7:鋼の巨獣《インデファティガブル号》
スフィンクスが崩れ落ちたあと、砂漠には耳鳴りがするほどの静寂が広がっていた。
空にはまだ微かに焦げた砂の匂いと、蒸気と魔力が混じった残滓が漂っている。
ゴゥン、ゴゥン、ゴゥン……
まるで巨大な鋼板に鋲が打ち込まれていくような、重く規則正しい振動音が、地平の彼方から響き始めた。
砂嵐がまだ完全には収まらない中、その音に乗って、ひとつの影が遠くの地平線に姿を現す。
「来ましたわね……」
エレノアは目を細め、その鉄の影を見上げた。信号弾は、この“文明の怪物”を呼ぶためのものであった。
それは、大英帝国が誇る陸戦艦――蒸気で動く鋼鉄の要塞だった。
全高は三階建ての建物ほどもあり、主砲塔がいくつも重なり、車体の下には複数の履帯が唸りをあげて砂を巻き上げている。鋼鉄で覆われた船体の側面には、王冠と獅子をあしらった英国軍の紋章が光っていた。
艦の上部から拡声装置を通して、機械仕掛けのような声が響いた。
「大英陸軍、インデファティガブル号。ただちに区域へ進入。信号源を確認。応答を求む」
「王立考古学会調査団代表のエレノア・バブルスウェイトと申しますの。信号弾は襲撃に対する救援要請でして――」
一拍置いて、再び機械の声が応じた。
「信号確認。身分証明の提示を」
「ありますわよ!……ええと、ちょっと燃えかけてますけれど」
焦げ跡のついた紙を素早く差し出す。
「合法的な発掘調査です。たぶん」
砂まみれの制服を丁寧に払いながら、エレノアは微笑んだ。
その背後では、スフィンクスの残骸がまだ陽光を鈍く反射している。
しばらくの沈黙ののち、艦の側面から大型の装甲ゲートが開いた。そこから昇降用の鋼鉄スロープが下ろされる。
「全員、警戒を緩めるな!」
英軍の号令が響き、重装の歩兵たちが一斉に展開する。
轟音の余韻がようやく消えた頃、砂漠には戦後とでも呼ぶべき沈黙が広がっていた。
砂塵はなお舞い続け、瓦礫の間から立ち上る蒸気が、空に溶けていく。
蒸気陸行艦のハッチがぎいっと軋みを立てて開き、全身を防弾コートで包んだ士官たちが一斉に降り立つ。
「2名、平民を確認……猫を連れている!」
連絡兵が伝声管で報告する。
それを聞いていたエレノアは、クレアと視線を交わし、深く息を吸い込んだ。
鋼鉄の甲板の上――
蒸気の煙を背負いながら、男は無言で腕を上げ、指先で何かを合図する。
「――こちらに任せてくれ」
士官の低く落ち着いた声が響いた。
続いて、艦の側面にある分厚い鋼鉄扉が、ぎぎ、と機械的な音を立ててゆっくりと開いた。
そこから漏れ出るのは、焦げた金属と油、そして蒸気の混じる匂い。
吹き出すような熱気とともに、低く唸るような機関音が彼女たちを包み込む。
ニャンデルはその足元で、しばらく鼻をひくひくさせたあと――
「にゃーん……鉄と油の匂いって、猫には強すぎるニャ」
「……先ほどの攻撃で艦内の一部パイプが損傷している。通気フィルターのある区画まで、防毒マスクは外さぬように」
案内に現れた若い士官が、無言で防毒面を手渡してきた。
「あなた方の分はこれだ。……それから、猫用も」
そう言って、彼はニャンデルをちらりと見やり、整備ロッカーから手のひらサイズの子供用マスクから改造された猫用防毒面を取り出す。
「にゃっ!?」
小さな耳穴がついたそれを見たニャンデルが、目をまん丸にした。
「ありがたく装備しておきましょう、ニャンデル」
エレノアとクレアは防毒面をしっかりと装着し直す。ニャンデルも「にゃー……空気がまずいにゃ」と不満げに耳をぺたんと寝かせた。
「入艦を許可。指定区画へ案内する」
鋼鉄の巨獣が、腹を開けて“来たる者”を迎え入れた。
エレノアは気持ちを整えて、スカートの裾を持ち上げながら一歩を踏み出した。
「さあ、文明のど真ん中へ、ですわ!」
「お嬢様、“文明”は重装備で武装しているように見えますが」
クレアの冷静な一言を背に受けつつ、彼女たちは、鋼鉄の扉の中へと歩みを進めていった。
中に入ると、まず圧倒されたのは「音」だった。
シュウウウウウ……と高圧の蒸気が流れる音。ゴウン、ゴウン、と歯車が噛み合う打撃音。金属が軋むたび、床がわずかに震える。
天井を走るパイプは無数に交差し、壁面の弁と計器がせわしなく針を振らせている。圧力ゲージ、温度計、警報灯――まるで巨大な臓器の中に迷い込んだようだった。
艦内の甲板は蒸気と煤塵で霞み、床面のリベットが靴音を鋭く反響させていた。
ところどころで見かける乗組員たちは、皆同じように顔をマスクで覆い、銅製の呼吸装置を胸元に装備している。胸には赤銅の帝国紋章。
整然と、まるでひとつの意志に従うように動くその姿は―― 鋼の
「普通の駐屯軍なら、ここまでの武力は不要です。これ……やはり、“戦争準備”ですよね?」
蒸気の唸り声と鉄の足音が響くなか、クレアの視線が艦内に向けられた。
「ええ、“抑止力”ですわ。オスマン帝国やエジプト地方政府との摩擦が激化するなか――我が国は、“確実にこの地域への軍事影響力を強めてきておりますの。」
蒸気の唸り声と鉄の足音が響くなか、クレアの視線が艦内の重火器に向けられた。
「表向きは“民間団体の安全確保”という名目ですが、実際には――帝国はこの地に高度な武装部隊を次々と送り込んでおりますわ。結果として、オスマン帝国の神経はますます鋭敏になっているのです。」
「もし陸軍が、ピラミッドの遺物を直接押収でもしようものなら……?」
「その瞬間、オスマン側は“帝国がエジプト主権を蹂躙した”と主張するでしょうね。」
クレアは肩をすくめ、ため息をひとつ吐いた。
「……つまり、私たちは、いままさに列強の神経の上で踊っているようなものですね。」
「でも、逆に考えてご覧なさい? 誰もが直接手を出せないこの状況だからこそ――」
「わたくしのような“民間の考古調査隊”が、絶妙な立場になるのですわ!」
「……代理人ですか?」
「“曖昧な存在”ですわ。正式な軍でもなく、宗主国の官吏でもない。あくまで“学術目的で動いている個人”として、どこにも敵対せず、どこにも完全に従属しない。」
「でも、実際は金の茶器と発掘許可証を武器に、各勢力を手玉に取っているだけでは……?」
「クレア、それは『優雅な外交術』と呼びますのよ。」
「……わたくしの中では、ただの“顔のいい詐欺師”という評価になりつつあります。」
「褒め言葉として受け取っておきますわ。」
クレアが優雅にツッコミを入れつつも、バッグの中で黄金のティーセットの無事を確認する動きは真剣だった。
しばらく歩くと、厚い防圧扉の向こうに、“別世界”のような空間が広がった。
そこは、艦内士官専用の食堂。
鋼鉄の壁面には赤い布が下がり、燭台の火が蒸気の反射と混じってぼんやりと揺れている。重厚な長机の上には、銀製の食器が並び、すでにスモークベーコンと豆、そしてホカホカの黒パンが湯気を立てていた。
士官食堂の最奥、重厚な真鍮の扉が静かに開いた。
「こちらへどうぞ。艦長が待っておられます」
士官に促され、エレノアとクレア、そしてニャンデルは奥の個室へと通された。
部屋はさほど広くはなかったが、清潔で、調度品にも品格があった。
真鍮と黒檀で飾られた机の上には、精巧な時計。そして、中央に鎮座するのは――一つの奇妙な装置。
「来たか」
その奥に立っていたのは、軍服に身を包んだ壮年の男。
灰色の短髪に鋭い眼光。胸元には艦隊の階級章。
金属製の襟章をつけた、年配の軍人が歩み出てきた。背筋を伸ばし、目は鋭い。
「アレグザンダー・コールドウェル大佐。インデファティガブル号艦長兼、現地駐屯隊司令官だ」
エレノアは慣れた動作でスカートを摘み、丁寧に一礼した。
「バブルスウェイト家のエレノア。お初にお目にかかりますわ」
「まずは、お礼を申し上げますわ。スフィンクスの件、貴軍の迅速な対応に感謝いたします」
艦長はゆっくりと頷いた。
「当然のことだ。君たちは正式な調査員だろう。
我々の信号弾を使った以上、君たちが無事に紅茶を飲める場所まで護衛するのは、軍人としての義務だ」
「まあ……そのお言葉、頼もしくて心強いですわ」
「紅茶に豆、焼きベーコン。味付けはやや濃いかもしれんが、目を覚ますにはちょうどいい」
そう言って艦長は、軽く視線を鋭くした。
「……少しだけ、君に聞きたい話がある。
この騒ぎ、どうにも“ただの遺跡調査”にしては妙すぎる」
「……ご質問にお答えする用意はありますわ。では、紅茶をいただけますか?」
「もちろん。」
彼は穏やかに、しかし少し鋭く笑った。
コールドウェル大佐は、机の上の装置に手を伸ばした。
それは、見た目こそ大きな懐中時計のようだが、側面には奇妙なバルブとホースの接続部があり、中央には「アッサム紅茶(蒸気抽出仕様)」のラベル。
「君のような貴族と向き合うたびに、必ず聞かれる質問がある」
「……まあ、なんでしょう?」
大佐がマスクのフィルターを外しながら言った。
「――“防毒面で、どうやって紅茶を楽しんでおられるのですか?”」
エレノアの目が見開かれた。
「まさか、それに……?」
「そう。蒸気抽出式の紅茶カートリッジ。ここに装着する」
彼はおもむろに、防毒マスクの吸気部を開け、そこに紅茶缶を嵌めた。カチッという音とともに、マスクの奥からほのかにラベンダーと茶葉の香りが漂ってくる。
「紅茶……吸ってますの!?」
エレノアは思わず身を乗り出す。
クレアの顔も、若干引きつっていた。
「大英帝国の軍人にとって、紅茶は燃料だ。蒸気でも抽出でも、本質に違いはない」
「……合理的ではありますけれども……風情というか……」
「戦場に風情は不要だ。だが、“女王陛下の紅茶”は必要だ。それが我が軍の信条だ」
そう言って、大佐は自らのフィルターから抜ける香気を愉しむように深く息を吸った。
その表情は、実に満足そうであった。
「我々のように常時マスクが必要な環境下では、紅茶を飲むのにも工夫がいる。だが、これで片手間にでも優雅さは保てる。いや、少なくとも努力の形跡はある」
「……ううむ、なるほど」
エレノアは感嘆しつつも、複雑な表情を浮かべた。
「さて、本題に入る前に――君の紅茶も、用意してある」
そう言ってコールドウェル大佐は、別の小型装置をテーブルの下から取り出した。
「貴族用の調合だ。香りが柔らかく、疲労にも効果があるらしい」
「……帝国の紅茶文化、ここに極まれりですわね」
「ピラミッドを空に浮かべた探検家には、これくらいの敬意は必要だろう?」
にやりと笑うその顔に、皮肉と敬意が絶妙に同居していた。
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