自然選択 — Ver. 2.0
Y2K
プロローグ: 調律された世界
佐藤一樹は朝の定時に目を覚ました。
6:00:00。
電子タグが埋め込まれた左手首から微かな振動が伝わる。遅延も早発もない。完璧な目覚め。脈拍は62.5。体温36.4度。セロトニン・ドーパミン・ノルアドレナリン値は全て最適基準値内。
一樹は機械的な動作で窓のブラインドを開けた。鉛色の朝の光が四角い学生寮の部屋に流れ込む。天候管理システムが今日は「曇り:気分上昇抑制」に設定されているのだろう。
身支度を整えながら、制服の襟元に安全ピンで固定された小型の銀色のデバイス—NatureTag(ネイチャータグ)—を確認する。すべての市民が装着を義務付けられているこの装置は、体温、脈拍、血液中の化学物質濃度、そして脳波パターンまでも常時監視していた。そのデータはリアルタイムでNatureMake社の中央システムに送信され、「最適化」されるのだ。
「最適化」
一樹はその言葉を心の中で反芻した。感情を排除するとは言わない。ただ「最適化」すると言うのだ。過度な喜びも、深い悲しみも、燃えるような怒りも、そして何より厄介な恋愛感情も、すべては「非効率的」として調整される。
思考がそこまで進むと、ネイチャータグから微かな震えが伝わった。警告だ。危険思考の兆候を感知したのだろう。一樹は迅速に思考を切り替えた。
「今日の予定。数学、歴史、生物学、社会適応演習...」
震えが止んだ。デバイスが皮下から適量の「調律物質」を放出し、脳内の化学バランスを元の「最適値」に戻したのだ。この世界ではそれが日常だった。考えすぎない。感じすぎない。ただ存在し、機能する。NatureMakeが10年前に世界を「救った」方法だ。
「朝食時間です。」
寮内放送が無機質な声で告げる。一樹は部屋を出て、均一に設計された廊下を歩いた。同じ制服、同じ表情、同じ歩調の学生たちが列をなして食堂へと向かっていく。
「おい、一樹」
背後から声がかかり、幼馴染の高橋誠が追いついてきた。誠のネイチャータグは一樹のものより少し新しいモデルだった。親がNatureMake社の中間管理職だからだろう。
「おはよう」
一樹は応じたが、二人とも目に輝きはなかった。挨拶は社会的儀礼として最適化されたコミュニケーションプロトコルの一部に過ぎない。
「今日のCR値は安定してる?」
誠が日課のように尋ねた。
CR値—Control Ratio(管理比率)—は個人の感情変動の指標だ。値が低いほど「安定」しているとされる。
「4.2。標準範囲内だ」
「俺は3.9」
誠が答え、続けた。
「昨日、隣のクラスの山本が閾値を超えて連れていかれたらしい」
「アジャストメント・センターか」
一樹は無関心を装いながら言った。しかし内心では動揺していた。「アジャストメント」を受けた者の多くは、数日後に別人のように戻ってくる。目がさらに死んでいるのだ。
「そうだ」
誠が低い声で言った。
「CR値9.7だったらしい。何かあったんだろうか」
一樹は沈黙した。何かを感じることは危険だった。何かに興味を持つことも。単に生きることだけが求められる世界で、好奇心は不要な変数だ。
しかし、この管理された日常の下で、一樹の内側では何かが静かに蠢いていた。彼自身も認識できないほど微かな、しかし確かに存在する何か。この世界の「正常」に違和感を覚える何か。
食堂に着くと、彼らは黙って列に並んだ。均一に調整された栄養食が配られる。味は「許容範囲内の満足度」に設定されている。美味しすぎず、不味すぎず。それが「最適」なのだから。
「今日も変わらない一日が始まるな」
誠がつぶやいた。
一樹は小さく頷いたが、その瞬間、珍しいことが起きた。食堂の入り口で女子生徒が転んだのだ。長い黒髪の女子生徒—佐々木美月だった。学年トップの成績を維持している優等生だ。
周囲の生徒たちは無表情で彼女を見ていた。誰も手を貸そうとしない。それは「最適」な反応ではないからだ。各自の行動は自己責任。過度な共感や援助は依存を生むと教えられている。
しかし一樹は、自分でも理解できない衝動に駆られて、立ち上がっていた。
「大丈夫か?」
美月は驚いたように顔を上げた。彼女の目が、一瞬だけ、普段とは違う輝きを見せた。
「ありがとう、佐藤君」
彼女の落としたタブレットを拾おうとしたとき、画面に一瞬だけ奇妙な図形と数式が映った。すぐに暗転したが、それは標準のカリキュラムには含まれていないものだった。
「何の…」
と言いかけて、一樹は口をつぐんだ。余計な質問は最適ではない。
「見なかったことにして」
美月はタブレットを素早く受け取り、囁くように言った。
「放課後、旧館の図書室に来て」
彼女は立ち上がり、何事もなかったかのように自分の席に向かった。しかし一樹の胸には、微かな違和感が残った。それは彼のネイチャータグが即座に検知し、調整しようとする感覚だった。しかし今回は、何故か完全には消えなかった。
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