその様子が映されていたのだ。

 そこまでは、監視カメラに映っていた。

 確実に映っていたのだが。

 突然消えた。

 煙のように霧散した。

 その映像はネット上で日本中に拡散されたが、まあ、情報リテラシーが身についていたためか、いやこの場合やはりリテラシーが欠けていたためだろう、つまり、子供を利用し注目を浴びようと試みた親のデマとして散々に叩かれて炎上した。

 それで終われば良かったのだけれど――いやそれでは当事者にとっては良かったわけもないけれど、対照的に僕にとっては関係ないことなので終わっても終わらなくてもどっちでも良いのだけれど、とにかく、この奇妙な事件は続いた。続いてしまった。

 その翌週、十九歳の男子大学生がキャンパス内で消えた。この翌週は二十二歳OL、翌週は年金暮らしの老人――いくつか続いて今日、隣の県で女子高生が消えた。

 と、そんな感じで七週間連続で、人がいなくなっている。被害者同士に関連性は見つかっておらず、在住地も全てバラバラだ。共通点はその消え方のみ。

「七回目ともなるともう驚きもありませんね」

 お嬢様は呆れた様子。

「どうなるんでしょうねこれ、なんかマジっぽいですし」

「まあ大丈夫でしょう。人間かなり多いですからね、あと約八十億日耐えられます」

「そうなると何と戦ってるのかわからなくなりますよ。別に僕たち、普段から人類の存亡とかあまり気にしてませんし」

「そうね、私たちが百年生きたとしても、この未知の現象にエンカウントする人数はたったの三万六千五百人。私が死ぬ確率は八十一億分の三万六千五百です。気にしなくて大丈夫でしょう」

 お嬢様は呑気にそんなことを言った。

「でもでもお嬢様、これって日本限定なんじゃないですか?もし世界規模だとしたら七連続日本で起きたのは奇跡ですよ」

「そうね、でも人が消えてるのがそもそも奇跡なのよ」

「言われてみればそうですね。それに今現在も日本で一日に何千人も死んでるんですから大差ないですね。交通事故の心配をしていた方が建設的な感じです」

「あなたはもう少し警戒しておきなさい」

「――わかりました」

 僕はお茶を一気に飲み干す。

 エアコンは寒いくらいに効いているので少し身震いした。べつに失踪事件が怖かったわけではないけれど、お嬢様に勘違いされたら嫌だなと思った。

 お嬢様はスマートフォンを取り出し、女性アナウンサーはサッカー日本代表がどうだとか言っているのでこの部屋の中での失踪事件は時効を迎えたようである。

 お嬢様は煩わしくなったのか、テレビを再度狙撃して黙らせた。

 僕はそんなお嬢様の座っている革のソファの後ろの背もたれの部分に腰をかけた。

 母様のメイドである木町さんがみたら僕はめちゃくちゃに叱られるだろうな、と呑気なことを考えながらあくびをする。

 僕が木町さんに叱られているとお嬢様が悲しい顔をするのでしっかりしないとと思いながら、再度あくび。

 僕と背中合わせでスマホを見ているお嬢様に聞かれないように深呼吸して天井を見上げる。

 息を止めて――左手の親指と中指で頸動脈の流れを止める。

 視界に霞がかかるのを感じて目を閉じた。

 すぐに思考が掻き回される。

 頭の洗濯だ。

 僕の両親。

 母様。

 愛されたい。

 お嬢様。

 ストロベリーチョコレート。

 連続失踪事件。

 一人になりたい。

 一週間に一人ずつ。

 両親に会いたい。

 自分が誰なのか知りたい。

 ストロベリーチョコレート。

 僕は――。

 一人で考えたい。

 両親を考えたい。

 一人で両親を考えたい。

 連続ストロベリー事件。

 チョコレートになりたい。

 両親の事件。

 両親の事件をチョコレート。

 お嬢様に両親の事件を知りたい。

 黒糸縅零に両親の失踪の事件を――愛されたいね。

 ストロベリーチョコレート。

  そんな思考とも言えない思考をかき混ぜ続けて、思考に溺れ続けて――二分が経過した。

 目が開いた。

 眩しい。

 混ぜて黒一色になった思考が、フィルムを巻き戻すように分離して、まとまった色々に戻る。

 まとまった色々。

 僕を見るお嬢様。

「どうしました?」

 沈黙が怖くてなんとか口を開いた。

「こっちの台詞です」

「すみません」

 ごもっともだった。

 僕の手は未だ痙攣しっぱなしである。手だけではない、身体中の筋肉に力が入っている。

「その癖、やめた方が良いわ」

「わかってます。それでもやめられないのが癖ってもので…」

 あくびが出た。

 お嬢様は笑う。

「少し寝たらどうですか?」

「仕事ですから」

「雇い主がそう言っているんです」

 お嬢様は僕の震える手を触る。

「ではお言葉に甘えて、少し休みます」

 雇い主は正確には母様なのだが僕は頷いた。

 扉に向かってだるい体を動かした。

「どこに行くのですか」

「どこって…」

 自室だ。

「ここで良いでしょう?」

 お嬢様は自分の座っている革のソファをポンポンと叩いた。

「いいんですか?」

「不満ですか?」

 悪戯っぽい笑み。

 僕は引き返してソファに座った。

 そして再び目を閉じようとすると。

「お嬢様?」

「ダメですか?」

 お嬢様は上半身を横に倒した。

 小さな頭は僕の腿に落ち着く。

 そして寝返りを打ち僕の顔を覗き込む。

「ダメじゃないです」

 僕には彼女を襲う動機はない。

 そんなものとっくの昔に奪われてしまっているのだから。

 僕にとっては、美少女に膝を枕にされる体験は当然ご褒美でもあるが、自分の出来損ない加減を突きつけられる拷問の役目も果たしていた。

 プラマイゼロ。丁度良い。

 僕は目を閉じる。

 夕飯まで、ゆっくりしよう。

 何も考えずに。

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