2:ピラミッドの給湯室でお茶を一杯

 揺らめく灯りが、数千年の眠りを経た石の表面に微かな光を落としていた。


 砂に覆われていた壁には、褪せた線刻で構成された巨大な構造図が描かれており、その中央にはきわめて実用的なレタリングで「総合施設内配置図」と刻まれていた。


 エレノア・バブルスウェイトは、スカートの裾を砂から払いつつ、光源に顔を寄せて地図を凝視した。

 壁面の埃はすでにクレアによって払い落とされており、主要な文字列ははっきりと読み取ることができた。


「……お嬢様、このピラミッド、やはりどこかおかしいですね」


 クレアは眉をひそめながら、地図の中に書かれた施設名を順に指差した。


「『従業員休憩室』『猫の聖堂』『給湯室』『申請管理センター』『財務部』『大型猫警備室』……お嬢様のご実家よりも、ずっと奇妙な構造ですよ」


 エレノアは即座に頷き、誇らしげに言い切った。


「当然ですわ!つまり、古代エジプトの建築技術と行政システムは、我々が思っているよりもはるかに先進的だったという証明ですわ!」


 クレアは再び視線を地図に戻した。石壁に刻まれた区画のラインは、まるで現代都市の区画整理図のように精密だった。


 エレノアはすかさずノートを取り出し、筆記を始める。


「この地図、写し取って建築学会に売りませんこと?革新的なオフィス設計の手本になりますわ!ほら、この行政施設と墓の見事な融合!まさに理想の政府機能を持ったオフィスビルディングではありませんこと?」


 クレアはノートを覗き込みながら、眉間にしわを寄せた。


「……ですが、そもそもピラミッドとはファラオの墓ではないのですか?」


 エレノアは構わず筆記を続けながら、軽く頷いた。


「『従業員休憩室』や『猫の聖堂』はともかく、なぜ『給湯室』や『申請管理センター』、さらには『財務部』まで……?」


 クレアは地図の端に目を移し、新たな疑問を口にした。


「そもそもなぜピラミッド内に地図を残したのでしょうか?」


 エレノアはペンを止め、満面の笑みを浮かべた。


「ふふ、この迷宮のような建物ですもの、やはり、迷子対策に違いありませんわ!」


 エレノアは地図の一部に描かれた「大型猫警備室」の表記を指差した。


「万が一、逃げ出したライオンに遭遇したら大変ですもの!」


 クレアは反射的に返した。


「……そもそもなぜピラミッドにライオンがいるのですか?」


 エレノアは手帳を閉じ、さらに確信に満ちた口調で言った。


「それよりも……これは歴史を覆す発見ですわ!」


「記録しなくては!わたくしの手で、新たな歴史を書き残しますわよ!」


「ピラミッドは単なる墓ではなく、エジプトにおける総合オフィスだったという新説を確立することができましたわ!」


 クレアは無言のまま、懐から小さなハンカチを取り出し、額の汗を拭った。


「……考えたくもありません」


 エレノアは再び壁に目を移し、じっくりと地図を観察した。

 その視線が止まったのは、「王室文書保管庫」と刻まれた広い区画だった。


「クレア、『王室文書保管庫』……かなり広いですわね。そのすぐ隣に『大型猫警備室』があるのも気になりますわ」


 エレノアは片手を顎に添えながら言葉を続けた。


「クレア、もしあなたがファラオなら、墓はどこに建てますの?」


 クレアは驚きはしなかった。ただ、目を伏せ、しばらく思案した。

 やがて静かに息を整え、言葉を選びながら答えた。


「世界の片隅、時間すら息を潜めるような静寂の中……

 誰一人として働かず、お茶を淹れる者もいない――そんな場所に」


 クレアの声音には淡い祈りのような響きがあった。

 その描写は、まるで理想的な永遠の眠りを願うかのようだった。


 その瞬間、エレノアの眉がぴくりと動く。


「それでは、残念ながら……」


 エレノアはほんの少し首を傾げ、いつもの調子で笑みを浮かべながら言った。


「あなたの墓はブリテンのどこにも建てられませんわね」


 一拍の間の後、続けざまに言い切る。


「だって、ブリテンに“お茶を飲まない場所”なんて、存在しませんもの!」


 クレアはわずかに目を伏せ、小さく頷いた。


「……お嬢様の言う通りかもしれませんね。でも、今のところ、自分の墓をどこに建てるか考える必要はなさそうです」


 エレノア・バブルスウェイトは肩をすくめ、手帳を閉じながら笑った。


「うーん、そういうつもりではなかったのですけれど……まあいいですわ。とりあえず、ピラミッドの給湯室でお茶を一杯いただきませんこと?」


 その提案に、クレアの表情が珍しくわずかに動いた。

 まるで、ネズミと猫が同じティーテーブルについた光景を目にしたかのような、一瞬の驚きがその瞳に浮かんだ。


「……お嬢様、ジョークの腕前が、日に日に冴えてきておりますね」


 エレノアは口を尖らせ、むっとした様子を見せた。


「冗談ではありませんわ! ただ純粋に喉が渇きましたの。クレア、あなた当然、お茶のセットを持ってきていますわよね?」


 クレアは数秒沈黙し、その後、深いため息をついた。


「お嬢様、私たちは今、ピラミッドの中にいるのですよ」


 エレノアは肩をすっと引き、誇らしげな表情を浮かべた。


「だからどうしましたの?」


「わたくしたち“エジプト人”がわざわざ給湯室を作ったのですもの、そこで飲むのが礼儀ではなくて?」


 クレアは眉をひそめ、真顔で訂正した。


「お嬢様も私も英国人です」


「ええ、だからこそ、お茶を飲むのは当然ですわ! おーっほっほ!」


 クレアは無言で視線を逸らし、静かに言った。


「……遠慮しておきます」


「ですが、わたくしは飲みますわ! 参りましょう!」


 エレノアがスカートの裾を翻し、誇らしげに進む。


「……かしこまりました、お嬢様」


 クレアは、墓石のように冷たい表情のまま、その後に静かについてきた。


 給湯室の扉は、装飾をほとんど持たず、墓の石材と一体化するようにひっそりと存在していた。

 石の表面にはいくつかの象形文字が刻まれており、その一部には湯気の立つ小さな器のような図像が見られた。


 エレノア・バブルスウェイトは慎重に指を伸ばし、文字の輪郭をなぞった。


「これは明らかに『給湯室』ですわね。ほら、このカップと、横にある茶葉らしき図」


 クレアはランタンを掲げながら、少し身を乗り出した。


「お嬢様、わからない部分は私が訳しましょうか?」


 エレノアは小さく頷いた。


「ええ、お願いしますわ」


 クレアは壁面を注意深く見つめながら、読み上げていく。


「……『臨時職員の立ち入りを禁ずる。正規職員は時間厳守のこと。崇高なる猫様と、至高なる女王陛下は、いつでも自由に給湯室をご利用いただけます』」


 エレノアは首を傾げた。


「……ええっと、猫様?」


 クレアは淡々と答えた。


「ええ、猫様ですね」


 エレノアは視線を象形文字に戻し、真剣な顔で検討した。


「でも、猫の舌では紅茶を飲めませんわよね?」


 ふたりは顔を見合わせ、わずかに首を傾げながら扉を押し開けた。


 エレノアは、せいぜい長椅子と水瓶が置かれた簡素な休憩所を想像していた。


 だが、その先に広がっていたのは――

 想像とはまったく異なる空間だった。


 石造りの天井と壁は美しく磨かれ、中央には広々としたテーブルと椅子が配置されていた。

 装飾には金箔が用いられ、テーブルの上には輝くティーポットとティーカップが、整然と並んでいた。


 壁には「お茶メニュー」と記された表があり、周囲の壁画には、エジプト人らしき人物が猫に茶を差し出している姿が描かれていた。


 クレアは壁の文字を静かに読み上げた。


「――『ブラックティー:長時間の申請業務に適し、忍耐力と集中力を強化する』」


「――『ハーブティー:申請ミスによる罰則を受けた後の精神安定に効果的』」


「――『王室専用ティー:王族のみ飲用可(王族を装った者は、忠実なミイラに加工される)』」


「――『キャットニップアイスティー:猫様専用。スフィンクスに偽装しても猫様とは認定されない。違反者は罠テスト部へ異動』」


 クレアはメニューの文言を一通り読み終えると、壁を見たまま小さく呟いた。


「……お嬢様、このメニュー、かなり意味が分かりません」


 エレノアは断言した。


「いいえ、完璧に理解できますわ!」


 エレノアはティーメニューを眺めながら、満足げに頷いた。


「エジプト人は、やはりわたくしたちと同じく、お茶を愛しておりましたのね!」


「クレア、これは非常に興味深いですわ!」


 クレアはわずかに身を引いた。


 エレノアはティーメニューのレシピを指差しながら答えた。


「このキャットニップアイスティー、ぜひとも再現してみませんこと?」


「……え?」


「確か、旅の途中で現地のハーブを仕入れましたわよね?それに、わたくし、キャットニップを買っておきましたの!」


「……なぜ、キャットニップを持ち歩いているのですか?」


「だって、エジプトといえば猫!猫といえばエジプト!金字塔に猫がいる可能性は十分考えられますわ!」


 クレアは眉をひそめた。


「ですが、ピラミッドの中に生きている猫がいる可能性は……」


「そんなことはありません!」


「例えば――このピラミッドの番人が、スフィンクスだった場合?」


 エレノアは勢いをそのままに主張を続けた。


「もしスフィンクスがキャットニップを好んだら、どうなります?

 猫がこのお茶を好むのは確定ですし、人間も好むとすれば、スフィンクスは二倍好きになるはずですわ!」


 クレアは視線を天井に向けたまま静かに答えた。


「……仮定が多すぎますね」


「それは学問的探究心の証ですわ! さあ、早速レシピ通りに作ってみましょう!」


 クレアはため息をついた。


「……わかりました。やりましょう」


 クレアはバッグから小型の蒸気加熱ユニットと精密抽出ポットを取り出した。

 旅用のミント葉と、エレノアが事前に仕入れていたキャットニップが並べられる。


 ボイラーをセットし、湯が沸く間にハーブを調合し、冷却用の真鍮製冷却パイプを通して、見事に冷たいアイスティーが抽出された。


 エレノアは香りをかいで目を細めた。


「清涼感のあるミントと、ふんわりと香る猫草……まさに猫のための一杯ですわ!」


 クレアはティーを注ぎ終えると、冷却用の水筒に残りを保存し、エレノアのカップに注ぎ、ポットを慎重にテーブルへ戻した。


 だが――エレノアは素早くポットを持ち替え、何事もなかったかのようにクレアのカップにももう一杯注ぎ足した。


 クレアは驚きはしなかったが、唇の端がわずかに緩んだ。


 エレノアはうなずき、再び座り直した。


「完璧な準備ですわね……では、ひとくち」


 クレアは口をつけたあと、静かに言った。


「……普通です」


 エレノアは満足げに頷いた。


「それ、あなたが気に入ったときのセリフですわね!」


 給湯室の穏やかな時間の中で、ふたりはしばし静かにティーを楽しんだ。


 そしてエレノアは、手にしていた記録用ノートをふたたび開き、壁の地図を改めて確認した。


 その瞬間、エレノアの瞳がわずかに輝いた。


「ユーレカ! 発見しましたわ!」


 クレアは、驚くことなく静かにカップを置いた。


「また何を思いついたのですか?」


 エレノアは誇らしげにノートを掲げた。


「クレア、この地図、ピラミッドの各部屋の配置を細かく記しているにもかかわらず、ファラオの墓室だけがどこにも書かれていませんのよ!」


「では、墓室はどこにあると思います?」


 クレアは考え込むように眉を寄せた。


「スフィンクスやライオンに守られ、地図には載っていないが、罠だらけの隠し部屋……とか?」


 エレノアは即座に否定した。


「半分正解ですわ。でも、実は地図に記されておりますのよ。この広大な部屋をご覧なさい」


 エレノアは、地図上でも特に大きなスペースを占める「王室文書保管庫」を指差した。


「この部屋、位置も面積も、あまりに異質ですわ。そのすぐ隣には『大型猫警備室』もありますし……これはただの文書倉庫ではありませんわね」


 クレアは懐疑的な表情のまま、ゆっくりと頷いた。


「……文書保管庫が大きいのは別に珍しいことではないでしょう?

 それに、そもそもなぜネフティスが自分の墓を、こんな書類だらけの部屋に作る必要があるの……」


 クレアは何かに気づいたように言葉を止めた。


 エレノアはその沈黙を逃さず、芝居がかった動作でティーカップを傾けながら微笑んだ。


「『考古学マニュアル』によれば、君主は自らの墓に最も愛する財宝を納めるもの。

 それは、来世に持ち込むため、あるいは復活後、最初に目にするため……」


「では、官僚主義を心から愛したネフティス=アハが大切にする財宝とは?」


 クレアは短く息を吐き、やや悔しそうに答えた。


「……つまり、ネフティス=アハは、自分の“財宝”――すなわち膨大な政府文書の山と共に眠るために、墓を文書保管庫にした……ということですか?」


 エレノアは得意げに頷いた。


「その通りですわ。つまり――」


「真の墓室は、紙と印章と申請書に守られた静謐の中に存在するのですわ!」


 クレアは紅茶を飲み干し、カップを丁寧に置いた。


「……なるほど。では、墓室の位置については、概ね確定ということで」


 エレノアは静かに頷いた。


 だが、すぐに立ち上がる気配はなかった。


 エレノアは立ち上がる代わりに、ティーテーブルに目を向けた。

 そして、王室専用ティーポットにそっと手を添える。


「とはいえ、いきなり向かうのも無粋ですわよね。まずは、現場保存のための“仮収蔵”が先ですわ」


 エレノアは、王室専用ティーテーブルの端に置かれていた黄金のティーポットを、両手で丁寧に包み込んだ。

 その様子は、発掘品というよりは、極上の嗜好品を買い求めた貴婦人のようだった。


 クレアはその様子を見て、小さくため息をついた。


「……結局、持ち帰るんですね」


 エレノアはごく自然な仕草で頷いた。


「もちろんですわ。この美しさ、現地で朽ちさせてしまうのは歴史への侮辱ですもの!」


 エレノアは黄金のティーポットを丁寧に布で包みながら続けた。


 クレアは口を開きかけてから、少し考えるようにして言った。


「ですが……お嬢様も仰っていたように、この遺跡の発掘について、オスマン帝国やエジプト政府が異議を唱える可能性があります」


 エレノアはふっと笑い、梱包したティーポットを撫でるように指でなぞった。


「クレア、それこそが、このティーセットの真価なのですわ!」


「わたくしたちが“正統な考古学調査”であると証明すれば、問題ありませんわ!」


 クレアは眉をひそめた。


「……どうやって?」


 エレノアは即座に指を立て、勝ち誇った声で答えた。


「簡単なことですわ。“文明の証”を差し上げるのです!」


「……賄賂ですね」


「賄賂ではなく、“外交”ですわ!」


 クレアは、口元をわずかに動かした。


「……お嬢様らしい解釈ですね」


 エレノアは手を組み、歩きながら語り始めた。


「それに、どの勢力にとってもわたくしの正当な発掘成果を認めるメリットは大きいのですわよ?」


 クレアは後ろからついて歩きつつ尋ねた。


「どういうことですか?」


 エレノアは指を三本立てて、順に折りながら説明した。


「まず、オスマン帝国は、発掘を全面的に進めることで英国に余計な口実を与えたくはありません」


「エジプト政府は、国内の資産を適切に管理したいけれど、オスマン帝国と英国軍に対して強い立場を取るのは難しい」


「英国軍は、外交のために“合法的な行動”を求めていますわ」


 クレアは頷いた。


「なるほど……では、お嬢様が民間の専門家として発掘を進めて、その成果の一部を各国に譲渡すれば――」


 エレノアは満面の笑みで言った。


「そうですわ!『わたくしの正当な発掘』を認めるしかありませんのよ!」


 クレアは視線をやや遠ざけて呟いた。


「お嬢様、それは“交渉”ではなく“買収”です」


「些細な違いですわ!」


 エレノアは笑いながら、ティーポットを大事そうにバッグへ収めた。


「発掘で得た財宝を各国に“寄付”することで、各国の体面を保ちつつ、外交問題を回避できるのです」


「まさに“英国流の円滑な取引”ですわ!」


 クレアは呆れたように目を細めた。


「……つまり、お嬢様が最初から金目のものを持ち出す前提で発掘しているということですね?」


「“適切な歴史的評価を行うための一時的な保管”ですわ!」


 クレアが何かを言いかけたが、結局言葉を飲み込んだ。


「墓室へ向かう通路――その途中に『猫の聖堂』がありますわ」


「猫の聖堂?」


「ええ、地図によれば、墓室へ至る導線上にある唯一の大広間。

 仮にネフティス=アハが何らかの仕掛けを施しているとすれば、きっとあそこですわ」


 クレアは静かに頷いた。


「つまり、次に確認すべきは『猫の聖堂』――ですね」


 エレノアは包み終えたティーポットをバッグへ丁寧に収めると、満足げな表情を浮かべた。


「そういうことですわ。書庫の女王に会う前に、まずは聖堂の猫様へご挨拶を」

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