第42話
煌が、音を立てて椅子から立ち上がった。
異変を察知したのだ。
「失礼する」
浩一郎に言いおいて、常に持ち歩くサーベルを掴んで部屋を出た。対面の間に向かうつもりなのだろう。
美月と浩一郎には、異変の気配など感じ取ることもできなかったが。
「わたしも」
あとを追おうとする美月を、浩一郎が呼び止める。
「美月! だめだよ、僕たちは邪魔になるだけだ」
以前の美月なら、その言葉を素直に聞き入れただろう。
だが、このとき美月は一度振り返っただけで、すぐに煌を追いかけた。
自身の能力を過信してはいけないとわかっている。それでも、美月の浄化の力が少しは役に立つのではないかと考えずにはいられなかったのだ。
煌が渡り廊下にさしかかったとき、何かが当たるような音とともに美子の悲鳴が聞こえた。
煌は廊下の欄干を跳び越えて前室に駆け込み、サーベルで結界を斬り裂いて対面の間の檜戸を開けた。
煌の目に飛び込んできたのは、長い黒髪を振り乱し、白い長絹の背を丸めてケダモノと対峙する美子の姿だった。
ケダモノの足元には、引き裂かれた血文字の舞扇。
「助太刀します!」
背後に飛び込んできた義弟を振り返る余裕もなく、美子は丸めた背を反らし弧を描くように袖を翻す。
直前まで美子の頭があった空間に、牙を剥いたケダモノが襲いかかった。
煌のサーベルがケダモノの眉間を貫こうとしたが、すんでのとことろでかわされた。
「ひふみよいむなや こともちろらね しきるゆゐつ……」
美子が唱える祓い詞は、このケダモノには届かない。
そもそも美子が得意とするのは、怨念の浄化だ。
それ以外にも蠱毒に使われた毒蛇やサソリなどを消滅させたことはあるし、管狐の霊を昇華したこともある。だが、これほど大きく凶暴なケダモノを相手にするのは初めてだった。しかも、祓い詞が通用しない。
正直、対処の仕方がわからない。
煌が、眉をひそめた。
このケダモノに見覚えがあった。
それは、以前、煌が港湾で退治した西洋狼と同じ姿をしていた。それは海外から渡来したモノ。
(こんなモノが、高司公爵家の遺物に?)
違和感が拭えない。
港湾での任務と同じように突き刺そうとしても、剣筋を読まれてかわされてしまう。まるで、煌の剣技を見知っているかのように。
(まさか)
「わたくしが引きつけますわ、そのあいだに!」
疑念に戸惑う煌の耳に、美子の凛とした声が飛び込んできた。
美子は裂かれた舞扇を素早く拾い、長絹をなびかせてケダモノの前に躍り出た。
舞踊のような美しい所作で、扇の骨を次々とケダモノの顔面に放つ。
ケダモノがそれを鬱陶しそうに払いのける瞬間に、煌はケダモノの喉にサーベルを突き立てた。
しかし、それはケダモノの喉を一部切り裂いただけで、貫くには至らなかった。
港湾での任務のときには、煌のほかにも欧米の悪鬼に慣れた特殊部隊の隊員たちがいた。国内の怨霊を浄化することにかけては一流の美子だが、相手が西洋狼では勝手が違う。
ケダモノが咆哮し、美子に跳びかかる。
逃れようと飛び退いた背中を、ケダモノの鋭い爪が引き裂いた。
鮮血が、霧のようにケダモノを包み込む。
「お姉さまっ!?」
対面の間に駆けつけたばかりの美月は、姉の血に驚いて叫んでいた。
「来るな、逃げろ!」
煌の声は聞こえたが、美月は動けなかった。
目の前では、出血した美子が金色の光に包まれていた。その背後に、金狐の尾のようなモノも複数見える。まるで、九尾の狐だ。
美子の目は金色に染まり、縦長の瞳孔で妹を見る。
『血ヲ、カシテ』
何を言われたのかわからなかった。
狐の素早さで跳びかかった美子が、美月の肩に噛み付いた。
焼けつくような痛み。
姉の背後の黄金の光が炎のように激しく燃え立つのが見えた。
黄金の炎が、西洋狼に襲いかかる。
光の炎に包まれたケダモノは、身動きできずに唸った。
煌は臆せず炎の中に跳び込み、サーベルでケダモノの口から心の臓まで刺し貫いた。
断末魔の咆哮は、ただビリビリと空気を震わせるだけで可聴音にはならなかった。
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