第2話 第一歩

 レイは目を開けた。

 夢の中では、確かに走っていた。風を切り、跳び、歓声の中にいた。

 だが、目覚めた瞬間、その感覚は音もなく消え去っている。

 ――現実は、まだここにある。

 照明の白さが目に刺さる。精密機械たちのシグナル音が、規則正しくささやき合うかのようにして鳴り、調整室の静けさを際立たせていた。

「調子はどうですか?」

 聞き慣れた声。残波水人。

 彼は相変わらずの柔らかな笑みを浮かべ、タブレットを手に立っていた。

 ユニットチェアの上で、レイは軽く息を吐いた。

 夢の続きを見ている気分だった。

「……問題ないです」

 短く答えると、残波は小さく頷いた。

「そうですか。それなら、さっそく試してみましょう」

 彼が手を伸ばし、ユニットチェアに内蔵されたデバイスに触れる。すると、低い電子音とともに、レイの視界に小さなウィンドウが浮かび上がった。

 ――システム起動。

 脳内に直接響く音声。反射的に息を呑む。

 視界の端には、見慣れないデータ群が流れていた。

「神経接続の初期調整です。最初は戸惑うかもしれませんが、すぐに慣れますよ」

 レイは唇を噛み、ゆっくりと息を整えた。

 これが、適応の第一歩――そう、新しい自分の始まりだ。


 視界の隅で、システムの情報が流れ続ける。

 **心拍数、脳波、神経伝達速度……**まるで自分の身体が数値化され、モニタリングされているようだった。


 レイは知らず知らずのうちに拳を握りしめる。


 ――これが、私の新しい身体……?


 指先に力を込めると、右足の義足がわずかに動いた。


 それは、自分の意思に従っているはずなのに、どこか遠くの機械を動かしているような違和感があった。

 長年使っていた手に馴染んだ楽器を手放し、新しい楽器を手に取ったときのような感覚。


「最初はみんな、そう感じます」


 レイの心の内を見透かしたように、残波が静かに言う。


「でも、大丈夫です。繰り返し適応を進めれば、次第に自分の一部だと認識できるようになります」


 レイはじっと義足を見つめた。

 鏡のように滑らかな金属。関節部には、人工筋繊維が組み込まれている。

 精密で、美しい。だが、まだ"私の脚"である実感がない。


「立てますか?」


 残波の言葉に、レイは顔を上げた。


「今?」


「ええ、そうです。…怖いですか?」


 気持ちの中では、この義足の事をまだ信頼できていない。

 だけれどもやらなければ先には進めない。

 

 ためらいがちにレイは頷いて見せた。


 残波はユニットチェアのリクライニングを、レイが床へと着地できるように操作した。


 次第にユニットチェアが、垂直へと角度を変える。肘掛けをにぎりしめ、ゆっくりと身体を起こす。

 義足が床に触れる感触。冷たさはない。まるで、自分の皮膚のように温度を感じた。


  右脚、左脚と踏み出す。


 瞬間――バランスを崩し、倒れそうになった。


 反射的に壁に手をつく。


 思った以上に難しい。脚は動くのに、それが"私"ではない感覚が抜けない。

 そもそも両脚とも義足で、どうやってバランスが取れるものなのか。そんな事を理屈で考えたことすらない。


「焦らなくてもいいんですよ」


 残波が、レイの腕を掴んで状態を支えた。


「義足との神経接続は、まだ完全ではありません。初めて眼鏡をかけたときのようなものです。少しずつ、視界に馴染ませる感覚で」


 レイは目を閉じ、胸を膨らまし酸素を肺に送り込む。


 ――ゆっくり、大丈夫、落ち着いて。


 再び、一歩踏み出す。

 今度は、さっきよりも左右のぶれが少ない。危なっかしくも立っていられる。。


「……いける…かも」


 そう、小さく呟いた。


 まだ完全には馴染んでいない。

 でも、確かに前に進める。


 ――なら、あとは、慣れるだけだ。


 レイの唇に、ごくわずかに微笑が浮かんだ。

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