名古屋奇譚
松原凛
名古屋飛ばし
名古屋はいつも飛ばされる。日本の主要都市の一つであるはずなのにどうにも田舎感が抜けないせいか、イベントごとはだいたい名古屋を避けて通り過ぎてゆく。
名古屋飛ばしが初めて話題になったのは一九八〇年代、歌手のマドンナやマイケル・ジャクソンの来日というビックイベントで名古屋公演が飛ばされたことがきっかけだった。演劇や美術展、過去には東海道新幹線に飛ばされたことも。ここまで来ると避けられているというより嫌われている気もするが、おかげで助かることもあるのだった。
夏のはじめに十年に一度と言われる大型台風が上陸し、南から徐々に移動していた。
「学校休みにならないかなあ」と子供が朝ごはんを食べながらぼやいた。
「電車が止まると困るな。今日は大事な商談があるのに」と父親は心配し、
「買い物早めに行っておいたほうがいいかしら」と母親が窓の外を見て言った。
しかし、いまのところ名古屋では暴風警報は出ておらず、地下鉄が止まった様子もない。外は花壇の花が風に揺れているくらいで、出かけても問題はなさそうだ。
台風を気にしつつ、いつも通りの生活を送る。それはこの中村家だけではなく、どの家でも似たようなものだった。いくら騒いだところで、おそらくこの辺りは大丈夫だろうと高を括っていた。
その油断のせいで、名古屋が台風によって上空に飛ばされるという異常事態に、誰も気づいていなかった。
名古屋は今まさに台風の目の中心にあった。台風は名古屋の周りをぐるりと囲んで巨大な渦と化し、高速で旋回していた。名古屋は誰も気づかないまま浮上し、天空の名古屋となりつつあった。
昼頃になると風が強まり、一部のテレビが映らなくなった。だが名古屋に局がある番組は見られるし、スマホも使えるので人々はさして気にも留めずに普段通りの生活を続けた。新幹線が止まっても、よその地域で恐ろしい暴風が吹き荒れようとも、頑なに日常を続けるのが名古屋人だった。
父親はリモートで商談をすることになり、外に出なくて済んでホッとした。子供は授業をまじめに聞くふりをしてノートに漫画を描いていた。母親は急いで買い物を済ませ、家に帰って楽しみにしていた韓ドラを見た。
その間にも名古屋はどんどん上空を上っていく。ゴウンゴウンと物が揺れる音がする。窓の外はもはや真っ白で何も見えない。人々は室内で静かに台風が通り過ぎるのを待つ。
やがて台風が移動し、名古屋は中心から逸れた。渦の力が弱まり、名古屋はゆっくりと下降し、着地した。
「今揺れた?」
「揺れたね」
「でもそんなに大きくはなかったよね」
「震源地遠いんじゃない?」
台風と地震が同時に起こるという珍しさで人々は騒ぎ立てたが、すぐにほかのことに興味を移した。
風は穏やかになり、テレビもすべて復旧した。半日ぶりに見られた全国区のニュースによると、すぐ隣の県では甚大な被害が出ているらしかった。
子供が学校から帰ってきて、父親が仕事から帰ってきた。母親は夕飯のカレーを作った。とくに理由はないのだが、中村家では昔から台風の日はカレーと決まっていた。
「この辺りは何もなくてよかったわねえ」
「そうだな」
「学校が休みになればいいのに」
たまに何かの間違いのように学校が休みになると、子供たちは飛び上がって歓喜する。でもそんなことは名古屋では滅多にないと、幼い子ですらよく知っている。
結局いつも――台風にさえ、名古屋は飛ばされるのだ。
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