シンギュラの子《序章》
taida
第1話 境界を超えて
目を覚ましたとき、世界は驚くほど静かだった。
天井は真っ白で、窓から差し込む太陽の光が、少しだけ開いたカーテンの隙間から鋭く射し込み、室内を照らしている。ベッドの隣には、無機質なモニターが脈を打つように青く光っていた。
「天宮さん……起きられましたか?」
透き通るような優しい声がした。視線を向けると、白衣の男がタブレットを片手にこちらを見ている。医師――いや、**融合適応研究所「アダプトラボ」**の担当官らしい。
眼窩に入り込む光に眉をひそめ、ゆっくりと口を開いた。
「……あ、足は?」
担当官の残波水人(ざんば・みなと)は、整った顔立ちに微笑を浮かべ、舞台俳優さながらに両腕を広げた。
「はい、手術は無事に終了しましたよ。気分はどうですか?」
レイは、この男が正直いけ好かない。
なぜかはっきりとは言えないが、とにかく肌に合わない。
キライな顔立ちではない。特筆すべき欠点があるわけでもない。ほのかに香る柑橘系の香水も、爽やかさを演出している。
けれど、その柔らかな笑みの裏にある"何か"が、レイにはひどく気に障った。
――そう、その計算された微笑み。
今、その瞬間、それを出すと分かってしまうような、故意に作られた間。
わざとらしい安堵の演出。
患者の不安を和らげるためのパフォーマンスなのかもしれない。だが、それはどこか嘘くさい。
レイは心の中で小さく舌打ちした。近頃というか、ここ数年、人を素直に見られなくなっている。
「目眩とか、頭痛はありますか?」
枕に乗せた頭を小さく振り、レイはシーツの上から手を這わせて脚を探した。
右太腿へ意識を送り、胸へと引き寄せる。
そこには、無機質で冷たい筒状のものがあった。
左足も同じ。
見たいような、見たくないような。
迷いながらも、恐る恐るちらりとだけ視界に入れる。
腿とそれが接続された部分を指でなぞる。
これが現実か、それとも夢か、何度も確かめるように。
残波担当官は、不安げなレイの様子を見て、わざとおどけたように目を瞬かせる。
「手術は成功しましたよ。頭部の手術も経過は良好です。とはいえ、まだAIユニットとの神経接続には少し時間がかかりますけどね」
被せられた医療用ネット越しに頭に手を当てた。
特に痛みも違和感もない。むしろ、ほんの少しだけ頭がクリアになった気がする。
「どうです? 何か変化は感じますか?」
担当官の声を聞き流しながら、レイは自分の指先を親指の爪で軽く刺激する。
感覚は、以前と変わらない。
抱きしめた両腕の温もり。呼吸に集中し、身体の不調を探る。
……何も、異常はない。
むしろ、視界が鮮明だ。
窓の外を吹く風の強弱すら、はっきりと聞き取れる。
部屋の温度や湿度まで、直感的に理解できる。
そして――何よりも。
長年苦しんできた痛みが……ない。
――幻肢痛。
医師からそう診断されていた痛みが、今、確かに消えている。
そこへ意識を集中すると、突然脳裏から、甲高いタイヤの軋む音が響いた。
ひしゃげた鉄の塊。
視界を奪う黒煙。
そして、鋭い痛み。
酒に酔った男が運転する車が、高校生の群れへと突っ込んできた。
黒いセダン。衝突回避装置すらついていない旧車。
即死した生徒2名。
重傷3名。軽傷3名。
運転手は、塀に激突して死亡。
そして――レイは、両足を失った。
隣を歩いていた親友、**奏絵(かなえ)**は車の下敷きになり、亡くなった。
事故から3か月後、両親はようやくレイにそれを伝えた。
責める気にはなれなかった。
両親が必死に寄り添ってくれていたことを知っていたから。
けれど――
**"奏絵が死んだ"**という言葉は、あまりにも唐突で、虚構めいていて。
それは、ただ宙を漂い、レイの中に落ちてこなかった。
事故から一年半。
失ったものがあまりにも大きすぎて、今では、奏絵を想うと心が押しつぶされそうになる。
そんなレイの心を、現実へと引き戻す声がした。
「新たな適応者となった気分はどうですか?」
レイの心臓が強く跳ねる。
顔を上げられず、視線を落としたまま、かすれた声で答える。
「……まだ、分かりません」
――人間ではないのかも。 では、今の私は?
「うん、そうですよね。これからですからね。分からないのも無理はありません。 最初は戸惑いますが、いずれ順応します。
天宮さんの神経ネットワークは、AIとの融合によって、これからどんどん進化しますよ」
口元をほころばせた管理官は、どう"それ"を受け入れるかが、今後の成長の鍵だとつけ加えた。
レイは、そっと目を閉じた。
――これは、私が選んだ道。
もう一度、あの時のように走れる日が来るのなら。
歓声が響き渡る緊張感まっただ中。
一歩、二歩と走り出して加速してゆく。
全身全霊を利き脚に込め、空高く宙を舞う。
届くはずもない白い雲にしがみつくように、両腕を大きく振って少しでも前へと跳ぶ。
光り輝く青空めがけて、私の全てをぶつけてやりたい。
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