1話: 監視の壁に穴を開ける

帝都学園第一高等部の旧館は、NatureMake時代以前の建物だった。3階建ての灰色の建物は、周囲の近代的な校舎群の中で唯一、過去の記憶を宿していた。その最上階の一室、ほぼ使われることのない図書室へと一樹は足を運んだ。

重い木製のドアを開けると、そこには美月だけでなく、意外な顔ぶれがいた。誠、クラスでは目立たない存在の工藤哲也、そしてスポーツ万能の井上由香。全員が静かに談笑していた—いや、「談笑」という言葉は正確ではない。彼らの表情には、微かだが確かに、学園内では見られない何かがあった。

「来たか、一樹」

誠が振り返った。その目には、かすかな期待の光が宿っていた。

「何のつもりだ?」

一樹は警戒心を隠せなかった。

「こんな集まりをしていたら、NatureMakeに検知される」

「ここなら大丈夫」

哲也が眼鏡を上げながら説明した。

「この図書室は、去年の改修工事の際に配線が古い規格のまま残されたんだ。NatureMakeのセンサーネットワークは定期的にアップグレードされるけど、この区画だけは工事記録の不備で更新されていない。三週間後の次回メンテナンスで修正される予定だけど、それまではほぼ監視の死角になっている」

「どうやってそんなことを?」

美月が前に出た。

「工藤君のお父さんはNatureMakeの施設エンジニアなの。彼がメンテナンス記録にアクセスできるの」

由香が続けた。

「それに、彼女のお父さんは…」

「それは今は関係ない」

美月が遮った。

「大事なのは、この場所で私たちは少しだけ自由になれるということ」

一樹は信じられない思いで周囲を見回した。

「自由って…何のために?」

「私たちは『青春復活計画』を始めたの」

美月の目が輝いた。

「NatureMakeが奪った、私たちの青春を取り戻すための計画よ」

「青春…?」

その言葉は教科書でしか見たことがなかった。NatureMake以前の時代の概念だ。

「具体的には?」

哲也がポケットから小さな装置を取り出した。手のひらに乗るほどの、銀色の円盤状の物体。中央に青い光を放つ部分がある。

「これは私が作ったEBD、Emotional Blocking Device(感情遮断装置)だ」

哲也の声が少し高まった。

「ネイチャータグからの信号を一時的に妨害し、感情抑制機能を無効化する」

「そんなことができるのか?」

一樹は半信半疑だった。

「NatureMakeのシステムは完全だと言われているのに」

「完全なシステムなどない」

哲也の目が真剣だった。

「実は、僕の父は…NatureMakeの初期開発チームの一員だったんだ」

哲也は声をひそめた。

「彼は最終的にシステムの倫理性に疑問を持ち、密かに反対派になった。捕まる前に、システムの設計図と弱点の資料を隠していったんだ。僕はそれを見つけて研究していた」

「捕まった…?」

「父は今、『再教育センター』にいる」

哲也の声は冷静さを保っていたが、その奥に何かがあった。

「二度と会えないかもしれない」

部屋に重い沈黙が流れた。

「このEBDの有効範囲は5メートル」

哲也は話題を変えた。

「効果は30分程度。それ以上使うと検知されるリスクがある」

「何のために…こんな危険なことを?」

一樹はまだ理解できなかった。

美月が静かに答えた。

「生きることの意味を知るために」

「NatureMakeは『平和のため』と言って私たちから感情を奪った」

誠が拳を握った。

「でも、それは本当に生きていると言えるのか?ただ存在して、機能して、そして死ぬだけの人生で満足できるか?」

由香が付け加えた。

「私の祖母は、NatureMake以前の時代を知っている。彼女は密かに私に語ってくれた—喜びも悲しみも、そして恋愛も含めた、本当の人間らしい生き方を」

一樹は動揺していた。これらの考えは「危険思考」として厳しく規制されているものだ。でも、この部屋の中では、ネイチャータグの警告が来ない。本当に遮断されているのか?

「実験してみないか?」

哲也がEBDを中央に置いた。

「30分だけ。本当の自分を感じてみないか?」

一樹は躊躇した。発見されれば、アジャストメント・センター行きは確実だ。しかし、何かが彼を駆り立てていた。生まれて初めて感じる、純粋な好奇心だろうか。

「…やってみよう」

哲也がEBDを起動すると、青い光が強まり、部屋全体を淡い光で包み込んだ。最初は何も変わらない。しかし徐々に、微かな変化が始まった。

「なんか…胸が熱くなる」

由香が戸惑いながら言った。

美月の目に涙が浮かび始めた。

「ずっと抑えられていた…こんなにも悲しかったなんて」

誠は突然、壁を殴った。

「くそっ!何で俺たちはこんな生活を強いられなきゃいけないんだ!」

そして一樹は…言葉にできない感情の渦に飲み込まれていた。これまで感じたことのない強烈な感覚の嵐。怒り、悲しみ、恐怖、そして不思議な高揚感。彼の視界が滲み、気がつくと頬を伝う何かを感じた。涙。管理された人生で初めての、本物の涙。

「こ、これが…人間の本来の姿なのか」

一樹は震える声で言った。

哲也も感情に揺さぶられていたが、計時を続けていた。

「残り10分。徐々に抑制していくよ。突然切ると身体がショックを受ける」

三十分後、全員が元の状態に戻っていた。表面上は。しかし、何かが決定的に変わっていた。

「忘れないでね」

美月が全員に言った。

「今日感じたことを。これが私たちの本当の姿。NatureMakeに奪われた、本来の人間の姿なの」

「でも、これからどうするんだ?」

一樹は問うた。

「このまま週に一度、三十分だけ『人間らしく』なって、また日常に戻るのか?」

誠が答えた。

「いや、これは始まりに過ぎない。俺たちは、もっと大きなことを計画している」

「青春復活計画、フェーズ2」

哲也が補足した。

「でも、それには君の協力も必要だ」

「私の…?」

「あなたには特別な才能がある」

美月の目がまっすぐ一樹を見つめた。

「NatureMakeの監視システムに対する異常な耐性。今日のCR値4.2も、実は低く報告されているのよ。実際はもっと高いはず」

一樹は困惑した。

「どうして僕にそんな…」

「君のお父さんが理由かもしれない」

哲也が言った。

「NatureMakeの調律物質の初期開発者だった佐藤博士は、君の父親だろう?」

一樹は息を呑んだ。父は彼が幼い頃に「事故」で亡くなったことになっている。NatureMakeの研究者だったことは知っていたが、そんな重要なポジションだったとは…

「お父さんは君に何か残さなかった?」

美月が尋ねた。

「小さな装置とか、メッセージとか…」

一樹は首を振った。「何も…」と言いかけて、ハッとした。

「いや、待てよ。父の形見の懐中時計がある。母がくれたんだ」

「見せてくれる?」

哲也の目が輝いた。

「今は持っていない。寮の部屋だ」

「明日、持ってきて」

哲也が言った。

「もしかしたら、それが鍵かもしれない」

EBDの効果時間が終わりに近づいていた。一樹は名残惜しく感じた—その感情さえ、すぐに抑制されるのだろうが。

「次回は三日後、同じ時間」

美月が言った。

「それまで、気をつけて。普段通りに振る舞って」

部屋を出る前に、美月が一樹の袖を引いた。

「佐藤君…一樹」

彼女が名前を呼ぶのは初めてだった。

「あなたは一人じゃない。私たちがいる」

その言葉が、一樹の心に残った。ネイチャータグの調整を受けても、完全には消えない暖かさとして。

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