終わりから始まる

えもやん

第1話 一夜の過ち


 目が覚めた瞬間、見慣れない天井が目に飛び込んできた。鈍く光る蛍光灯、その下の白い天井。誰かの香水の甘い香りが、シーツに染みついている。


 隣に、女が寝ていた。


 黒髪を乱し、裸の背中をこちらに向けている。すらりと伸びた肩甲骨のラインが、どうしようもなく生々しい。


「……嘘だろ」


 俺は昨夜の記憶を必死にたどった。


 会社の飲み会。部長が酔って同じ話を繰り返していたこと、同期の中島が隣でずっとスマホゲームをしていたこと。そこまでは覚えている。


 ――その後、彼女が現れた。


 「先に帰るんでしょ? 一緒にタクシー乗ろっか」

と声をかけてきたのは、経理部の佐々木だった。社内でも一目置かれる美人で、普段はクールで近寄りがたい印象の彼女が、妙にフレンドリーだった。


 あのとき、俺は断れなかった。タクシーの中で彼女が笑っていたこと、何気ない会話がやけに心地よかったこと。……そして。


 ――部屋に入ったのは、誰の提案だった?


 俺は頭を抱えた。酒に酔っていたとはいえ、これは明らかに一線を越えてしまった。しかも、よりによって社内で噂になるような相手と。


 佐々木が身じろぎして、ゆっくりと目を開けた。瞬間、俺たちの視線が交差する。彼女は一瞬、驚いた表情を浮かべたが、すぐに微笑んだ。


「おはようございます、田島さん」


「……おはようございます」


 言葉が空回りする。何をどう話せばいいのか分からない。だが、彼女はあっけらかんとした様子で、毛布を巻いて起き上がった。


「心配しなくていいですよ。私、こういうの慣れてるわけじゃないけど、別に誰にも言わないし」


「いや、そういう問題じゃ……」


「後悔してる?」


 突然の問いかけに、返答に詰まる。彼女の目が、じっとこちらを見据えている。優しげなその瞳には、どこか寂しげな光があった。


「……正直、混乱してる。でも、後悔……っていうより、自分に呆れてるんだと思う」


 佐々木はふっと笑った。


「私も、似たようなもん。昨夜、飲みすぎてて、ちょっと気が緩んだだけ。だから、何もなかったって、ことにしません?」


 軽やかな口調とは裏腹に、彼女の目がどこか遠くを見ているようだった。


「……それで済むなら、ありがたいけど」


「大丈夫。私は今日も普通に出社するし、変な顔なんてしないわ」


 そう言って、彼女はシャワールームへと向かった。ドアが閉まる音がしても、俺の胸はざわついたままだった。


 一夜の過ち――そう言い切ってしまえば、楽なのかもしれない。でも、どこかで引っかかっていた。あの時の彼女の笑い方。肩に手を置いたときの、わずかな震え。あれは本当に、ただの酔った勢いだったのか?


 シャワーの音が止まり、彼女がタオルを巻いて出てくる。すれ違いざま、ふと彼女が言った。


「……ほんとはね、ずっと前から気になってたの。あなたのこと」


 立ち止まった俺に、彼女は少し照れくさそうに笑った。


「でも、こんな形でしか伝えられなかったのは、ちょっと残念かな」


 それだけ言うと、彼女はまた軽やかな足取りで部屋を出て行った。残されたのは、ぬるい静けさと、胸に残るわずかな熱だった。

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終わりから始まる えもやん @asahi0124

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