第16話 明らかになった真実
今日は デビューアルバムのリード曲『Tomorrow’s Answer』の収録日だ。
この曲は温かみのあるミディアムテンポのナンバーで、Serilionのメンバー全員で作詞に関わり、それぞれの思いが込められたフレーズが散りばめられている。シンプルなメロディに乗せたメッセージ性の強い歌詞が聴く人の心を揺さぶる、とメンバーたちもお気に入りの一曲だ。この曲で、Serilionは更なる飛躍を狙っていた。しかし……。
スタジオの空気は重かった。防音仕様の壁に囲まれた広い部屋に、足音と機材の微かなノイズだけが響いている。誰もが何かを言いたそうにしながらも、口を開かない。視線が交わるたびに、気まずそうに逸らされる。
録音ブースには、俯いた澪が立っていた。
「……じゃあ、始めようか」
音楽プロデューサーの合図で、イントロが流れる。キーボードの柔らかな旋律がスタジオを満たしていく。だが、いつもなら自然と体に染み込むはずのリズムが、今日は妙に遠く感じられた。
『――誰かの期待に揺れるたび、本当の声が遠ざかるけど』
透真はチラリと澪を見た。いつもなら音が鳴ればすぐにスイッチが入り、圧倒的な集中力で曲に入り込む澪が、今日はどこか違う。微妙にタイミングのずれた入り。伸びるはずの音がかすかに揺れる。
「澪、ちょっとテンポ遅れてる」
プロデューサーが眉をひそめながら指摘する。
「……すみません。もう一度、お願いします」
短く謝る澪の声は、かすれていた。傍観しているメンバーたちは、誰も何も言わない。だが、心の中でみんなが何を考えているかは明らかだった。
『この声を響かせるよ……君となら、どこまでも――』
楽曲は進む。だが、どこか歯車が噛み合わない。6人の呼吸が揃わないまま、曲は淡々と流れていった。
透真は膝の上で握っている手に力を込めた。心に広がる焦燥を振り払うように、今はただレコーディングが上手くいくことを祈るしかなかった。
「……今日は駄目だな……。別の日にまた収録しよう。みんな大変な時期なのはわかるけど、集中力が足りてないよ!」
プロデューサーからの叱責に、メンバーたちは何も言えず俯く。澪は申し訳なさそうにプロデューサーへ頭を下げると、レコーディングブースを出ていった。その姿を、龍之介が文句を言いたそうに見つめている。
「……トーマ、ちょっと来て」
暗い雰囲気が辺りを包み込み始めた時、空翔が透真の耳元で囁いた。透真は頷き、ふたりでブースの外へ出る。
空翔は廊下をきょろきょろと見渡してから、声を潜めて話し出した。
「例の黒幕が、動き出したみたい」
「ほんとか⁉」
「うん。偵察に行かせてたミミルから連絡が入ったんだ」
「……お前、天使をパシらせたのかよ。すげーな」
「それほどでも?」
透真が感心すると、空翔は得意げに笑った。ミミルが最近忙しそうにしていたのは、このためだったのか。
――ようやく、このくだらないスキャンダルを終わらせられる。
透真と空翔はミミルの情報に従って、事務所へと向かった。
***
事務所の薄暗い廊下に、澪の影が落ちていた。正面には、彼を追い詰めるように立ちはだかる一人の女性スタッフ。彼女の手にはスマホが握られ、その画面には、夜の街角で密かに撮られた澪と透真の写真が映っている。
「ねえ、澪くん。どうするの?」
女は笑っていた。しかし、その笑顔の奥にある冷たさが、澪を凍りつかせる。
「この写真が世に出たら、君のアイドル人生は終わりかもしれないね。それとも、透真くんの方が先に潰れちゃうかな?」
そう言いながら、彼女はスマホの画面を軽くなぞる。まるで「今すぐ写真を送信することもできる」とでも言うように。
「……わかりました」
それは震えた声だった。自分の意志ではなく、強制された服従。
「あなたの言う通りにします。だから……透真には、何もしないでください」
女の表情が満足げに緩んだ。ゆっくりと手を伸ばし、澪の腕に触れる。
「いい子ね、澪くん。それじゃ……まずは私とデートしてくれる?」
拒絶する時間すら与えられない。澪は視線を落とし、ただ拳を握りしめた。ふと、透真の笑顔が頭をよぎる。澪はバラバラになりそうな心を必死に繋ぎ止めては、息を詰まらせていた。
「俺は……」
覚悟を決め、澪が口を開く。
──しかし、その瞬間。
「澪、ここにいたんだ」
低い声が静寂を切り裂いた。
澪の体がビクリと揺れる。驚いて振り向くと、そこには空翔と透真が立っていた。ふたりとも走ってきたので、肩で息をしている。
――あの人が黒幕なのか?
透真は澪の前に立っている女を見て、目を細めた。その顔に見覚えがあるが、フルネームまでは思い出せない。確か、Serilionが売れてきて人手不足だからと、最近雇い入れたスタッフのひとりだったはずだ。
空翔は眉をひそめ、険しい表情を浮かべて女へ尋ねた。
「澪に何をしてるんですか?」
「何って、業務内容を伝えてただけ。あなたこそ、ここで何をしてるの? 今日はレコーディングの予定でしょ」
「……白々しい」
透真がぼそりとつぶやくと、女は鋭い目つきで透真を睨んだ。ぞっとする視線だった。
透真は少し怖気づきそうになったが、己を奮い立たせると、証拠を突き付けるようにスマホを掲げた。
「さっきのあんたと澪くんのやり取り、撮影して社長に送っといたから。言い訳しても無駄だ」
「そうだよ。いくら澪を脅しても、もう意味ないよ」
空翔が援護射撃するように続けると、女は悔しそうに唇を噛み締めた。
「澪。お前を脅迫してたのは、この人だな?」
空翔が低くつぶやき、女を指差す。
澪はすぐには答えられなかった。あまりに色々なことが一気に身に降りかかって、言葉が出てこなかったのだ。
「澪くん。もう大丈夫、俺たちがついてるから」
透真がそう語りかけると、やっと澪は顔を上げた。透真の明るい笑顔を見て、澪の表情は泣きそうに歪んだ。
「……透真との写真を撮られて、どうしようもなかったんだ」
澪の目の下には青い隈ができていて、酷く疲れて見える。最近は満足に眠れていなかったんだろう。
――あの写真のせいで、澪くんはここまで追い詰められたんだ。もしかしたら、前世でSerilion解散のきっかけになったあのスキャンダルも、こうして脅されていたせいだったのかもしれない。
透真は記憶の中にある『Serilion、メンバーの不祥事により活動休止へ』という記事の見出しを思い出した。その記事を見た瞬間の、世界が崩れるような絶望も一緒に思い出す――もう、あんな思いはしたくない。
「澪くんは、あの写真が世に出回ったら俺が攻撃されると思って、何も言わないことにしたんだろ?」
透真が静かに尋ねると、澪は「……そうだ」と答える。
「庇ってくれようとした気持ちは嬉しい。でも、俺はむしろあの写真が出回ったほうがよかったと思う」
「なんだって……? 本気で言ってるのか?」
「うん、本気だ」
透真は強い眼差しで向かいに立つ澪を見据えた。
前世であのスキャンダルを知った時、澪の本当の気持ちを何も知らずに絶望した。でも今なら、真実を知っている。アイドルである前に、人として澪を守るべきだ。
「実在しない女性とのスキャンダルを捏造されて、そのせいでSerilionがなくなるなら……いっそ真実を曝け出して、非難されるほうがいい」
ふたりのキス写真を見て、世間の人は何を思うだろうか。行き過ぎたメンバーの友情? それとも、女性ファンを相手にしてるくせに同性愛者だったのかと不快感をあらわにする?
――どちらでも構わない。『千景澪』を永久に失うより悪いことなんて、この世にはないんだから。
透真は覚悟を決めて、短く息を吐いた。Serilionを守る。自分を救ってくれた『千景澪』を、守る。これこそが、自分が生まれ変わってやるべきことなのだと、今はっきりと理解した。
「……井上さん。あなたは澪くんを脅して、何がしたかったんですか?」
女性スタッフの名字を思い出した透真が声をかけると、女は驚いて固まる。
「澪くんにアイドルを辞めさせて、独り占めしたかったんですか……?」
「そ……そうだって言ったら、なんか文句あるの!?」
「ある。澪は、アイドルであり続けるべきだ。澪くんほどステージの上で輝ける人はいない。ファンなら当然それをわかってるはずじゃないですか?」
「……ッ、お前が言うな! お前が、お前のせいで澪はおかしくなった……!! 千景澪は、私の澪はゲイなんかじゃない……!」
女は言葉にならない声を上げ、頭を掻きむしった。そして青褪めた顔でスマホを握りしめると、反射的に廊下へと駆け出した。ヒールの音が硬い床を叩き、焦りがそのまま足音となって響く。
「待て!」
透真がすかさず追いかける。長い手足を存分に使い、俊敏に距離を詰めていくが、スタッフは曲がり角を利用して逃げ切ろうとする。扉の先には階段があり、ここで振り切られれば厄介だった。
逃げられてしまうかもしれない――と全員が思った、その時。
「……っ!」
状況を見ていた澪が、スタッフの足元目掛けてペットボトルを転がした。女性の足首が転がってきたペットボトルに引っかかる。体が大きくバランスを崩し、「ドンッ」という激しい衝撃音とともに、女性スタッフは床に倒れ込む。手にしていたスマホが宙を舞い、高く弧を描いた。
その瞬間、ひゅっと軽やかな動きが視界をかすめた。
「澪、ナイス!」
空翔が鮮やかに跳び上がり、空中でスマホをキャッチする。体勢を整えると、そのまま透真へと手渡した。
「透真!」
透真は息を切らしながらスマホを受け取る。しかし、画面を見た瞬間、血の気が引いた。
【送信完了】
「……嘘だろ」
すべてが手遅れだったのか――? 絶望に目の焦点が合わなくなる。手が震え、スマホを握る指に力が入らない。
しかし、その横で空翔が小さく笑った。
「んー、でもさ」
彼は自分のポケットからスマホを取り出し、画面を透真に見せつける。そこに映し出されていたのは――全く同じ写真。
「この写真なら、もう持ってるけど?」
透真の脳が、一瞬で追いついた。空翔はこの女性スタッフが送信する前に、送り先のアドレスを自分のスマホに書き換えていたのだ。つまり、情報の流出は未然に防がれていた。
「……おっまえ、いつの間に……!」
「えへへ、ちょっとね」
呆然とするスタッフの顔が、見る見るうちに崩れていく。がくりと肩を落とし、その場に座り込んだ。もう、どこにも逃げ場はなかった。
「……こんなはずじゃなかった……私はやれって言われただけなのに! どうして……どうして『アイツ』は助けに来ないのよ……!!」
空翔に押さえつけられている女は、ぶつぶつとうわ言を繰り返している。
――『アイツ』……? 他にも関わってる人間がいたのか?
女の言葉に、うすら寒いものが背筋を駆け抜けていく。同じことを考えていたのか、空翔も懸念することがあるように、眉間に皺を寄せていた。
「透真、とりあえず警察と社長に連絡して! 俺の腕もいつまで持つかわからないから」
「あ、う、うん」
透真は空翔に言われるままに電話をかけ始めた。
一方、澪は空翔の腕の下でもがいている女性スタッフを複雑そうな瞳で見下ろしていた。
***
取調室の空気は、静かに、しかし重くのしかかるように張り詰めていた。冷たい蛍光灯の光が無機質な灰色の壁に反射し、室内に影のない白々しい明るさを作り出している。透真の目の前に置かれた書類には、脅迫の詳細が記されているのだろう。警察官がボールペンで何かを書き込むたびに、静寂を切り裂くような音が響く。隣に座る澪はうつむいたまま微動だにせず、その横の空翔は腕を組んで沈黙を守っている。
澪の指は力なく膝の上で絡まり、肩はわずかに震えていた。警察官の問いかけに、掠れた声で短く答えるものの、その視線はずっとテーブルの一点に落ちたまま。かすかに噛みしめられた唇は、白くなっている。
透真は、そんな澪の様子を横目で見ながら、喉の奥がひりつくような感覚を覚えていた。
――本当は、こんな場所に澪くんを座らせるべきじゃなかった。
そう思っても、どうすることもできない。自分の手を無理やり握りしめ、平静を装うことで精一杯だった。
隣の空翔は、腕を組んで背もたれに寄りかかっている。一見落ち着いて見えるが、指先が細かく動いているのが見えた。
警察官は、淡々とした口調で質問を続ける。
「千景さん、このスタッフに脅迫を受けたのは、いつ頃からですか?」
澪の肩が一瞬びくりと跳ねる。透真は思わず澪を見た。澪は震える息を押し殺しながら、低く、しかしはっきりと答えた。
「……1ヶ月前、です」
「えー、脅迫される原因となったものは、このおふたりの写真?」
「……はい」
「はあ。あなた、男が好きなんですね」
その瞬間、室内の空気がさらに冷たくなった気がした。警察官の口調に、馬鹿にしたような響きを感じた。
透真は無意識に拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込み、じわりとした痛みが広がる。
警察官が何かをメモし、次の質問に移る。澪はそのたびに言葉を選びながら答えていくが、途中で何度も詰まり、沈黙が生まれる。その沈黙が長くなるたび、透真の胃の奥がじわじわと痛んだ。
一方の空翔は、警察官の視線が透真や澪に向かうたびに、わずかに前のめりになり、まるで盾のように二人の前に立ちはだかろうとしているようだった。
澪の声が震えながらも確かに言葉を紡ぐたび、透真の胸の奥で何かが軋んだ。
――澪くんを守りたかったのに。結局、こうして澪くんを苦しませてる。
透真が唇を噛んでいたその時。硬質な音を立てて、取調室の扉が開いた。
「……うちの子たちを、これ以上怯えさせるような真似はしないでくれますか?」
よく通る声が室内に響いた。
透真が顔を上げると、そこには事務所の社長が立っていた。鋭い眼光を湛えたその表情には、一分の迷いもない。黒のスーツに身を包んだ社長は、毅然とした足取りで室内に入り、警察官の前に立った。その姿に、透真も空翔も思わず背筋を正した。
社長は警察官と短く言葉を交わし、澪たちの現状を確認する。その間、澪はまだ強張った表情のまま、膝の上で手を握りしめていた。
「被害届は、正式に出させてもらいます」
社長のその一言で、場の空気が変わった。警察官はうなずき、手元の資料にさらさらとメモを加える。
「脅迫を行っていたスタッフは本日付けで解雇となりましたので、起訴された際には元スタッフと報道されるかと思います」
そう告げられた瞬間、透真の肺の奥に溜まっていた重い空気が少しだけ抜けた気がした。空翔は腕を組んだまま、小さく息を吐く。
澪はほんの一瞬だけ目を閉じ、薄く震える肩を落とした。
——終わった。
そんな気がした。けれど、次の警察官の言葉が、張り詰めていた空気に新たな緊張を生み出した。
「ですが、まだ調査が必要です」
「どういうことですか?」
「女性スタッフの証言によると、単独犯ではなかったそうです」
その言葉に、透真の背筋が凍る。
「つまり……共犯がいる?」
絞り出すような透真の声に、警察官は淡々と頷いた。
「我々も引き続き捜査を進めます」
室内が、張り詰めた沈黙に包まれた。透真は無意識に澪のほうを見る。澪もまた、何かを考えるように、強く唇を噛みしめていた。
一件落着——そう思ったのは、ただの錯覚だったのかもしれない。まだ、終わっていない。
部屋の空気は、さっきまでとは違う意味で重くなっていた。
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