THESEUS
草薙 唯音
PROLOGUE
Prolog.鋼鉄の産声 Part1
銀が頬を染める。凍てつく銀が体の感覚を奪っていく。引き金にかけた指の感覚だけを辛うじて確かめ、まだ戦えることを己に示す。
今日の天気は晴れ、時々爆撃、そして前方から銃弾の雨。しかし逃げる事は許されない。この雪原の遥か深くに眠るエネルギー資源、人類の新たな英知たる新物質を、わが祖国の手中に収めるまで。この広大な南極大陸の全土を、偉大なるロシア連邦が支配するその日まで。
地は冷たく、空は熱い。我が胸に宿る不撓不屈の魂は、果たして今どちらか。問うまでもない。俺は最後まで戦い続ける。
ヒトで無くなろうとも、人として最後まで。
────────アレクセイ・サーヴィチ・レスコフの手記より
──PROLOGUE──
「────────グレネード!」
左前方からの声に、一瞬反応が遅れてしまった。防御態勢を取るより早く塹壕の中に引きずり込まれる。間一髪、グレネードは塹壕の一歩手前で爆散し、破片が内部に飛び散る事は無かった。あのまま地上で呆けていれば今頃、体がレンコンのように穴だらけになっていたに違いない。あまりに遅すぎる怖気を振り払うように閉じた視界の先から、小隊長の怒号が飛ぶ。
「死にたくなければこのチンケな溝から顔を出さず震えていろ! 外で死ぬなら最善を尽くして死ね! この北部戦線での犬死には許さんぞ、アレクセイ上等兵!」
「……サー、イエッサー!」
小隊長は本来気さくな方だ。祖国に妻と息子を残してきている。先日写真を見せてもらったが、仲睦まじく体を寄せ合う家族の日常だった。そんな身の上もここでは意味を為さない。ひとたび戦場の大地に立てば人としての己は死に、「兵士」という生き物に生まれ変わるのだ。そして「兵士」に軟弱な感情など必要ない。小隊長も今や人でなく、故に戦線投入前の明朗さは毛ほども感じられなかった。機械的に敬礼で答える俺も、またそうなのだろう。五年前、この戦いが始まった時から。
塹壕から顔を半分出し、前線を見やる。膠着状態はそう長く続かないだろう。いずれ敵方は痺れを切らして総攻撃を仕掛けてくる。それを迎え撃つ余力が既に残っていない事を、兵士たちの疲弊しきった表情が雄弁に語っていた。……泣いても笑ってもこれが最後であり、最期になるだろう。左手で銃身を握りしめる。右手はグリップをしかと掴み、引き金に指をかけている。先程不意をつかれた時とは違う。もはや恐怖は無い。兵士にそんなものは要らない。人を辞めた事を意識するのはもう何度目だろうか。……それが正しかったのかは分からない。でも多分俺は、そうするしか無かったんだろう。
爆発音と共に、遠方から響く鬨の声。来た。小銃を握る手に力が入る。小隊長が突撃の号令を発しようと右手を挙げた、その時。
「────通達ッ!」
小隊長のトランシーバーから音声が鳴り響いた。
「本部基地にて最終調整完了! ファースト・テセウス現着!」
あぁ、天使のラッパとはこのような音色であったか。その場に響くのは決死の雄叫びではなく、確信の勝鬨。そして輸送ヘリのプロペラ音。
「諸君ッ!! 勝利は我が祖国にあり! ファーストに続け! 突撃ィ!!」
小隊長の号令が轟くが早いか、一斉に塹壕から飛び出るロシア陸軍兵たち。数秒後、上空からの衝突音と共に辺りが雪の粉塵に包まれる。
白銀の噴煙から現れたるは鈍色の巨腕。仰々しい駆動音と共に肩から指先までを順番に動かし、動作確認を行っている。
「……状態は良好。作戦行動を開始する」
煙が晴れ、壮観たる全身があらわになる。五メートル強の巨躯は全身が装甲に覆われ、頭部に光るは黄金の双眸。右腕にはチェーンソーのような近接武器を携帯し、左腕には機構を備えたハンマー。大柄の人間、と呼ぶにはあまりに大きく鈍重な鋼鉄の巨人は、背部のブースターを唸らせ敵陣へ駆け出した。
蹂躙、と形容するほかない。巨人の一薙ぎによって、小人たちは更に小さい肉片へと変わっていった。右手のチェーンソーを一振り。五人の敵兵の上半身が消える。左手を振り下ろせば、雪面に血だまりが広がった。連合兵たちの決死の反撃は、装甲に傷一つ付けられない。俺たちが突撃するまでもなく、戦域は着実に前進していた。一方的な光景に反し、連合兵たちはひるまず攻勢を緩めない。地獄絵図の最中で彼らは希望を失っていない。いや、希望を待ち焦がれているように見えた。
小隊長が飛ばす指示に従い、ファーストの後方支援に徹する。といっても弾幕を張るくらいなものだが、それさえも必要ないのではないかと思えるほど、戦術的アドバンテージは絶大だった。
勝利を確信したその時。俺はいつの間にか地面に顔を埋めていた。数秒の間に現状を認識する。つまり俺は、何かに強烈に吹き飛ばされたんだ。一体何に? 頭を雪から引き抜き前を見ると、煙の中に二つの大きな影があった。一つはファーストのものだろう。もう一つの影は少しばかり細身だが、ファーストと大差ない。つまり今ここに突っ込んできて、周囲を吹き飛ばしたのは。
「敵機体を確認、迎撃開始」
煙から両刃の剣身が飛び出る。そこにいたのはさながら中世の騎士といった風貌の白い機体。左手に長大な盾を構え、右手から細身の剣が伸びている。頭部は甲冑のようなバイザーが付いていて、その奥から赤い眼光が漏れていた。脚は鳥類のように関節が逆向きに曲がっていて、人型の上半身に対してアンバランスで無機質な印象を与える。
逆関節の脚が動き、敵機体が前へ飛び出る。凄まじい速度は衝撃波をまとい、両者は勢いよく激突。敵機体はそのままの勢いで右手を突きだし、放たれた剣先がファーストの右腕を突き刺した。しかしファーストは動じず、剣が抜かれるより速く左手を振りかぶる。炸薬が爆ぜた勢いで打ち出されたハンマーが横腹を叩き、敵機体が大きく後ろに距離を取った。両者が睨み合う。もはやこの戦闘領域に人間の居場所はない。連合兵たちは撤退を始めていた。追撃しようにも、一歩でも進めばただの肉塊だ。小隊長は判断を迷っていた。
駆動音と蒸気音だけが漂っている。静寂を切り裂いたのは敵機体の長剣か、ファーストの鋸か、それとも。
二体の得物が打ち合う。距離を取り、円を描いて滑走し、また接近して火花を散らす。四度目の激突。敵機体の長剣がファーストの右腕を根元から断ち斬った。再び距離が離れる。
「……潮時か」
敵機体が零す。見ると、盾と左腕がひしゃげている。ファーストが叩き潰したのだ。これでお互い片腕を失った。
「騎士たるべき責は果たした。今は痛み分けとしよう。またな、ドナート」
敵機体はブースターを大きく吹かし、舞い上がった粉塵に紛れてはるか遠方へ後退して行った。ひとまずは守り抜けたようだ。俺たちの出る幕は最初から無かったが。
ファーストが右腕を拾い上げ、こちらに向き直る。
「本部に帰還しろ。ここは後続の応援部隊が代わる」
ファーストはそれだけ言い残し、ブースターを吹かして走り去っていった。
「……あれが俺たちとおなじ元人間だってんだから、メディ粒子はまさに革新だな」
小隊長が呆れたように笑みを零す。メディ粒子を用いた最初のテクノロジーは、人機媒介技術による人間の兵器化だった。脳以外の全身を兵器に換装した改造人間『テセウス』。戦争というのはいつも人類に飛躍的な進化をもたらす。新たなる闘争の形、悍ましき破壊によって。
いつか、人は人でなくなるのだろうか。人の定義が崩壊したとき、兵士は……俺は、何になるんだ?
「よし、しばし休息を取る。三分後に移動開──」
突如、耳をつんざく炸裂音。辺りに爆炎と鉄片がはじけ飛ぶ。その一片が左目を深く抉った。状況は既に終了したというのに、爆撃の雨が止む気配はない。撤退していたのは飽和攻撃の為の布石か。あの敵機体はそのための露払い。勘づいたときには全てが遅かった。
「っ退避! 退避ぃっ!」
赤く染まった視界の端で、負傷兵を二人抱え必死に叫ぶ小隊長。彼が立つ辺りに砲弾が降り注ごうとしている。もはや回避は間に合わない。咄嗟に隊服を鷲掴み、塹壕に放り投げた刹那、爆煙が辺りを吹き飛ばし、俺の意識はそこで途絶えた。
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