第五章 決意と願い

第1話 噂話

 オーナーが綺麗な貴族の女性と親し気に話している場面を目撃してしまった、その日以降。結局私の口から直接話を切り出すこともできないまま、何をどう話せばいいのかも分からなくなってしまって。それなのに、あの日取りに行くことのできなかったアクセサリーは、今は肌身離さず身に着けるようになっていた。


(自分のことなのに、全然分からないよ……)


 恋人がいると分かった以上、諦めるべきだと頭では理解しているはずなのに。心がそれを拒否しているような相反するものを抱えたまま、私は今日も一日を過ごす。恋がこんなにもつらくて苦しいものだったなんて、全然知らなかったと思いながら。

 ただ私のこの状態は、個人的な心の中だけで留めておくことができず。困ったことに、徐々に仕事にも影響が出始めてしまっていた。


「あの」

「ライラ」


 オーナーと同時に話しかけてしまって、顔を見合わせて思わず小さく「あ」と呟き合う。そしてお互い、先に発言をどうぞと譲り合った結果。


「あの、えっと……。あ、明日の予定なんですが……」

「あ、あぁ。デザイン案の確認のために出かける予定が一件あるだけで、あとはいつも通りだ。その……予約でも、入ったのか?」

「い、いいえっ。ただその、先に確認だけしておきたかっただけ、です……」

「そ、そうか」


 こんな感じで、どうしても毎回どこかぎこちない会話になってしまう。しかも仕事の話しかしていないはずなのに、だ。


(これじゃあ、ダメだよね)


 今日もオーナーよりも先に退勤して、少々落ち込みながら家へと歩いて帰る。最近はこんなことばかりで、歩く速度も以前よりかなり遅くなっているような気がしていた。少なくとも視線は確実に下を向いているし、それ以上にため息をこぼす回数が圧倒的に増えている。とはいえ、家ではそんなことがないように気を付けてはいるけれど。

 どうしたら以前のように普通に話すことができるのだろうと考え、またため息が口からこぼれてしまいそうになった、その瞬間。


「ねぇねぇ、聞いた?」

「もしかして、大通りの靴屋のこと?」

「そうそう!」


 どこからか聞こえてきた、明らかにうわさ話ですと言いたげな声に。思わず足を止めて、二人の女性の会話に耳を傾けてしまった。

 どうしてこの時そんなことをしようと思ったのかは、自分でもよく分からないけれど。なんとなく、気になってしまったのだ。大通りという言葉と、靴屋という言葉の二つが、もしかしたら『スノードロップ』にも関係がある事柄ことがらかもしれないと、無意識に考えていた可能性はあるけれど。


「あれでしょ? 火事でお店が危なかったっていう」

「一部の商品がダメになっただけで済んだらしいけど、その場所に火が出るようなものはなかったっていうしさー」


 そんなことがどうでもよくなってしまうくらい、その内容は衝撃的だった。


「噂だと、放火なんじゃないかって」

「うわー、やっぱり?」

「しかもほら、あそこって最近貴族のお得意様ができたって宣伝してたでしょ? そのせいで同業者から逆恨みされたんじゃないかって言われてるっぽい」

「やだぁー、商売敵しょうばいがたきってこと? 怖いねー」


 そこまで話して、二人の会話がピタリと止まる。と、次の瞬間。


「こら! 油売ってないで、ちゃっちゃと仕事を終わらせな!」


 元気な女性の声が聞こえてきて、今まで噂話をしていた女性二人が謝罪を口にしながらどこかへ遠ざかっていく足音がした。なので、私が知ることができたのはそこまでだったのだけれど。


(放火……? 逆恨みで?)


 まだ噂段階とはいえ、噂になるということはそれだけそのお店があからさまな宣伝をしていたからかもしれないし、放火犯の目星がついているからかもしれない。ただ犯人が捕まったというわけでもなさそうなのが、少し気になる。


(でも、それが本当なら『スノードロップ』は目を付けられないはず)


 以前オーナーが自分勝手な注文をしてくる貴族のお嬢様を追い払ったことは、あの場にいた従業員やお客様が全員見ていたので知っている。それ以前に貴族のお得意様を獲得したわけでもないので、恨まれるようなことは今のところなさそうではあるが。


(一応、オーナーには報告しておこうかな)


 万が一にも放火犯が全然捕まらなかったとして、それが逆恨みではなくただの愉快犯ゆかいはんだった場合、高級な素材の布を取り扱っている『スノードロップ』は狙われる可能性がないとは言い切れないから。

 なんてことを真剣に考えていたら。


「あ、いた! ライラー!」


 後ろのほうからエミィに名前を呼ばれて、思わず振り向く。いくらお店からそんなに離れていないとはいえ、今日は何か約束をしているわけではなかったから、何事かと驚いてしまったのもあって。


「どうしたの……!?」


 私からも駆け寄って、急いでその明るいブラウンの瞳をのぞき込んだら、少し焦ったような顔をして両手を思いっきり振られてしまった。


「ごめんごめん、違うのっ。ちょっとライラにお願いがあって……」

「お願い?」

「というか、相談、かな」


 首をかしげる仕草とは裏腹に、その目はどこか真剣だったから。この時間からだとカフェは混んでいる可能性が高いからということで、私の家で話すことになったのだけれど、その内容にかなり驚いてしまって。ただ同時に、エミィの覚悟にちゃんと応えてあげたくなったのも事実だったので、確約はできないけど確認してみると約束したのだった。



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