第19話 密会の夜~凛冴×空翔~
夜の空気は湿り気を帯びていて、コンクリートの壁に触れるたびにひやりとした冷たさが指先に残る。
空翔は廃ビルの外階段をできるだけ音を立てないように慎重に上った。錆びついた鉄の手すりに手をかけると、ザラついた感触とともに微かに鉄臭さが鼻を突く。
上へ進むにつれて、街の喧騒は遠のき、代わりに吹き抜ける風の音が大きくなる。ひゅう、と不吉な音を立てる風に混じって、誰かが咳込む声が聞こえてきた。空翔は足を止め、屋上へと続く最後のドアの隙間からそっと覗き込む。
屋上には既に先客がいた。天堂凛冴だ――。黒のタートルネックとパンツに身を包んだ凛冴は、闇に飲み込まれそうだった。月明かりに照らされるその横顔は、どこか冷ややかで、感情の読めない笑みを浮かべている。
空翔は黒いフードを深くかぶり直すと、凛冴の近くへ歩み寄った。凛冴が静かに問いかけてくる。
「……やっと来たな。こんなところに呼び出して、何の用?」
空翔は小さく微笑んだ。
「たいした用じゃないよ。ただ――君が澪と律音のスキャンダルを仕組んだって証拠を手に入れたから、教えてあげようと思ってね」
空翔はそう言うと、スマホにある音声データの再生ボタンを押す。青白い光を放つ画面からは、ぼそぼそとした男の声が聞こえてくる……。
『――うちが仕掛けたわけじゃないですよ! 天堂って奴からSerilionの特ダネがあるって言われて、情報を買っただけです。捏造だったんなら、うちじゃなくてそいつを訴えればいいじゃないですか!』
会話の内容を理解すると、凛冴の瞳が僅かに揺れた。
きっと、友人に証拠を掴まれるとは思っていなかったに違いない――空翔は珍しく動揺した凛冴の様子に満足した。天使のミミルに協力してもらった甲斐があった。
「……これが証拠だって?」
凛冴の声が闇に溶けるように低く響く。彼はポケットから煙草の箱を取り出し、一本を指先で弄びながら、不敵に笑った。もうその瞳に動揺の色は見られない。一瞬でメンタルを立て直したようだ。
凛冴はライターで煙草に火をつけると、空翔に向けて白い煙を吹きかける。煙を吸った空翔がゲホゲホとむせ込むと、凛冴は笑みを深めた。
「うッ……はあ……、何すんだよ!」
「それはこっちの台詞だ。どういうつもりだよ、空翔」
低く押し殺した声が響く。天堂凛冴はいつの間にか笑顔を取り去り、空翔を睨みつけていた。
「どうやって記者の口を割らせたのかは知らないが……そんな録音データひとつで俺を告発する気か? 事務所内で内輪揉めしてるってSerilionが叩かれるだけだぞ。いいのか? 君の大事な大事なSerilionがなくなっても――」
凛冴は空翔を挑発する口調で話し続ける。だが、空翔はそんな凛冴を見つめ、静かに口を開く。
「もう澪に執着するのはやめなよ、凛冴」
凛冴の表情が揺らいだ。まるで、自分がこの世で唯一信じていたものが崩れ落ちる瞬間を目の当たりにしたような顔だった。
「君だけは、俺を理解してくれると思ってたのに」
搾り出すような声に、空翔の胸が痛んだ。わかっている。凛冴はずっと孤独だった。同じ病院に入院していた時、彼を訪ねる人は誰もいなかった。かつては優しかった彼が、澪のために負った傷のせいで変わってしまったことも知っている。だからこそ、自分は凛冴の罪を誰にも話せずにいた。
だが、それでも——。
「理解してるよ。凛冴が失った時間を取り戻そうと必死なのもわかる。でも、このやりかたは違う」
そう言いながら、空翔は凛冴が手にしていた煙草を奪い取り、靴の裏で火を消した。
「澪を好きなら苦しめるなよ。それに……このままじゃ、君の望みは叶わない。君自身が壊れるだけだよ」
「壊れたっていい。澪の記憶から消えるのが一番怖いんだ。澪を傷つけて壊して、それで俺を忘れないでくれるなら、いくらでもやってやるさ」
「凛冴、その考えはよくないよ。澪を壊して、自分も壊して……それで最期にどうなったか、君が一番よく知ってるはずだ!」
「何の話だよ」
凛冴が理解できないという顔を見せたので、空翔は狼狽えた。こんな反応が返ってくるとは思っていなかった。
空翔の脳裏には、今も凛冴の最期の姿が焼き付いている――Ravageから澪が脱退し、凛冴の怪我が再発した後。凛冴が病室で首を吊っていた姿が――。
「まさか……覚えてない……?」
そう口走ったが、語尾が震えていた。彼と再会した時の様子を見て、てっきり自分と同じように前世の記憶を持っているものだと誤解していた。けれど、目の前で困惑している凛冴を見るとそうではなかったことがわかる。
自分はあの時の病室の籠った嫌な匂いや、パニックを起こす看護師たちの叫び声を忘れたくても忘れないのに。数少ない友達を喪った絶望は色あせていないのに……。
空翔は一気に過去の記憶が蘇り、目眩を覚えた。ぐらりと身体が傾く。世界が歪む音が聞こえた気がした。
「凛冴……最後がどうなったかよく覚えてなくても、これが2度目だってことを覚えてるなら、もうわかってるはずだろ。こんなことしたって、君のためにならない」
「それでいい。何も変わらないからな。だったら、澪とSerilionも巻き添えにしたっていいだろ?」
「だから、なんでそうなるんだよ!? 君がそのつもりなら、俺はどんな手を使っても止めてみせるからな……!」
話がヒートアップし、空翔が凛冴の腕を掴む。その瞬間、凛冴は空翔の耳元に近づき、「本当に俺を止めるつもりなのか?」と囁いた。生ぬるい吐息が耳をくすぐり、空翔は息を呑む。
「昔みたいに……優しく慰めてくれないのか?」
縋るような瞳だった。男らしい風貌の凛冴が見せた儚い表情に、空翔は動揺してふらつく。その瞬間を見計らっていたのか、凛冴は空翔の唇に一瞬近づく——が、唇が重なる寸前で、空翔がなんとか振り払った。
「……どうした? ファーストキスの相手なんだから、そう緊張することはないだろ」
「うるさい……」
空翔にとって、凛冴は透真の次にできた友人だった。そして、それ以上に心のどこかで彼に惹かれていた。その感情を凛冴が気づかないわけもなく、戯れに唇を奪われたこともあった。甘ったるい気持ちを共有した時もあったけれど――すべてがもう、遠い。澪がSerilionとしてデビューしたその日から、凛冴は壊れ始めてしまったのだから。
風が吹き抜け、屋上の柵にぶつかる音が響く。空翔は誘惑を振り切るように、息を潜めながら、拳を強く握りしめた。
凛冴は自分の思惑が失敗に終わったのを悟ると、ふつりと弱いものぶる演技をやめた。新しい煙草を取り出すと、くるりと回すように持ち替え、ぼそりとつぶやいた。
「なあ……病院の匂い、覚えてるか? 薬品と死臭がして……ゆっくりと世界から取り残されていくようなあの匂い。君も忘れてないだろ?」
「……誰よりもよく覚えてるよ」
「入院してた時は早く退院したくて仕方なかったのに……今思うと、つらかったはずのあの頃が、一番幸せだったのかもな」
その一言に、空翔の心が不意に揺れた。月光の下に立つ凛冴の横顔が、一瞬だけひどく脆く見えた気がした。
「今度は健康な身体になれてよかったな。俺も嬉しいよ」
「凛冴も。足、治ってよかったね」
凛冴は空翔の言葉に答えなかった。しばらくの沈黙のあと、彼はふっと笑った。しかし、その笑みにはどこか諦めの色が滲んでいた。
「今度はちゃんと治ったんだから、アイドルを続けられるでしょ。それで満足できない? どうしてもSerilionをなくさないと気が済まない……?」
これが最後のチャンスかもしれない――そう思って、涙を滲ませながら凛冴に言い募った。凛冴はいっとき言葉を失う。そして、静かに首を横に振ってから、口を開いた。
「今更やめられないさ。それとも今諦めれば、君は俺を見逃してくれるのかな?」
凛冴の言葉に、今度は空翔が黙り込む番だった。屋上にふたりの沈黙が溶け込んでいく。
「……だったら、最後まで見届けろよ、空翔」
そう凛冴がつぶやいた瞬間、屋上の照明がひとつだけ消えた。凛冴が立っていた場所は。漆黒の闇に取り残される。空翔の立っている場所は、まだ光に照らされていた。まるで、彼らのこの会話が、光の世界と影の世界を分かつ境界線であるかのように——。
闇の中で凛冴の表情は見えなくなった。ただ、白い煙草の火だけがかすかに揺らいでいた。
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