第五章 ジャズピアノに宿る浪漫の炎

 鈍色の雲がどこか浮き立ったように流れ、夕暮れの街にガス灯の明かりがともり始める。西洋文化が流れ込み、和と洋が混ざり合った独特の雰囲気――そこかしこに「大正ロマン」の香りが漂う東京の街角。

 モダンな洋装に身を包んだ男女が行き交い、カフェーやサロンなど洗練された社交の場が賑わう一方で、旧来の秩序や封建的風習もまだ息づいている。そんな時代の狭間で、人々は自由と退廃のはざまを揺れ動いていた。


 高槻 駿介は、下町の一角にある小さなカフェーでピアニストとして日々を送っていた。

 その店は大通りから少し外れた路地に面していて、外観は洋風のガラス窓と手描きの看板が目印。店内には低いカウンターと数卓のテーブルが並び、奥には小さなステージ――と言うよりほんのわずかな演奏スペースが設けられている。そこに置かれた古いアップライトピアノが、駿介の仕事場だった。

 駿介は昼間は別のアルバイトをしながら、夜になるとカフェーのピアニストに変身する。軽快なジャズや洋楽を中心に弾き、客を楽しませるのが役目だ。もっと華やかな劇場に誘われることもあったが、彼はなぜかこの小さなカフェーに落ち着いている。人付き合いが面倒なのと、ひっそりと弾いていたいという性分があるからだ。


 店内は赤いランプがともり、ほんのりと煙草の香りが漂う。

 客たちがグラスを傾け、静かに談笑する中、駿介はピアノの前で一曲を終えた。拍手が起こり、鼻緒を引きずるような和装の客から「いいねえ」と低い声がかかる。

 その光景を見渡しながら、駿介は淡々とお辞儀をし、次の曲の楽譜に手をかける。幼い頃からピアノに親しんだわけでもないが、不思議なほど指が覚えているような感覚があり、弾いている最中だけは心が落ち着くのだ。

 ただ、その演奏にはどこか影が宿っている――と常連客から言われることがある。胸の中に常に拭えない悲しみを抱えているかのような、哀調めいた音色。その理由を問われても、駿介自身はうまく説明できない。ただ、自分でもわからない喪失感が胸にあるのは確かだった。


「駿介さん、次は何を弾くんだい?」

 カウンター越しに声をかけてくるのは、同じカフェーでバーテンを務める篠崎 光希。明るい笑顔とおしゃべり上手で、店のムードメーカー的存在だ。

 駿介は肩をすくめて、「適当にジャズ風の曲を……」と答える。光希は笑い、「いいねえ。今夜の客もじきに増えそうだし、盛り上げておくれ」とウインクを返す。

 そんな、いつもと変わらない夜の始まり。客席を見ると、早速グラスを片手に楽しそうに笑い合う男女の姿が増えていた。洋風のドレスを着たモガ(モダンガール)たちや、洒落たマントを羽織るモボ(モダンボーイ)たちが行き交い、まるで西洋の社交場を模倣したような光景だ。


 駿介はふと、入口付近に視線をやる。扉が開いて、誰かが入ってきたのを音で感じたからだ。

 そこに立っていたのは、ほかの客よりも一段と洗練された雰囲気を纏う男。黒い洋帽と三つ揃いのスーツをきっちりと着こなし、その足元には革靴が光っている。

 目を見張るほど美しいというよりは、どこか貴族的な気品を感じさせる容姿。姿勢が良く、客席を悠々と見渡してから、すっと奥の席へと歩みを進める。カフェーの曖昧な照明に、その横顔が艶やかに浮かび上がったとき、駿介は思わず息を呑んだ。


(どこかで……会ったことがあるだろうか)


 そんな不思議な錯覚を覚える。わけもなく胸が震え、指先が固くなるような感覚。まるで、時が止まってしまったように、その男だけが際立って見える。

 男と目が合った――気がする。ほんの一瞬、男の視線がピアノの方を向き、駿介の姿を捉えたかと思うと、微かに目を細めたようだった。

 駿介はなぜか胸が苦しくなり、あわてて鍵盤に視線を戻す。客との視線が絡むのは日常のことだが、こんな衝撃を受けたのは初めてだ。


 男は静かにテーブルに腰を下ろし、篠崎がメニューを持っていく。ほんの少し会話を交わしたのか、篠崎が戻ってきてから、グラスにワインのような液体を注ぎ出した。おそらく気品ある洋酒が欲しいとでも頼まれたのだろう。

 駿介は軽く深呼吸をして、次の曲を弾き始める。少しテンポを落としたジャズアレンジの洋曲。指先が鍵盤を叩くたび、胸がざわつく。いつも通りに弾きたいのに、心が落ち着かないのだ。

 客席からの視線を感じる。特に、先ほどの男――彼がじっとこちらを見つめている気がする。その証拠に、曲を終えてフェイドアウトすると、ふっと耳に届くほどの小さな拍手が聞こえてきた。


(なんなんだ、あの人……)


 駿介は疑問と興奮が入り混じったまま、次の曲の譜面を取り出す。店はそれなりに客が入っているのに、男の存在だけが異様なまでに意識を奪う。胸の奥がざわめき、なぜか懐かしさすら覚えるのは奇妙だ。

 さらに一曲を弾き終え、夜も更け始めた頃、ようやく休憩に入れた駿介は、足取りもおぼつかなくカウンターへ歩いた。気だるさを覚えながら椅子に腰かけると、篠崎がニヤリと笑って寄ってくる。


「ねえ駿介、あのお客さん、気になるんでしょ? さっきからずっとおまえの演奏に聞き惚れてるみたいだよ」

「べ、別に。……てか、なんか変わった雰囲気の人だな」

「そりゃそうさ、霧島 悠輝って名の、財閥関係の御曹司らしいよ。金も地位もある大物だって噂。ほら、最近よく聞くじゃない? 新興財閥が政財界を牛耳ってるとか」

「へえ……それでここに?」

「さあね、モガ・モボの社交場を巡るのが趣味って話だ。今日はふらりと入ってみたみたい。駿介、あっちから呼んでるよ。『ピアニストと話したい』んだってさ」


 篠崎が顎で示す先を見やると、さきほどの霧島 悠輝がグラスを片手に微笑んでいる。どうやらこちらに来いという意思表示らしい。

 駿介はどきりとしながら、帽子をかぶり直すようにしてから意を決して歩み寄った。テーブルにつくと、霧島は柔らかな声で言う。


「こんばんは。突然失礼、私は霧島 悠輝という者です。君の演奏、たいへん心地よくて……つい話しかけたくなったのだが、迷惑だったかな」

 近くで見ると、その美しさはさらに際立ち、瞳には人を射抜くような深い光があった。駿介は少し混乱しながら、「い、いえ、とんでもない。高槻 駿介と言います。ピアノを褒めていただけるなら嬉しいですよ」と答える。

 霧島はうなずき、グラスをそっと置く。「そうか。……君の音色はどこか懐かしい。ジャズのリズムに乗っていても、不思議な哀愁が混ざっているというか。まるで魂が震えるような感覚を覚えた」

 駿介はその言葉に胸が詰まる。なぜだろう、ただの客の感想にしては、まるで自身の深いところを見透かされているような気がした。


「そ、そんな大げさな……俺はただ、思うままに弾いているだけです。でも、そう感じてもらえたなら本望です」

「うん、すごく良かった。……実は、もう少し君の演奏を聴きたいんだ。休日にでも、カフェーを貸し切ることは可能だろうか?」

「貸し切り、ですか……?」

 驚く駿介に、霧島は「費用なら気にしないでくれ」と微笑む。さすが大財閥の跡取り、やることがスケール大きい。それにしても、どうしてここまで自分の演奏を気に入ってくれるのか。


「ぜひ、お引き受けください。君の演奏を独り占めしたいなんて、勝手な申し出かもしれないけれど……どうにも抑えきれない衝動があるんだ。君の音をずっと聴いていたい、もっと近くで感じたい、と」

 その熱のこもった言葉に、駿介は胸の奥がざわつく。いったい何にこんなに突き動かされているのか――いや、この男こそ、本能的な懐かしさを呼び起こす存在なのか。

 気づけば、思わず頷いていた。「わかりました。俺でよければ……。店のマスターにも相談して、休日に時間を作りますよ」

 霧島は嬉しそうに目を細め、「ありがとう、駿介さん」と名前を呼ぶ。その名前の響きが妙に甘美で、駿介は軽く息が詰まるような感覚に襲われる。


(この気持ちは……何なんだ)


 自分が知らないだけで、この霧島 悠輝という男とどこかで会ったことがあるのだろうか。あるいは前世とか、そんな馬鹿げたことも頭をよぎる。だが、その答えは曖昧なままだ。

 とにかく、これが二人の出会いだった。静かなカフェーの夜、赤いランプの下で二人の視線が交わったとき、運命はいや応なく動き始めたのかもしれない。


 ―――――


 それから数日後の日曜の朝。普段は昼以降に開店するカフェーを、霧島が借り切った。店内には彼とその側近らしい男が数名いたが、すぐに外へ退けと指示され、最終的には霧島と駿介だけが残る形になる。

 篠崎はバーテンの役割を果たすため待機していたが、霧島の「二人だけで過ごしたい」という要望に気圧されて、奥の倉庫で雑用をしている。

 夜ではなく、昼間に店を訪れるのもどこか新鮮だ。外の光が差し込むカフェーの木製テーブルや床は、少し埃が目につくが、霧島は気にする様子もない。


「では……何かリクエストありますか?」

 ピアノの前に座った駿介が尋ねると、霧島は店の真ん中のテーブルに腰を下ろし、微笑んだ。

「君の好きな曲を弾いてくれないか。ジャンルは問わない。ただ、君の感情を宿した音が聴きたいんだ」

 駿介は目を伏せ、そんな抽象的なリクエストにどう応えればいいのかと一瞬迷う。だが、次の瞬間、ふっと指が自然に鍵盤を探り始める。自分でもなぜこの曲を弾くのか説明できないが、心にある「哀しみ」を音にしてみたかった。


 静かな前奏から入り、徐々にジャズのリズムを織り交ぜながらメロディを展開していく。歌詞もないインストだけの曲だが、駿介が紡ぐフレーズには哀愁と情熱が混ざっていた。

 その音色をじっと聴きながら、霧島は微笑むときがあったり、ふっと切なげな表情になったり、さまざまに表情を変えている。それを見ながら駿介も、胸が不思議な熱さに包まれていく。

 曲を終えたとき、カフェーの空気はピンと張り詰めたようだった。霧島はスタンディングオベーションでもするように両手を打ち合わせ、わずかに目を潤ませて立ち上がる。


「素晴らしい……。まるで、心の奥深くを突き動かされたよ。懐かしいような……でも胸が痛いような……。君は音で何を表現しているんだい?」

「さあ……自分でもよくわかりません。ただ、何か失ったものの痛みを、無意識に鳴らしているような気がします」

 駿介が正直にそう言うと、霧島の瞳が震えるように揺れた。


「失ったもの、か。……実は私も、大切な何かをずっと探している感覚があるんだ。形も思い出せないのに、いつか出会えたらいいと願っていた。もしかして、それが……」

 言葉を区切った霧島は、駿介の方へ近づく。昼間の店内なのに、まるで黄昏時のような甘い空気が流れ、駿介は心臓が早鐘を打つ。

 霧島の手が伸びて、そっと駿介の肩に触れた。視線が絡み合う瞬間、駿介の脳裏に稲妻のような衝動が走る。駿介は思わず息を止め、彼の瞳をじっと見返した。


「君は、不思議な人だ。どこか懐かしく、愛おしくさえ感じる。……まるで、前世から待ち続けていたような」

 霧島の声は低く掠れていて、駿介の胸を抉る。その言葉がまるで自分の気持ちを代弁するかのようで、涙が出そうになるのをこらえる。

 そして、ほんの一瞬の迷いの後、駿介は思い切って霧島を抱きしめた。男同士、こんな昼間のカフェーであり得ない行為だ。だが、それでも止められない。今ここで離すと、二度と会えなくなりそうな焦燥が駿介の背を押す。


「……驚かないのか?」

 駿介が震える声で問うと、霧島は穏やかに息をついて、「むしろ、嬉しい」と答える。次の瞬間には、彼の腕が駿介の背をしっかりと抱き寄せ、互いの体温を感じ合うように強く抱擁する。

 昼間の静寂を背景に、二人は唇を重ね合う。窓ガラスから差し込む光が揺らぎ、影が床に伸びている。音もなく交わされるキスは、どこか禁断の快感を伴い、駿介の心を激しく揺さぶった。


「……こんなの、許されないのに」

「わかってる……けど、私にはもう君を手放せない気がしている」

 ぎこちなく言葉を交わしながらも、再びキス。これが現世なのか夢なのか、わからなくなるほどのめり込む。カフェーの空気が妖しくも甘い官能に満ちていく。

 篠崎が奥で待機しているのを思い出し、駿介はハッとなって身体を離す。まったく人目に晒されないわけではないのだ。それでも、霧島に触れた感覚は身体に刻まれ、離れられそうになかった。


 そんな危険な逢瀬が、駿介と霧島を結びつけていった。

 霧島は財閥系の大企業を継ぐ立場にありながら、夜な夜なモダンな店を巡り、自由な文化に浸るのを楽しんでいるらしい。しかし、本質は誰よりも繊細で、激動の時代に翻弄されているようにも見えた。

 駿介はそんな霧島の弱さを感じ取り、抱きしめたくなる。男同士だからこそ、肌を重ねるときには強い背徳感があるが、それ以上に「この人を愛さずにいられない」という強い想いが抑えられない。


 ―――――


 ある夜、駿介はいつものようにカフェーで演奏を終え、客を見送った後もピアノに向かっていた。店の営業時間はすでに過ぎ、照明は半分だけ落とされている。

 外はしとしとと小雨が降り、通りのガス灯が揺らいでいるのがガラス窓の向こうに見えた。そんな夜の静寂を切り裂くように、扉が開く音がする。

 駿介が目を上げると、霧島 悠輝が足早に入ってきた。髪や肩が少し濡れていて、息を切らしている様子だ。


「どうしたんです、こんな遅くに」

 駿介が驚いて立ち上がろうとすると、霧島は無言で歩み寄り、そのまま駿介を抱きしめた。少し冷えた身体が駿介の胸に触れ、そのあと激しく唇を重ねてくる。

 駿介は抵抗する余裕もなく、霧島の情熱に引き込まれる。まるで、何かに追い立てられているかのように激しいキスだった。


「駿介……頼む、今夜は、誰にも邪魔されたくない……」

 荒い息のまま囁く霧島。駿介はその切迫した声にドキリとしながら、店の鍵を閉め、ブラインドを下ろす。深夜のカフェーは、もうほとんど外から見えない状態になった。

 ピアノの前に戻ると、霧島は何も言わずに駿介を椅子へ座らせる。そして、自分も隣に腰かけ、再び激しく唇を奪った。袖口のボタンを外し、ネクタイを乱暴にほどく。服の擦れる音が薄暗い店内に響き、駿介の鼓動は限界に近い。


 フロアの真ん中に立ち上がり、霧島はさらに駿介を求める。ピアノの上に片手をつきながら身体を寄せ、二人の足が絡む。背徳的な演出に満ちた店内は、濃厚な官能の空気で包まれていた。

 鍵盤を軽く指先で叩くと、びくりと霧島の身体が震え、微かな音が場に溶ける。駿介は切ない吐息を漏らしながら、そのまま霧島の背をしっかり抱きしめた。


「どうしたんだ……何かあったのか?」

 心配を押し殺しきれず尋ねると、霧島は短く首を振る。「いいんだ、何も聞かないで。今は君を感じていたい。……頼む、離れないでくれ」

 その声に宿る悲壮感が、駿介の胸を締め付ける。霧島は何か大きな不安や恐怖を抱えている。わかるのに、駿介はただ抱き寄せてやることしかできない。

 深夜のカフェー、ぬるい空気の中で二人は情事に耽る。音もなく交差する吐息に、暗い照明が妖しく照り返す。鍵盤の上に少しずつ衣が落ち、男同士の身体が重なり合う。


 この背徳的な行為が、駿介の心にひどく安堵をもたらすと同時に、どこかで「再びこの人を失うのでは」という漠然とした恐怖を呼び起こす。なぜそんな不安を抱くのか、自分でもわからない。けれど、過去に何度も同じことを繰り返してきたような気がしてならなかった。


 ―――――


 翌朝。駿介は店のソファで霧島を抱いてうとうとしていたが、空が白み始める頃に、彼はそっと立ち上がった。もう行かなくてはならないのだろう。

 駿介はまだはっきりしない意識の中、「行くのか……」と呟く。霧島は服を整えながら苦い笑みを浮かべ、「会社の会議がある。さぼるわけにはいかないんだ」と答える。


「……また夜にでも、来ます。君と過ごす時間だけが、今の私の救いなんだ。……ずっと、そばにいてほしい」

 駿介は胸が痛むほどの愛しさを感じ、そっと頷く。「俺でいいなら……いつだって、ここにいるよ」

 霧島は名残惜しそうに手を伸ばし、駿介の髪を一度撫でる。そして、鍵を開けて店を出ていった。まるで深い闇の中へ帰っていくような、重たい背中。駿介はそれを見送るしかない。


 ―――――


 それから数日、霧島は以前にも増して慌ただしく駆け回っていた。大正デモクラシーの熱気の裏で、財閥系企業が政界と結託しているとの噂が絶えず、霧島の家も動揺しているという。

 駿介にもわかるほど、霧島の表情は日に日に暗くなっていた。会社の資金繰りが厳しく、倒産の危機が迫っているらしい。いくつかの金融機関との交渉がうまくいかず、かなり追い詰められているとか。

 そんな中、駿介は店で演奏しながらも、落ち着かない日々を送っていた。ある夜、霧島の側近からの伝言が届く。「霧島様がしばらく外出続きで、カフェーに行けない。申し訳ないが待っていてほしい」と。


 胸に嫌な予感が広がる。もしかして、すでに危険な段階に突入しているのでは――。

 さらにカフェーには、二宮 翼という実業家が何度も来店するようになった。彼は豪快に酒を飲み、カウンターで篠崎と談笑するが、どうやら財閥との取り引きに絡んでいるらしい。

 駿介がピアノを弾いているときも、ニヤニヤとこちらを見ているのがわかる。その視線には警戒心や何か妄執のようなものが混ざっていて、居心地が悪い。ある晩、ついに二宮に呼ばれて席へ行くと、彼は酒臭い息を吹きかけながらこう言い放った。


「なあ駿介、あんた、霧島様とは随分と懇意らしいな。男同士で、深い仲だと噂されてるが……?」

 駿介は背筋が凍る思いだった。なぜそんなことを知っているのか。誰かが見たのか。いや、そんなはずは――。

 動揺を隠しながら、「……何を馬鹿なことを」と返すと、二宮は嘲笑するように口の端を歪める。


「まあ嘘でもいい。だが、俺は霧島様と取り引きをしているんだ。今度、大きな事業を共に進めることになってね。もし失敗すればあの財閥は破綻するだろう。だが、成功すれば莫大な利益が出る――そんな綱渡りさ」

「知らないね。俺はただのピアニストだ。あんたが何しようと関係ない」

「本当にそうかな? 霧島様の動向を裏で握ってるのは、あんただろう? もし俺が『駿介は霧島の愛人だ』なんて世間に流したらどうなる? いやあ、スキャンダル確定だなあ」

 二宮の声は低く冷酷だった。駿介は怒りに震えながらも、ここで取り乱せば負けだと思い、何とか耐える。


「……俺に、どうしろって言うんだ」

「さすが話がわかるね。……霧島様の家は資金繰りが悪化している。だから俺との事業が重要になる。その交渉を円滑に進めるには、霧島様に協力してもらわなきゃ困る。もし霧島様が渋るようなら、あんたの存在を餌にして脅すのも手だな」

「……下衆野郎。そんなことが許されるとでも?」

「許されるかどうかは、あんたの態度次第さ。俺は金と権力さえ得られればいいんだ。……覚悟しとけ。どっちに転んでも、あんたが苦しむことになるかもしれないぞ」


 その言葉を残し、二宮は高笑いしながら店を出ていった。カウンターの篠崎は心配そうに顔を向けるが、駿介は首を振るしかない。

 どうしようもない不安と恐怖が胸を押しつぶす。もし二宮の言うとおり、霧島の財閥が破綻寸前なら、彼の立場は極めて危うい。そんなときに、男とのスキャンダルが世間に知れれば、いったいどうなるか――。


(悠輝は大丈夫か……?)


 もう落ち着いてピアノなど弾いていられない。翌日、駿介は店の休憩中に情報を集めるため、知り合いの作家兼ジャーナリストを名乗る瀬川 圭を訪ねた。

 瀬川は薄暗いアパートの一室で文机に向かい、執筆や取材記事を書いているらしい。駿介が事情を話すと、瀬川は渋い顔をして「どうやら本当にやばいよ」と告げる。


「俺も耳にしてるが、霧島財閥はすでに主要銀行からの融資が打ち切られかけている。あとは新たな投資家か大口取引が決まらなければ、破綻は時間の問題だ。もし破綻すれば、霧島当主は責任を背負うことになる」

「責任を……どうやって?」

「わからんが、大正のこの時代、一族が自害して責任を取るなんて話も聞く。……嫌な話だよ」

 駿介は顔が青ざめる。まさか悠輝がそんな選択をするはずがない――と否定したいが、これまでどうしようもない時に彼が見せてきた表情を思い出すと、不安ばかりが増す。


「何とかならないのか……? 二宮翼との取り引きが成功すれば問題ないのか?」

「二宮か……あいつも怪しい実業家として評判だ。成功するかどうか怪しいもんだよ。むしろ失敗すれば、より絶望的になるだろうな。……そしてあいつはずる賢い、ひとりだけ利益を得て逃げる可能性もある」

 瀬川は肩をすくめて、「大正デモクラシーの陰で、こういう腐敗や混乱は珍しくない」と語る。駿介は自分の無力さに吐きそうになる。悠輝のために何ができる?


 ―――――


 数日後、とうとう事態は最悪の方向へ動いた。

 駿介のもとに篠崎から「あんたの知り合いが大変だ!」という慌ただしい連絡が入る。霧島財閥が破綻寸前となり、経営権を手放すとの噂。さらには霧島本人がすでに消息不明だという。

 駿介は胸が潰れる思いで、霧島の屋敷を探すが、使用人たちが取り乱しており、「跡取りの悠輝様が離れの部屋に籠もったきり出てこない」との情報を得る。嫌な予感が倍増する。


(まさか……本当に自害なんてこと……)


 半狂乱で離れの門を駆け抜けると、そこにいたのは早坂 怜。政府高官の秘書というその男は、相変わらず冷たい表情で駿介を見て、「もう遅いかもしれない」と囁く。

 駿介は絶叫しそうな思いで離れの扉を乱暴に開ける。中は薄暗く、畳の上に正座したまま倒れ込む霧島 悠輝の姿があった。衣装は洋装ではなく和装に着替えており、その胸元には血の染みがにじんでいる。


「悠輝っ……!!」

 駿介は喉を切り裂くような叫び声を上げ、駆け寄る。霧島の手には短刀が握られていた。それを胸に突き立てたらしい。

 顔色は蒼白で、呼吸も浅い。駿介が必死で抱き起こすと、霧島はかろうじて瞳を開いて駿介を見つめる。


「駿介……来てくれたんだ……」

「馬鹿なことするな! 死ぬなんて、何の意味もないじゃないか!!」

 駿介の涙が霧島の顔に落ちる。霧島は弱々しく笑い、「もう……仕方ないんだ……。財閥を……破綻させた責任を……一族に恥を……」と途切れ途切れに呟く。

 こんな馬鹿げた話があるか。駿介は震える手で霧島の傷を塞ごうとするが、血が止まらない。周囲に誰もいない。いや、早坂怜が扉の外に立っているが、ただ冷たい視線で見守っているだけだ。


「やめろ……死ぬな……どこにも行かないでくれ……!」

 駿介は錯乱したように叫ぶ。霧島の唇が震え、「すまない……。愛していた。君の音を……もっと、聴きたかった……」と囁く。

 その手が駿介の頬をわずかに撫でる。震える指先には、もう力が残っていない。駿介は涙で視界が霞む中、霧島を強く抱きしめるが、彼の心音は明らかに弱まっている。


「悠輝っ……頼む、死なないで……」

「ありがとう……駿介。……こんな俺を、愛してくれて……幸せ、だったよ」

 霧島は最後にかすかな微笑を浮かべる。そして、すうっと息を引き取った。駿介は絶叫し、腕の中で倒れる霧島を抱きかかえる。血と涙が畳を汚し、部屋の静寂を悲痛な声が裂いていく。


「あ……あ……あああ……!!」

 想像を絶する喪失感が、駿介を深い闇へと引きずり込む。またしても、愛する男を失った。何度同じ痛みを味わえば済むのか。胸の奥が切り裂かれ、呼吸もままならない。

 遠くで早坂怜が小さな声で何かを呟くが、駿介には聞こえない。意識が混濁し、廻りの景色が歪んでいく。血の臭いと絶望だけが濃密に満ちていく。


(悠輝……)


 呼んでも呼んでも、もうその瞳は開かない。駿介は嗚咽をあげ、愛する人の冷えゆく身体を抱きしめ続ける。

 やがて、限界まで哭(な)き続けた駿介は力尽き、その場に倒れ込んだ。絶望の闇が視界を覆いつくし、遠のく意識の中で、無数の記憶の断片が渦を巻く。平安、戦国、江戸、明治——どの時代でも同じように、悠輝を愛して、そして失ったかのような……。


 そして暗黒の底を抜けるとき、新たな時代の息吹が耳に届いた。――昭和の軍靴の足音。

 駿介の魂はまたしても、時の流れを超えてしまったのだ。

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