洞穴

 

 少女はゆっくりと石段を降りていく。

 広い洞窟の奥の一段高くなった場所に、巨大な青銅の扉があった。


 そこへ上がる石段の両端には、ぽつぽつと灯篭が置かれており、昇り口には鳥居があった。


 それらの周りには結界のようにぐるりと注連縄が張られている。


 扉自体は、下からの灯篭の光と、両端に置かれた人ほどの大きさしかないかがり火に照らされているだけで、上の方は光が届かないこともあり、暗く霞んで見えない。


 巨大であるということ。

 それだけで人は本能的に圧倒される。


 伊勢神宮や霧島神宮の正面に聳える鳥居のように。


 そこが他から隔絶された尋常ならざる空間であることを予感させる。


 少女が扉を見上げ、歩み出そうとしたそのとき―

「いけません、姫宮様」


 男にしては甲高い声がした。

 彼女の降りようとする石段の下、左の暗がりから、巨漢で色白の男が現れた。


「……悟」


 悟は目尻と眉の下がった、大黒天のような顔をしていた。


「姫宮様。扉に触れてはなりません。

 扉に近づいてはなりません」


 腹から響く声で繰り返す悟に少女は笑った。


「どうして? 扉の中に居るのは、私たちの神なんでしょう。


 その神を解き放つのがどうして駄目なの?」


「神を解放すると、私たちは力を失ってしまうからです」


「違うでしょう? 悟。

 あんた、お祖父様から聞かされてるんじゃないの?」


 小馬鹿にしたように嗤う少女に、悟の顔が強張った。

 石段を降りながら少女は言う。


「なるほどね。

 すべてがばれても、薫があんたを出してこなかったわけだわ。


 あんたを解放するには入り口にかけた封印を一度解かないといけないものね」


 少女は悟の前に立ち、どきなさい、と次期当主の威厳で見下ろす。


 悟は蒼褪めながらも首を振る。


 彼は忠誠心の厚い男だ。


 当主と少女の板ばさみになって、苦しんでいるのは明白だった。


 そのとき、背後から聞き慣れた声がした。

「宮様、お帰りください。死んでも悟様はそこを退きませんよ」


 少女はそちらを見て、いつものように笑ってみせた。

「あら、立花。早かったのね」


 だが、振り返った男は、ぎょっとした。


 石段の上に立つ立花が銃を携えていたからだ。

 その銃口は少女を向いている。


「私が此処を開けるようなら殺せとお祖父様に言われてきたの?」

 花のように笑い、少女は問うた。


「そうです」


「もしかして、私の秘密を知った全員を始末しろと言われた?」


「そうですよ」

 立花は無表情に答える。


「―薫も?」

「無論です」


 少女は哀れむような溜息を漏らした。

 相変わらず、融通の利かない男、と。


「あんたその人生、つまんなくない?」


 そう言い、立花の立つ石段に片足をかけると、その両腕を立花の首に廻し、艶のある唇で告げた。


「やっぱ、全部終わるまで、寝込んでたら?

 なんだったら、もう一度、含ませてあげましょうか?」


 側で見ていた男の方が鳥肌が立った。

 確かにこの女は、十四、五歳の小娘ではない。


 動かない。

 いや、動けない立花の首から手を離し、少女はそっと銃身に触れた。


「あまいわよ……あんた」

 耳許で囁くと、すっと銃を彼の手から抜いた。


 内心の動揺を押し隠そうとすることが、立花からすべての動きを奪っているように見えた。


 少女は立花から離れると、その白い手の中で銃を弄ぶ。


「別に誰も殺す必要なんかないわよ。

 あんた、本当にお祖父様が私を扉の前になんかやると思ってたの?」


 立花がようやく表情の戻った顔で彼女を見返す。


「お祖父様はこれを使って、私を試したかっただけ」

 

 これ? と問うたのは立花ではなく、離れたところに居る男だった。


「これは『扉』じゃないわ」

 え、とまどかたちが声を上げる。


「……そうじゃないかと思ってた。

 お祖父様が素直に私の言うことを聞き入れられたときから」


 銃を見つめる目に憂いが浮かぶ。

 それは、先程立花に向けた婀娜な視線よりも、よほど男の心を騒がせた。


「何故、これが扉ではないとわかるんです?」

「だって、此処には、あの人の気配がないもの」


 少女はおもむろに立花に銃を向けた。

 意外に扱いには慣れているようだった。


「――本物の扉は何処なの?」


 灯篭の灯りが、少女の瞳の中で揺れる。

 少女の指は簡単に引き金を引きそうに見えた。


「立花さんはご存じありませんよ」


 答えたのは悟だった。

 振り返らずに少女は言う。


「わかってるわ。あんたに訊いてるのよ、悟」

 悟は落ち着いた声で答えた。


「私にもわかっておりますよ、姫宮様。

 貴方は本当は扉が何処にあるのか、ご存知だ」


 少女の動きが止まる。


「貴方が今、此処に居らっしゃることこそが、その証拠です」


 悟は次期当主を前にして、まるでこれが最後の仕事だとでも言わんばかりに見返した。


「どうやって此処まで来られました、姫宮様」

 少女の顔色が初めて変わった。


「答えられないのならよろしいですよ。

 ですが、貴方は此処がなんなのか、もう気づいておられるはずだ。


 最初から、そのように仕組まれていたのだから」


 追求の手を緩めない悟に苛立ったように少女は叫び、銃を投げ出した。


「わかっていた。ええ、わかっていたわ。あの道祖神を見たときから!」


 道祖神? と男は呟く。

 少女は石段の一点を見つめている。


「本来、辻にあるはずの道祖神が、何故、庭にあったのか。


 御堂の屋敷は本家を模したものであるはずなのに、何故。


 何故、あの場所にあんなものがあったのか。

 本家でいけば、あそこは――」


「あそこは地下の扉に通じる祠のある場所。

 私が貴方を殺そうとした場所ですわね」


 石段の上方に、薫を従えた綾子が立っていた。


「なんてざまですか、姫宮様。

 かつて、私を正そうとなさった貴方が、こんなところにまで侵入されるとは」


 山吹色の着物の裾を、鮮やかにさばいて綾子が降りてくる。

 少女は自嘲気味に笑い、綾子を見返した。


「私はもともと、こういう女なんですよ。


 言ったじゃないですか。

 貴女は知らずに世界を救ったのだと――。


 綾子さん、貴女は五年前、私を狙う必要なんかなかった」


 悟が彼女の発言を止めようとした。

 が、少女の鋭い眼に睨まれ、阻まれる。


「あんたの奥さんじゃない、悟。


 それとも何?

 一度、裏切った者は信用できないってわけ?」


 挑むように言った少女に受けて立ったのは、悟ではなく、綾子だった。


「よろしいですわ。

 聞きましょう。


 私も今更、一族に害を成すつもりはないですし」


 お母さん、と薫が袖を引く。


 綾子は気づいているのだろうか。


 喧嘩を売っているように見えて、そこまで少女が話すのは、彼女に心を許しているからだということを。


 少女は覚悟を決めたように、綾子を見上げた。


「綾子さん。

 貴女は私を狙う必要なんかなかった。


 何故なら、私と現当主を追い落とす全ての材料は、この御堂にあったからです」


 少女は奥へと進み、注連縄の下がる鳥居の前で立ち止まる。


 人々を威圧する扉だが、少女が前に立つと、何故かそれを従えてでもいるように見えた。


「御堂の屋敷は本来、本家を模して造られていているものです。


 だけど、扉へ通じる祠のあるべき場所に祠はなく、場所も建立された年も怪しい道祖神があるだけだった」


 扉は小さな篝火に、ちらちらと揺れながら映し出されている。

 それを懐かしげに見上げながら少女は言う。


「あの道祖神、鬼門を向いてるのに気づいていましたか?


 鬼門とは鬼が入る場所。

 普通は閉ざしておくものなんですが、御堂では、何故か鬼門が開いているんです。


 道祖神の側に立ち、鬼門を向くと、客間を通して裏の廊下が見えます。


 そこには新しく造られたらしい小窓があるんです」


 御堂の家では、襖も障子も大抵開けているでしょう?

 お蔭でよく見えましたよ、と少女は笑う。


「その鬼門に造られた窓から、更に鬼門の方角を見ると、この横穴の入り口が見えました。


 つまり、道祖神から鬼門の方角を向いた一直線上に、この横穴があるんです。


 それで、私は気づきました。


 別に鬼門が開けてあるわけではなく、その先に、鬼門を封じるに足るものがあることを示しているのではないのかと」


「鬼門を封じる?」


 少女は光の届かぬ天井を見ながら言う。


「鬼門を封じるだけの力を持つもの。

 それは、神社であり寺であり、―力強きものの墓です。


 これはね、私の両親の墓なんですよ」


 綾子が黙り込む。


「あの道祖神はその印、そうでしょう? 悟」


 道を守る道祖神は、あの世とこの世を繋ぐ神でもある。


「ひどいですよね、お祖父様。


 普通、道祖神って仲むつまじい姿をしているものなのに、あの像はお互い触れ合うこともなく、正面を向いて、ただ立っているだけ。


 いいじゃないですか、石の中でくらい」


「でも……でもどうして、お嬢さんのご両親の墓を扉と入れ替える必要があったんです?」


 薫が問うた。


「墓は人目につかないよう、カムフラージュする必要があったんです。


 それに、万一、気づかれても、『扉』に模してあれば誰も触れることさえできないから」


 綾子が静かに口を開いた。


「何故、貴方の両親の墓を隠蔽せねばならないんです?」


 まだわかりませんか、と少女は笑う。


「綾子さん、二十年前、組織が貴女たちを狙うはずはなかった。


 なぜなら、長老たちは知っていたからです。


 一族を脅かす『呪われた子ども』。

 それは、『当主の直系にしか生まれない』と」


「宮様!」

 悟の制止に、少女は目を閉じ、一言一言噛み締めるように言った。


「誰も知らない私の母――。

 それは当主の隠し子だった女です」












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