第9話



 パーティーの大まかな流れが終わった。

 今日は立食形式で、場は外しやすかった。

 知り合いに一通り挨拶周りが終わったころ、ライルがやって来た。

「クロエ、空港着いたって」

「クロエ?」

「俺の元カノのバイオリニスト。ダリア・クロエな。高飛車だから愛想よくしてよ先生。機嫌損ねると恐ろしい女だから。俺様とヤりに来たっていうのに、怒り狂うとホントにヤらないまま自国にとんぼ返りすることも厭わない奴だから。

 だからそういう、めんどくせーな~って顔はしない! 

 いつものお仕事用の詐欺師みたいな輝く笑顔でよろしくぅ~☆」


「……ああ、帰って寝たい……」


 シザが歩きながらため息をついている。

「俺んちそのまま使って寝ていいよ。俺、明日の昼までは戻る気ないし」

「僕は他人のベッドじゃ寝る気起きないんで」

「そんな不機嫌そうな顔しててもさぁ~。たまには俺の言うこと聞いてると、いいことあるかもよ~?」

「ないですよ。期待もしてませんし。今、残業が入ったみたいな心持ちでやってます。面倒な仕事が寝る前に一つ入った、その程度ですよ」

 辛辣にシザが答えたが、ライルは口笛を吹きつつ陽気だった。


◇   ◇   ◇


「ライル!」


 マンションについて、自宅のある最上階につくと、広いラウンジで休んでいたらしい女が手を上げた。

「よう、久しぶり~」

「会いたかった!」

「あっはは、俺も俺も!」

 女が駆けて来てライル・ガードナーの身体に飛びついて来た。

 とりあえず別れた相手とこんなに陽気に再会できる人間の神経が、シザは理解出来なかったが、まぁ理解する気も無かったのでそれは放っておく。


「きゃーっ、ヤダ、貴方シザ・ファルネジア? 本物だ~っうちのオケでも貴方のファンの子、たくさんいるわよ。さすがの美形ね! 写真撮って下さる? よいしょ」


 パシャ、と勝手に女はシザに腕を絡めて、ポーズを取って写真を撮った。

「……。」

「シザ君、いいよ! 完璧な笑顔! 内心の殺気と苛立ち完璧に隠れてるよ! ナイス! ポーカーフェイス!」

 ライルが小声で不必要な合いの手を入れて来る。

「本当に王子様みたいな美形ね~。なんか信じらんない。ライルがこんなとこ住んで、貴方みたいな人と同僚してるなんて。こいつ自分勝手で、手を焼くでしょ」

「…………ええ、まあ」

「ちょっとォ、シザ先生頷かないでよ。ここぞとばかりに誉めてくんないと」

「元気にやってますよ」

 シザは微笑んだ。

「……あんたフォローすっげぇ下手ね……」

「急に押し掛けちゃってごめんなさいね。お忙しいのに」

 女がようやくまともなところを見せたので、シザも社会人としてこの場で出しても仕方のない怒りの溜飲は下げた。

「いえ、気にしないで下さい。ライルの知り合いには会ったことなかったので、お会いできて光栄です」

「まぁ、ありがとう」

 美形に微笑まれて女は悪い気はしなかったらしい。上機嫌に笑って会釈をする。


「はーい、挨拶そこまでェ~」


 ライルが間に割り込んで来る。

「これ以上話してると、どーせまた目移りしてシザともっと話したいなぁ♡ とか言い始めるに違いないから強制終了~~」

「しないわよ。失礼ね」

 むくれた女を抱えるようにひょいと軽く抱きあげて、ライルは鍵をシザに向かって投げた。

「んじゃ、俺たちもうホテルの方行くんで。餌ちゃんとあげといてねー」

「フィレンツェからお土産持って来たから、どうぞ受け取って。シザさん♡ ライルの家に置いて来たし。飼ってる生物に食べられたら嫌だから、ライルの寝室に置いてあるわ。バイオリンの側に置いて来たから」

「……ありがとうございます」

「じゃーね、シザ先生。ゆっくりしてってよ。あとは祈ってね? 今夜は呼び出しが無いようにって」

「あんた呼び出し掛かったからって私を置いてったら殺すわよ」

「大丈夫行かない行かない。俺オルトロスでは真面目君だったけど、ここでは不真面目スタイルでやってっから心配しないでいい」

「……あんたが真面目だったこと人生で一瞬でもあるの?」

 似たような空気を纏う二人は、きゃっきゃきゃっきゃ楽しげに遣り合いながら、廊下を去って行った。

 エレベーターに乗り込んで、絵に描いたように扉が閉まる瞬間抱き合って熱いキスを交わして消える。


「…………あの二人なんで別れたんですかね?」


 お似合いなのに。

 見送ったシザは若干呆れたように呟くと、歩き出した。

 本人も認めるようにライル・ガードナーはここでは不真面目なので、このマンションには何度か、寝坊して出て来ない彼を呼びに来たことがある。

 だが中には入ったことがない。シザはこのラウンジで待っていて、アイザックが彼を起こしに行ったが、戻って来ると怪獣が山ほどいた……とガタガタ震えながら訴えて来たのだ。

 ライル曰く「みんな温和でいい奴」というが、若干身構えて扉を開けて、意外なほど中は静かだった。

 室内も、あのライルのガチャガチャした性格からは考えられないほど、余計なものがなくさっぱりしている。綺麗な部屋だった。

 自分の家と少しだけ雰囲気が似ていて、シザは多少気を緩める。

 リビングに入ると一番目につくところに大きなケージがあって、側に立つ観葉植物の枝の所に、イグアナが尾を垂らして乗っかっていた。その隣のケージは薄くライトが付きつつ、木が中に生えていて、巨大なヘビが確かにいた。しかし今はジッとしている。

 他にもカメやら、カメレオンやら、フクロウや、極彩色の鳥もいた。

 確かに生物をたくさん飼っているというのは本当だった。

 シザは別に、爬虫類は好きでも嫌いでもない。

 客観的に見れる対象なので、まぁ爬虫類好きにはたまらない光景なんだろうし、爬虫類嫌いにもたまらない光景なんだろうなと思っただけだった。

 テーブルにどのケージにどれくらい餌をやるのか書かれたメモが置いてあった。

 エサは寝室に置いてあると書いてある。

 シザはコートを脱いだ。

 とりあえず、仕事を済ませてしまおうと思ったのだ。

 奥の寝室に入ると、やはりそこもあまり物がなく、広いベッドにテーブル、ソファと、あとはオーディオに本棚が意外なほど綺麗に置いてある。

 どう考えてもライルは恋人を呼ぶからといって丹念に部屋を片付けるようなマメなタイプではないと思うので、多分普段からそうなのだろう。

 これだけペットがいると、やはり物がたくさんあると良くないのかもしれない。

 ペットに関しては、それなりに真面目に飼っているようだ。シザはそんな風に思った。

 ソファの側の丸いテーブルの上に、クロエが言った通りバイオリンケースが置いてあった。側に紙袋が置いてある。


『チョコレートお好きかしら? 人気店なのよ』


 女の字でメモが書いてあった。

『バイオリンが湿気ると嫌だから、ケースは開けたままにしておいてね』と書いてあった。

 そのついでに何でも頼む姿勢がライルに激似していて、シザは呆れる。

「類は友を呼ぶというけど。あの二人は同類項だな……」

 バイオリンのことはシザはさっぱりわからないが、そういえばピアノも、使っていなくても時々開いて、中に風を入れなければいけないのだとユラが言っていたことがある。

 木というものは乾燥にも湿気にも弱いから、使わない時は大切に仕舞い込んでいればいいというものでもないらしい。

 音を奏でる楽器は、それよりもデリケートだ。

 シザは言われた通り、ケースを開けっぱなしにしておく。それからとりあえず、見回した。

 エサは寝室にあると書かれていたが、それらしきものが見当たらない。

 どこかの引き出しの中だろうかと、歩いて行って、棚に手を掛けた時だった。



「シザさん?」



 ハッ、と振り返って、シザは驚いた。

「ユラ?」

 そこにいたのは紛れもなく彼の最愛の弟であり、最愛の恋人でもあるユラ・エンデだった。

 シザは珍しく狼狽する。

 先刻もドノバンから、帰還はもっと先だろうということを聞いていたからだ。

 それにユラが帰って来る時はもっと早くに、前もってそうすると必ずグレアムから連絡が入る。

 シザは完全に不意を突かれた。

 不意を突かれて動けずにいるシザの腕の中に、幻のように現れたユラは嬉しそうに飛び込んで来た。

「シザさん」

 ユラが涙を零している。

 身体を抱きしめると、……不思議な安堵がした。愛情はそれから。

 柔らかいプラチナブロンドに頬を寄せると、ユラが本当にそこにいるんだと実感した。

「どうしてここにいるんですか……? 貴方は、……本当に時々、僕をとても驚かせるんですね……」

 ぎゅ、と両腕で抱きしめる。

 座るところを探して、ベッドの端に二人で腰掛けた。

「グレアムから、貴方が戻ることは聞いていなかったので」

「黙って戻って来てしまいました」

 ユラは言った。

 シザの胸に伏せていた顔を上げて、アメシストの瞳が見上げて来る。

「ライルさんが、貴方が苦しそうだから戻ってきてほしいって教えて下さって」

 シザは額を押さえた。

 ようやく全てが、頭の中で繋がったのである。


「あいつ……!」


 思わず舌打ちが出る。

「……ひとりで、戻って来たんですか? グレアムが知らないなら、飛行機は……」

「……ぼく、今日はフィレンツェにいたんですけど、ライルさんのお友達が僕のホテルまで訪ねて来て下さって。一緒に連れて来てくれました。女性の方で」

「ダリア・クロエですか」

 うん、とユラが頷く。

 あの女もグルだったわけだ。シザは陽気な二人の姿を思い出し、本当に似たもの夫婦だなと忌々しかった。

「ホテルから出れなかったから、バイオリンに変化して連れ出してもらいました。それでここまで連れてきてもらったんです」

 開いたままのバイオリンケースを指差した。

「さっきここについたばかりで、シザさんの所に連れて行ってあげるから待っててって言われて」

「……ユラ、ライル・ガードナーの名前が出たからって、何でもかんでも信じ込んでは駄目ですよ。あいつは油断のならない奴だから、気を付けて」

 ユラはシザの髪に手を伸ばして、指を絡めた。

 ずっと触れたかった感触にようやく触れた。

「でも、貴方が元気が無い気がするからって、わざわざ連絡をくれました」

「僕達をからかって遊んでるんですよ。一歩間違えれば誘拐事件です。まったく……」

 シザは心配な表情を崩さないが、ユラは彼の肩に額を寄せて、首を小さく振った。

(でも僕が……会いたかったからいいや)


「……ユラ」


「でも僕は、感謝してます。……シザさんは、昔から……僕には辛いとか悲しいとか、悩んでることも、見せない人だから。

 僕はいつも何も気づいてあげられなくて、貴方に守られてばかりだから……シザさんが元気が無い時には、側にいてあげたい」

 ユラ・エンデの身体を抱き寄せる。

「……ユラこそ。ドノバンから聞きましたよ。癇癪起こしてたって」

 ユラは真っ赤になった。

「か、癇癪っていうか……」

「ユラが癇癪を起すなんて、僕には想像もできないです。どうせ起こすなら、どうして僕の前で癇癪を起してくれないんですか。

 ドノバンなんか、元を糺せば単なる他人じゃないですか。

 僕が知らない貴方の顔を、あの男の方が知ってるなんて嫌ですよ」


「………………はい、確かにあれは癇癪です……」


 ユラは両手で顔を覆って、肩を竦めた。

 今思い起こしても、なんて子供みたいなことをしてしまったんだと思って恥ずかしい。

「ほんとうに?」

 シザは驚いた顔をした。

「ユラ、……取材がそんなにストレスならグレアムに言って、もう少しセーブさせますから。僕に言ってくれれば……」

「あ、いえ、取材が原因じゃなくて」

 ユラが慌てて首を振ると、シザと視線が合った。

 変な間が落ちる。

「取材が原因じゃなくて……?」

「…………えと、」

「他に何か、嫌なことが?」

「ドノバンさんからなにか……」

「いえ。特に何も聞いていません。グレアムに聞けば仔細が分かるだろうとは言っていましたけど。何のとこですか?」

 ユラは小さく息をついた。

 この感じではどうせ後日シザまで話が行って、バレてしまうのだろうなと彼は諦めた。

「…………ユラ?」

 優しい声で、シザが呼んでくれる。

「……コンクールが終わったら、すぐ【グレーター・アルテミス】に帰れると思ってたから。それが延びて……いえ、それはいいですけど、……でも二カ月も会えなくて。……変ですよね。貴方には二年、会えなかったことだってあったのに、平気で頑張れたのに、今回はすごく、……苛々してしまって」


 シザは息を飲んだ。

 確かにユラとは、音楽院の途中から二年間会えない時期があった。

 最初は一年だったのを、先延ばしにして二年間になったから、シザはあの時期は、かなりしんどかったのをよく覚えている。

 ユラに告白はしたけれどまだ答えは貰っておらず、恋人同士では無かった時期だ。

 二年のうちにユラの心が音楽に深く惹かれて、自分への恋心なんてどうでもよくなってしまうんじゃないかと思って、情けないことにシザは、何度も不安になったこともある。

 例え恋人になれなくても兄ではいられるんだからと、そんなことに望みを繋いで耐えきったけれど、今、想いを伝えあって恋人同士になり、ユラの抱きしめ方まで覚えた今は、もう一度やれと言われたところで絶対無理ですと言う自信がシザにはある。

 そう、肌に触れることすら覚えた今は。


「……ぼくは、段々欲深くなってるのかもしれないです」


 恥じるようにユラは俯いた。

「でも、シザさんの姿を見れるだけでも平気になるかなと思ったのに海外からだと【アポクリファ・リーグ】って規制が掛かって見れないし」

「ああ……国際法に引っかかりますからね」

「それで丁度そんな風に思っていた所にドノバンさんがたまたまいらっしゃったから、なんで他の国だと【アポクリファ・リーグ】が見れないんですかとか文句を言ってしまって」

「……そうですか。あの人もタイミングがいいんだか悪いんだか分からない人ですね。……というかユラそんなに【アポクリファ・リーグ】見たかったんですか?」

 シザはきょとんとしている。

「見たいです」

 ユラは珍しくはっきりと答えた。

「【アポクリファ・リーグ】じゃなくて、シザさんが見たいです。話してる所も、笑ってる所も、戦ってる所も全部見たいです。

 アイザックさんとかライルさんとかと、喧嘩してる姿も、全部全部見たい!」

 言ってしまった、という顔をしてユラが自分の額を押さえてる。


「…………いえ……貴方が言って下さったら、保管されてる【バビロニアチャンネル】の画像は、全然送ってあげられますけど……。

【グレーター・アルテミス】ではよく【アポクリファ・リーグ】の高視聴率を取った回の再放送なんかもしてるので、本社には全部そういうのは残ってるんですよ」


 ユラは恥ずかしさの極みという感じで身体を縮めていたが、すぐに表情を輝かせてシザを見上げて来た。

「はい。それを、ドノバンさんに言ったら、この前すぐに送って来て下さって。

 貴方のデビューシーズンの【アポクリファ・リーグ】全集とか、写真集とか、独占インタビューが載った雑誌とかも貰えたからすごく嬉しくて。

 ドノバンさんに謝罪して、お礼を言わないと。元気になれたから」


「いえ……そんなもので貴方がそんなに元気になれるなら、……これからは僕に言って下さい。どれだけでもあげますし……。というか何故言ってくれなかったんですか?」

「シザさんはお仕事でやってるのに迷惑かなと思って。だって危険なお仕事だし……。僕を養う為に始めてくれた仕事なのに、僕がそんな他人事みたいにカッコイイだとか、なんだとか……浮かれたら駄目だと思って」

「いや全然構わないですよ。というか僕はこの世で貴方にだけカッコイイと言ってもらえれば他の人間が何と思おうと構わないという心持ちで特別捜査官をやっているので、貴方に見てもらえるのは嬉しいですよ」

「うれしいんですか?」

 ユラは驚いたように言った。

「嬉しいです」

 シザが念を押すように頷く。

「貴方がもし世界に、自分は僕の恋人だと言った時に、死ぬほど貴方が羨ましがられるような僕でいたいと思っていますから。それが僕が【アポクリファ・リーグ】をやっている上での、モチベーションになってるんですよ」

 ユラは赤面した。

 思いがけないことを言われたように、驚いた顔をする。

「……、」

「ユラ」

「……」

「……ユラ?」

 なにか、口を噤むような空気を出したユラの頭を、そっと撫でた。


「……あの、……もう一つだけ、……悩んでることがあって」


 ユラが本当に苦しんでいるのはそのことなのだろう。シザは察した。

「話して下さい、ユラ。どんなことでも構わないから」

 彼を抱きしめる。

「……あの、ぼく………………取材でシザさんのこと、事務所からはあまり話さない方がいいと言われてるんです。厳しく禁じられてるわけじゃないけど、その方が今はいいって。……すみません」

 思いもよらないことを謝られて、シザは目を瞬かせる。

「いえそのことは……グレアム・ラインハートからもちゃんと報告を受けていますし、僕自身もその方が貴方にとってはいいと思っていますよ。マスコミはハイエナですから、殺人罪で国際手配されてる兄が貴方にいると嗅ぎ付ければ、貴方の音楽に対するイメージを面白おかしく壊すかもしれないですし。僕は別に貴方の恋人でいられるなら、世間的に兄だと認識されなくても全く何の問題も……」



「話したいんです。あなたのことを」



 ユラは眼を閉じて、言った。

 重なっていないシザとの言葉を、遮るように。

「ぼく取材だと、何で音楽を始めたとか、音楽を弾く上での思うこととかよく聞かれるんです。その時に貴方のことを話せないから、いつも嘘や言い訳を考えて話してる。

 ……僕にとって、僕の中にある音楽はシザさんと深く繋がってるんです。

 勿論、……分かり合えなかった時もあるけど、僕には音楽しか出来ることがなかったから、ピアノを弾く時はいつも貴方のことを想ってた……。

 シザさんの存在がこの世に無かったら、僕は何のために弾くのかも分からなくなるのに、貴方のことを話せないのは、辛いです」


「ユラ……」


 それは、シザにとって思いもよらない告白だった。

 ユラが取材を苦手としていることは知っていたし、シザ云々以前に、彼は話すこと自体が苦しいのだろうと思っていた。


 まさか彼が「話したい」と言うとは。



「でも僕が話したら、きっとメディアのひとは貴方のところにも行く。

 事件のことをきっと、心無いやり方で聞くと思います。それは絶対、嫌で……」



 首を横に振っている。

 シザにはよく分かった。

 シザも自分に殺人容疑が掛かっていることを話すことに躊躇いはないが、ユラが殺人者の弟と呼ばれることは極端に嫌う。

 ユラのマネージャーであるグレアムにも、養父のドノバンにもその辺りのことは固く言い聞かせている。

 もしそういう方向でしつこく取材をしてくる記者がいた場合、自分は容赦しないということだ。

 それに法廷にユラの名前を、シザは少しも持ち込みたくないのだ。

 だから出頭はしない。

 シザが法廷に立てば養父を殺した理由を正当化する為に、ユラがあの悪魔のような男に虐待を与えられていたことを話さなければならない。それは絶対に嫌だった。

 ようやく平穏に生きれるようになったユラの世界をもう一度壊すことになるかもしれない。

 傷つけて、苦しめても、今のシザはユラの側にいてやれない。

 だから決して出頭する気はなかった。

 十年経ってドノバンとの養子関係が成立すれば、過去の罪は清算され、国際指名手配は時効を迎える。自由になれば、両親の事故死の証拠を集めて、シザ側からダリオ・ゴールドを告発することが出来る。そうすれば必要なことだけ話すだけでいい。容疑を、自分たちの本当の親の殺人の方に持っていければ、ユラの名は出す必要が無くなる。

 今はまだ、十分な証拠が揃っていない。

【グレーター・アルテミス】から出られないと、証拠集めもなかなか難しい。

 だが、十年の時があれば、勝負は出来る。

 シザは持久戦の覚悟があるのだ。

 

「……ユラ、」


 自分たちは全く同じことを考えていたのだと分かって、シザはユラの身体をもう一度抱きしめた。

 確かにこれでは、よく話をしろと言われても仕方がない。


「ユラ。僕のことは気にしないでいいんです、貴方は……」

 紫の瞳が心配そうに見上げて来る。

「……いや、そうではなくて」

 昔を考えればシザの現状は、たくさんの愛に囲まれて過ごせるものになった。

 ファンや、スポンサー企業。仕事に関わる様々な人に支えられていることは感じる。

 それでも間違いなく、一番この世で自分を愛してくれる人は、この人なのだと。

 愛しさが込み上げて、シザはユラに額を寄せた。


「『気にしなくていい』というのは、そうじゃないんです。

 僕たちは、お互いのことを大切に想っていて、……愛していて、僕はこの世で、気に掛けるものは貴方以外にはないんですから、貴方のことは、気にします。……そうですよね?」


 うん、とユラが小さく頷く。

「僕が言いたいのは、……貴方が願うことがあるなら、僕もそれを間違いなく願うから、……だから心が重なってるなら、僕の強さを信じてユラは望みどおりにしてほしい。

 僕はユラがいてくれれば平気だ。例えメディアが押し寄せて来たって、そんな奴らに潰されたりしない。

 なんのために僕が【バビロニアチャンネル】CEOの養子になったと思ってるんですか。

 言ったでしょう。利害の一致です。

 僕はあの人の広告塔として稼いで僕はあの人を、自分の弾除けとして利用してる。お互いに都合がいいんですよ」


「シザさん……じゃあ、……取材の時に、貴方のことを話してもいいですか?」


 澄んだアメシストの瞳が見上げて来る。



――――『アポクリファ特別措置法が怖い?』



 何気なく聞いていたライルの問いが蘇った。

 各地で排撃を受けたアポクリファが、共同体やコミュニティを形成するようになった中、純血種のアポクリファ誕生を警戒した国際社会が世に掲げた、史上最悪の悪法。

 複雑な環境に置かれたアポクリファ達に救済を与える名目で、その条文の中にそれはある。

 近親相姦に対する告発、認定の方法と、裁判で有罪とされれば、無条件に最大刑に処される。

 つまり【グレーター・アルテミス】のように死刑制度がない国ではなく、死刑制度が存在する国でこの罪で告発、認定されれば死刑になるということだ。

 それでも数で非アポクリファに圧倒的に負けるアポクリファ達は、この悪法の成立を止められなかった。

 それにアポクリファだとしてもそういう運命に囚われなければ、関わりの無いものに思える人間も多い。

 その悪法一つに眼を閉じた所で、その他に受けられる圧倒的な恩恵があるじゃないかと。

 そういう法律も同時に特別措置法の中には存在するからだ。

 だが、運命に囚われた人間からしてみれば、そんな数々の恩恵を全ていらないからと投げ捨ててでも、自分たちの穏やかな世界に手を触れないでくれと、壊さないでいてくれれば庇護などしてもらわなくても自分たちで勝手に幸せになるからと、そう言いたいのだ。


 シザはアポクリファ特別措置法は怖くない。

 それでもユラが有名になり、シザが名を売る以上、対峙する可能性は高くなるはずだ。

 その時の為に、備えておかなければならない。それだけは確かだ。

 ユラの身体を抱き締めながら、シザは強く思った。


(もう不意に、自分の知らない所で奪われるのは嫌だ)


 両親のことも、

 ユラのこともだ。

 

「構わないよ。うれしい」


 答えるとユラが嬉しそうに微笑ってくれた。

 そのことでこんなに悩ませていたなんて、想像もしていなかった。

 抱きしめて、キスをする。

 舌が探り合うように触れると、もうスイッチが入ったようにユラ以外の何もかも、どういう経緯でここに来たかも、ここがどこかもシザは嘘のように忘れた。


「会いたかった……」


 長いキスを放して、小さく息をつけば、ずっと言えなかった一言がようやく言えた。

 胸につかえていた何かが、溶けてなくなった。

 ユラが頷く。

 二年堪えられたものが二カ月、堪えられなくなっている。

 それはきっと、想いが募っているから。

 そのうち二日も触れ合うことが、我慢できなくなって行くのだろうか?


 シザの指がユラのシャツにかかる。


 ……確かにユラはこの世に生み出された時は、音楽というものを知らなかった。

 ピアノという楽器に出会い、手で触れた。

 小さな何も痛みを知らない手でも、押せば美しく歌ってくれるこの楽器を愛して、十年経つ。

 今や二日触れないと、ユラは落ち着かない。



(この人は僕にとっての音楽とおなじ)



 シザの体を大切に抱きしめた。

 心を安堵させて身を委ねられるもの。

 決して裏切らず、だからこそ、自分も裏切りたくない。

 触れれば美しく奏で、この世界に生まれた喜びを感じさせてくれるもの。


 シーツの上に仰向けに倒れて、覆い被さって来るシザの体重を感じた時、ユラの胸を安堵が満たした。


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