急に態度を変えないでください

寺音

急に態度を変えないでください

 今日は春らしい温かい気候だ。私は足を止めて、思いきり深呼吸をする。ふわりと、どこからか梅の花らしい香りが漂ってきた。きっと近所の上松さんの梅だな。

 最近は放課後にランニングがてら町内を走り回っているけど、ちょっとずつ春の息吹を感じられるようになってきてとても嬉しい。パーカーを脱ぎたくなるくらいには体が暖まっているし、そろそろ家に帰ろうかな。

 改めて走り出そうとしたその時、電柱の影に何かが落ちていることに気づいた。


 大きさは私の手のひらくらい。二頭身だけど、手も足もあってちゃんと人の形をしている。癖のある薄桃色の髪の毛に、白い無地のセットアップのような服を着ている。うつ伏せで倒れているので、背中についたトンボみたいな薄い羽がはっきりと見えた。誰かの落とし物、ぬいぐるみかな。

 そう思って近づいてみると、なんとそのぬいぐるみがよろよろと身を起こした。


「動いた!?」

 思わず大声を上げてしまって、慌てて口を両手で押さえる。幸い、周囲には誰もいなかったみたい。

 私はそっと動くぬいぐるみの正面に回り込む。

「うわぁ、可愛い……。妖精さんみたい……!」

 もちっとした頬っぺたに大きな青い瞳。背中の羽もあって、西洋絵画の天使かアニメに出てくる妖精さんのように可愛らしい男の子だった。

 でも、全体的に土や砂で汚れているし、大きな瞳には涙の膜が張られていて今にも泣き出しそうだ。


「ちょっと君、大丈夫!? どこか痛い? 転んじゃったの?」

 私は我慢できず、咄嗟に妖精さんを抱き上げた。動く小さな人なんて明らかに不思議な現象なのに、受け入れてしまうのはどこかの狐さんのせいだろう。

 私が抱き上げた途端、妖精さんは涙をポロポロと流してひっくひっくと声を上げ始める。さくらんぼ色の唇から溢れたのは、鈴の音のような可愛い声だった。


『こりょ、んだぁ……!』

「こりょ? ああ、転んじゃったのか。よーしよし。大丈夫だよー、痛いの痛いの飛んでいけー!」

 舌足らずな口調につい苦笑いを浮かべながら、妖精さんを軽く抱きしめポンポンと背中を撫でる。汚れているけれど見た感じ怪我はないようだし、多分大丈夫だろう。

 次第に落ち着いてきたのか、妖精さんの呼吸が穏やかになってくる。


『お姉さんって、とっても優しいね』

「……ん?」

 なんだろう、急に声が低くなったような。妖精さんの体を自分から離すと、妖精さんは私の顔を見つめてにっこりと微笑んだ。

 可愛らしい笑みは正に天使の微笑み、だけど、何故だか少し嫌な予感がする。

『ねぇ、お姉さん。僕と遊んでくれる?』

 妖精さんが私の頬に、紅葉のような手のひらを伸ばしてくる。僅かに指先が私の頬に触れた瞬間、聞き覚えのある大声が響き渡った。


芽衣めい――――っ!? 貴様っ、この人間にはこの私がのだぞ! 私の目の紅いうちは貴様のような者の好きにはさせぇぇぇんっ!!」

 黄金の長髪と狩衣の袖を振り回しながら現れたのは、いつも私について回っている化け狐の黄太こうただった。

 どこからともなく現れた彼は、妖精さんと私の間に強引に割って入る。肩を抱かれ、私は黄太の背中に隠されてしまった。


「黄太!? え、ちょっ」

 咄嗟に妖精さんを放り出してしまった。私は慌てて黄太の後ろから顔を出す。

 すると、宙に浮かんで呆然としていた妖精さんに変化が起こった。うるうるとした大きな瞳が暗雲のように濁り、肌の色がみるみるうちに緑色に染まっていく。そして、天使のようだったくるくるの癖っ毛の間からは、二本の小さな角が生えてきた。


『けっ! つまんねぇ。久しぶりに人間で遊べると思ったのによぉ!』

 そう吐き捨てた妖精さんが、小さく声を出して舌打ちをする。

 ええー、何その豹変っぷり。感じ悪ぅ。

「さっさと帰れ!!」

 シャーっと声が聞こえてきそうなほど、黄太は牙を向き耳と尾をビンと立てて威嚇する。

 それに怯んだのか、妖精さんは私たちに向かって「あかんべー」をすると、パッとどこかに消えてしまった。


「全く、油断も隙もない……。芽衣、あまり他のものにも真心をふりまかないでくれ。お前のように心の清い人間は、あのような存在にも好かれやすいのだからな」

「あー、うん。いや……」

 真心をふりまくって何よとか、心の清いって大袈裟ねとか、好かれやすいって本当にとか。言いたいことが色々ありますぎて、私は曖昧に相槌を打つ。

 黄太の眉毛が下がっていて、大切なものを盗られそうになった子どものような頼りない眼差しを私に向けている。


「あの子、何なの?」

「私と同じあやかしの一種だろうな。鬼のような、そうでないような曖昧なものだ。しかもああ見えて、人を惑わすのは得意と見える。私と違い、神の眷属けんぞく候補にもなれない悪しき存在だ」

 確かに惑わすのが得意というのは納得できるかもしれない。

 あの子に触れられた時、一瞬だけくらっと眩暈のような感じがあって、嫌な気持ちになったのよね。あのままあの子と一緒にいたら、何か良くないことになっていたのかな。


「黄太、助けにきてくれたんでしょ? ありがとうね」

「ふふ、礼を言われるほどのことではない。芽衣は私の恩人であり、将来の伴侶だからなっ!」

「……伴侶は止めて」

 黄太の「伴侶」発言に突っ込みを入れつつ、私はさっきの黄太の発言を思い出す。


「そう言えば、さっき言ってた『この人間には私がついている』ってさ、明らかに普通のニュアンスじゃなかったよね? もしかして、何か隠してる?」

 ビクッと黄太の耳と三本の尻尾の毛が逆立つ。

 分かりやすい。やっぱりこれは何かあるな。

 私が無言で黄太を睨んでいると、彼はやがて観念したように口を開く。


「私たち神の眷属見習いは、修行として自らが選んだ人間の願いや困り事を解決していくことで徳を積むのだ。その状態を『憑いている』と表現することがある。選ばれた人間の体のどこかには、その『しるし』がつくのだ。――あ、私が芽衣の側にいるのは決して修行のためだけではないぞ!? 芽衣に心底惚れ込み、お前の力になりたいと思ったからであって」

「えっ!? ってことは、私、アンタに『憑かれてる』状態だったってわけ!? って言うか、印!? え、嘘あるの!?」

 ペタペタと自分の身体を触る私に、黄太が声をかけた。


「その、手の甲の痣がそうだ。ただの痣にしては妙な形をしているだろう?」

 言われて自分の右手の甲を見ると、真ん中にポツンと指先くらいの大きさの紅い痣がついている。

 そう言えば、前からあったなこの痣。

「ああ、そう言えば、変な痣があるなーと思ってたのよね」

「むしろ、今まで一切違和感を持たなかったところが驚きだ。まぁ、そんなおおらかなところも愛らしいが」

「だ、だってこんなに小さいんだもの。まさかそんな意味があるなんて思いもしなかったから」

 なんとなーく狐っぽい形だなと思ってたけど。まさか黄太のせいだったなんて。

 私が言い訳のような言葉を口にすると、黄太は私から少し視線を外して呟いた。


「――まぁ、その印は仮のもので、正式なものではないからな。目立たなくても仕方がないか」

「え、そうなの? なんで『仮』?」

 仮だなんて言われたら気になっちゃうじゃない。

 私が問いかけると、黄太は益々狼狽えて視線を泳がせ始める。

 何故か顔もほんのり紅い。

「い、いや、その……。さすがに無許可で正式な印を結ぶというのは、現代でいう『せくしゅあるはらすめんと』というやつになるのではないかと思い」

「いや、何が? なんで?」


 いつもグイグイくるくせに、何で今日はこんなに弱気なのよ。

 私が軽く睨みつけると、黄太は頬を真っ赤にしてゴホンとわざとらしく咳払いをする。

「正式な印を結べば、文字通り芽衣は私に『憑かれた』状態となる。すると、いつでもどんな時でも芽衣と繋がっていられるのだ。今までのようにこっそり見守っていなくともな。ずっと共にいるだなんて、そ、そんな契約――夫婦めおとより深い関係になるも同然ではないかっ!?」

「ずっと、一緒……?」


 顔から火が出たみたいだった。ボッと顔に熱が集まって、頬が燃えているみたいに熱い。

 今までもこっそり、または大胆に見守られてきたけれど、正式契約を結んだら今まで以上に黄太との繋がりが強くなるのは確かなわけで……ええ!?


「だが、芽衣が望んでくれるのであれば、これほど喜ばしいことはない……! 芽衣、私と今すぐ正式な契約を結んで、今まで以上に深く濃い関係に――」

 ルビーの瞳をふわりと蕩けさせて、柔らかい笑みを浮かべた黄太が私に顔を近づけてくる。

 気づくと私は、黄太にくるりと背を向けて全速力で走り出していた。


「ご、ごめん! それはもう少し心の準備ができてからぁぁ――っ!」

「め、芽衣!?」

 呼び止めるような黄太の声が聞こえたけど、気にしてなんかいられない。

 私は一度も後ろを振り向かず、全速力で家へと向かった。




「あー……、なんだかすごく疲れた……」

 家に辿り着くと、思いきりベッドへとダイブする。かけ布団の表面は案外ひんやりとしていて、火照った深く体に染み入る。

 全く黄太ってば、突然とんでもないこと言い出すんだから。

 あんなこと言われたら困るんだってば。


「――ん? あれ? そう言えば私」

 正式契約、はっきり断ってないんじゃない!?

 あ、あれぇ? 押しかけられるのは迷惑だったはずなのに。

「なんで……?」

 これ以上考えるとなんだかとんでもなく恥ずかしい結論に至りそうで、私は考えるのを止めた。

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