第14話

 越智をあのままにしてはおけないと、そう思った。あの失敗を、あの敗退を、越智ひとりにこの先も背負わせ続けるのは、あまりにも酷だと思った。これは持論だけれど、音楽は闘いだ。人前で演奏するというのは、それ相応の覚悟がいる。でも、それでも、ひとりの少女の心を破壊して、破壊したままにするなんて、あっていいはずがない。


 越智を誘ったのは、吹奏楽とは違って、コンクールがないオーケストラなら、また音楽に向き合えるかもしれないと思ったから。部員とかノルマとか、所詮入部してない俺にとっては、究極、関係がない。


 越智のオーボエを、感情表現が豊かな『天使の歌声』をもう一度聴きたいと思った。うす暗い闇の中で、天から差し伸べられるようなあの柔らかい音に、俺は救われたことがある。昨日吹いたダッタン人だって、あの音を思い出しながら、吹いたのだから。


「密会するなら、気を利かせて、もっと目立たないとこでするんだよ。じゃないと密会にならないぞ」


 越智と別れた後、渡り廊下の手すりにもたれかかりながら昼飯のパンを食べていると、横から声をかけられた。


「密会じゃないですから」


 俺は、視線を向けることなく答える。


「悩める少年よ、頼れる先輩が力になろうか?」

「そういうのいらないです。それに、俺、少年て呼ばれるような身長じゃないですよ。朝測れば180届きます。たぶん」

「少し見ない間に、大きくなったね〜。先輩嬉しいよ」

「会って数日なんですが」


 浅野先輩は、俺の1メートルほど右隣に陣取って、渡り廊下の手すりに体重を預ける。だらんと、両手をさげながら。


「先輩こそ、大丈夫なんですか? あんな無茶苦茶して」

「無茶苦茶とは、人聞きが悪いなぁ」

「確実に、先輩たちの間では腫れもの扱いでしょ」

「お、心配してくれるの? 気配りのできる男の子って、いいよね」


 この人は今後も、こうやってはぐらかし続けるんだろう。


「朗報です。佐伯、2人見つけたみたいですよ」

「佐伯君、有能!」

「俺は放課後、中学の時の友達と見学にきます。見学ですからね。強引な勧誘とか、絶対やめてくださいよ」

「大丈夫、壺を売りつけるなんてしないよ〜。ただ、できれば一筆、名前を書いてくれたら嬉しいな〜なんて」

「やめてください」


 どこまで本気かが分からん。


「大切なんだね〜、その子」

「そういうのじゃないですよ」

「そっか。あんまりいじってダメになっちゃ悲しいから、これ以上は何も言わないでおくね」

「そうしてください。心に傷を負ってる子なんで」

「分かった。なんか、あれだね。河野君、王様ってか、王子様みたいだね!?」

「今、いじらないって言いませんでした!?」

「あ〜ごめんごめん、河野君はやっぱりいじるわ。欲しいところに欲しい突っ込みをくれるから」

「漫才じゃないんですが……」


 音楽室から、弦楽器の音が複数、聴こえてくる。


「昼連、行かないんですか? 弦の先輩たち、練習してるみたいですけど」

「次の作戦考え中〜」


 ……大丈夫かな。


「弦楽器って、難しいよね?」

「さあ? やったことないんで、分かんないです」

「難しいんだよ。管はさ、最初のハードルが高いじゃん?」

「……確かに」


 初めてマウスピースを口に当てた時のことは、よく覚えている。全然音が出ず、何度も酸欠になって意識が飛びかけた。吹けば音が鳴るリコーダーとは違って、口の周りの、今まで意識して使ったことのない筋肉を使わないといけないため、最初のハードルが高いのはまさしくそのとおりだと思う。


「でも、初級から中級になるのは割とすぐというか、1曲吹けるようになるのって、1、2年あればできるし、3年もやればあらかた吹けるようにはなるでしょ? あ、プロになるっていうのは別の話ね」

「そうですね。俺、高音が特に苦手で、High B♭ベー出すのに1年以上かかったくらいです」

「でしょ~? だけど、弦楽器って真逆なんだよ。最初の音出しは誰でもできる。汚くても、弦を弓で擦れば音は出る。でも、その後が問題。右手と左手で全く違う動きをするわ、音感ないと左手の指が迷子になるわ、指の皮が剝けて痛くなるわ。まあ、これは力の入れ方とか色々あるんだけど」

「あ~」


 小学校の時、桜もたまに、左手の指に絆創膏を貼ってた気がする。


「百聞は一見に如かずって、音楽にも言えると思わない?」

「?」

「弦楽器って、合奏の時、その人が上手いか下手かが視覚的に分かってしまうんだよ。あ、あの人、弓動いてないな~、弾けてないな~って。その場合、観客側としては、今聴いてる演奏ってどうなんだろ? って思っちゃうよね。まあ、管は管で音外したら目立つんだけど」

「ああ、そういう意味ですか……」


 耳から得られる情報より、目で得られる情報を優先的に信じてしまうという意味では、「百聞は一見に如かず」と言える気がしてきた。


「プロの楽団ともなれば違うと思いますが、学生オケだと顕著に出るかもしれませんね」

「そういうこと。弦楽器初心者で部活に入ると、そういう視線にも耐えないといけない。管だとそういうの、ないじゃん? 見えづらいから。だから、やっぱり大変なんだよ。私は弦を本気で練習して、合奏でもしっかり弾けてる人、尊敬しちゃうなぁ」


 確かに、昨日の演奏の完成度を見ると、やっぱり初心者には厳しいものがあるかもしれない。


「おかげで私、ヴァイオリンの演奏よりも、弾いてるフリの方が上手くなっちゃったよ」


 浅野先輩は自嘲気味に笑いながら、左手の指を擦る。人差し指、中指、薬指の先が白くなっているのが、俺の目からでも見てとれた。


 この人はこの1年、本気でヴァイオリンに向き合ったんだろう。クラリネットからヴァイオリンに持ち変えて、他の初心者が脱落していく中、必死に練習に打ち込んだんだろう。それなのに、おそらく他の弦の先輩たちからすれば、理解不能な行動を起こした。何がそうさせたのかは、分からない。ただ確実なのは、この1年間、相当、苦しかったんだと思う。


「ごめん、こんな話をするつもりはなかったんだよ。お昼、食べてるところなのに、悪いね」

「いえいえ」

「まあ、1年先輩からの老婆心からアドバイスすると、華の高校生活、絶対に後悔しちゃだめだよ」


 何となく、浅野先輩がどういう人なのか、その、白くなった指先が物語っているような、そんな気がした。得体の知れない人物像に、少し、輪郭が浮かび上がった感じ。


「それでね」


 先輩は声のトーンを変える。


「河野君は入部届、持ってきてくれるんだよね? ね?」

「……」


 あ、だめだ。やっぱこの人、何考えてるのか分からん。


 浮かび上がった輪郭は、一瞬にして霧散した。

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