四十三歳の春だから

宙灯花

第一話 出会ってしまったじゃないの

 なんでこんなにゴミが多いんだろ。

 歯ブラシを咥え、燃えるゴミの袋を引きずるように持ってマンションの裏口を出ながら、福山ふくやま由実花ゆみかは一つ息をついた。昨夜ゆうべから小雨が降り続いている。傘を差すのは面倒なので、小走りだ。

 気づけば、バカボンのパパより歳上になっていた。かつては途切れることのなかった恋人も、いなくなってからどれだけの時が過ぎたのだろう。離婚から既に五年。十歳だった娘は難しい年頃になっているはずだ。

 時刻は午前九時を少し過ぎている。ゴミは八時までに出すことになっているが、他の袋がまだ残っているのでよしとしよう。コンクリートで囲まれたゴミ収集ステーションの屋根の下に駆け込んで、よっこいしょ、と声に出しながらゴミ袋を投げ降ろした。

 勢いがつき過ぎたのだろうか。あるいは結び方が緩かったのか。ゴミ袋が口を開いて、乱れた生活の一端を盛大に吐き出した。ビールのアルミ缶が軽い金属音と共に跳ねて転がり、スナック菓子の袋からはバナナの皮が顔を出している。コンビニ弁当の残骸やカップ麺の器には、生々しく中身がへばりついていた。

 由実花は、分別すらまともにされていないゴミが散乱した様子を呆然と見つめた。自分が散らかしたのだから、片付けるのは当然だ。しかし、どこからどう手をつければいいのか分からない。

 その時、由実花の足下に右から何かが伸びてきて、ソースまみれのプラスチックトレーを摘まみ上げた。

 大きな手だ、と思った。よく日に焼けている。アウトドアスポーツをしているのだろうか。でも筋張った感じはなくて、滑らかな肌をしていた。糊の利いた白いワイシャツの上には紺色のスーツの袖が重なっている。さほど高価な生地には見えないが、汚れはなくてヨレも見当たらない。手首に巻いているのはシンプルなアナログ式腕時計だ。

 由実花は視線を横に巡らせた。見知らぬ青年の屈託のない笑顔が由実花を見上げていた。眩しくて目を閉じた。歯ブラシが口からポロリと落ちた。

 なんということだ。よりによってゴミを見られてしまうとは。だらしない暮らしが丸出しだ。丸出しといえば、化粧もしていない無防備な顔だった。ファストフード店のスクラッチで当てたハンバーガー柄のトレーナーをインしたジャージは擦り切れて膝が見えそうだし、買ったときは白かったスニーカーはグレーに変色して踵が踏み潰されている。

 最悪だ。終わった。いや、始まっていないが。思わず髪に手をやった。無駄だと分かってはいたけれど。

「あの、手が汚れますよ?」

 なんだかよく分からないままに、由実花は感じたことをそのまま口にした。

「それであなたの手が汚れないなら、どうということはありませんよ」

 緑の草原を渡るそよ風のような優しい声が返って来た。

 何を言っているのだ、この人は。くらくらする。由実花は次に話すべき言葉を思いつかなくて、ぼんやりと青年を見つめた。

 青年は由実花が散らかしたゴミだけではなくて、口から落とした歯ブラシまで拾って袋に入れた。しっかりと口を縛りカラス避けの黄色いネットをかけて、重しのレンガをきちんと置く。

「はい、終わりましたよ」

 軽い身のこなしで立ち上がった青年に見下ろされている感じがしたが、嫌な気分ではなかった。

天園あまぞの航太こうたです。最近、このマンションに引っ越してきました。よろしくお願いします」

 ビニール傘を押しつけて駅の方へと走っていく航太の逞しい背中を目で追いながら由実花は思った。あの歯ブラシはまだ使えたな、と。

 天園航太。口の中で彼の名前を繰り返してみる。

 しまった、お礼を言いそびれた。由実花は首を振りながら、傘があるのに小走りでマンションの裏口に飛び込んだ。

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