8:エレノア・イン・アイアンシップ

 紅茶の香りが、ゆるやかにマスクのフィルター越しに満ちていく。

 ラベンダーの柔らかな余韻と共に、重々しい沈黙が船室を包み込んだ。


 コールドウェル大佐は、ゆっくりと背もたれに身を預け、手元の軍用手帳を開いた。

 その指先は、習慣に染まった軍人のそれでありながら、どこか思索的でもあった。


「……午前四時三十六分。信号弾、空中に確認。」


 彼の語り口は淡々としている。


「我々は当初、それを標準的な危機通報と判断しました。よって、近隣の斥候小隊を一つ派遣。発掘隊がワニにでも襲われたのだろうと」


 一拍の間を置き、大佐は懐中時計を見た。


「……その数分後。係留気球の斥候から、次の報告が入りました。

“空を飛ぶピラミッドのような構造体が接近してくる”と」


 テーブルの上に置かれた報告書に、大きく引かれた赤線が目に入る。


「この時点で、我々は即座に“非常事態”と判断。全駐屯部隊に対し、戦闘配備を発令。

 未知の魔導兵器、もしくはオスマン帝国が秘匿していた超常戦力の可能性を視野に入れ、我々の陸戦艦HMSインデファティガブル号を前線に派遣しました」


 エレノアは紅茶の蒸気を吸い込みながら、黙ってその言葉を聞いていた。


「結果として、空中を飛行していた不明構造体――後にスフィンクス型魔導生物と確認された存在と、午前六時二十二分に交戦。主砲による直撃し、対象は墜落。そのまま機能停止を確認。」


 大佐は報告書を閉じ、その視線を再び女主へと向ける。


「……今回の事態は尋常ではない」

 コールドウェルはゆっくりと言葉を継いだ。


「敵は空を飛び、砂を操り、魔力による変質を引き起こす。しかもその起点は――

 地図にすら記されていなかった、“古代のピラミッド”からのものだ」


 彼の指が、作戦卓の上に広げられた地図の一点をトントンと叩く。

 そこには、手書きで「未確認魔力震源地」と赤インクが走っていた。


「我々は戦った。そして勝った。しかし――」

 コールドウェルは、ゆっくりと視線をエレノアに向けた。


「我々が見たのは“断片”だ。敵の名前も、発生理由も。すべて不明なまま。」


 一拍の間のあと、彼は静かに言った。


「“掘る者”は、同時に“語る者”でもあるべきだ。

 歴史を掘り出すだけでなく、それをどのように記述し、誰に語るか――それが、君たちの本質なのだろう?」


 コールドウェルの声は、どこまでも静かで、それでいて一切の逃げ道を与えないほど真っ直ぐだった。


 その言葉に、エレノアの唇がわずかに動いた。


「……まるで、講義の冒頭のようなお言葉ですわね」


「承知いたしましたわ、大佐。では――わたくしたちの“発掘調査報告”、始めさせていただきますわね」


 その口元には、どこか自信に満ちた、そして一抹の“演出の匂い”を含んだ笑みが浮かんでいた。


「――まず、わたくしどもは、考古学的知見と、幾許かの猫語の素養を武器に、ピラミッドにおいて極めて友好的な交渉を行いましたの。結果、神聖なる猫族の代表よりご招待を受けまして、正式にその“茶会”へと参席したのでございます」


 「……猫族?茶会?」


 大佐は眉一つ動かさず反芻した。


 「ええ、そこで明かされたのが、なんと――かのピラミッドに封じられていた王、ネフティス=アハさまの御復活計画。しかもこの計画、二千年という悠久の時をかけて、猫族が綿密に編み上げてきた壮大なプロジェクトだったのですのよ」


 「ほう、二千年……ずいぶん手間をかけたお茶会だ」


 大佐の声は、明らかに茶の温度より低かった。


 「そうですわ! あちらは時間の感覚が人間とは違いますもの。ましてや神聖猫族、歴史と魔法の両面において極めて高い自治能力と策謀力を誇っておりまして――」


 「つまり、君は“猫が世界を操っている”と?」


 コールドウェルがさもありなん、という顔で紅茶を傾けた。


 「違いますわ、大佐。操るのではなく、“導いておられる”のです」


 そう言い切ったエレノアの眼差しは、完全に信徒のそれだった。

 

 コールドウェルは天井を一度見上げ、それから手帳にペンを走らせた。おそらく「要精神鑑定」の欄に何かを書き足したのだろう。


 「……それで?」


 「はい、その後は運命の導きにより、わたくしがその儀式に“立会人”として招かれましたの。決して干渉ではございません。あくまで文化人類学的見地から、神聖猫族の意志と儀式の厳かさを尊重し――」


 「結果として、その儀式でファラオが復活し、空飛ぶピラミッドが現れ、スフィンクスが襲いかかってきたと?」


 「そうなってしまったのは、魔力の誤作動による自動防衛システムの暴走でして……」


 クレアの指が、ぎゅっと何かを握る音がした。おそらくスカートの裾。あるいはエレノアの知性。


 「しかしながら、大佐、貴軍の迅速なる対応により、システムの暴走は最小限の損害にて解消されました。まさに文明と文明が手を携えて、危機を回避した歴史的瞬間でございます」


 「つまり、我々が“運命に組み込まれた援軍”だったと?」


 「まさに! 貴軍は、猫族が二千年にわたって設計したプロトコルの、最後のピースとして――完璧に機能なさいました!」


 エレノアは紅茶を一口すすり、満足げに微笑んだ。

 まるで、自分が外交官としての任務を完遂したかのように。


 その時だった。


 「……君は、自分が今言ったことの内容を、きちんと把握しているのかね?」


 コールドウェルの声が、微かに低くなった。


 「一群の猫族が、君をお茶会に招き、ファラオの復活を君に見せ、ピラミッドが飛んで、スフィンクスが襲ってきた。――まるで、最近うちの娘が夢中になっている物語のようだ」


 「物語?」


 「“アリス・イン・ワンダーランド”だよ。君はまさに、ワンダーランドのアリスじゃないかね?アリス嬢」


 「まあ、大佐。わたくしたちのお話を“聞きたい”と仰りながら、一つも信じてくださらないなんて――あまりにもご無礼ですわね?」


 「それとも、すでにお書きになる報告書の内容は、もう決まっておりますの?」


 次の瞬間、彼女の視線が、ニャンデルへと向けられた。


 「ニャンデルさん。……ほんの、ちょっとだけ“信じる理由”を見せてさしあげて?」


 猫は、面倒くさそうに目を細めた。


 「……我は猫族議会の議員にして、月下の記録者……」


 ニャンデルは、わざとらしい咳払いを一つ入れた。

 その尻尾が、砂糖入れの横を通過しながらカチャリと音を立てる。まるで「茶の場に魔法を使わせるとは何事か」とでも言いたげに。


 「とはいえ……信を示せというならば、致し方なしニャ。」


 エレノアは「ふふん」と得意げに腕を組み、クレアは「また始まった」といった表情で距離をとる。


 ニャンデルは、一度くるりと身体を回し、テーブルの上で短く詠唱した。


 「フフン……蒸気は霧に、霧は泡に、泡は形に――」


 次の瞬間、テーブル上のティーポットから立ち上っていた白い蒸気がふわりと動きを変えた。

 

 蒸気は、まるで意思を持つかのようにくねり、渦を巻きながら浮遊する。


 「……魚?」


 クレアがぽつりと呟いた。


 そう、それは蒸気でできた――小さな金魚だった。

 気泡のようなうすい膜をまといながら、パクパクと口を動かしている。

 しかもその尾びれが、紅茶の香りを振りまくように、ふわりと揺れた。


 次に、魚はコールドウェルのカップの上を通過し、小さな輪をくぐるように回転して、蒸発して消えた。


 ……完全な演出だった。だがそれは魔法でもあった。


 沈黙。


 その場を覆ったのは、まるで誰かが舞台の照明を落とし忘れたかのような、妙な余白だった。


 「……素敵でしょう?」


 エレノアが、完全に“してやったり”の声で言った。


 「評価は保留だが、魔法を使える猫であることは確かだ。その猫は、少なくとも手品のレベルではない。 」


 蒸気の金魚が消えたあとの空気は、どこか夢と理性の境界を彷徨っていた。

 だが、その沈黙を打ち破ったのは――


 「……では、君はこう主張するのだな。

 “神聖な猫族の計画に基づいて、ファラオが復活した。

 それに英国軍は、図らずも必要な一手として組み込まれていた”と」


 コールドウェルの声は、以前と変わらぬ静けさを保ちながらも、どこか鋭さが増していた。

 まるで、紅茶の奥底に隠されたレモンの切れ端のように。


 「ええ、まさにその通りですわ!

 ですが誤解なきよう申し上げますと――これは“陰謀”ではなく、“歴史的合流”ですのよ。神話的存在と蒸気の帝国が、今、交差したということ!」


 エレノアは、卓上を指先で軽く叩いた。

 まるで、そこに記されていない“猫族の道”が見えているかのように。


 「……では、ファラオとやら、その存在の立場は?」


  その問いに、エレノアが答える前に、一歩前へ出たのはクレアだった。


 「お答えします。私は、ニャンデル殿の通訳を務めております。

 先ほど、彼は明確に述べました――“ネフティス様はエレノア様の盟友となる可能性が高い”と」


 エレノアがその言葉に続くように、前に出る。


 「大佐、たとえネフティス様が“厄介な存在”だったとしても――

 その矛先が向いているのは、少なくともこの地のエジプト総督と、彼の背後にいるオスマン帝国ですわ」


 彼女は懐中時計を静かに閉じると、そのまま語気を強める。


 「そして、大英帝国は、現在、オスマンとの関係がきわめて微妙な状態にある。

 ならば、古代から目覚めた“もう一つの王権”を、敵と見るよりは、対話と連携を模索する方が――合理的ではなくて?」


 コールドウェルは何も言わず、ただ机に置かれた報告書を指先で叩いた。


 その間を縫うように、エレノアはひとつの書類を提示した。


 「そして、こちらをご覧くださいまし」


 取り出されたのは、王立考古学会の金の封蝋がついた、精巧な羊皮紙だった。


 「わたくしが所持している“無制限発掘許可証”――それは、条約上、“未登録文明遺構”においては、軍より先に学術的調査権限を有すると明記されております」


 彼女の指が空に浮かぶピラミッドを指し示す。


 「つまり、あのピラミッド全体が、“わたくしの発掘物”にあたるわけでございます」


 数秒の沈黙。


 「……君、それはさすがに無理があるのでは?」


 ついに、コールドウェルが吹き出した。


 「王朝をまるごと“発掘物”扱いした例など、聞いたことがない。

 だが……面白い主張ではあるな。まさに“学術的侵略”というやつだ」


 「まあ、大佐ったら。そんな言い方をされては、王立学会が泣いてしまいますわよ」


 エレノアは、わざとらしくため息をつき、肩をすくめた。


 「では、条件を引き下げましょう。わたくしが求めるのは、ただ二つだけ」


 コールドウェルが眉をひそめる。


 「一つ。48時間以内、英国軍はピラミッドへの接近・侵攻を控えること。

 つまり、こちらからの干渉がない限り、向こうを刺激しないということですわ」


 「……ふむ。二つ目は?」


 「二つ。わたくしエレノア・バブルスウェイトが、我が国の臨時代表として、女王ネフティス様との協議を行う権限を付与していただきたいのです」


 「……軍が使者を送るというのか?」


 「まさに。信頼の起点になりますのよ」


 コールドウェルは何かを言いかけ、ふとエレノアの動作に気づく。


 彼女はそっと、布包みを広げ、そこに黄金のティーカップを一対、慎重に置いた。


 「これは、“神聖猫族茶会”の記念品。ですが記録には残しません。あくまで――わたくしの私的な贈り物」


 金の器が、照明を受けて僅かに輝いた。

 

 「……貢ぎ物という名の賄賂か?」


 「まあ、なんて物騒な言い回しですの!

 こちらは、わたくしが“大佐殿のご理解に対し、学術的感謝を示す”ための純粋な贈与ですわ。もし交渉がうまく進めば――このような歴史的価値ある有形知識が、もっとたくさん発見されるやもしれませんのよ?」


 コールドウェルはしばし無言で、卓上の黄金茶器を見つめていた。

 指先が微かに動き、まるで軍刀の柄を握る時と同じような慎重さで、それに触れた。


 沈黙の中、コールドウェルはそれを見つめ、深く――深くため息をついた。


 「……わかった。こちらからの攻撃は控える。交渉行動も黙認しよう」


 「感謝いたします、大佐!」

 

 「……君の言うことは、法的には危うく、戦略的には不明瞭だ。

 だが、確かに“情報と接触の中心”であることは否定できん。現場の猫族も、ファラオとやらも、君の言葉には反応を示した」


 「まあ、やっとご理解いただけましたのね」


 「だが、これは“信頼”ではない。――“選択肢の保留”だ」


 コールドウェルは、茶器を元の位置に戻した。

 その動作はまるで、外交カードを机に伏せて置くような慎重さだった。


 「艦隊は、ここに“48時間の静観期間”を設ける。

 この間に、ピラミッドが敵性を示さなければ――我々は直接介入を控える。

 だが、少しでも“スフィンクスの再来”のような兆候があれば、次は問答無用で砲撃する」


 「ご英断、感謝いたしますわ!」


 「そして、その金の器は――」


 コールドウェルは視線を落とし、静かに言った。


 「“個人として”ではなく、“陸戦艦インデファティガブル号の修繕費”として受け取ろう。記録にもそう残す」


 クレアが思わずまばたきをする。

 それは、英国軍人としての“ギリギリの妥協点”だった。


 「なかなか抜け目ないニャ……」


 ニャンデルがくすくすと喉を鳴らす。だが、その尾はどこか満足そうに揺れていた。


 「では――アリス嬢、君の夢の続きが、我々に悪夢をもたらさぬよう祈っているよ」

 

 コールドウェルはそう言い残し、背を向けた。

 鋼鉄の外には、砂と鉄の匂いが混じる、風が吹いていた。


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