第四章 文明開化の夜に重なる声
新たな朝日が昇る――空は浅黄色に染まり、街には鉄道の汽笛が響く。
文明開化の波が押し寄せて数年、外国の文物や制度が怒濤のように流れ込んだ日本では、人々が日々めまぐるしく変わる価値観に翻弄されながらも、その新しさに胸を弾ませている。
洋装に身を包んだ紳士淑女の姿が通りを彩り、馬車や人力車が行き交う東京の街。急速に舗装され始めた道の両脇にはレンガ造りの洋館が建ち、ガス灯が夜の街を照らし始めていた。
高槻 駿介は、その近代化のど真ん中を走り回る若き新聞記者だった。
生まれは地方の寒村。幼いころに両親を亡くし、学問に触れる機会も限られていたが、運よく世話になった人物の援助で上京し、いまは新聞社の見習い記者として働いている。まだ二十歳そこそこ。明治の華やぎと激動を目にし、それを記事として追いかけながら、自分の居場所を模索している最中だ。
この朝、駿介は社の入口に急いで滑り込むと、先輩記者の瀬川 圭に呼び止められた。
「おい駿介、おまえ取材の準備はできてるのか? きょうは大事な用事があるだろう」
「は、はい瀬川さん。西洋式の舞踏会が開かれるって話、そっちの取材ですよね」
「そうだ。これは社としても力を入れて記事にしたい。新政府の要人や外国公使、華族連中も集まるらしい。ちょっと手が震えるな」
瀬川は物腰が柔らかいが、取材となれば抜かりのない敏腕記者だ。彼の取材ノートはいつもぎっしりと情報が書き込まれ、後輩の駿介にとって頼もしくもあり、ややプレッシャーでもある。
「俺も一緒に行けるんですよね。見習いの立場ですが……」
「ああ、おまえの筆は悪くないし、若い視点がほしい。取材用のドレスコードは用意してある。……もっとも、海外の正式な礼服とは違うけどな、マントぐらいは貸してやるさ」
瀬川はにやりと笑う。駿介はほっと胸を撫で下ろす。記事にできることが増えれば、自分の存在感を社内で示せるだろうし、何より時代の最先端をこの目で見たい。
頭の片隅には、言いようのない空虚さと喪失感があり、夜ごとに奇妙な夢を見ているが――それを埋めるように仕事に打ち込んでいるのだ。
午前中の雑務を片付けたあと、駿介は瀬川と共に外へ出た。印刷工場に寄る用事があるらしく、社を出たところでふと呼びかける声が響く。
「おーい、駿介ー!」
駿介の方へ駆け寄ってきたのは、工場の青年、篠崎 光希。陽気な笑顔を浮かべる彼は駿介の数少ない友人の一人だ。
「今日は忙しいのか? 今夜、舞踏会へ行くんだって聞いたんだが……」
「うん。取材でね。そっちはどう? 印刷の方、遅れないといいけど」
「まあね。活版印刷機がまた調子悪くて、技師があたふたしてる。大急ぎで整備するってさ。……おまえも気張れよ。ここぞとばかりに華々しい記事を書いてくれ!」
篠崎はそうはしゃいで笑い、駿介を叩く。駿介も苦笑しつつ手を振る。いつもと変わらぬ日常のやりとり。だが今日は、そんな何でもない会話すら浮き足立つような空気がある。舞踏会という、一種異世界じみた場に潜り込むのが、楽しみでもあり、不安でもあるのだ。
夕方になり、駿介は瀬川と二人で、洋装に近い服をどうにか身につけて会場へ向かった。そこはレンガ造りの西洋風建築で、洋燈(ランプ)が入口を照らし、庭先には人力車がずらりと並んでいる。
ドレスコードに従い、男女はそれぞれ洋風の衣装をまとう。男たちは燕尾服やフロックコートに身を包み、女たちはけばけばしいほどにレースのドレスを広げ、音を立てながらホールを歩く。まるで欧州の貴族の館にでも迷い込んだような不思議な光景だった。
「はー、これが文明開化の粋か。俺なんぞ、場違いすぎて肩が凝っちまいそうだ」
駿介はため息交じりに言う。瀬川は苦笑しながら、「まあ、いい機会だ。じゃんじゃん書き留めろ」と背中を叩いた。
二人で会場に入ると、そこには桁外れの華やかさが広がっていた。シャンデリアが高い天井から吊るされ、絨毯の上を靴音が軽やかに響く。
オルガンを改造したような楽器の演奏が流れ、宴席の中央で貴族や外国公使がグラスを傾けながら談笑している。中には木製のステージが組まれ、エレガントな衣装をまとった一団が西洋風のダンスを披露していた。
「駿介、おまえはステージ付近を任せる。俺は入り口付近で要人が来るのを待つ。怪しい動きがあったら呼んでくれよ」
そう言い残し、瀬川は客の方へ向かう。駿介は頷きながら、人の流れを観察してペンとメモ帳を構える。
グラス片手に会話を楽しむ紳士淑女たちの動向を探りながら、何か記事にできるような会話や新政府の方針などを探ろうとするが、周りは華やかな笑い声ばかりで、核心的な話題はなさそうだ。
(うーん、結局はお飾りの舞踏会か。これは単なる社交の場で、政治的な話は裏でされてるのかもしれないけど……)
そんなことを考えていると、ふと視界の端に、ひときわスラリとした背筋の男が映った。
髪型は短く整えられ、西洋のスーツを着こなし、ネクタイを品良く結んでいる。周囲の上流階級の誰よりも洗練された雰囲気が漂い、何よりその顔立ちが、駿介の胸に強烈な既視感をもたらした。
(あれは——)
視線が合った瞬間、駿介は息を呑む。
男の整った面差しには、どこか懐かしい陰影がある。少し茶色がかった髪に切れ長の瞳。均整の取れた頬のライン。
そして、相手の方も駿介を見つめ返し、微かに目を見開いたように見えた。まるで「やはり——」と確信したかのように。
一体なぜ、こうも胸が締めつけられるのか。駿介は大きく心臓を鳴らしながら、その男の名を思わず口の中で繰り返す。
霧島 悠輝。
己の中で、その名前が鮮明に浮かぶ。どうして知っているのか、いつ会ったのか、わからないのに。けれど、この男だ。平安、戦国、江戸と夢で見たあの姿——全部が繋がるような、不思議な衝動を覚える。
その男が、グラスを置いてこちらへゆっくり歩み寄ってくる。周囲の視線は彼に注がれているが、当人は意にも介さぬ様子だ。
駿介はごくりと喉を鳴らし、なんとか落ち着いて振る舞おうと試みるが、どうしても体の震えが止まらない。こんな気分は生まれて初めてだった。
「……失礼だが、あなたは新聞記者の方かな?」
相手が落ち着いた声音でそう問う。駿介ははい、とぎこちなく頷き、咄嗟に名刺を差し出す。
「私、見習い記者の高槻 駿介と申します。取材で……本日この舞踏会にお邪魔しています」
すると相手は名刺を受け取り、小さく目を細めたあと、微笑んだ。
「私は新政府で官僚を務める霧島 悠輝。……あなたのお名前、存じているわけではないのだけれど、不思議ですね。どこかでお会いしたような気がして……」
胸に走る稲妻。やはり、そうなのか。駿介は内心ざわめきながら、口を開く。
「お会いしたこと……あるんでしょうか。私も、あまりに胸が騒いで、困っています。……すみません、初対面なのに、失礼なことを」
「いや、こちらこそだ。あまりに心当たりがないのに、懐かしい気がするんだ。……もしよければ、少しお話できないだろうか」
静かに告げられた言葉に、駿介は迷う。取材そっちのけで一人の人物に話しかけるなど本来はよろしくないかもしれないが、どうしても目を離せない。何か大きな運命が動いているような——そんな不可解な吸引力があるのだ。
結局、駿介は「ぜひ」と答え、舞踏会の片隅へ移動する。
ホールの壁際に並べられた椅子に座り、互いの素性を簡単に交わし合った。駿介は地方出身の新聞記者見習いだと話し、悠輝は新政府の中央官庁で仕事をしていると説明する。留学帰りで欧州の事情に通じており、これからの日本を支える官僚の一人として期待されているらしい。
「ご立派な経歴ですね。留学だなんて凄い。きっと、西洋の風を日本に運んでくださるんでしょう」
駿介がそう賞賛すると、悠輝は照れたように首を振る。
「いや、現場は泥臭いものさ。日本をどう近代化し、どこまで欧米を取り入れていくか——激しい論争が起きている。私ごときがどうこう決められるほど生易しい話じゃないよ」
「なるほど……。でもそれは興味深い。俺も記者として、今の日本がどんなふうに変わっていくかを見ていきたいと思ってるんです」
駿介は真摯にそう述べ、悠輝の横顔を見つめる。すると、悠輝が微笑む。
「あなた、目が真剣だね。……一目見たときから思っていたけど、どこか惹かれるものを感じて仕方ないんだ。……こんなの、変だろうか」
まるで恋文のような率直さ。駿介は心臓を抉られるほどの動揺に襲われる。男同士、それも公式の場でこんな言葉を交わすのはあまりに危険だ。
けれどそれでも、胸に浮かぶ感情を押し殺せない。駿介は小さく息を呑み、「いえ、俺も同じなんです」と答える。言葉にするだけで、喉が熱くなった。
「……実は、さっきお名前を伺ったとき……こんなに胸が苦しくなるのは初めてで。まるで再会を喜ぶみたいな、でもどこで会ったか思い出せないのに……不思議で仕方ありません」
すると悠輝がわずかに目を潤ませる。「そうか。嬉しいな。……おそらく、私たちは初対面なんだろうけど、なぜか魂が震えている気がする。……すまない、こんな曖昧な言い方しかできないけれど」
その瞳を覗くと、駿介も胸がいっぱいになる。ああ、間違いない。この人こそ、ずっと探し求めていた存在だ。今世でまた出会えた——そんな確信が、言葉にならず胸を満たしていく。
二人だけの空気が流れるなか、遠くで瀬川が手招きしているのが見えた。どうやら他にも要人が到着したらしく、取材の補助をしてほしいらしい。駿介は名残惜しいが、立ち上がるしかない。
悠輝もまた、別の公用で呼ばれているようだ。「また、どこかでお話しできませんか」と訊くと、悠輝は即座に名刺を取り出す。
その名刺には「新政府・霧島 悠輝 参事官補」と印刷されており、住所らしき官舎の場所が書かれていた。悠輝は「ぜひ、こちらに訪ねてきてください」と微笑む。
駿介は心臓を弾ませながらその名刺を受け取り、「はい、近いうちに必ず」と答える。お互いに視線を絡め合いながら、小さな別れを交わした。
―――――
舞踏会の取材を終えたあと、駿介は社に戻り、あわただしく記事の草稿を書いた。
瀬川からは「上手くまとめてるじゃないか」と評価され、明日の朝刊に載せるため最終的な手直しをするとのこと。駿介は安堵する一方、頭の中は悠輝のことでいっぱいだ。
夜も更け、自宅代わりに借りている狭い下宿でひとりになると、手にした名刺を眺めて胸が熱くなる。どうしてこんなにも、会いたくて仕方がないのだろう。まるで運命という言葉が囁いているような、不思議な気持ち。
(明日、いや、さっそく訪ねてみてもいいかもしれない。失礼だろうか。向こうも「来てくれ」と言っていたし……)
そう考えていると、窓の外に人影がよぎった。どうやら下宿の向かいにあるライバル新聞社の記者が深夜まで張り込んでいるらしい。
ふと、頭に二宮 翼の顔が浮かぶ。彼は駿介と同世代で、今は違う新聞社に勤めている。腕はあるが、やや強引な取材姿勢で知られ、何かと駿介に張り合ってくる存在だ。
気づけば、妙に嫌な胸騒ぎがする。これまでの人生でも、二宮という名前が絡むたびにろくなことがなかったような、不確かな既視感が駿介を襲う。しかし、そんな過去など知るはずもないのに。
「まあいい、明日は休みが取れればいいんだが……」
駿介はそんなことをつぶやき、ベッドに潜り込む。脳裏には悠輝の顔がちらつき、眠れそうにない夜を過ごすこととなった。
―――――
翌日、奇跡的に瀬川が「おまえ、一日ぐらい休んでいいぞ」と言ってくれた。取材記事がそこそこ評価され、駿介の働きに期待がかかっているのだろう。
駿介は早速、名刺にある住所を頼りに、悠輝の官舎へ向かった。
場所は東京郊外の少し広い敷地にあり、れんがの塀で囲まれた洋風建築が並んでいる。海外から取り入れた建築技術で建てられた官庁関係者の住居地らしく、門番がしっかりと警備に立っていた。
「すみません、霧島様に用事がありまして。先日、舞踏会でお目にかかり——」
名刺を見せると、門番はやや怪訝そうに眉を寄せながらも「霧島様が客をお通しになるよう手配してある」と言い、中へ通してくれた。
敷地内の並木道を歩いていくと、いくつかの洋館があり、その一つが悠輝の住む官舎らしい。玄関まで行くと女中が出てきて、駿介を応接間へ通す。
応接間は、どこか外国の香りが漂う空間だった。革張りのソファとテーブルが置かれ、西洋絵画が飾られている。壁紙の色やランプシェードの意匠まで洒落ていて、駿介の田舎育ちの感覚には目新しいものばかりだった。
すぐに足音がして、悠輝が姿を現す。上下はきちんとしたスーツで、ネクタイを締め、髪も整っている。
目が合うなり、駿介の胸が高鳴る。悠輝もまた微笑みながらソファのそばへ来ると、「ようこそいらしたね」と静かに声をかけた。
「お忙しいところを……突然すみません。ご迷惑じゃなかったでしょうか」
「いや、君が来るのを待ちわびていた。……ずっと、話したいと思っていたんだ」
その言い方は、どこか切ないほどに本音が零れている感じがした。駿介は頬が熱くなるのを感じ、こくりと喉を鳴らす。
男同士がこんな空間で二人きりなど、世間に知られれば好奇の目に晒される。けれど、悠輝が嬉しそうに迎えてくれる姿を見ていると、危険は承知でも近づきたくなる。
「それじゃ、遠慮なくお邪魔させていただきます」
駿介はソファに腰を下ろし、悠輝も隣に座った。二人の距離は自然と近くなり、互いの呼吸が感じられるほどだ。薄いカーテンから朝の光が差し込み、部屋の埃が淡く舞っている。
その光の中で、悠輝のまつげや輪郭が、まるで宝石のようにきらめいて見える。どうしてこんなに惹かれるのか、不思議でならない。
「……舞踏会で出会ったときから、ずっと頭を離れなくてね。私には多くの仕事があるし、男同士でこんな親密になってはいけないと分かっているのに……」
悠輝がややうつむき加減に言う。駿介は切なさに胸を抉られながら、そっと彼の指先を握る。
「言わないでください。……俺も、止められそうにありません。むしろ、離れたくないとさえ思ってしまう」
一瞬、空気が震えるような沈黙。それから、悠輝はそっと駿介の手を握り返した。
朝の柔らかな光に照らされながら、二人は見つめ合う。危険だと知りながら、理性が振り切れていくような感覚だ。なぜこんなに懐かしく愛おしいのか、説明などできないのに。
「……ちょっと、ここでは落ち着かないかもしれない。……奥の部屋へ行こう」
悠輝が立ち上がり、奥にある応接室の扉を開ける。どうやらこちらは人目につきにくい私的なスペースらしく、ソファや机が置かれた小さな洋間だ。
まだ朝だというのに、まるで夜のような静けさが漂い、駿介の胸は高鳴っていく。男同士がこんな場所にこもって一体何をするつもりなのか――薄々わかっていても、止められなかった。
ドアを閉めると、悠輝が軽く溜め息をつく。「これで、女中や書生に怪しまれにくいだろう。……すまないね、隠すような真似をして」
「いいんです。……ありがとう、むしろ配慮してもらって」
言葉が尽きたところで、二人の視線が絡み合う。まるで磁石のように引き寄せられ、駿介は悠輝を強く抱き寄せた。背中の感触が伝わり、互いの体温が溶け合う。
そして、どうしようもない衝動に駆られ、駿介は悠輝をソファに倒し込むようにして、唇を奪った。
「……んっ……」
苦しげな息が漏れるが、すぐに悠輝も応えるように駿介の後頭部に手を回す。衣擦れの音が耳をくすぐり、二人の呼吸が一気に乱れていく。
シャツのボタンを外し合い、肌が覗く。ネクタイをほどいたり、革靴を乱暴に脱ぎ捨てたり——こんなにも理性を失いそうな行為は、生まれて初めてかもしれない。けれど、体の奥底が求めてやまない。
「駿介……」
悠輝が小さく呻くように名前を呼ぶ。その声に引き寄せられ、駿介はさらに深く唇を重ねる。明治という新時代の洋風の部屋で、男同士が背徳の関係を結ぶなど、到底許されることではない。
でも、世界がどうあろうと、ふたりの魂は互いを欲している。それに抗う術などなかった。
数分、あるいは数十分か。時間の感覚が曖昧になるほどに、激しく求め合う。ネクタイの先が床に落ち、シャツやベストが乱れ、胸や首に薄い汗がにじむ。
ソファに沈み込む悠輝を抱えたまま、駿介は自分が何度もキスを繰り返し、耳元で相手の息遣いを聴く。いつまで経っても飽きないほど、その存在が愛おしい。
やがて熱が落ち着いたころ、二人は小さな笑いをこぼし合った。こんな形でも、互いの体を確かめ合えた喜びに満たされていた。
「……すごいな、こんなにも心が震えるなんて。……まるで、前世からの因縁のようだ」
悠輝がぼんやりと天井を見上げながら呟く。駿介の胸はちくりと痛む。前世――本当に、そんなものがあるなら、自分はこの人を何度も愛したのではないか。そんな錯覚にとらわれるほど懐かしい。
だが、それを言葉にするのは憚られる。駿介は戸惑いを押し隠すように「バカなこと言うなよ」と微笑む。
「それにしても、危ないですよ。こんな関係、世間に知られたら……」
「わかっている。でも、もう止められない。私は君を知りたいし、君のそばにいたい。それがどれほど危ういことでも」
悠輝は真摯な眼差しを向けてくる。その視線を受け止めると、駿介は胸が締め付けられる。こんなにも真っ直ぐ向き合ってくれる相手など、今までいなかった。
しばし、ソファで抱き合いながら語り合う。けれど、もちろんこれ以上の深入りは時間的にも心理的にも限界がある。二人は服を整え、身支度を整える。
悠輝は「もう少し、ここにいてほしい」と名残惜しそうに言うが、駿介もさすがに長居は危険だと思い、後日また会う約束をして官舎をあとにした。
―――――
それから数日、駿介はこまめに官舎を訪ねるようになった。表向きには「新政府の官僚を取材している」という名目が立つので、人目を忍んで会うことができる。
洋風の喫茶店で落ち合い、お互いの境遇や日々の仕事を語り合ったり。欧州仕込みのコーヒーの香りの中で、そっと手を重ねたり。
ある日は夜更けに官舎を訪れ、ランプだけが灯った室内で熱い視線を交わし合ったり。毎度危険だとわかっているのに、なぜか止まらない。
しかし、そんな甘い逢瀬の裏で、少しずつ雲行きが怪しくなる。
駿介が勤める新聞社にも、新政府に対する批判や疑惑に満ちた情報が舞い込み始めた。役人の汚職が疑われたり、外国公使との裏交渉があるのではないかとか、旧藩閥の勢力争いが激化しているとか……。
悠輝自身、そちらの派閥に属していて、どうやら政争の只中に身を置いているらしい。危うい噂が飛び交い、駿介も心配を抑えられなくなってきた。
ある日、社内で先輩の瀬川に呼び止められる。
「おい、駿介。最近、霧島官僚とよく接触してるって噂だが……大丈夫なのか?」
「え、何がです?」
「実は、あいつを追い回している記者がもう一人いる。うちじゃなくて、ライバル社の二宮 翼とかいう男さ。かなり嗅ぎ回っていて、霧島氏に関するスキャンダルを探してるらしい」
二宮 翼。やはりか、と駿介は嫌な胸騒ぎを覚える。舞踏会の場でも二宮らしき姿を見かけた気がしたが、こんな形で絡んでくるとは。
瀬川は真顔で続ける。「下手を打つと、おまえも『霧島官僚の抱える秘密に通じている』とかいう厄介な話に巻き込まれるかもしれないぞ。ライバル社に足元をすくわれないよう注意しろ」
駿介は渋い顔をして頷く。だが、悠輝との個人的な関係は誰にも知られたくない。だからこそ、余計に二宮が何を握っているのか不安になる。
やがて、その不安は現実になる。
夕刻、駿介が社を出たところで、まさに二宮 翼が待ち伏せしていた。シルクハットをかぶった整った顔立ちの青年だが、目に宿る光は敵意をはらんでいる。
「やあ、駿介じゃないか。おまえ、最近霧島官僚の周りをうろついてるそうだね」
「……だから何だ。取材で会うこともあるさ」
二宮はニヤリと笑う。「取材、ねえ。可愛い後輩のフリでもして懐柔されてるんじゃないのか? ……聞くところによれば、霧島は西洋の女とも遊ぶらしいが、男との噂もあるとか」
駿介は動揺を必死に隠す。まさか、こんな形で探られているとは。二宮はわざとらしくステッキを肩に担ぎ、続ける。
「もし仮に、霧島が男色を楽しんでいるなんて事実が表沙汰になったらどうなるかな。とんでもないスキャンダルだろう。政府は大混乱、新聞的には大スクープだ」
「くだらない下衆の勘繰りはやめろ。何の証拠もないくせに」
「証拠を掴むのが俺たち記者の仕事だろう? ……おまえも昔からそうだったな、いや、不思議だ。まるでどこかで何度も張り合ってきた気がする。はは、変な話だ」
二宮はからかうように笑いながら、ステッキを床に突き立てる。「ま、とにかく気をつけろ。おまえの弱みを握ったら、容赦なく記事にしてやる。覚えておけよ」
そう捨て台詞を残して、二宮は去っていく。駿介は唇を噛み締め、拳を握る。悠輝との関係は絶対にバレちゃいけない。もし世間に知れれば、悠輝が失脚するどころか、危険な立場に立たされる可能性がある。
そんな不安を抱えたまま、駿介は夜を迎える。どうしてもう一度、悠輝に会って話がしたいと思い、官舎を訪ねる。
洋館の玄関で女中を呼び出し、やがて現れた悠輝は疲れ果てた表情をしていた。
「……ごめん、こんな夜中に。少しだけ話せる?」
「うん、大丈夫だ。書生も今日は休みを取っていて、私しかいない。上がって」
駿介はホールを通り、奥の洋間へ入る。明かりは控えめで、かすかなランプが部屋を照らすだけ。
見ると、悠輝はネクタイを緩めたまま机に書類を散らし、明らかに困惑した様子だった。どうやら政争絡みで厄介な仕事を山ほど抱えているらしい。
「大丈夫か……。顔色が悪いぞ」
駿介が近づくと、悠輝は苦い笑いを浮かべる。「一気に色々な問題が持ち上がってね。私の主張をよく思わぬ勢力が、私を失脚させようと画策しているとか……。それに、外国との外交絡みで不穏な噂もある」
「……二宮 翼という記者が、あんたのスキャンダルを探してるらしい。気をつけてくれ」
「やはり、そうか。……面倒だな。そんなくだらないことで政治を左右されるなど、本来あってはならないんだが……」
悠輝は苛立ちを隠せない様子でため息をつく。かたや駿介も覚悟を決めて言う。「もし俺との関係がバレたら、あんたは終わりだ。それだけは避けたい……」
すると悠輝は目を伏せ、「わかってる。けれど、もう君を離せない」と小声で呟く。その言葉が胸に甘い痛みを走らせ、駿介は思わず悠輝を抱きしめた。
男同士で人目を忍びながら。革靴の底が床を軋ませ、椅子が倒れる音がしたが、二人は気にも留めずに激しい口づけを交わす。
シャツの襟元を乱し合い、抱擁の強さに息が詰まりそうになる。ランプの明かりが揺らめく中、今この瞬間だけでも全てを忘れていたい——そんな思いが二人を熱く結びつける。
――だが、幸せは長く続かない。
翌日から、新聞や街の噂がざわつき始めた。どうやら新政府内で「ある官僚が外国公使と密かに不正な取り引きをしている」という噂が加熱している。名前は伏せられているが、それが悠輝を指しているのは明白だ。
駿介の社でも、その話題で持ちきりだった。瀬川は「何か情報を掴めないか?」と駿介に声をかけるが、駿介は苦い顔をするだけだ。何も知らないふりをするしかない。
そんな中、顔を見せたのが早坂 怜という政府要人の側近・通訳を務める男。
彼は、駿介が外で一服しているところへ突然現れ、不可解な笑みを浮かべる。流暢な洋語が混ざるイントネーションで、「あなたは霧島様と親しいとか」と切り出してきた。
「ええ……仕事の取材で、少し面識があるだけです」
駿介が動揺を抑えながら答えると、早坂は薄い微笑みを浮かべる。「そうですか。……しかし私にはわかりますよ。あなたたちは、相当近しい関係だ。……気をつけなさい。いま霧島様は政府内の権力争いで狙われています」
「狙われるって、どういう……?」
「スキャンダルを捏造して失脚させようという動きがある。それだけでなく、最悪の場合、命を奪われるかもしれません」
駿介は表情を凍らせる。「そんな馬鹿な……」
「私も正直、それは避けたい。霧島様は有能であり、これからの日本に必要な人材ですから。……ですから、あなたにも言っておきます。あなたたちの愛が公となれば、あまりに悲痛な結末しか待っていない」
早坂の言葉は冷たく、同時に深い事情を見通すような響きがある。まるで時空を超えて二人の運命を知っているような、そんな不気味ささえ漂わせている。
「どうすればいい……? 俺は、悠輝を守りたい。死なせたくない……」
駿介は必死に問いかける。すると早坂は再び微笑む。「本人がこの国を離れることが最良かもしれない。国外へ亡命に近い形で逃げれば、命は保証されるだろう」
「亡命……? それは悠輝が望むだろうか。彼は日本を変えたいと——」
早坂は肩をすくめる。「しかし、変えたいという意志があっても、命を落としては何にもならない。……いずれにせよ、時間がない。あなたはどうしますか? 彼に共に行くよう言うのか、それとも……」
駿介は苦悩のあまり胸を押さえる。早坂はそれを見透かしたように「急ぎなさい。今夜にも、霧島様に危険が及ぶかもしれません」と告げ、風のように去っていった。
残された駿介は、どうすることもできず唇を噛む。だが決めた。……悠輝の命さえ守れるなら、亡命だって手段として考えるしかない。
―――――
その夜、駿介は官舎へ駆け込む。もはや人目を憚る余裕がない。
玄関ホールで女中があわてふためき、「霧島様はおりません」と告げる。聞けば、今夜遅くに予定があると言って出ていったが、帰っていないらしい。
(まずい……。どこかで暗殺なんてことになったら……!)
駿介は焦燥に駆られ、町を探し回る。手がかりは少ないが、新橋駅あたりで物流関係の書類を受け取ると言っていたとの噂がある。もしや、逃亡の準備でもしているのか?
胸がざわつくまま夜の街を走り回るが、どこにも悠輝の姿はない。瀬川や篠崎にも手伝いを頼むが、手がかりは見つからない。二宮 翼の姿すら見えない。
やがて夜も深くなり、気力が尽きかけたころ、駿介は新橋駅の構内で混乱が起きているのを見つける。人だかりができていて、何やら騒然とした雰囲気だ。
「霧島様が……!」「発砲音が……!」
嫌な予感が一気に駿介を襲う。血の気が失せそうになる体を無理やり動かし、人混みをかき分けると、そこには倒れ込む悠輝の姿があった。
周囲に駆け寄ろうとする駅員や軍警察らしき者がいるが、駿介は構わず悠輝に抱きつく。見ると、悠輝の腹部あたりが血に染まり、その手がぐったり垂れている。
「悠輝……! しっかりしてくれ! 誰か、手当を……!」
駿介が絶叫に近い声で叫ぶが、まわりはただ騒然としているだけで、何もできない。撃った犯人は既に姿を消したのか、誰もいない。
悠輝は弱々しく目を開け、駿介の顔を見て、小さく笑った。
「駿介……来てくれたのか。……すまない、もう……間に合わないみたいだ」
「何言ってるんだ! 医者を……医者を呼べば……!」
駿介は必死に取り乱すが、悠輝は頭を横に振る。もう自分の命が長くないことを悟っているのだろう。血が口の端から滲み、声も掠れている。
「私は……逃げようとしていた。国外に……。日本を捨ててでも、生き延びようと……思った。でも、それも叶わなかったみたいだ。……こんな形で、別れるなんて……」
涙があふれるのをこらえきれない。駿介は震える手で悠輝の身体を支え、必死に名前を呼ぶ。
悠輝は薄れる意識の中、かすかに微笑む。「ごめん……駿介。お前を……ひとりにして……」
駅舎の柱時計が、夜の闇に静かに時を刻んでいる。その下で、悠輝は最期の一息をつくようにして、唇を動かす。
「いつか……また……」
それだけを呟き、瞳から光が失われる。駿介は声にならない叫びを上げ、愛する男の冷えゆく身体を抱きしめる。無情な夜の風が、構内を寂しく吹き抜けていく。
「いやだ……悠輝……! 目を開けてくれ……!」
そんな駿介の絶叫が木霊するが、悠輝はもう帰らない。駅の雑踏の中で二人だけの世界が閉じられる。
駿介の視界がぐにゃりと歪み、気が遠くなる。まるで何度も繰り返してきた死別の悪夢が、またしても現実になったのだ。どれほど涙を流しても、悠輝は帰ってこない。
やがて駿介は力尽きるようにその場に崩れ落ち、悠輝の身体を抱えたまま意識を失う――。
―――――
次に目覚めると、そこにはモダンな衣装を身につけた人々の姿があった。大正という、さらに新しい時代の空気が色濃い町並み。
またしても自分は、時の流れを超えてしまったのか。狂おしい運命に翻弄されながらも、駿介の胸に残るのは悠輝という名への途方もない喪失感だけだった。
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