第5話 衝撃 ~sideスノウ~
その姿を目撃したのは、本当にただの偶然だった。
「北の
普段は自宅に納品ばかりしているが、たまには顧客の旦那の店をのぞいてみようと街に出ていた俺は、ついさっき説明を受けたばっかりの模様を思い出しながら適当に街中を歩く。自然をモチーフにしたシンプルなその模様は、北の国の伝統的な織物によく見られるらしいが、このあたりでは見たことのないもので。
「ああいうのが、これから人気になるかもしれないのか」
仕事中の格好じゃなければ気付く人間もまずいないだろうと、時折こうして得意先なんかに顔を出したりもするが、今回は当たりだったかもしれない。商人は基本的に売れると確信が持てないような商品を仕入れないことを考えると、おそらくあの模様も別の国で流行り始めている可能性が高い。店の定休日だから久々に行ってみようと思ったのは、どうやら間違いではなかったようだ。
ちなみに今まで誰かに声をかけられたことは一度もないが、それ以前に俺の顧客は基本的に店の主の妻だったり娘だったりするので、そもそも外で会う機会が全くないからかもしれないと思ったこともある。ただ同時に、『スノードロップ』の従業員と街ですれ違っても気付かれないことを考えると、やはり全員俺への認識は仕事中のあの姿とあの声とあの口調なんだろうと、今は確信している。
(ま、そうだよな)
普通に考えれば、あの姿と今の俺の姿はどう考えても結びつかないだろう。むしろ酒場で出会ったあの夜、どうしてライラに正体がバレたのかが不思議なくらいだ。とはいえ一番の原因はおそらく、直前に名前を呼ばれたからだろうが。
(そういえば最近忙しくて、ライラの仕事着の続きを
色違いで何着か作っておこうと思っていたはずが、ありがたいことに予想以上に予約が増えたおかげで仕事面では順調だが、それ以外には全く手を出せていない状態だった。まだもう少し忙しい時期は続きそうなので、当分の間は作業部屋に一人籠もることになるだろう。
(それが終わったら、また続きを作るか)
なんて、ライラのことを考えていたせいだろうか。ふと目に入ってきた人物が一瞬本人に見えてしまって、けれどすぐに否定する。明らかに恋人同士で入るようなカフェのテラス席に、男と二人向かい合って座っているなんて、そんなことはあり得ない、と。
(……いや、待て。本当にあり得ないなんて、言い切れるのか?)
恋人がいるという話は聞いたことがないが、同時にいないとも聞いていない。むしろ彼女の私生活で知っていることといえば、大火災で両親を亡くして病気がちの弟と二人で暮らしているという、ただそれだけで。思わず、目に入ってきた人物を二度見する。
遠くからなので会話は一切聞こえないが、髪の色や長さはライラそっくりで。そして着ているワンピースにも、見覚えがあった。
「淡いグリーンの、エンパイアライン……」
それはあのデートの日、確かにライラが着ていたものと全く同じで。まさかという言葉が、頭の中を駆け巡る。
だが、一瞬で困惑と焦りに支配されていた俺は。次の瞬間、大きな衝撃を受けた。
「ッ!!」
明らかにライラであろう人物が、目の前の男と楽しそうに笑い合っていて。それはまさに、恋人同士の穏やかな休日そのものだった。
(……あぁ、そうか)
考えてみれば、俺はライラのことをほとんど知らない。今までどんな人物と出会い、どんな会話をして、どんなものを好んでいるのか。しかも思い返してみれば、最近は顔を合わせる機会も減っていて、会話といえば仕事のことばかり。
(何してんだよ、俺)
いや、むしろそれでよかったのかもしれない。変にここでアプローチなどしていたら、彼女を困らせていただけだったのだから。
無意識にため息がこぼれるが、今はそんなことどうでもよくて。予定は終わらせているし、ここから気分が上がる気も一切しないので。
「……帰るか」
おとなしく二人に背を向けて、自宅へと足を向けたのだった。
その際、妙に地面のタイルばかりが目に入ってきたのは俺の気分が落ちていたからなのか、それとも実際に目線が下に向いていたからなのか、それは分からなかったが。ただ一つだけ言えるのは。
(どうする……)
これからライラにどう接していけばいいのか、分からなくなっていたということだけ。
そもそも今までは、どう接していたのか。俺の本性が男だと知っている相手に、しかも恋人がいる人物に、どう接するのが正解になるのか。それ以前に、今
一つも答えが出ないまま。休み明け、作業部屋に一日中籠もってなるべく顔を合わせない方法を選んだ俺は、たぶんただの臆病者なんだろう。
そんな俺に天罰が下った、というには少々
「すっぱ……!」
今まで食べたどのオレンジよりも、明らかに酸味が強すぎて。無意識に声が出てしまうほどのそれに思わず顔をしかめてしまったのは、人間の反応として致し方ないことだったと思う。
ただ、なぜか同時に、休日に恋人と会っていたライラの笑顔を思い出して。つい苦い気持ちになってしまったのは、オレンジの酸味以上に心にくるものがあった。
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