第7話
巨大なオーディオ機材の側に、棚があった。
ずらり、とMDやDVDが並んでいる。
正直男の同僚がどんな曲を聞いているかなど、今まで微塵も興味を抱いてこなかった為、敷き詰められたように並ぶクラシック関連のラインナップに、妙に心が浮かれた。
なんて見た目を裏切らない男なんだ。
ライルは笑いながら、演奏者の名前を指で差しながら棚を調べた。
見つからず、シザの性格からして普通の音楽家と最愛の音楽家を同等には扱わないに違いないと思い、近くの引き出しを探ると予想通りある棚の中に、ユラ・エンデに関するディスクがまとめられていた。
ほとんどがコンクールや、音楽院での、一般に出回っていないもののようだ。
何枚か取り出してその中に、自分の知っている曲名が書かれたものを見つけた。
オーディオにディスクを入れて、再生する。
曲が流れ出す。
ライルが知っているのは、オーケストラが同じ曲を奏でていたものだ。
それを、ピアノという一つの楽器で奏でている。
何度か見かけた、内向的な少年の顔が思い浮かぶ。
覇気にも似た空気を纏う華やかな兄とは真逆の。
影に沈み込むような印象の、彼が奏でる音。
『あなた、ユラのピアノを聞いたことがありますか?』
シザの中には恐らく、二つの顔がある。
一つは『兄』。
もう一つは『恋人』。
でもその二つの顔のどちらもで、彼はユラ・エンデを愛している。
『この世には人がどう思おうと、天から才能を与えられてそれをすべき人間というものがいるんですよ。
そういう人を、どれだけ手に閉じ込めても――無駄なんです。それは。
自然と彼の音楽を望む人間が、彼を僕の側から連れ出して行く』
結局要するに、考えあぐねているのだろう。
この世の何も怖くないという顔をしていても、シザはまだ二十三歳の青年だ。
普段の彼を見ていると、時々それを忘れる。
曲が変わった。
静かな曲調だがライルがピアノ演奏に対していつも感じる退屈な印象は感じなかった。
情緒的な表現は苦手だ。こういう時は巨匠に代わりにお願いすぎるに限る。
PDAで記事を映像投射すると、星の輝くような音色と表現しているものがあった。
『音は光に満ちているものなので、演奏で光を表現出来る音楽家は珍しくないが――影の中に光を感じさせることの出来る音楽家は少ない』
十五年の歳月。
六十を越えた巨匠には、瞬きのような歳月だろう。
取るに足らないほどの歳月を、彼は笑っていなかった。
『そもそも一つの物事に対して、人の歩みは一定ではないのだから、私が修業時代すら卒業しなかった十五年間と、彼が音楽の表現者となるために費やした十五年を、比べられるはずがない。
コンクール後、私は出来得る限りの彼の他の演奏を見せてもらった。
今より未熟だった頃の演奏も見た。
それでも煌めく印象は全く変わらない。
そのことに一番驚いた』
『水を表現出来る者、影を表現出来る者、炎を、祈りを上手く表現する者は大勢いる。
だが水底に沈む光を、
影に寄り添う光を、
炎の中に揺らめく光を、
祈りの先に見える光を、
常に感じさせてくれる者はごく少ない。
今年のドレスデンの、音楽の祭典に降り立った女神が、美しく密やかなるを愛する女神で良かった。
素晴らしい技術を持った、数多くの音楽家。
勿論ユラ・エンデもその中の一人だが。
その中で、迷いなく彼が戴冠を受けたことが嬉しい。
音楽に寄り添うべきものが、星のように美しい光であることを、思い出せた。
忘れていた十年の時が、凍り付いていた時が動き出したように思う』
『美しい音楽に出会えた時、私は心から音楽の神に感謝をして来た。
美しい音楽を紡ぐ者に出会えた時も、私はそうする。
ユラ・エンデとの出会いを神に感謝したい』
◇ ◇ ◇
……ピアノの音が聞こえる。
ユラが弾いてるのだ。
自分の部屋で身体の痛みを耐えながら、蹲っていると聞こえて来た。
次に生まれてくるシザの兄弟が妹なら、ピアノを習わせるのだとまだ優しい頃の養父が言っていたことがある。
結局生まれたのは弟だったが、養父はこの弟をひどく可愛がり、まるで定められた玉座に座らせるかのように、ようやく物心ついたばかりのユラをグランドピアノの椅子に座らせた。
足を揺らしながら小さな手で鍵盤を叩いて遊んでいたが、そのうちユラは家に流れているクラシックの曲を真似して弾くようになった。
最初はほとんど形にもなってない子供の戯れのようだった音が、いつの間にか曲になって行った。
ユラが弾き続けるので養父は離れにグランドピアノを移して、好きな時に好きなだけユラが弾けるように計らった。
養父の、自分に対する嫌悪がなんだったのか。
養父の、ユラに対する愛情がなんだったのか。
シザは今でも時々考える。
……あの男は、一体いつから狂っていたのだろうかと。
ユラのピアノを弾く才能は瞬く間に開花して、……養父からの暴力に悩み始めていたシザは、ユラのピアノが段々と嫌いになって行った。
シザはダリオ・ゴールドの人格を嫌悪していたので、決してそれはピアノを弾くたびに養父に優しく撫でられ、笑いかけてもらう弟への嫉妬などではなかった。
シザは現実に、ユラのピアノを毛嫌いしたのだ。
自分が養父に殴られ蹴られたあと、必ず聞こえてくる離れからの音色。
この暗い世界とは、自分は何も関わっていないというような美しい音だった。
(今なら)
今ならユラが何故、あの時弾いていたかが分かる。
ユラはシザを慰めようとしていたのだ。
しかし当時はユラと少しも心が通じていなかったから、シザは自分への当てつけで、ユラが弾いているのではないかと思っていたほどだ。
……知らないということは、本当に罪深いこと。
自分の身体は痣だらけで痛み、遠くで弾いているユラの身体には傷一つない。
(ユラなんか嫌いだ。
生まれて来なければ良かった)
シザは耳を塞いだ。
(聞くもんか)
人の痛みを知らない人間が奏でる音楽なんて、どんなにキラキラしていたとしても、美しいはずがないのだから。
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