第3話【底意地の悪い運命の神】






『【アポクリファ・リーグ】より緊急中継が開始されます!

 皆さん、すでに戦いの火蓋は切って落とされています!

 今回の獲物は……デカいですよ!

 現在ロウシュ川に巨大生物が出現し、クロスタウンを暴れ回っております!

 特別捜査官に出動要請が掛かりました!

 すでに現場には【獅子宮レオ】と【処女宮バルゴ】が到着し、足止めをしています!』


 ヘリからの中継が入り、明らかにキメラ種だと分かる獣の下半身に、続く胴体には三つ首の蛇の頭部がついている異形の姿が突然映し出されると、街行く人々はさすがにぎょっとしたように、街頭モニターの前で立ち止まった。


『事件の経過を説明いたしますと、本日の14:35分頃、クロスタウンで下水管が詰まったという通報が複数寄せられ、偶然暇だった【獅子宮警察】所属のアイザック・ネレスがこちらの方へ様子を見に来たところ、突然ブルーノセンター近くの下水道からこのキメラ種が出現した次第になります!』


「あのね! 下水管とかのことはみんな、水道局の方に通報してくれるかなァッ! なんでもかんでもこの街特別捜査官にいくらなんでも助け求め過ぎだと思うのよ! 俺ら、街の何でも屋さんじゃないんだからさぁ! つーか暇じゃねえよ! 遅めの昼食食べてて忙しかったよ俺は! それでも市民が困ってるからっつって出動したんじゃねえか! そういうことをちゃんと中継でお伝えしろよ!」


『さあ! アイザック・ネレスがいつものように吠えております! 皆さん水のことは水道局にちゃんと連絡しましょう! しかし今回のことは水道局に連絡しても結局特別捜査官の仕事になったとは思うんですが……』


「上空で喋ってる奴、うるせーよ!」


「あんたねっ! そんな愚痴ってる暇あったら、早くどうにかしてよッ!」


 ルシア・ブラガンザが怒りと共に雷撃を放つ。

「う、うるせぇ! 分かってらあ! でも近づけねーんだよ! お前首一つくらい吹っ飛ばしてくれねえと、俺の攻撃する隙が見つかんねぇし……」

「足止めだけで精いっぱいなの、分かんない⁉ とにかく首を凍らせてよ!」

 アイザック・ネレスが能力を最大限に使って、なんとかキメラ種を氷漬けにしようとするが、すぐに氷にビキビキと亀裂が走り、砕けてしまう。

「駄目だ! 氷に耐性がある奴だから凍結出来ねえ! 俺の氷壁で炎は防いでやるからお前が仕留めろ! ルシア!」

「簡単に言うんじゃないわよ! 特大の雷撃見舞うから時間稼ぎなさい!」

 ルシアは風の能力者で強力な雷撃を放てるが、能力発動まではチャージが必要なのだ。

「時間稼ぎなさいって、たった今凍結出来ねえ奴だと俺は言ったけどな⁉」

 ルシア・ブラガンザは目を閉じ、白い光を纏い始めている。

 アイザックは効かないと分かっていたが、再び氷の能力で敵を凍結させた。

 しかしすぐに氷の表面に亀裂が走り、ビキビキと音を立てて氷が砕けていく。


「くっそー! 誰だ馬鹿野郎! 遊び半分にキメラ種作ったのはいいけどなんか気持ち悪い感じにデカくなって来たし何食うか分かんねえから怖くなってとりあえず下水道に捨てようとするのはやめなさいって俺はいっつも言ってんだろ!

 命! 命! 命を弄ぶなよ! 最近すげぇ多いぞキメラ種騒動! 

 次の国会からキメラ種作って捨てた奴は死刑になる法律作るからな!」


『皆さんはもう知っておられると思いますが、アイザック・ネレスが饒舌な時は、本当にピンチな時が多いです! この人は追い詰められれば追い詰められるほど口数が増えます!』


「うるせぇ実況! てめー頭上でごちゃごちゃ言ってる暇あったらそこからロケットランチャーかなんかで援護しやがれ!」

『ぅええ⁉ そんな逆ギレされましても、わたくし……、ロケットランチャーは持っておりません!』

「今度から搭載しとけ馬鹿野郎! おめーら凶悪事件担当の【アポクリファ・リーグ】の中継班だろうが! いついかなる時でも俺らをロケットランチャーで援護できるように準備しとけ!」


 アイザックの小気味いい悪態にどっ、と街角で人々が笑ったが、化け物の首が旧市街の電柱を倒して電線が、火花と共に引きちぎれる画が映ると、それはすぐに悲鳴に変わった。


 ドオオオオンッ!


 蛇の首がしなり、旧市街の建物を川沿いに破壊していく。

『ああああ……なんということでしょうか! 美しい旧市街の街並みが、どんどん壊れて行きます! アイザック捜査官なんとかして下さい!』

「なんとかしてくれっつったってよ……!」

 アイザックは舌打ちして、再び能力を発動させた。

 無数の氷柱が矢のようにキメラ種に降り注ぐ。

 皮膚に突き刺さり、目にも深く刺さったため、キメラ種は痛みに咆哮を上げる。

 陸に上がれば十メートルにはなろうかという巨大生物だ。

 

『一体今までどこにこれほどの巨大生物が潜んでいたんでしょうか!

 キメラ種はロウシュ川を真っ直ぐに東に向かっています!

 第六号陸橋を渡られると首都ギルガメシュにこの怪物が襲来する可能性も……、』


「んなことさせねえよ!」


 陸に上がろうとしたキメラ種を水路の水を凍結させ、再び足止めする。

 ルシアが瞳を強く見開いた。

「離れて!」

 ルシアの体が光を放ち、その光が凄まじい轟音と共にキメラ種の胴体に決まる。

 雷を生み出す能力者は【アポクリファ・リーグ】には他にも存在するが、火力で言えばルシア・ブラガンザの雷撃が随一と言われている。

 火花が一帯に広がり、キメラ種は雄叫びを上げて硬直し、水路の中に倒れた。

 巨大な水柱が上がる。


『ルシア・ブラガンザの強力な雷撃が決まりました!』


 中継ヘリが上空から、水路の中に倒れたキメラ種を撮っている。

 街角でそれを見ていた人たちからは歓声が上がった。

「美味しい所持って行かれたなあ。俺の方が現場到着早かったのによ」

「現場到着一番乗りでもあんただけだったら足止めすら出来なかったわよ」

「んだと……俺様は昼食の途中だったんだよ。つまり空腹だったんだ。ちゃんと昼食食べれてたらもっとパワー出たからな!」

「ハイハイ分かった分かった」

「お前分かってないな⁉ それ絶対分かってない人の返事の仕方だな⁉」


 二人は言い合っていたが、突然上空から悲鳴が響いた。


『ああああッ! 危ない!』


 突然倒れていた巨獣の首が目覚め、側にいた二人を狙って襲い掛かったのだ。

 薙ぎ払われる直前にアイザックが自分達の前に氷の壁を作って敵の攻撃を防御したが、直撃は免れたものの、巨獣のその力によって壁にはすぐ亀裂が入り、特別捜査官二人は弾き飛ばされた。

 二人の身体が、旧市街の建物に突っ込む。

 実況と街角の視聴者の悲鳴が重なった。

 彼らはプロテクターと呼ばれるダメージ軽減の為のスーツを着てはいるが、それで凌ぐにも限度はある。

「ってぇ……っ おい、ルシア大丈夫か?」

「……もぉ、最悪……、あんたと二人で現場入ると、何でいっつもこうなるの……」

 幸いひどい傷は負っていないようだが、完全にルシアは心の方が折れたらしい。

「人を疫病神みたいに言うなよな……」

 悪態をつかれたアイザックが口許を引きつらせる。

「大体あんたが最初にそのパワー使って、ブルーノセンターで出て来たところを仕留めてくれてれば、こんなことにならなかったのよ!

 こっちは街も守りながら、敵の攻撃を封じ込んでんのに……あんたねぇ! 一人前の仕事も出来ないなら、ちゃんと同僚連れて現場に来なさいよね!」

「う、うるせーっ! 俺ぁようやく訪れた昼の休憩時間返上して、下水道の様子見てくれとかいう、完全に管轄外だけど市民が困ってるみたいだからって声に優しさで出動したんだよ! こんな化け物が潜んでるなんて予想してるかァッ!

 ちゃんとプロテクター装備して出動しただけでも今日の俺の勘は冴え渡っとるわ!」

「あーもう使えない! これだから【獅子宮レオ】の男は!」

「んな! てめーそんなこと言って『これから下水道の様子を見に行こうかと思うんですがシザ様一緒について来て下さいませんか』なんてメール打ってみろよ! ブチ切れられるだろそんな内容!」

「あんたら、二人揃って! ほんっと使えない!」

 瓦礫の中でもつれたまま、ギャアギャアと言い合っていると、いきなり頭上を影が覆った。

 巨大な怪物が、蛇特有の長い舌を出しながらそこまで迫っていたのだ。

「きゃああああっ! イヤーッ!」

「おあああああ! ルシア、ちょっ、そこどけってば! おいパニックになって能力使うな! なんかピリピリする! 全身ピリピリする! 絶対コレ感電してる! やめろおおお逃げらんねえだろ!

 くそ~~! シザてめぇこの野郎! 俺の呼び出し無視しやがって! 今、家で優雅に紅茶とか飲んでたら、俺はあの世に行ったって末代までお前のこと呪ってやるからな! 

 シザのクソ、気障野郎! 腐れ天然パーマ! 冷血人間! 

 ――のわーっ! マジで助けてくれシザ!」


 巨獣が大きな顎で二人を上から叩き潰そうとした時、斜め上から流星蹴りが巨獣の脳天に叩き込まれた。


 ドゴオオオオンッ!


 キメラ種の頭部が目前の地面に衝撃と共にめり込む。

 巨獣の頭部を踏みつけて。

 まさに数多の怪物を制して誇る、古の神話の勇者ペルセウスのようにそこに降り立ったシザ・ファルネジアの姿を、土埃の中にヘリの高度カメラが映すと、いつの間にかの人垣になっていた【グレーター・アルテミス】全土の街頭モニター前から、一斉に歓声が上がる。


「――呼びましたか」


 涼しい声を響かせたシザに、アイザックは口許を引きつらせる。

「呼びましたかって……おまえってやつは……ほんっとにもう……」

「先輩。人を呼び出すのは結構ですけど、いい加減要件以外に事件現場の座標をちゃんと送るクセ、つけてくれませんか?」

「送っただろォ!」

「送っていません。貴方GPSも起動させてませんね? 何が『俺もプライベートな時間が欲しい』ですか。貴方がどんないかがわしい店に行ったり、いかがわしいDVDを山ほど借りても僕は一切そんなことには興味を持ちませんから安心して、いい加減普段からGPSをちゃんと起動させてくれますか。

 僕がどれだけ面倒な手間を掛けて今日ここにやって来たと?

 一人で出て行って無事に帰っても来れないような人が、プライベートな時間が欲しいなんて、正直片腹が痛いですよ」

「えっ。うそぉ……俺送るの忘れてたっけ?」

「今日は反省会は付き合えませんので。一人でやってください」

 言った途端、シザの能力が発動する。

 キメラ種の頭部を容赦なく踏み場にして、シザは跳躍した。

 強化を受けたその脚力に、踏み潰された怪物の頭部は更に地面にめり込む。

 一瞬でキメラ種の頭上を越える地点まで達したシザは空中から飛び蹴りを、まだアイザックの力によって半分凍ったままの二本目の頭部に叩き込む。

 凍っていた為、衝撃に弱くなっていたキメラ種の首は、粉々になって砕けた。

 最後の首が抵抗を見せ、空中にいるシザが落ちて来るところに、大顎を開き食らいついて来る。

 悲鳴をあげたのはシザ以外の人間だ。

 アイザックでさえ、一瞬同僚を助けようと身構えかけた。

 だがシザは冷静に身を捻って怪物の牙を躱すと、その開いた口の上顎部を両手で掴み、持ち上げて、地上に向かって投げつけた。

 キメラ種の二つの頭同士が地上で衝突し、その巨体がついに倒れる。

 それでも勝負は決まったが、シザは怪物の仰向けになった腹に乗ると、身体をそのまま引き上げた。

 とても人の力では持ち上げられないそれも、光の強化系能力者には可能になる。

 巨体がはまった瓦礫が崩れ落ちて行く。

 ゴゴゴゴ……と地鳴りのような音を立てて、地面が震動した。

 キメラ種の巨体が持ち上げられシザはそのまま、無造作に放り投げる。

 巨大な水柱を立てて、キメラ種が川の中に沈んだ。

 差し込む西日に水飛沫が照らされて、水の雫が輝く。

 今度こそ完全に巨獣は討伐されたのである。

 シザが軽く手を上げた。

 ヘリのカメラが彼を捉えたまま、引きの画で遠ざかっていく。

 美しい旧市街の赤い煉瓦の情景が、首都ギルガメシュの市街まで映し込むと、街には歓声と拍手が沸き起こった。


「――なんかおまえ、今日はキラキラしてんな」


 シザが振り返る。

 アイザックはイマイチ釈然としないような表情でようやく瓦礫の中から起き上がって来た。

「そうですか?」

 彼はもう冷めた表情に戻っている。

 しれっとそんな風に言うと、歩き出した。

「僕はバイクで先に【アポクリファ・リーグ】本部に戻りますから。アイザックさん。貴方は彼女を警察車両で送ってあげてください」

 シザはまだ蹲っているルシア・ブラガンザを指し示す。

「……お、おう……分かった……。

 あのなー。シザ、さっき俺がぁ、口走ったことは、」


「――僕は冷血人間なので、自分以外の戯言なんか一秒で忘れます。」


 シザは横づけしてあったバイクに跨ると、アイザックに一瞥も与えず走り去っていった。


 アイザックはがっくりする。

「根に持つなよ……」



◇   ◇   ◇



【アポクリファ・リーグ】本部に戻ると、出動に至らなかった捜査官達が何人か集まっていた。

 大変だったね、と彼らは現場から戻ったアイザックとルシアを労う。

「いやぁ~~……そんなことないぜ……ほら、シザ大先生が危ねえところで駆けつけてくれたからさ……」

 アイザックはチラ、と会議室の隅で何やらパソコンを打っているシザを見た。

 彼とは組んで五年目になるが、未だに捉えどころがない。

 この曰くつきで【グレーター・アルテミス】にまさに彗星のように現れたシザ・ファルネジアという男は、とにかく無為に時間を過ごすということがない男だった。

 常に何かをしていたり、行動している。


 彼は【グレーター・アルテミス】に来る前、別の国で殺人を行った。

 それは決して悪心から来るものではなく、養い親の虐待から逃れるためのものであったという。

 アポクリファに寛容な【グレーター・アルテミス】は、【アポクリファ・リーグ】参戦の記者会見の時に、その事情全てを曝け出した彼を特別捜査官として歓迎したのだ。

 半年ぐらいの間は、アイザックはこの可哀想な事情を抱えたルーキーをそれは大変支えてやり、先輩として可愛がってやったものだが、半年くらいして突然【バビロニアチャンネル】のCEOであるドノバン・グリムハルツが『君はなかなか才能があるな。私の養子にならないか?』などと言って来て、シザはあっさりと『いいですよ』と答えた。

 すると独身貴族で有名だったドノバンは『ではそうしよう』の一言で、あっさりシザは【グレーター・アルテミス】有数の大富豪の義理の息子になってしまった。

 以後アイザック・ネレスの立場はシザに対して、大変弱くなったのである。


 事情が事情であるため、仲間たちも最初はシザにどう接すればいいのか分からないようだったが、徐々にシザは別に不満はなくとも孤高を愛するのだという見解になり、彼が群れから離れていてもあまり気にしなくなった。シザもその状態が一番落ち着くらしく、こうして少しずつは、シザも【グレーター・アルテミス】の街や【アポクリファ・リーグ】や、その仲間たちには慣れてきているようだ。

 だが……。


(いや……やっぱさっぱりこいつ分からん)


 一番側にいるアイザック・ネレスからしてみると、シザはかなり感情起伏が激しい印象があった。

 いつもは確かにクールに決めているが時々なんのきっかけなのか、非常に苛々していたりナーバスになったりする。

 しかしこっちがそれを気にしてやると、数日後には全くそんなこと忘れたかのように平然とした顔をしてたりもする。


「まぁ、とにかくみんな無事なら良かったのよ」


 ミルドレッド・フォンテが笑った。

「折角みんな集まったんだから、なんか食べに行くか?」

「あらいいわね。なんならうちのお店貸してあげるわよ」

「行くわ」

 ルシアが立ち上がる。

「お前ちょっと腕怪我してんのに大丈夫なのか?」

「はぁ⁉ 馬鹿言わないでよ! 今日はあんたのせいですごく苛々したんだから、美味しいものくらい食べておかないと、終われないわよっ!」

「逞しいなお前は……」

人馬宮サジタリウス】のダニエル・ウィローが感心している。

「アレクにも連絡しちゃおっと」

 ミルドレッドがアレクシス・サルナートにも、みんなで食べないかと連絡を入れているらしい。

 優勝候補のアレクシス・サルナートは多忙が極まっているのだ。

 それでも十分後くらいに「顔を出すよ」という彼らしい穏やかな返事が来て、ミルドレッドは上機嫌になった。

「みんなでこうやって集まるのって久しぶりじゃない?」

「ほんと。アレクシスがいなかったりルシアがいなかったり、誰かしら揃わないもんね」

「きゃ~っ素敵な夜になりそう!」

 ミルドレッドが上機嫌だ。

「じゃあ早く行きましょう」

「おーいシザ、行くぞォ~~~メシ~~」

 アイザックに呼ばれて、真剣に何かパソコンで仕事をしていたらしいシザは、そこで我に返ったようだ。

 時計を見て、パソコンの電源を落とす。

「すみませんが僕は今日このあと約束があるので、今日は遠慮させていただきます。みなさん、楽しんで来て下さい」

 部屋を出て行こうとしていた全員が振り返る。

「なによっ! この期に及んでまた和を乱す気っ?」

 折角楽しい酒を飲もうとしていた所を邪魔されて、ミルドレッドが眉を吊り上げる。

 だが、帰り支度をするシザは静かに返した。


「いえ、そんな大層な理由ではありません。

 今日は恋人が【グレーター・アルテミス】にやって来るので、空港に迎えに行ってあげないといけないんです。すみませんが失礼します。アイザックさん、また明後日」


 シザは荷物を抱えると丁寧に頭を下げて、部屋を出て行った。


 仲間たちは黙ってそれを見送り――数秒後。



「えええええええっっ⁉」


 

 全員が飛び上がって、驚いたのである。



◇   ◇   ◇


「しんっじらんない……あいつに恋人がいるなんてっ

 今までそんなの、一度も聞いたことがなかったじゃない!」

「アイザック、お前は知ってたのか?」

「知ってたら今、俺はこんなことしていない」

「シザさんの恋人ってどんな人なんでしょう?」

「きっと同類の、似たものカップルよどうせっ。

 あの手の男は自分が一番だと思ってるから、自分に似た女を選んでいるはずよ。

 きっと初対面からこちらを見下ろして来るような、顔だけいい性悪女に違いないわよ!」

 ミルドレッドがハンカチを噛んで悔しそうに言っている。

「なーんかあいつに恋人っていう絵がもうそもそも思い浮かばないんですけど……」

 ルシアもしきりに首を捻っている。

「シザに恋人がいることは分かったが、何故俺たちはこんなところでコソコソ盗み見を……というか店にアレクが来てしまうぞ」

「しーっ! 駄目よそんな普通に喋っちゃ! ダニエルったら屈託ないんだから! もぉあいつ勘がいいからこれ以上近づけないわ!」

 オペラグラスを使いながら、ミルドレッドがジリジリしてる。

「おれここからだとシザ米粒にしか見えねーぞ」

「あんた視力まで老いて来たんじゃないの」

「老いてない! まだ三十代だ! つーかルシアてめーあいつの恋愛になんか興味ないとかいって結局こうやって来てんじゃねえか!」

「ないよ。でも気になるじゃん。あんな性悪男と恋人になるってどんな感じの女なのか」



『18:16分 アルテミス空港到着機 降着口は四階、二番ゲートになります』



 アナウンスが掛かると、シザは読んでいた雑誌を側の棚に返しラウンジから出て来た。

 アルテミス空港はこの都市が世界に誇る巨大ハブ空港である。

 特別捜査官の中でもその容姿と長身もあって、シザ・ファルネジア人混みの中では一際目を引く。

 すれ違う人も「あれっ⁉」という顔をして振り返るのだが、シザがあまりに平然としているため、一瞬躊躇うらしい。

 加えてシザという青年は、かなりオンとオフの使い分けがはっきりしている。

 街中にいても、快く握手やサインに応じる時も彼はあった。だが、プライベートを邪魔されたくないと明確な意志がある場合、彼はファンであっても「今は遠慮してもらえますか」とかなり冷たく突き放すことがあった。

 結果としてデビューから五年経つ現在、彼のスタンスは完全にファンの知るところになった。

 つまり「話し掛けてみないと分からない」である。


 シザはその日は、明らかに『話し掛けるな』オーラを纏って、空港の人の波の中を歩いていた。

 中には気づいて写真やサインを取らせてほしいなという顔をする者もいるのだが、まるで重戦車のように人の視線を弾き飛ばして歩いていくシザには、人は圧倒されるらしかった。

 結果、ひどく遠巻きに携帯などで写真を撮るのがやっとという状況だ。

 降着口から、人々が下りてくる。

 シザは何かを探すように首を動かし、人の群れの奥を見ている。

 シザ・ファルネジアがこの空港に現われるとは思っていない人々は、やはり彼を見るたびにまず、ぎょっとした顔をする。


 現在、養父を殺した罪でシザは国際指名手配を受けている。


 つまり【グレーター・アルテミス】から一歩でも国外に出た途端、彼は逮捕される状況なのである。だからシザはこの空港から海外に飛び立つということが出来ない。用のない場所なのだ。 

 それに、自らが指名手配犯なのだと改めて知らしめて来る、ここは忌々しい場所でもあるだろう。

 これは【グレーター・アルテミス】に住まう全ての市民が把握している事実でもあった。

 尚更空港にシザがいるとは彼らは思いもしていない。

 実際シザ自身にとっても、空港の印象はそんなものだ。

 だが今日は。


 人の波に多少流されるようにしてゲートに現われた姿を、すぐに見つける。

 その途端、平然としていた彼の表情に、初めて感情が現われた。


「――ユラ!」


 淡い紫色の花束を抱えた少年が声に反応し、軽く駆け出して来る。

 他の人間の姿などシザの視界からは一切消えていた。


「シザさん」


 やって来たユラを抱えれば、彼がそう呼んでくれた一言にシザは嬉しくて仕方が無くなった。両腕で深く、その華奢な身体を抱きしめる。

「待ってた。……会いたかったよ」

「はい……ぼくも。一度トリエンテの事務所に戻る予定だったんですけど……我慢出来なくて、直接こっちに来てしまいました。ご迷惑じゃなかったですか……? その、仕事とか……」

「仕事はもう終わらせました。明日は元々一日休みにしてあります」

 シザは気にしたユラの額に、そっと唇を寄せる。

 ユラはそれを聞いて安堵したようだった。

 シザの胸に顔を寄せて両腕で包まれてると、帰って来たんだなぁと彼は心の底から思えた。


(ぼくの 帰る場所)


「……元気でしたか」

 シザの優しい声が、耳元で響く。

 ユラは頷いた。

 本当に涙が込み上げて来て、慌てて押さえ込む。

 ユラが【グレーター・アルテミス】に戻るのは二年ぶりなのだ。

 そして彼の印象としてはこの二年は、シザと離れているという観点からして、二十年ほど会えていなかったくらいの気分に近かった。

 だからきっと泣いてもシザは分かってくれるだろうけど、ユラは自分で、今は泣きたくないと思ったのだ。

 再会出来たことを今は笑ってただ喜びたい。


「シザさんの方が……大丈夫でしたか? 僕なんかより、ずっと危険な仕事をしてるから……シザさん、メールでも仕事のことはあんまり話してくれないから……きっと心配させないようにそうしてくれてるんだろうなと思ったけど……、無理してないか心配です」


「仕事は大丈夫です。心配いりません。僕が仕事のことを話さないのは、話すと『今日も出来の悪い同僚を僕が全部フォローしてあげたよ』って毎回自分の自慢話になってしまうからですよ」

 心配そうだったユラは美しい、紫水晶のような瞳をぱちぱちさせてからようやく、くすくす……と笑った。

 シザが今【アポクリファ・リーグ】に参戦していて、所属している【獅子宮警察レオ】の同僚がアイザック・ネレスという三十代の年上の人だということも、ユラは聞いていた。

 初期の頃は、あんまり使える同僚という感じの人ではないですね、というのは聞いた気がする。

 でも今、シザの顔を見れば分かる。

 仕事は確かに充実しているのだろう。ユラは安心した。

「……自慢話になってもいいから、……シザさんがどんな風にお仕事してるのか……聞けたらぼくは嬉しいです」

 シザは目を眇めて、優しく笑った。

「分かりました。じゃあこれからはそうします。

 ……仕事は順調ですけど、でも、僕は元気ではなかったです」

 ユラの柔らかいプラチナブロンドを撫でながら、シザは呟く。


「……貴方に触れられなかったから、元気ではなかったです」


 力を込められた手に、二年前【グレーター・アルテミス】で別れた時のことを思い出す。

 二人で決めたこと。

 ユラは当時まだトリエンテ王国の音楽院に在学中で、成績優秀者のみが推薦を受けて、一年間、各国を回りながら演奏公演をしていたのである。

 その途中で、ユラは出場した音楽コンクールでグランプリを受け、卒業後そのままもう一年音楽修行のために各国で公演をしないかと、コンクールのスポンサーから話を持ち掛けられたのである。

 ユラはとても迷った。

 一年。

 そういう約束でシザと離れた。

 彼の元に戻りたかったし、音楽家として自分がどこまでやっていけるかも、自身ではまだ分からず不安だった。

 でもユラに出来ることは昔から、ピアノを弾くことくらいしかない。

 シザは生活する為に特別捜査官を始めた。昔からあまり好きではなかった、自分の能力を仕事で使うようになった。

『この力で人を救えるなら悪くない話』――シザはそう軽く話したが、ユラにだけはその心の葛藤が分かった。

 

 もし自分がもう一年音楽と向き合って、それを本当に仕事に出来れば、もうシザばかりに苦しい想いをさせないで済むと思った。

 

 ずっとずっと、そうしたいと思っていたことだ。

 それはまさにユラの幼い頃からの夢だったと言ってもいい。

 シザは「ユラの望むことをやってほしい」とこの話を応援してくれた。

 彼のその応援が、結果としてユラの背を押したのだった。


 ユラは音楽事務所と契約をし、一年の約束で音楽活動をした。


 そしてようやく今日、帰って来たのである。

 シザとは、約束をしていた。

 一年後【グレーター・アルテミス】に戻ったらすること。


 今後どうするか二人で話し合うこと。

 シザの問いにユラが返事をすること。

 ……シザを、名前で呼ぶこと。


 シザの問いというのは。

 二年前、一年間会えなくなるからと、その間に同級生、オケの誰か、或いは音楽そのもの――。

 一年の間にユラの心が何に強く揺さぶられるか分からないから、はっきり伝えておきたいと、出発の前日に告げられたことだった。


『僕はユラが好きだ』


 知っていると思うけど、と付け加えてシザは言った。

『もちろん、この気持ちは兄としての立場とは切り離して……そう思ってる』

『……兄さん』

『でも僕は今まで、ずっとユラの側にいた。お前の傷や痛みも全て知ってるつもりだ。

 僕はユラが好きだから、絶対にお前を傷つけたくない。

 もし……ユラが僕とそういう風になりたくないのなら、想いは殺せる。

 単なる優しい兄として、ユラが誰かと幸せになるまで、側にいられればそれでいい。

 絶対にユラの心を踏み躙ったりしない。誓うよ』


 養父であるダリオ・ゴールドは、戸籍上の父親でありながらユラに手を出した。

 ……ユラはその記憶に、未だに時折苦しめられているのをシザは知っていた。

 最初の半年くらいは【グレーター・アルテミス】で一緒に暮らした。

 その時によく、ユラは魘されていたのだ。

 自分が付いていてやらねばならないと強く思う反面、ユラは通うはずだったトリエンテ王国の名門音楽院への進学を、諦めようとしていた。

【グレーター・アルテミス】のアカデミーに通ってシザと離れずに暮らすことは、ユラ自身の望みでもあった。

 

 シザがラヴァトン財団のドノバン・グリムハルツから養子にならないかと言われた時、考える間もなく頷いたのは、ユラのことがあったからだ。

『弟の三年間の学校生活の一切を、支援してほしい』

 それが可能なら貴方の養子になると、シザは言ったのだ。

【グレーター・アルテミス】のホテル王は否応もなかった。

『構わんよ』

 ではトリエンテには護衛もつけさせようと、そんな手配は手慣れた様子で、彼は他国でのユラの学校生活をバックアップしてくれた。

 淋しかったり悩む時は、いつでも帰ってきていいからとそう言って、ユラはトリエンテの名高い音楽院の寮に入った。

 半月に一度は、ユラは【グレーター・アルテミス】に戻って来れた。


 養父の件では、ユラは事件発生当時すでに【グレーター・アルテミス】行きの飛行機に乗っていたことが証明されており、加えてシザが殺害を隠していないことからユラにまで捜査当局の追及が及ぶことは無かった。

 このトリエンテ王国の音楽院は非常に格が高く、純粋な音楽家育成の使命感を持っていたことから、ユラが入学した後、ノグラント連邦捜査局が『ユラ・エンデに少し話を聞きたい』と面会を求めて来たことに学院長が激怒し、二度と警察にうちの学院の敷地を踏ませるなと、そういう姿勢を取ってくれたことは、シザにとってありがたかった。

 ドノバンの用意した護衛も、音楽院から一歩出た、ユラの穏やかな世界を守ってくれた。

 

 表面上は年相応の、穏やかな学院生活を送れていたと思うが、シザには感受性の強いユラが、今も過去の記憶に苦しめられていることが分かっていた。

 

 ドノバン・グリムハルツは普段ユラに関してはほとんど無関心だったが時々、トリエンテに仕事で行くとユラの授業風景を見たり、定期公演などがあるとふらりと見て来ることがあった。

 シザと食事をする時に、彼はユラの音楽家としての素質について話す為だろう。


「人間は喜びと同じくらい、悲しみにも心を揺さぶられる。

 ユラ・エンデの音楽家としての根底には、常に過去の痛みが垣間見える。

 その悲しみを脱却して、幸せになりたいという願望と、

 逃れ難い痛みに対しての怯えも。

 過去の痛みがユラの音楽に、同年代の子供にはない深みを与えてる。

 私は才能の無い奴は実の子だろうが義理の子だろうが切り捨てることに躊躇いもないが、ユラは見込みがあるぞ。

 その気があるなら、卒業後はラヴァトン財団でピアニストとしてプロデュースしてやろうか」


「お断りします」


 シザは即答した。

「ユラの音楽は、彼が傷ついているから素晴らしいなんて言う人に、彼の面倒を見てほしくないです」

 豪勇な起業家として知られるドノバンは声を立てて笑った。

「ユラの音楽は傷つく前から素晴らしかったですよ。

 当時の僕が、そんな綺麗な音楽を生み出せる弟に嫉妬して、ちょっと嫌いになったくらいですから。

 あれもまた、能力同様、天がユラに与えてくれた才能なんです。

 それを彼が傷ついてるから深みがあるなんて、貴方も企業家としては一流かもしれないですけど、音楽を見る目はないですね」

 養子の毒舌にも、ドノバンはおかしそうに笑っているだけだ。

「ユラは本来自分の想いや心を表現するのが苦手だし、下手なんです。

 そういう素の自分では出来ないことを音楽に委ねると、普段表に出せない彼の想いが自然と浮かび上がる。

 ユラの音楽の根底にあるものは、ひたすら誠実に音楽に向き合っているという姿勢そのものです。それこそ優れた音楽家の何よりの条件なのでは?」


「誠実に向かい合った所で、何も実りのあるものを得ることが無ければ非凡で終わるさ。

 ピアニストとしては悪くないし、技術もある。ただ唯一、音楽に色気がないのは退屈だ」


 シザが眉を寄せて睨むと、ドノバンは含んだような笑みを浮かべたまま視線を返して来る。



「まぁ、恋愛でもすれば……な」




◇   ◇   ◇



 シザにとってユラに自分の想いを伝えることは、

 想いを『恋』という形にするのと同じくらい困難で、苛むものだった。

 血が繋がっていないとはいえ、戸籍上の近親者によって、ユラもシザも幼い頃から苦しめられて来た。

 特に感受性の強いユラは身内という言葉そのものに、非常に強い警戒と怯えを抱くようになっているだろう。

 シザが恋を自覚するのは、彼の勝手だった。

 胸に秘めるだけならば、どれだけ想ってもそれは許される。

 でも相手に理解してほしいと願った途端、一層慎重にならなければならなかった。

 言葉に出しただけでもユラを苦しめることになるかもしれない。


 養父であるダリオ・ゴールドが死んだ今、ユラが頼れるのは二つの血を同じくするシザだけだ。

 シザはユラの聖域にならなければならない。


 

『お兄ちゃん』 

  『ごめんね』


 

 幼いユラが自分に与えてくれた慈悲と愛情に、報いる。

 あの時ユラが取った行動は、それまでの自分の穏やかで幸せな生活と、完全に決別する覚悟が無ければ出来ないことだった。

 ……しかもユラは本来とても臆病で怖がりで、繊細な少年だ。

 庭に落ちた鳥の巣の、壊れた卵を近づいて調べることすら出来なかったのだから。

 

 それでも養父からの暴力に苦しんでいたシザを、全てを投げ打って、彼は逃がして救おうとしてくれた。


 その恩には報いなければならない。

 それが出来ないのなら、


(自分は、咎人で、

 ……この手で殺した、あいつと一緒の人種になる)


 ユラだけは守り抜かなくてはならないのだ。



◇   ◇   ◇



 シザは、ユラに救われた時から彼のことが好きだったから、そのことは長い時を掛けて、彼には伝わってはいると思った。

 決して悪意ではなかったが時々、この世で一番大切な人だと思って彼を抱きしめることがある。それは兄弟という以上の想いがあったので、そういう意味では自分からの好意は伝わっていたはずだ。

 それでもユラの態度が自分に優しいままだったことは、シザを勇気づけた。

 もし二人で暮らす途上で、自分の抱く好意に対してユラが困惑したり怯えたりするのを感じた時は、必ずそこで想いは消し去り、兄に徹しようとも覚悟していたから。


 

 ――――『たすけて』――――



 頼りにしてくれたことは嬉しかった。

 そして事件が起こり【グレーター・アルテミス】に逃げ込んだ。

【グレーター・アルテミス】での半年の暮らしの中で、シザはユラを弟として大切にした。

 幼い頃のように抱えて眠ってやった。

 シザ自身の恋情は完全に封じ込んで、優しい兄という役目に徹した。

 ユラが望むならばそうすることも可能なのだと、彼に分かってほしかったからだ。


 そしてユラがいよいよプロのピアニストとして活動を始める、出発する前日にシザはそう、話したのだ。


『絶対にユラの心を踏み躙ったりしない』


 シザは別に、博打を打ったわけではなかった。

 ユラから自分に向けられる感情の中に、自分の恋愛感情を否定しない気配を、時々感じ取ることがあった。

 だからシザに必要なのは想いを口にする少しの勇気だけだった。


「ユラはこの世の誰を選んで幸せになってもいい。

 でも想いを伝えられずに、それを理由に選択肢に入れてもらえないのは嫌だ。

 だから離れる前に知っていてほしい。

 僕はユラが好きだ。ユラが許してくれるなら、僕の恋人になってほしい」


 ユラはシザの目をじっと見上げてくれていた。優しい瞳だった。


「……ぼくも、」

 

 答えようとしたユラの唇を、指先で止める。


「答えは一年後に聞く。

 そういう約束にしよう? もし……僕のことを、恋人として……見てもいいと思ってくれるなら一年後、僕のことは名前で呼んで欲しい。

 さすがに……恋人に『兄さん』って呼ばれるのは、気が咎めるから」


 シザは苦笑するように小さく笑ったが、ユラは笑わなかった。

 彼は小さく頷いて約束してくれた。



 予定より長くなった、二年間の空白。



 自分はこの間、いい兄を演じることが出来たと思う。

 時々ユラのことを想うと会いたくて触れたくてどうしようもなくなることはあったけれど、日々の仕事に忙殺され、ユラが戻ってきた時に彼を『【アポクリファ・リーグ】のランキングほどほどの男の恋人』になんてさせたくないと強く願えば、出来の悪い同僚に対して振るう鞭も、自然と真剣で厳しくなる。

 アイザック・ネレスに対してビシバシと鞭を振るっていれば、シザはとりあえずは気が紛れた。


『あと一年、音楽と真剣に向き合ってみる』


 そう言ったユラを、シザは遠くから支えて応援した。

 

【今後どうするか二人で話し合うこと】

【シザの問いに、ユラが返事をすること】

【シザを名前で呼ぶこと】


 三つの約束を果たすためにユラは戻って来てくれた。



「……ありがとう」



 空港から、予約していたレストランに向かい、少しだけぎこちなく思うことも新鮮に感じながら、話を交わしていると不意にシザが言った。

 ユラは顔を上げる。

「……名前で呼んでくれて。……嬉しかった」

 ユラは赤面した。

「メールとか電話だと、ユラは昨日までずっと兄さん呼びだったから。……少しだけ不安だったんだ」

「……練習したんです」

「え?」

「この二年間、実は練習したんです。シザさんって呼べるように、貴方のことを他人に話す時も『兄さん』じゃなくてシザさんって名前で呼ぶようにして。

 慣れました。

 ……ぼく、……シザさんと、同じ血でこの世に生まれたこと、後悔してないです」

 シザはユラを見た。

「そうじゃなければ、……貴方の側にいることは出来なかったし、こんなにも大切にしてもらえなかったと思うから。……だから貴方と同じ血が流れるこの身体も、嫌わないでいられる。それにシザさんが兄さんだっていうことから、無理に目を背けているわけじゃないんです。

 普通の、他人との恋愛だったらもっと不確かで不安に思うこと、いっぱいあったと思うし……。

 そういう不安は同じ血と、一緒に過ごして来た時間が和らげてくれるから」

 ちら……とユラはシザを見上げる。

 彼は、優しい表情でユラを見てくれていた。

「……あの……」

「ううん……嬉しくて。僕の血はユラを不安にさせるだけかなと思ってたから」

 ユラは慌てて首を横に振った。

 綺麗に盛りつけられたテーブルの上に腕を伸ばし、シザは対面に座るユラの頬に触れた。

 碧の瞳を見上げて視線を交わすと、シザの瞳は雄弁で、ユラは見つめられてドキドキした。

 好きだという、その気持ちが溢れている。

 ユラはシザの美しい瞳の直視に堪えられず、思わず眼を閉じてしまった。

 くす……、と音がして手が離れる。

 目を開くとシザが椅子に座り直して微笑っていた。


(こういうとき)


 ユラはシザが触れた自分の頬の辺りを押さえて、少し心を落ち着けるようにして、目の前の美味しそうな料理に改めて向き直った。

(シザさんは『兄』の顔をする)

 ユラは、シザに恋をしている今も間違いなくその顔も好きだ。

 安心するし、見守られていることを感じる。

 恋人などとは別の意味で、この世で唯一自分と同じ血を引くという感覚は、この人は自分のものだし、自分はこの人のものだとも安堵させてくれることがあるから。

 


◇   ◇   ◇



 シザはとても勇敢なひとだった。


 ユラは幼い頃から特別な宿縁で結ばれたこの兄を、いつしか愛するようになっていた。

 その頃シザは養父の暴力の直接的な痛みと、何故自分がこのような不幸な運命に囚われたのかという不条理さと、そこから抜け出せずにいる自分の無力さにひどく苦しんでいたようだ。


(でも このひとは一度も泣いた所をぼくに見せたことがない)


 シザとユラは幼い頃は不仲だった。

 シザは自分と同じ血を持ちながら、この暴力の檻から逃れられているユラを妬ましく、同時に疎ましく思ったのだろう。

 ユラは自我が芽生えた頃からシザのことが好きだった。

 この世で唯一、自分と血が繋がってる。

 本当は弟として彼ともっと一緒にいたかったし、可愛がってもらいたかった。

 でもその頃にはすでに養父の暴力が始まっていて、ユラは近づくことが出来なかった。


 シザが泣いていたら絶対に優しく頭を撫でてあげるんだと、そんな風に心に決めていたけれど、彼は決してこの訳の分からない暴力に対して、泣いて屈しようとしなかった。


 ユラはある日突然、能力に目覚めた。


 その日もシザは暴力を振るわれていて、若い養母は「貴方は危ないから部屋に戻っていなさい」と不思議な言葉を言って、ユラを自室に連れて行った。

 その頃ダリオ・ゴールドは、ユラにはとても優しい養父で、抱き上げて撫でてくれることもたくさんあった。

 ユラはそういう時どうかどうかシザにも、こんな風に優しく触れてあげてほしいと、養父の顔を見上げながら祈っていた。

 その日も一回から聞こえてくる殴打音や怒鳴り声が怖くて、とても辛かった。

 シザがこのまま死んでしまったらどうしようと、涙を零してソファに伏せて泣いていた。

 ふと、しばらくして目を覚ますと殴打音が止み、屋敷は静かになっていた。

 そっと様子を見に行こうと、自室の扉に近づいた時、近くの鏡に自分の顔が映った。


 ユラは驚いた。

 そこに映っていたのは紛れもなく、自分ではなく兄だったのである。


 鏡に近づいて、驚いた顔のまま、そっと鏡の中のシザに触れてみる。

 自分自身の頬に触れてみると、紛れもなくそれは彼の手だった。


 アポクリファとしての能力を開花させたユラは、すぐにこの能力がどういうものか理解をした。

 覚醒型のアポクリファは自分の能力に戸惑う者も多いと言われているが、ユラはこの能力がすぐに好きになった。 

 動物にもなれるということが分かったから庭に来る猫に変化をして、シザの側に行けるようになったからだ。

 ユラに対しては強い警戒と、近づくなという空気を見せるシザだが、猫の姿でそっと側に寄りそうと、抱き上げて撫でてくれた。

 涙を零して耐え忍んでいる姿に、ユラはやはりシザでも苦しくて、泣くことがあるのだと気づけた。

 そうさせてくれた能力には感謝しているのだ。


 どうすれば彼を救えるのかを考えるようになった。


 シザの側にいようとしたけれど、その頃のシザはユラに心を開いてはいなかった。

 ユラですら、彼は必要としなかったのだ。

 ただ一人心を氷のように固く凍らせることで自分自身を守っていたのだと、これは後にシザ自身から聞かされた。

『ユラに優しくされてたら、きっと毎日泣いてた』

 ユラがシザを逃がしたあと、お互いの心が通じ合って側にいるようになると、シザは暴力を振るわれた日は、よく夜、眠る時にユラを抱きしめて泣くようになった。

 自分に弱さを見せてくれるようになったシザがユラはひどく愛しくて、多分その時にはもう彼に恋をしていたのだろうと思う。

 そんな強さなど何もないのに、この世の怖いものや苦しいもの、何もかもからシザだけは守ってあげたいなどと、祈っていたから。



◇   ◇   ◇




 恐ろしいものは、夜、世界が眠りにつき、静かになると現われる……。



 廊下を歩く音にユラは目が覚めた。

 

「おとうさん……」


「起きてたのか、ユラ」

「……足音がきこえて……」

「起こしてしまったのだね。悪かった」

 ユラはゆっくりと身を起こす。

「……どうしたの?」


「いや……シザに言われたことを、ずっと考えていてね」


 一週間ほど前のことだ。

 養父はユラを別れた若い妻に変化させ、抱いていた。

 それをシザに知られ、強く咎められたことを言っているのだろう。

 あれからは、静かな夜が続いていた。

「確かに私はお前に、とてもひどいことをしていたと思ったんだ」

「お父さん……」

「別れた妻に変化させて抱くなど……、お前を身代わりにして。

 さぞや辛かっただろうね」

 ユラは瞳を伏せた。


 ……もう過ぎたことだから、いいのだ。それに何より、あのことは思い出したくない。


「ううん……」

「お前も、私を責めていいんだよ」

 ユラは首を振った。

 それよりも夜は、もう静かに眠りたい。穏やかな夢を見ながら。

 養父はユラを抱きしめて来た。

 それは、決してユラの意志を無視するような乱暴なものではなかったけれど、彼は安堵出来なかった。


「私もシザに言われてひどく反省した。

 もっと、お前自身を愛してやるべきだったと」


 ユラが顔を上げると、養父の目と視線が合った。

 張り付いたような笑みが……悪意のように滲んで広がる。


 世界が反転した。

 

 ベッドに押し倒され、養父が圧し掛かって来る。

 着ていたシャツに手が掛かり――彼が何をしようとしているのかなど、もう聞かずとも分かる。

 養父の手がシャツを脱がし、背に這う。

「ユラ……お前は優しい子だね……。

 あんなに酷いことをしたのに、お前は私を許してくれた」

 違う。

 ユラは小さく首を振った。

 許したんじゃない。忘れたかっただけだ。

 忘れて、前を向いて生きて行きたかった。

 こんな人でも今まで養ってくれたのだから、人の心があるはずだと思いたかった。

「……お前は母親にとても良く似てる。……あの人もとても優しい人だった。私が項垂れているのを見ると、いつも優しい声を掛けてくれたよ……」

 ユラは目を見開いた。

「本当はね、私は、あの女などではなく、お前に触れたかったんだよ。

 お前が成長して……少しずつあの人の面影が現われて来ることが、とても嬉しかった。

 あの人は不幸にも亡くなってしまったが……お前は私の側にずっといてくれる。

 まだお前は幼いから、もう少し大人になるのを待っていたかったが……しかしそのことで、お前を苦しめてしまっては意味がない。

 ユラ。安心しなさい。私は二度と、お前に姿を変えてくれなどとは言わないよ。

 そのかわりお前自身を、心から慈しみ愛してあげよう」


 男の手が、身体を這いまわる。

「ユラ、だから、あの男を信じてはいけないよ」

 男の言葉が呪いのように耳元で響く。

 ユラは首を振った。

 紫水晶の瞳から涙が零れる。

 この悪夢が現実になったら、またシザを悲しませ、苦しめる。

 変化の能力を使って、なにかに化けても、この場から逃れようとした。

 駄目だった。集中が出来ず、能力を発動できない。

「シザ、……兄さ……っ」

 ユラは押さえつけられながら、何の意味もないことは分かっていたけれど、腕を伸ばした。

「あんな男を呼んではいけない」

 

 あんな男、と養父がシザを呼んだ。

 初めて聞く呼び方だった。

 彼も養父の息子なのに。

 最初からおかしかったのだ。

 シザに暴力を振るい、

 ユラには暴力を振るわず大切にすること。

 自分たちは兄弟だ。

 同じはずだった。


「お前は賢いから、分かるね?

 どんなに思った所で、お前と奴は兄弟だ。

 奴はいずれ、お前以外の誰かを選び、幸せになっていく。

 その時にお前に残されるのは、父親である私だけ。

 大丈夫だ……私はお前を優しく、手元で愛し続けてあげよう」


 自分はそれを分かっていたのに、長い間勇気を出せず、

 兄を一人きりで苦しい世界に置き去りにしていた。

 これはその報いなのだろうか?

 

「幸せになりたいのなら、お前は私に願うべきなのだからね」


 あまりの恐怖に、抵抗しようとする心と意志は、折れてしまった。

 この世には恐ろしい人間がいる。

 恐ろしい望みや、考えに捕らわれる人間が。


「このことは、……ユラ? いいかい……シザには言ってはいけないよ。

 言えばあの男は、また私の邪魔をしてくるだろう。

 お前が黙っていれば私はこうして、お前を優しく愛してやれる……。

 私はお前に、暴力など振るったことは一度もないだろう?」


 ユラの心を痛めつけながら、男は自信に満ちた声で言った。

 現実のことなど何も見えていない、幻想だけに生きている声。

 

「私がお前をこの世で一番愛しているのだよ……だからこのことは、私とお前だけの秘密だ。いいね……?」


 ――分かっている。


 どんなに想ってもシザは最終的には、ユラ以外の誰かを選ぶ。

 それが兄弟だからだ。

 シザが大学に通うようになって、急激に彼の世界は広がり、学ぶ知識も広がり、時々会うたびに背は伸びていて、ユラにはその姿が輝くように感じられた。


 きっとこれからシザは色んな人に出会い、

 たくさんの友情や愛情で結ばれて行くだろう。

 確かにその時、ユラには心の拠り所が何もなくなってしまう。

 自分は永遠にこの家で、この養父とだけ生きていく。

 苦しくてたまらなくなったが、


 一人で、涙を流さず、耐えていたシザの姿が脳裏に過った。


(それでも、ぼくは)


 ユラの瞳から涙が零れる。


(祈るなら……あのひとに)


 例えそれがあの人が離れて行く、その時までだとしてもいい。

 幼いあの日にシザを逃がそうとした時、自分にはその勇気があったはずだ、と強く思う。

 彼を自由な世界に逃がしてあげられるのなら、あとの痛みや嫌なことは全部自分が兄の姿で引き受けてもいいんだと、そう思った。

 シザの姿に変化すると、養父はいつものように殴りつけて来た。

 初めて殴られて罵倒される痛みを知った。

 シザは長い間、一人であの辛さに耐えていたのだ。

 自分はたかだか数日で心が折れたけど。


 シザは、あの後ユラのことを許し、心を開いてくれた。

 過去のことは水に流して優しい兄になってくれた。

 シザに「自分は殴られていたのにお前は一度も苦しめられなかった。どうしてだ」などと言われたことは一度もない。

 あの日からずっと、優しく自分に接してくれたのだ。

 

 どうせ幸せになりたいと願うのなら、この悪魔のような男ではなく、綺麗なこころを持つシザに願いたい。


 それが叶わないのなら、死んだっていい。

 このままこの男に囚われて、一生誰かの身代わりとして凌辱を受けて生きていくくらいなら、死んだ方がマシだ。

 死んだあの世には、ユラは出会うことも無かった、優しかったという本当の両親がいてくれる。

 身体を蹂躙されながら、ユラの脳裏には自分に微笑いかけてくれるシザの姿だけが浮かんでいた。

 シザに血を与えて、この世に生み出してくれた人たち。


(きっと僕を、優しく撫でてくれる)


 あの人のように。



◇    ◇    ◇



 ガタン、と揺れが走った。

 

 瞳を開いて、すぐに自分が眠っていたのだと理解した。

 慌てる前に額の辺りに優しいキスが落ちる。

「……眠かったら寝ていいよ。もうすぐ着くけど、眠っていたら僕がちゃんと連れて行ってあげるから」

 シザが静かな声で言った。

 気づけばシザに寄り掛かって眠っていたのをそのままにして、抱き寄せてくれていたらしい。

 レストランから出て、車に乗り込んだ所までは覚えているから、本当にうたた寝したという感じのことだろう。

 自分は悪夢を見ていたのだ。ユラは肩を竦める。

(……いやだな……どうして今、あんな夢を見たんだろう……)

 最近は、養父の夢は見なくなっていたのに。

 どうして今日こんなに嬉しくて、幸せな日に……。


◇    ◇    ◇


【バビロニアチャンネル】のタワービルに隣接するもう一つの建物が、CEOドノバン・グリムハルツが所有するホテルだ。

 その最上階フロアに彼は居住しているが、忙しい男なのでここではあまり住んではいない。

 シザは別の階に、居住フロアを貰っている。

 シザもユラも、昔から大きな家には住んでいたが、さすがにここは公私に華やかな生活を送っているセレブの居住地だけあって、豪華さの規格が違った。

 とはいえシザもユラも寮生活を送っていたので、必要最小限の広さの生活にも慣れている。

 こんな広い部屋を貰っても、結局いつも同じ場所で過ごしてるとシザは言う。

 ユラはくすくすと笑った。よく分かる気がする。

「ここがユラの部屋。ユラが好きなものを置けるように、ここはまだあまりものを入れないでおいてもらった」

 ベッドとソファと大きな本棚。広々とした作業机にテーブル。広い部屋だけど、本当に家具はそんなものだ。

「ありがとうございます、シザさん」

 シザが持って来た、ユラの荷物をソファに置く。

「座ってて。何か淹れて来る。少し話そう」

 一度シザは出て行った。 

 ユラは小さく息を突く。

 さっきまでは周囲に人の気配があったから、まだ大丈夫だった。

 でもこの家に戻ってシザと二人きりになったら、途端に意識し始めてしまった。

 ユラはソファに所在なさげに、腰掛けた。


 ここに来て、こんな不安な気持ちになるとは思わなかった。

 

 昨日と言わず一週間前【グレーター・アルテミス】に戻れると決まった一カ月前から、今日のことは本当に楽しみにしていたのだ。

 やっとシザに会える。

 彼の元に帰れると。

 ユラは約束は全て果たすつもりだった。

 彼を名前で呼ぶようになり二年前、好きだと言ってもらった、そのことの返事をする。

 つまり――二年前から、自分もシザのことが好きでこの二年間、それは全く変わらずここまで来たということ。


 ――恋人同士になるのだ。


 シザが戻って来る。

 紅茶のいい香りがした。

 対面じゃなく、ユラの隣にシザは腰を下ろした。

「……少し疲れてるみたいだ」

 シザはユラの顔を見下ろして、気遣い、大きな手で髪を撫でた。

 心に浮かんだ怯えを隠すように、ユラは紅茶のカップに手を伸ばす。

「この一週間【グレーター・アルテミス】に戻れるってずっと浮かれてしまって……」

「そうなんだ」

 シザも笑いながら、紅茶を一口飲んだ。

 沈黙が落ちる。

 何かを話さなくてはダメだ、とユラは焦った。

「きょう、は……シザさんはお仕事だったんですか?」

 突然聞かれてシザは碧の目を瞬かせたが、頷いた。

「うん。僕もユラが戻るって聞いてから、この一週間くらい浮かれてたから。

 同僚に情緒不安定だって注意されたよ」

「アイザック・ネレスさん……でしたよね。明るいひとみたいで、良かったです」

 ユラが微笑む。

「まあ陽気な人だけど。調子がいいのだけはやめてほしいですね。あとお酒を飲むと必ず話が長くなるのも嫌いです。とても鬱陶しいので。

 ユラがお酒を飲めるようになった時に一緒に飲めるようになりたいから、今から慣れておきたいと思って付き合っていますけど、やっぱり酒を飲んで口数増える人とはあんまり飲みたくないですね」

 お酒を飲めるようになった時に。

 ユラは現在、十四歳だ。

(シザさんは今からもう、考えてくれているんだ。

 この先のぼくと、一緒にいることを)

 

 

『いつかお前以外の誰かを選んで……』



 ユラは離れていたがこの二年間、特別配信される【アポクリファ・リーグ】は全て欠かさずに見て来た。

 シザは今や【アポクリファ・リーグ】【バビロニアチャンネル】そして【グレーター・アルテミス】の顔になりつつある。

 彼のデビュー以来の鮮烈な活躍は絶大な人気をもたらし、ユラも世界各国を旅をしながら演奏活動をしたものの【アポクリファ・リーグ】が放映されていない国でも、配信を見ながら彼のファンになっている人をたくさん見た。

 アポクリファ警官、という概念が存在しない地域では【グレーター・アルテミス】の警察制度は非常に羨ましがられるようだ。実際世界的にアポクリファの人口は増加しており、犯罪者の中にも能力者が増えている。

 そういう時に非能力者では、太刀打ち出来ないことがあるからだ。

 強い能力者であると同時に非常に端正な顔つきのシザは、それはそれは女性ファンも多い。

 ユラが【グレーター・アルテミス】に住んでいると聞けば、共演の音楽家の女性などは、シザ・ファルネジアの護る街に暮らせるなんて羨ましいと、こぞってそんな風に言って来る。彼女達はアポクリファではないからだ。

 自分がアポクリファだったら今すぐにも【グレーター・アルテミス】に居住地を移すのに、なんて言う女性もいて、こんなに綺麗で音楽の才能もある女性が、そうかそんなにシザのことが好きなのかと思うと、ユラは聞いてるうちに段々とドキドキして来る。

 確かに今の時代、特にアポクリファという存在が現われてから、人々はそんなことにこだわってる場合ではなくなったと言わんばかりに、同性愛などには非常に寛容な世の風潮になっている。

 芸能人や有名人でも、そういうことをカミングアウトしている人は特に珍しくもないし、知った所で妙に騒がれることもない。

 その代わりアポクリファだと公表することは、自動的に国際連盟の国際法に定められたアポクリファ特別措置法に適応されることになるので、かなり渡航や生活に制限を掛けられることもある。

 攻撃性の強い力である場合警戒されたりすることもあるので、公表することを嫌がる人もたくさんいた。

【グレーター・アルテミス】は唯一、能力者が能力者であることを恐れ、恥じないでいい街だ。

 非アポクリファから見ると【グレーター・アルテミス】の国際連盟におけるその一際特異な存在感は、脅威さえ及ぼされなければ非常に魅力的に見えるらしい。

 アポクリファの街に住む、人命救助を使命にした能力者。


 普段自分たちの周囲にはいない類いの救助者に憧れを抱く気持ちは、ユラにも分かる。

 戦っている時のシザはそれは強くてカッコイイ。

 その時ばかりは兄だとか好きな人だとか、そんな考えはどこかに吹っ飛んで、一ファンとしていつもワクワクしてしまっている。


(……こんなぼくで、ほんといいのかな……)


 この二年、遠くの国でシザの活躍を眺めながら、何度そう思っただろう。

 シザは、ユラが名前で呼んだことをとても喜んでくれたが、ユラはそれにも少し驚いたくらいだったのだ。

 もしかしたらそんな約束、忘れられてるかもしれないと思って。

 シザは使命感のとても強い人だから、それで弟であるユラとずっと一緒にいてやらねばならないとそう思って、その気持ちを恋と勘違いしている可能性だってあった。

 ユラは自分の中の、シザに対する欲望を自覚していた。

 依存や、独占欲、そういったもので、

 こんなものを見せてシザが果たして喜んでくれるのかは……全くの謎で、確信の無いものだ。

 

「……ユラ?」


「……え、……わっ! あ!」

 突然シザがユラの手に触れて、驚いたユラはカップを落としてしまった。

「わあああっ! ご、ごめんなさいっ!」

「落ち着いて。ユラ、大丈夫だから」

 柔らかい絨毯の上にカップは転がったから、割れてはいなかった。

「火傷、してないか?」

 シザは落ち着いた様子で、すぐにタオルをユラに差し出した。

「してないです、ごめんなさい……」

「大丈夫だよ。濡れるから、ほら、足を上げて……」

「ぼ、僕が拭きます! 僕が――」

 シザがユラの足首を持ち上げるのと、ユラが慌てて、腰を屈めて絨毯を拭こうとしたのはほぼ同時で、二人は鼻先に見つめ合った。

 一瞬シザの方がひどく驚いた顔をした。

 碧の瞳が見開かれ、しかしすぐに彼の表情は平時に戻り、じっ、とユラの瞳の奥を見据えて来た。


(あ)


 思った時には、シザがユラの背に腕を回して、口づけて来ていた。

 それは今日、出会ってからの穏やかで優しいシザが一体何だったのかという豹変の仕方だった。

 心構えが出来ておらず、色々考えていたユラは完全に混乱した。

「ん、」

 垣間見た悪夢が連れて来る、怯えと。

 ようやく願いが成就するかもしれないという期待。

 同じ血の器。

 ひたすらに優しい、兄。

 今夜がどんなものになるのか、口付けを受けている今でさえ、ユラには想像もできない。


「――ユラ」


 シザはようやく舌まで深く絡めて来た口づけを放して、ユラの頬に手の平を押し当てて来た。

 その手の平は、ひどく熱かった。

 今の一撃で、すでにユラは圧倒され、恐れていた『答え合わせ』が間違っていなかった安堵、そうなりたかったという紛れもない自分の欲望を、少しの躊躇いもなく満たしてくれたシザに、瞬く間に心が惹かれていく。

 陶然としたそれが表情に出ていたのだろうか、シザは自分のシャツに手を伸ばし、迷いもなく脱ぎ捨てて来た。 

 この二年間の生活で細身だが、しっかりと鍛えられた体つきに変わったシザの上半身の美しさに、ユラは心が震え上がった。

 怖いのか、嬉しいのか、自分でもはや分からない感情だ。


「……二年前、空港で別れた時から、……ずっと、ユラにこんな風に触れたかったなんて言ったら、――僕を軽蔑する?」


 シザの碧の瞳に、その時一瞬だけ怯えが混じった。

 それは自分がさっき抱いたものとよく似ていて、ユラは安堵し、こんなに完璧なひとなのに曝け出す弱さが、愛しくなった。

 シザの首筋に、そっと指先で触れる。

「……しません。だって、それをしたら、自分を軽蔑するのと同じだから」

 自分でも驚くくらい、静かな声が出た。

 不安げだったシザの顔に、安堵と喜びが広がる。

 シザは身を屈め、ユラのシャツに手を伸ばして来た。

 広げた首筋に唇を這わせる。

 ユラはそれだけで、全身が震えた。

 ボタンを外して、広げられる。

 露わになったユラの肌に、シザの手が確かめるように触れる。

(きもちいい……)

 ユラは上を扇ぐようにして喉を仰け反らせた。

 身体を撫でられているだけで、こんなに気持ちいい。

 こんなことは知らなった。

 これ、が気持ちいいなんて。

 どうしてこれが『こわいこと』なんて思い込んでいたのか。

 

 それは……――


 突然、シザは身を起こしたユラを見上げていた。

 それは彼自身予期しなかった動きらしく、シザよりもユラの方が驚いた顔をしていた。

 目が合った途端、ユラの顔が青ざめて行くのが見えた。

「あ……」

 ユラの唇が震えた。

「……す……すみません、……ごめんなさい……」

 ユラは慌てるように、シザの頭を抱えるようにして抱きしめた。

「ちがうんです、……ごめんなさいシザさん……ぼく、本当に……今日、貴方に会えることを楽しみにしていて、」

 ユラの瞳から涙が零れた。

 怒らないで、ごめんなさい……、

 ユラがシザを抱きしめて、優しく髪を撫でて来る。

 一瞬の混乱の中にあったシザは自分の頭を撫でるユラの手に、深く息をついた。

 それをどう捉えたのかユラがびく、と身体を強張らせる。


「……違うよ、ユラ。失望したんじゃない」


 シザが顔をあげて、ユラの濡れた頬に唇を触れさせて来る。

 ユラの身体のシャツを呆気なく全部剥いで、それから深く両腕で抱きしめた。

「……シザさん……」

「安心したんだ。……折角初めて身体を繋いでも、そのことがユラの中で怖い記憶と結びついてずっと残るのは絶対嫌だから」

 ユラはシザの胸に顔を伏せた。

 彼の胸を、零れる涙が濡らす。

「…………さっき、車の中で、うたた寝した時に……昔の夢を見てしまって。

 ……ごめんなさい……最近は、あまり見なくなってたのに、どうして今日……」

 ユラは本当に悲しそうに目を伏せた。

 シザはそっとユラの顎を上げさせる。彼にもう一度、口づけた。

 今度のキスは、ひどく優しいものだった。

 唇を放し、額を寄せて、預ける。

「泣かないで」

 シザはユラの裸の背をそっと撫でた。

「ユラ。……大丈夫だから。僕は、……急がないから。

 僕が一番怖いのは、貴方を壊してしまうことで、

 僕の側が、貴方にとっての苦痛になって、

 僕の側からユラが消えてしまうこと。

 それが一番、こわい」

 ユラは頷いた。

 自分だってそうだ。

 シザがこれ以上、苦しむ姿は絶対に見たくない。

 自分と一緒にいることがシザの苦痛になるのは嫌だ。

 彼には笑っていてほしい。

 ……シザはユラをたった一言で、たった一つの動作で幸せな気持ちに、安堵させてくれる。

 それが自分には出来ない。それがユラには悔しかった。

 そういう駄目の繰り返しがあって、シザが失望して、自分の側からいなくなってしまうのは嫌だ。

 早く普通の恋人同士のようになりたい。

 この世界にどんな悩みや、苦しいことがあっても、その人の側では全てを安堵出来るような。


「ユラ、無理に僕に合せようとなんかしなくていい。兄弟だって歩むペースは違って当然なんだから。……おいで」


 シザはユラを抱き上げると、寝室の方へ連れて行った。

 広いベッドにユラを下ろし抱きしめたまま、二人で寝そべる。

 シザも別に、常にユラに欲情しどうにもならなくなるわけではないのだ。

 彼を抱きしめて、平気で眠れることもある。

 そういう時は多分恋情などは心の深い所に入り込んで、彼を守ってやらねばならない、弟に幸せになって欲しいという、兄としての使命感が表面に出て来ているのだろうと思う。


「……僕もいまだに、時々幼い頃の夢に苦しめられることがある」


「……シザさんも……?」

 ユラは小さく、鼻をすすった。

「うん……起きた時に気づくんだ。自分が魘されていたことに。あいつはもうこの世にはいないのにどうしてまだ、苦しめられなきゃいけないんだろうって、怒りで……すごく嫌な気分になる」

 シザは柔らかな毛布に、ユラと一緒に包まった。

 裸の上半身からお互いの体温が、直接伝わってくる。

「でも過去の記憶は、過去の記憶だ。幼い頃より確実に記憶は薄れて、自分が一つずつ何かを、平気になっていることが分かる。

 だからユラも大丈夫になる。何故か分かる?」

「……、」


「この世にあの男はもういなくて、僕は今もユラの側にいるからだよ」


 シザはユラの白い額に想いを込めて口づけた。

 菫色の瞳が大きく見開かれる。その拍子にまた、大粒の涙が一つだけ零れた。

「こうやって一緒に毎日を暮らして、楽しいことや嬉しいことが重なっていけば、苦しい記憶は薄れていく。

 仮に時々思い出して魘されても、目を覚ました時にこんな風にユラが腕の中で眠ってくれていれば、魘されたことなんて僕は一瞬でどうでもよくなる」

「シザさん」

 ユラは眼を閉じて泣き出した。

「ぼくは、いつも貴方にそういう優しい言葉とか、……やさしさを、貰ってばかりで」


「ちがう。一番最初に優しさを貰ったのは僕だ。

 ユラがあの男から僕を逃がそうとしてくれた。

 僕を暗い世界から救い出してくれたのはユラだ。

 だから僕も、ユラを必ず悪夢から救い出してみせる」


「シザさん……」

「今、こうして僕の体温を感じているのは、苦しい?」

 ユラは大きく首を横に振った。

「それなら大丈夫」

 シザは優しい顔で笑ってくれた。


「放っておいてもそのうち、僕のことが欲しくなるよ。

 この世で僕ほど、ユラを愛せる人間がいるはずないから」


 その言葉を聞いてユラがようやく、少しだけ笑ってくれた。

「やっと笑ってくれた。貴方が笑うと嬉しい」

「……ぼくもです。……シザさん……今日はこのまま一緒に眠ってほしいって言っても、貴方は気を悪くしない……?」

 シザはもう一度、両腕を深く回してユラを抱き締めた。

「しませんよ。でも条件があります」

「はい、なんでしょう」

 少し緊張した表情を返したユラの首筋に、シザは顔を埋めた。

「撫でて下さい。とても優しく」

 数秒後ユラはシザの頭を抱き寄せて、彼の髪を優しく撫でて来てくれた。

 

 ユラの体温、手、声、気配。


 まるで離れていた半身が返って来たような安堵を覚える。


「ユラ……僕のこと、好きでいてくれましたか」


「はい。……二年間ずっと」


 会いたかったです。


 優しく響いたユラの声は、シザの胸をひどく満たした。



◇   ◇   ◇



「本当に昨日はびっくりしたわ!」


「まぁびっくりしたのは確かだな」

「シザ君に恋人がいたとは。会えなくて、本当に残念だ」

「いや、私たちも会ったわけじゃないんだけどさ……」

「盗み見たと言うな。普通あれは」

「あいつ~~~~あんなほんわかした笑顔、俺にはいっちども見せた事ねえくせに~~~~~っ」

「イメージしてたのと違ったわよね」

「どんな人だったんだい?」

「アレ女の子だった? ちょっと中性的だったけど。男に見えた私」

「そう? あらやだ! じゃあなに! シザって男も行ける口なのっ⁉」

「行ける口かは分からんが……」

「どうりでデビュー時から私のこの色香に惑わないなと思ってたのよ」

「お前の色香には多分惑っていたぞ……多分惑うというよりも困惑していたという表現が正しいと思うが」

「そうだぞ。俺たちもお前のその立派な色香に日々困惑してる。困惑するから戦闘中とかあんま抱き着いてこないでくれ。集中出来ん」

「シザさんの恋人ならキレイ系だと思ってたなぁ」

「私も。モデル系かなって」

「?」

 唯一ユラを目撃していないアレクシスが首をかしげている。

「どっちかっていうと、可愛い系だったよね」

「女に見えたぞ」

「中性的だった」

「顔の作りは綺麗なんだけど、なんか雰囲気ふんわりしてる感じの」

「癒し系っていうか?」

「そうそう! 小動物系よ!」

「そうか。小柄で可愛いひとなんだね」

「凄かったですよ。アレクさん。シザさんがこう……ふにゃ~って顔で笑ってるの! さすがにびっくりしました」

 メイ・カミールがはしゃいでいる。

「デレデレしてたな~ッあいつ……んだよあいついつもあんなにツンツンしてんのにこれが噂のツンデレかっ!!」

「シザってああいう子がタイプなんだね。なんかすっごい意外……」

「恋人って似たもの同士の組み合わせと、真逆の組み合わせがあるっていうものね」

「だとしたらホント真逆の組み合わせ」

「【グレーター・アルテミス】に飛行機で戻って来たっていうことは、あの子もアポクリファなのかな? 普通の降着口から出て来たもんね」

「でもアイザックはあの人のこと、知らなかったんでしょ?」

「五年もよく同僚に隠しおおせたわね」

「隠してたのかな?」

「隠してはないんじゃないの。昨日あっさり恋人いるってカミングアウトしたし。私たちも恋人いるのとか一切聞いたことなかったもの」

「だっていないっぽいんだものあのひと」

「性格悪いもん」

「でもモテますよシザさんは」

「全く、この世の女は! 男の外見にすぐ騙されるんだから!」

「でも昨日はすっごく優しそうに見えました」

「見えたな……俺は五年あいつと付き合ってるが全くあんな顔で微笑みかけられたことが無い……。彼女にしたってあまりに理不尽だと思うんだが……」

「いやだわ~ なんっか腹立つわ~~~ あいつって自分のカノジョ以外絶対どーでもいいタイプよね。荷物とか持ってあげてたわよ。私なんかが荷物持ってても全然持ちましょうかとか言って来ないくせに!」

「いや俺も自分よりデカイお前が荷物を持っていても持ちましょうとか言わんかもしれん……すまんが」

「普通現場に一緒に出るような同僚には、恋人いますぐらい言わねえ? しかもオレ仕事と人生の先輩だぜ? こういう仕事なら普通、言って来ねえ?」

「普通はな……。まあシザも気を遣ったんじゃないか? お前も家庭少し複雑なことになってるし」

「複雑なことになってるってなんだよ。別にうちは何にも複雑じゃねーよ。離婚して奥さん皆無になっただけだ」

「皆無という表現はおかしいなこの場合」

「何人もいるみたいだもんね」

「それにシザがんな繊細なこと気にするような奴なわけねーだろ! 人生の先輩をバイクの後ろに乗せて高速引きずりまわすような奴が!」

「あの子本当に性別どっちだったのかしら。綿あめみたいなふわふわのプラチナブロンドだったわよね」


 その時、全員のPDAが一斉に鳴った。


 特別捜査官に緊急出動の命令が下ったのだ。



◇   ◇   ◇



 携帯が鳴った。

 雑貨ショップでユラと食器を見ていたシザは、ジャケットから携帯を取り出し通話に出る。


『あのぉ~……アイザック・ネレスですけど……』


 ピッ、とシザは即、通話を切った。

 数秒後、慌てたようにまた掛かって来る。

 シザは嫌そうな顔をしたまま、もう一度通話に出る。


『切るなよォ!』


「なんですか。今日は完全オフにしてくれって一カ月前から僕はお願いしていましたよね? 完全オフの意味分かってますか?

 仕事の連絡も寄越さないでくれって意味ですよ。

 僕がそんなことをお願いすること、そんなにないことですよね?

 貴方が休暇に入る時は、僕も絶対そっちに仕事の電話が行かないように気を遣ってあげてますよね? なんで貴方はそれが出来ないんですか? たった一日のことなのに。バカなんですか?」


『わ、悪かったよ! 俺はホントに、連絡入れねえつもりだったんだ今日は。ホントにお前の休日を尊重するつもりだったんだぞ』


「でもしてるじゃないですか。今、恋人とデート中なんです。すぐに切らせて下さい。貴方と話してると目が吊り上がって来るので、今日は話したくないんです」


『あのですね、シザさん……つかぬことを伺いますがPDAを今お持ちですよね』

「持ってますよ。電源は切ってますけど。うるさいから」

『そ、そうですよね……あのぉ、そのPDAでですね、今ヴァレンシア方面で発生した銀行強盗の、位置座標をですねぇ……口頭で、教えていただきたいんですが……』

「はあ⁉」

 綺麗な空色の皿を見ていたユラが、振り返る。

「何の冗談ですか。貴方のPDAは?」

『いや、なーんかさっきからザーザー言ってて調子悪いっていうか……上手く座標出ねえっていうか……』 

 心配そうに近づいてきたユラには優しく笑いかけてやりながらも、シザは冷たい声を響かせる。

「貴方そのPDAちゃんと昨日メカニックに預けました?」

『ん? いや……えっとぉ、預けるつもりだったんだけど……』

「貴方の預けるつもりとかどうでもいいんですよ。預けたか預けてないかを聞いてるんです。預けたならメカニックのメンテナンスミスですから、明日にでも僕がラボに怒鳴り込んであげます。預けていないのなら貴方の怠慢なので、明日貴方をぶちますよ」

『その……、ハイ……、預けてません……』

「だから! メカ系のトラブルがないように必ず出動後は全てメンテナンスに回すように言ってるじゃないですか!」

『いや~……なんで今日壊れたかね……こういうメカ系のトラブルって本当にもっと人間くらい空気読んで起きて欲しいんだけども』

「バカじゃないの! そんな下らない用事で僕のオフを潰さないで下さい!」

『た、頼むよォ! シザ! 同じ【獅子宮警察レオ】所属のお前にしか頼めねーんだよ! もう一人いたら勿論そっちに連絡したけど引退しちゃったから今いねーし! ほんっとに事件解決したら心から謝るから! お歳暮送るし! 急いでんだよ人質も取られてて、』

 シザは舌打ちした。彼からすると同僚のアイザック・ネレスのこの粗忽さは、一番最初に会った時から忌々しいものだった。

 ジャケットの内ポケットに入れてあるPDAを起動させる。

「……言いますよ。貴方自分の位置は分かってるんでしょうね」

『う、うん。それは何とか分かる』

「なんとかじゃない!」

『すいません! 俺の現在地情報も下さい!』

「貴方の位置はヴァレンシア地区Jの24の7地点。

 犯人は北と南に逃走中。

 北は【白羊宮アリエス】のアレクシス・サルナートと【処女宮バルゴ】のメイ・カミールが追っています。

 南は現在ギーゼン・ガーデン通りを東に曲がっています。

 ……ギーゼン……あれ、これ僕の現在地に近いな」

『えっ。お前今どこよ』

「ギーゼン・ガーデンスクウェアの雑貨店にいます」

『え⁉ すぐ側じゃね?』


 言った途端、遠くの方で銃声が聞こえた。


 きゃああああっと店内にいた客たちが、悲鳴を上げる。

『え。なんだ? 今の銃声どこで響いた』

「ここのすぐ側です。銃声が二発聞こえました」

『座標! 座標くれ!』

「ギーゼン地区 Dの13の6ですけど……貴方今から向かった所で全く間に合わないですよね」

『う、うるせぇ! 間に合うよ! 間に合わせるよ! 俺天才だから!』

「貴方は天才じゃないですし、僕ならアレクシスさんにこちらの犯人に追跡ターゲットを変更してもらいますけどね。……でも粗忽者の貴方の場合、そういった所で北の犯人も取り逃がしそうな勢いですから。……仕方ないなぁ。一刻も早くアリア・グラーツに三人目の特別捜査官を補充するようもう一度頼まないと」

『あっ⁉ オイ、シザ! やめろお前何するつもりだ! プロテクター装備もしてねえのに!』

「犯人を捕まえますよ。これだけ近くに現われたんだから、仕方ない。オフだなんだと言ってられないですもん」

『あぶねーって! 銃持ってるんだぞ!』

「能力使えば銃弾くらい平気ですよ」

『コラー! やめろー! お前は今日、お休みの人なの! 俺、五分でそっち行くから!』

「五分の間に逃げられますよ。

 まあとにかく、あんたは早くこっち来てください」

 シザは通話を切った。

 もう一度、銃声が聞こえる。

 お客様、伏せて落ち着いてお待ちくださいと店員が客達に声を掛けている。


「ユラ」


 シザはユラの身体を抱き締めた。

「ごめん。近くで事件が起きたみたいだ。他の捜査官が近くにいないらしいから、僕が行かないと」

「危ないです、シザさん」

 ユラが驚いて首を振った。

「大丈夫。僕の能力があれば銃弾くらい躱せますから。

 いいですか。貴方は決してここから動かないで下さい。すぐに戻ってきます。

 安心して。こちらには犯人は近づけさせませんから」

 シザはユラの身体を放すと店の窓から、下の階へと身軽に飛び降りて行く。


 通りに降り立つとすでに土曜昼間の大通りは、大変な騒ぎになっていた。

 車も路肩に慌てて止めたものが渋滞の原因を作り、その後の車が歩道にまで乗り上げて停車している。

 中にはぶつかっているものもあるらしく、幾筋か、渋滞の向こうに煙が上がっているのが見えた。

 

 パァン!


 また銃声がしたのでシザは止まっていたトラックの上に飛び乗った。

 見下ろすと渋滞の先に、路地から二人組の犯人が出てくるのが見えた。一人、人質女性を抱えている。

 きゃあああっと人々が蜘蛛の子を散らすように逃げて、止まった車などに隠れようとする。

 シザは能力を発動させた。止まっている車の上を身軽に飛び越えて行く。

 犯人が気付く前に、飛び蹴りが一人を吹っ飛ばした。

 その衝撃で犯人が取り落とした銃を空中で掴み、そのまま地に着地する。

「て、てめえ!」

 犯人が銃口をシザに向ける。

 だが、相手は身体能力を跳ね上げる強化系の能力者である。

 引き金に指を掛けたのは敵の方が早くても、シザが襲い掛かるのは犯人が引き金を引くよりも早かった。

 一瞬で間合いを詰め、銃を構えた男の腕を捻るようにしてまず肩を外す。能力発動中のシザにとって相手の肩を捻って外すことなど、造作もないことだ。

 ぎゃあっ、と犯人は激痛に絶叫し、人質女性を放した。

 犯人の手首を蹴りで打ち、銃を落とす。

 肩を押さえてよろめいた犯人の腹部に鋭い蹴りを叩き込めば、その身体は止まっていた車のボンネットに吹っ飛び、仰向けになって倒れた。

 シザが介入して、三分ほどの出来事だった。

 まさに電光石火の戦いぶりに、銃声に震えあがって逃げ惑っていた人々は、何が起こったのか分からなかったほどだ。

 地上にいる人間のほとんどはシザの出現を捉え切れていなかった。

 見ていたのは騒ぎや通報を聞きつけて、ビルや店から心配そうに地上を見下ろしていた人間である。

 彼らはシザが犯人を倒すと、窓やテラスから歓声や拍手をあげて喜んだ。

 地上で逃げ惑っていた人々たちがその歓声に気づいてようやく、なんだなんだと脚を止めて振り返る。

 シザは倒れていた人質女性を助け起こす。

 すぐに彼は自分の手で救急に連絡を入れた。

 しばらくして、緊急車両の音が聞こえて来た。たまたま近くを巡回中だった警察車両の方が、特別捜査官の到着より早かったのである。

「ご苦労様です」

 警察はシザの顔はすでに分かっていて、びしりと敬礼を行った。

「犯人二人はあそこに。持っていた銃は回収しました。どうぞ」

「はっ!」

 警察に、犯人から奪った二丁の拳銃を手渡す。

「すぐに救急が来ます。そちらの人質女性は、こちらで」

「では、お願いします」

「貴方はたまたまこちらに?」

「はい。居合わせて」

「それはありがとうございました。逮捕にご協力、感謝いたします」


 シザはその場を離れる。

 人々が感謝の言葉と共にシザに称賛の拍手を送って来る。

 店の方に戻ると建物の階段を、ユラが慌てて下りて来る姿が見えた。


「シザさん」


 ユラは戻って来たシザに飛びついて来た。

 シザはユラの身体を抱き留めてやる。

 周囲にいた人々は少しだけその光景にどよめいたがシザは全く気にしなかった。

「震えてる。怖かったですか」

 ユラはシザの胸に顔を埋めて、頷いた。

【アポクリファ・リーグ】は見ていたし、シザが【グレーター・アルテミス】でどんな仕事をしているかは分かっているつもりだったけれど。こんな実際、突然平穏な日常に事件が飛び込んで来るなんて。

 改めて、シザが危険な仕事をしているんだと思い知った。

「シザさんが怪我したらどうしようかと思って……」

 シザは穏やかに笑った。

「僕は強いから大丈夫ですよ」

 柔らかなプラチナブロンドを優しく撫でてシザはユラを抱えて歩き出す。

「人が集まって来てしまったから、もう行きましょう」

 歩き出して間もなく、後ろからバイクの音が聞こえて来た。


「あ~~悪い悪い! ちょっとどいてくれ~!」


 ブオンブオン言いながら、歩道の人々を散らしてやって来たのはアイザック・ネレスである。

「シザ!」

 彼は立ち去ろうとしていたシザの行く手を遮るようにバイクを止める。

 そしてサングラスを取り、あからさまにこちらを睨んだシザと、その彼の後ろに怖がって隠れるようにしたユラに気づいた。

「あっ、とぉ……そうだった、デート中だったんだな。

 ええと、どうも、こいつの同僚のアイザック・ネレスです」

 アイザックは手をごしごしするような仕草をしてから、ユラに向かって差し出した。

「あ、の……ユラ・エンデです……」

 華奢な手で、彼はアイザックの手を握って来た。

 その素直な様子に、アイザックは途端に陽気になる。

「なんだよォ、シザ。可愛い子連れてんじゃん。この子がお前の恋人か?」

「そうですよ」

 シザはユラの手を掴んだアイザックを、しっしっ、と手の甲で遠ざけるような仕草をした。

 ユラは、同僚だというアイザックに躊躇いもなく自分を「恋人だ」と紹介したシザにかなり驚いたのだが、シザは全く平然としている。


 ……こういう所が、自分とシザは兄弟でも全く違うと思う。


「おまえなー。待てって言っただろ」

「仕方ないでしょう。犯人が目と鼻の先に現われて、貴方より僕の方が近くにいたんですから……」

「すっかりユラが怖がってんじゃねーか。顔、青ざめちゃって。可哀想だろォ」

「……うるさいな。大体あんたが犯人を取り逃がすから悪いんじゃないですか。

 僕たちはデートの続きしますから、あとの現場のことは貴方が全部してくださいよ」

「分かってるって! へへ……」

 アイザックがシザの肩をがしっと掴んで、数歩歩き出す。

「でも良かっただろ。カノジョの前でいい格好見せられたんだからさ。取り逃がした俺に感謝しろよ~?」

 シザは半眼になる。

「なにが感謝ですか。面倒ごとばっかり持ち込んで」

「な、な……彼女のこと今度紹介しろよ」

「彼女じゃなくて彼、です」

 シザは平静な声で訂正した。

「えっ? じゃあやっぱりあの子、男なんだ? へぇ~~っそれにしちゃホント中性的でオンナノコみたいに可愛いもんだなぁ」

 アイザックは感心したように言ったがシザは目敏いもので、同僚の言葉に混じった違和感を鋭く見抜いたようだった。

「『やっぱり』? やっぱりってなんですか? 貴方はユラを知らないはずですよね。初対面なのにやっぱりってなんですか?」

「えっ、いや、その……」

「――……そうですか。昨日僕を空港につけたわけですね」

「い、いや! 俺じゃなくて、ダニエルとか、オンナノコたちが、お前の恋人をどーしても見たいっていうからだな……仕方なく」

「それでも貴方が後日きちんと僕の所に聞きに来て、それをみんなに説明すればいいでしょう。あなた僕がそういう、他人のプライベートにいちいち首を突っ込んで来るようなのが嫌いだって知ってますよね?

 貴方が僕の同僚なら、貴方が彼女達をきちんと諌めるべきなんじゃないですか?

 それを何を子供みたいに一緒になって尾行してるんです」

「んな! それを言うなら、普通同僚には恋人のこと話さねえ? お前が秘密になんかするから気になるんじゃねーか」

「別に秘密になんかしてませんよ。聞かれなかったから言わなかっただけです」

「そーいうのは聞かれたくなかったら自己申告だろォ~。

 こんな仕事やってんだぜ。お前が仕事中もし怪我したりしたら、俺、あの子にどうやって連絡とりゃいいのよ」

「心配しなくてもそういうことはドノバンに全て任せてありますよ」

「なんだよォ! あいつがそんな細かい気遣いするような男に見えるか? どう考えてもアイザック先輩の方が細やかにだな……」

「自分のPDAの手入れすらちゃんとしてない貴方のどこが一体細やかなんですか」

「あ、あれはたまたま今日だけ……」

「いいえ。この前も貴方出動中にバイクがおかしくなったでしょう。何なら今までの貴方の怠慢が原因とみられるメカの故障が起きた内容と日時、全部列挙してあげましょうか。僕は記憶力がとてもいいので、そういうの、全部鮮明に記憶していますから」

「記憶していますからじゃねえよ! そんなこと、すぐに忘れろよっ! じゃねえと人生楽しく過ごせねえぞ若造!」

「奥さんから絶縁された貴方に人生の楽しさのこと語られたくありません」

「離婚しただけだ! 絶縁されたって言うな!」

「同じじゃないか」

「同じじゃない! 絶縁されたらひたすら悲しいだけだが、離婚は円満離婚もあってお互い幸せになる為にすることもある!」

「でも貴方の場合は三行半を叩きつけられての離婚ですからちっとも円満じゃないですよね」

「おめーこの前まで大学生だったくせに三行半とかいう単語よく知ってたな! ってかそんな悲しい単語若いくせに知ってんじゃねーよ! もっとハッピーでドリーム感のある単語を覚えろ!」

「なんですかドリーム感って」

 数歩離れた所で何やら言い合いを始めたアイザックとシザに、ユラは最初ぽかん……としていたが、不意にくすくすと笑い始めた。


(シザさんがあんな風に誰かと言い合ってるの、初めて見る)


 シザの他人との付き合い方は冷淡に徹するか、何も言わずに突き放すかが多いからだ。

 でも、あんなに子供みたいに文句を言っている彼は非常に珍しい。

 アイザック・ネレスのことは以前から集中力の無い粗忽者と聞いていたが、こうして見る限り、シザはその時々のミスを忌々しく思っていても、人間として彼を嫌っているわけではないのだと思う。

(よかった)

 ユラは少しホッとした。

【グレーター・アルテミス】でシザがまた全てを独りで背負って、何の楽しみも作らず、友人も持たず、ただ暮らしているのは辛いと思っていたからだ。


 二人の遣り取りが収まるまで大人しくここで待ってようと、小さく笑いながらふと周囲に目をやった時、こちらを遠巻きに見る野次馬の人々の中に一人、明らかに違う雰囲気を纏う人間を見つけた。

 他の人々は居合わせた特別捜査官の遣り取りに明るい表情で笑ったり、写真を取ったりしているのに、一人だけパーカーの帽子を目深に被って、暗い表情でこっちを見ているのだ。

(……?)

 男はアイザック、シザと視線を移して最後にユラを見た。

 視線が合った途端、男が一歩動き出す。

 男の手の中にビキビキビキと音を立てて、鋭い氷柱が形成されて行くのが見えた。

 側にいた女の悲鳴にシザが振り返った時には能力者の男が、一直線に氷の矢を放つところだった。


「ユラ!」


 咄嗟に能力を発動しようとして、シザは腕に激痛が走った。

 ユラは男には気づいていたようだが、突然向けられた殺意の牙に立ち尽くすことしか出来ない。普通の人間はそういうものだ。何かあった時に反射行動をすぐ起こせる一般人の方が珍しい。

 シザ、アイザックの声が後ろから飛んだ。



 ――ドン!



 ユラは身体に走った衝撃に、一瞬頭が真っ白になった。

 しかし、いつまで経っても覚悟した痛みが来ない。

 恐る恐る目を開くと自分が、シザに抱き留められていることに気づいた。

「……シザさ……」

 視線を下に向けると、赤い血がアスファルトの上に雫が落ちる。

 きゃああああ!

 野次馬からもう一度悲鳴が上がった。

 逃げようとした犯人の男をアイザックが能力を発動し、捕まえて地面に捩じ伏せる。

「てめぇ!」

 肩越しにアイザックが犯人を捕縛したのを見届けて、シザは小さく息をついた。

 抱き留めたユラの身体を、力を込めて抱きしめる。

「……ユラ、怪我はない……?」

「シザさん、」

 よかった、シザはそう安堵と共に呟き、ユラの方へと崩れて来た。

 ユラは長身の彼を支えきれず、押し倒される。

 すぐに飛び起きてシザの肩を掴む。

 掴んだ自分の手の平が真紅に染まっていることに気づいた。

 その血の量に驚いて、紫水晶の瞳を見開く。

 これは自分の血じゃない。

 シザの脇腹の辺りに、氷の刃が深く突き刺さっている。


「シザ! 大丈夫か!」


 アイザックの声が響く。

 騒ぎを聞きつけて、現場に残っていた警官が駆けて来た。


「シザさん!」


 ユラがシザの身体に縋りつく。

「……ゃ、……だ、いやだ、」

 血は傷口からどんどん流れて行く。

「シザさん! シザさん……! やだあ!」

 シザの身体を揺すろうとするユラの身体を、慌てて警官が引き離した。


「マジかよ……っ、シザ! おい、返事しろ!」



◇   ◇   ◇



 シザの身体はすぐに病院に運び込まれた。

 テレビもネットも情報が錯綜して、騒然となっていた。

 アイザックはとりあえず病院にまで付き添うと、緊急手術室にシザが入るのを見届けて、【アポクリファ・リーグ】総責任者のアリア・グラーツに連絡を入れた。

 病院はシザが運び込まれたという情報が出回って、メディアも患者も来客も集まって、とんでもない混乱になっている。

 たださすがに緊急手術室の側は、野次馬の姿はない。

 扉の前にユラの姿があった。

 椅子に座って、その上で膝を抱えて蹲っている。


「ユラ」


 声を掛けると過剰な位の反応を見せて、ユラがこちらを見上げた。

 ボロボロに泣いた顔。

 初めて会った時の印象ではとても物静かに見えたのに、今は紫の瞳に光を吸い込んで、その奥で激しい感情が揺れ動いていた。

 今もどんどん、大粒の涙が零れて来る。


「シザさん、シザさんは……」


 泣きじゃくりながらユラは立ち上がって、アイザックに駆け寄って来る。

 ユラの服は血塗れのままだ。

 救急車で運ばれる時も病院についてからも、随分下がっていなさいと邪険にされていたが、ユラはシザの側にしがみついたまま剥がれなかった。

 もう病院関係者も諦めたのだろう。

「……今、手術中だからな。ユラ、今は手術が終わるのを待つしかない。お前、服着替えて来い。すぐ曲がったそこにシャワー室あるから、使わせてもらえ。俺がここにいるし」

 ユラは首を振った。

「ここに張り付いてても出来ることは」


「すみませんアイザック・ネレスさんですね」


 病院の看護婦が、足早にやって来た。

「あ、ああ……はい。そうです」

「申し訳ありません。警察の方が、事件発生時の話を聞きたいといらしているのですが」

「あー……えっと、」

 アイザックはまた椅子に戻って蹲ったユラを振り返る。

 シザが、自分の身を投げ出してまで彼を庇った姿を思い出す。

「……すいません、そっち少し待ってもらえますか? あの、ついていてやんないと駄目なんで」

 看護婦はユラの方を見た。

 するとアイザックを少し手招く仕草をした。

「ん……?」

「……あの申し訳ありませんが、もしよろしければ、輸血をお願いしてもよろしいですか? 他の病院からも移送してもらっている所なんですが、発砲事件で複数人運び込まれていまして……」

「え?」

 輸血はユラが自分の血を使ってほしいと頼み込んで、先ほどまでしていたはずだ。

「採血していただいた血が、輸血に使えないようなんです」

「使えないって……」


「――ご兄弟ですね?」


 アイザックは目を瞬かせた。

 そして思わずユラを振り返る。


「えっと……」

「シザさんと血が近すぎるので、輸血に使えないんです」

「で……、えっ……、……」

 バタバタと騒がしい音がして、何か色々な機材を揃えた台を、三人ほどの医者が緊急手術室に新たに運び込んでいく。

「あ、ああ……はい、いいですよ。どこか、そのへんとかで出来ます?」

「はい。そちらのナースステーションで。準備をします。助かります、よろしくお願い致します」



◇   ◇   ◇



「アイザック」


 呼ばれて、廊下でスクワットをしていたアイザックが振り返る。

 ダニエル・ウィローがルシアとミルドレッド、メイを引き連れてやって来たのだ。

「どうなの、状況は」

「まだ緊急手術室にいる」

「もう随分時間経ってるよ。手術は終わったんじゃないの?」

「縫合はな。終わったみたいだ。けど脇腹だけかと思ったら、なんか肺もちょっとやられてたらしいんだよ。

 出血がひどいのに自立呼吸が出来ねえってんで……容態が落ち着くまで様子見ねえと、まだ何とも言えないらしい。さっきも発作起こしたらしいんだよな」

「聞いた時驚いたわ……犯人逮捕したって聞いた直後だったから」

「もう一人、いたみたいなんだよ。

 五人目の銀行強盗で、こいつが逃走用の車を準備してた。

 ユラを俺たちの仲間かなんかだと思ったらしいな。

 気づいた時にはもうシザが飛び出してて。

 どうしようもなかった」

 アイザックがくしゃくしゃと髪を掻き混ぜる。

「そうなの……」

「俺のせいだ。あいつが装備もねえのに連絡取っちまって。

 それに、緊張感無くいつまでも現場に留まらせた」

「別に居合わせたのは偶然だろ」

 ダニエルがアイザックの肩を叩く。

「そうよ。それにシザならあんたから連絡なくても、近くで強盗が起きてたら勝手に飛んで行ってたわよ」

「……そらそうだけどよ……、でもその後は完全に、俺は油断してた。

 あいつなら、必ずまだ何かないか、現場周辺の確認は行ったはずだ。

 俺は余計なことに気を取られてて……」


 バタバタと足音がした。緊急手術室にまた人が入っていく。

 明らかになにか異変が起きたようだった。

 声を掛けたかったが、看護婦も必死の形相でガラガラと台車を引いていく。

 ユラは両手で顔を覆って、泣きじゃくっている。


「心配ね……」

「アレクシスも心配してたよ。仕事が終わったら様子を見に来るって」

 ルシアが抱えて来た鞄を肩から下ろし、アイザックに差し出す。

「……はい。一応あの子でも着れるようなもの、持って来たから」

「悪いな。ありがとう」

「……なんで私がシザの恋人に服貸さなきゃいけないのよ。メイに借りなさいよ」

「しかたねーだろ。メイ、ジャージしか持ってねえって言うんだもん」

「色とりどりのジャージならいっぱいありますよ」

「……あんたも年頃なんだから私服くらいちゃんと買いなさいよ」

「だってジャージすごく楽なんですよー」

「そんなこと言ってミルドレッドも私服ドレスみたいなのしかないじゃない」

「当たり前でしょ。特別捜査官として日々男みたいな格好してるんだから、オフの時くらいこの私の美しい美貌を輝かせるドレスを着ないでどうすんのよ」

「特別捜査官って普通の服の趣味の人っていないわけ?」

「まったく……」 

 アイザックが立ち上がる。

「ユラ。まだ時間かかりそうだから、お前一度着替えて来い。

 酷い格好だぞ、おまえ……」

 ユラは顔を伏せたまま、首を横に振っている。

「そら気持ちは分かるけどな、俺もここで見張っとくから大丈夫だ。一回シャワーでも浴びて着替えて来い」

「……ぼく、ここに、います……」

「勿論いてもいいからさ。とにかく一度」

 ユラは首を振った。

「ぼく、ここにいる。何にも出来ないけど、でもシザさんの側に、」

 アイザックとダニエル、ミルドレッドが顔を見合わせて、困惑した表情を浮かべる。

 その中でルシア・ブラガンザだけがムッ、とした顔をして立ち上がった。

 つかつかとアイザックの側を横切ると、ユラの前に立った。

 そして何をするのかなとアイザックが見ていると、ルシアは突然振りかぶって、バシッ! とユラの頭を叩いたのだった。

「いっ、」

 思わずユラが顔を上げる。

「あー! もうぐじゃぐじゃと! あんたがそんな格好でここに蹲ってて泣いてても、皆不安になるだけでしょ⁉ 誰もシザ一人になんかしないから、とにかく血ぐらい落として来なさいよ!」

「ちょ、ルシアさん! あんまり手荒なことは、しないでほしいなぁ~~~なんておじさん……そういうことするとあとでシザ君がこわいし……」

「うるさいな、黙っててよ!」

「……ハイ」

「あんたがそうやって意地張って祈り捧げてても、手術が早く終わったりしないの! いいから、来なさいよ!」

 ルシアがユラを無理に立ち上がらせ、引っ張っていく。

「メイ! 着替えの鞄、持って来て!」

「はっ! ただいま!」

処女宮バルゴ】の先輩後輩コンビになる二人が息ぴったりで去って行った。 

「【アポクリファ・リーグ】の女王様がお怒りよ」

「すっげぇアイツ……心臓に毛が生えてんじゃねえのか。よくあんな打ちひしがれてる人間の脳天を攻撃出来るな」

「でも、良かったなぁアイザック。お前じゃあれは出来ないぞ」

「そらまあそうだ」

「儚げな子だったわね。遠目に見るより可愛かったわ」

 アイザックはダニエルとミルドレッドの顔を見た。

 彼らは三十代で年齢が近く、親しい友人なのだ。

「ダニエル君! ミルドレッド君!」

「お? おお、なんだ?」

「君たちを男と見込んで、頼みがある」

「うん?」

「誰がオトコよ! こんな美女を捕まえて! 焦げ焦げにされたいわけあんた!」

「そ、そうだったな! 立派な男と美女と見込んで、頼みがある。

 ……今から言うこと、誰にも言わないでくれ。いいな!

 これは俺からのお願いというだけじゃない! 故シザ・ファルネジア氏の遺言だと思って、絶対秘密にしてくれ」

「誰が故シザ・ファルネジア氏だ」

「なんつー縁起の悪いこと言うのよ」

「そ、そーでなくて!

 あの、ユラのことなんだけどな……その、どうやらシザの実の弟らしいんだよ」

 ダニエルとミルドレッドが顔を見合わせる。

「は?」

「恋人だってシザもあんなにはっきり言ってたじゃない」

「どーしたおまえ何言ってんの?」

「いや、さっき……ユラの血をシザに輸血しようとしたんだよ。そしたら、病院側に出来ねえって言われてさ。代わりに俺がしといたけど」

「出来ねえって……」

「血が近すぎるらしい……。」

 ミルドレッドが初めて生真面目な顔を見せた。

「あら……」

「いや、別にだからどうだってことじゃねーんだけど。シザ自身に聞かねえとこればっかりは……」

「……そうね。迷いなく恋人って言ってたもんね」

「そ、そう! そーなんだよ! ……だから驚いたんだよ」

「俺達になにしろって?」

「いや、何をしてほしいわけじゃねーんだよ。シザどうなるか分かんねし……万が一あいつになんかあった場合、ほらあいつ今は資産持ちになってるし。そら、あいつのことだから、そのあたりは養父ともちゃんと取り決めしてると思うけど、その、」

「OK。OK。なんかあった時は、あんたの力になればいいのね。いいわよ。というかあんたにしちゃ、やけにちゃんと考えてるじゃない」

「いや。兄貴のカミさんが亡くなった時本当にそういうこと大変だったんだよ。戸籍入れてなかったからさ……ユラが妻なのか恋人なのかでも全然法律上の扱い変わって来るし……」

「なにが出来るかは分からんが。黙っていればいいんだな」

「そう。知っててくれるだけでいい。一応ユラのことは、今はシザの恋人として扱ってくれるか。あいつがそう言っていた以上はとりあえず」

「分かったわ。安心して」

「……あいつ、色々今まであったみたいだからな。多分それと関係があると思うんだけどさ。でも二人でいる時はあいつらホントに恋人っぽかったんだよ。ありゃ、兄弟って雰囲気じゃなかったし……」

「そうなの。……それならあの子の心配も当然ね……平気かしら……」

 ミルドレッドは緊急手術室を見つめる。



◇   ◇   ◇



 シャワー室の前で待ちながら、ルシアはユラが着る服を選んでやっている。

 服を選びながら、シャワー室の方を時折彼女は振り返った。

「……ちょっと言い過ぎたかな……」

「へへ」

「……? なによ。笑って」

「いえ。ルシアのそういう『こうした方がいい!』っていうこと、ちゃんと口にするところとか、とてもいいと思います」

 メイが人懐っこい笑顔でそんな風に言うと、ルシアが赤面した。

「べ、別にそんなんじゃ……だってあのうるさいアイザックが、こんな時間まであの子をそのままにしたんだよ。誰かが言わないとあいつのあんな困った顔、見たことなかったし……」

「なんだ。アイザックさんの為ですか」

「ち! 違うわよ! 私は男のくせにぐじゃぐじゃ言ってる奴が嫌いなの!」

「ふーん」

「あんた、なに笑ってんのよ!」

「ううん。シザさん、早く元気になるといいですね」

「……うん」



◇    ◇    ◇



 ザー……


 流れて行く水に、赤い血が混じる。

 温かい湯に晒されながら、ぼんやりしていたユラはハッとした。

 ユラの身体に残っていたシザの血だ。

 運び込まれて行く時のシザの姿が思い出され、涙が滲んで来る。

(ぼくはあの人に気づいてたのに、ちゃんと逃げなかったから)

 シザは離れていたのだから、狙われたのがユラじゃなかったらあんなに身を投げ出して庇ったりはしなかったはずだ。

 もっと冷静に対処出来た。

 流れていく血の赤に足が震え出して、ユラはシャワー室のタイルの上に膝から崩れた。


(シザさんに何かあったら)


 息が詰まる。

 胸の奥が苦しい。

 自分の手の平を見た。

 昨夜の出来事が思い出される。

(あの人に二度と触れてもらえない可能性だってこの世にはあるんだ)

 ユラは思い知った。

 ずっとシザの側にいられて、彼に待ってもらって、守ってもらえるなんて思っていたから。

(心のどこかで思っていたから)

 シザの一瞬見せた熱は紛れもなく、自分を欲してくれていたのにユラはこの期に及んで首を振った。


(あんな人の)


 養父ダリオ・ゴールドの顔が過る。

 あんな人との記憶に苛まれて。

 ……彼はもう死んだのだ。

 シザがそうしてくれた。

 そして彼がそうしたのは、ただユラを養父の呪縛から救い出す、それだけの為だった。

 シザは事件発生当時すでに身長も伸び、能力的にも身を護る術を覚えつつあった。

 彼はもう子供ではなかったのだ。彼が一人だったら、なにも殺人の罪を犯さなくても、彼は自由になれただろう。

 シザはユラの為に手を汚したのだ。

「……、っ」

 嗚咽が零れる。

 いつもそうだ。

 シザはユラの為に幸せになれる権利を、いつも投げ出して来た。

(ぼくはいつも守られてばかりで)

 たった一つシザに返せるものが、昨夜はあったかもしれないのに。

 それすら臆病すぎて出来なかった。

 悲しい。

 悔しい。

 こんな時、彼を救える能力もない。

(僕とシザさんの能力が、逆だったら)

 ユラは膝を抱えて泣き伏せる。

(あの人のように、僕が全てと戦って……守ってあげられるのに)

 

「ちょっとユラ……いくらなんでも遅いよ。ここ、開けるわよ」


 ルシアの声がする。

 慎重にシャワールームを開くと、タイルの上に蹲ってユラが泣いている。

「やっぱり……、メイ! 服持って来て!」

 ルシアが流れ続けていたシャワーを止めて、ユラの体を大きなバスタオルで包み込んでやる。そして彼を立たせた。

「こんな所にいちゃダメよ。早くこっちに来て。

 ちょっと、しっかりしなさいよあんた……辛いのは分かるけどシザだって今、戦ってるんだから……貴方がしっかりして応援してあげないと」

 ルシアの声は、もう厳しくは無かった。

 シザも戦ってるというその一言に、ユラは手の平を握り締めた。

 うん、と頷く。本当にその通りだ。

 その反応を見てルシアも頷く。

「服、置いておくから。ちゃんと着替えるんだよ」



◇   ◇   ◇



 自宅に着くと、いつものように笑顔でユラが玄関まで出て、出迎えてくれる。

 屋敷にいるお手伝いたちが「お帰りなさい」と挨拶し、養父もお帰りとにこやかに迎えた。

 表面上は、穏やかな家の風景である。


 その夜、ベッドに入って一時間ほどしたころ、部屋の扉が開いた。

 シザは身を起こす。

 入り口にユラが立っていた。

 彼は着替えておらず、昼間の服のままだった。

 

「ユラ」


 紫水晶の瞳が揺らめく。

「……ごめん、なさい……顔が見たかっただけ……」

 肩を落としてユラが自室に戻ろうとした。

 シザが呼び止めるよりも早く。

 一度目を閉じ勇気を絞り出すように、ユラは立ち止まってもう一度、シザの方を見てくれた。

 光を望む、アメシストの美しい揺らめきがシザを見つめる。


「……たすけて」


 シザはベッドから降りるとユラに歩み寄って、部屋に引き入れる。

 ユラをベッドの端に座らせた。

「少し待って。すぐ着替える」

 シザは言うなり、服を着替え始めた。

 ユラはそっと彼の方を見る。

 ノグラント連邦共和国の大学に通うようになってから、この二年ほどでシザの背は瞬く間に伸びた。

 十六歳。

 シャツを着た時に見えた裸の背は細身だったが、それでもユラからすれば兄の背は、ひどく大きく見えた。

「ユラのコートは?」

「……部屋の入口にかかってる……」

 取って来るとシザは言って、一度部屋を出て行った。

 すぐに彼は戻って来て、部屋の扉を閉める。

 明かりをつけず、窓から差し込む月明かりの中だけで。

 シザは自分の鞄を手に取ると、封筒を差し出した。

 そしてベッドに座るユラの前に膝をつくと、弟の手を握ってその瞳を見上げた。


「ユラ。よく聞いて。

 この中に、飛行機のチケットが入ってる。

【グレーター・アルテミス】に行くためのものだよ」


「……【グレーター・アルテミス】……?」


 幼い頃から、狭い世界に閉じ込められて過ごして来たユラはぎこちなく、その街の名前をくちずさむ。

「そこに入ってる、手紙に全て書いてある。

【グレーター・アルテミス】のことも、これからどうするかも」

 ユラは驚いて、手元の封筒を見下ろした。

「とりあえずのお金も、全部入ってるから。

 これから僕と空港に行こう。ユラは先に発って、手紙に書いてある【グレーター・アルテミス】のホテルに入って、あとは何の心配もしないで待ってて。僕も後から必ず行く」

「兄さんも一緒に……」

 ユラは泣きそうな表情で、シザの腕を掴んだ。

 シザはユラの身体を強く抱きしめる。



「――僕はまだここで、やるべきことがある。」



 兄弟の視線が交じり合った。

 ユラの瞳が揺れるが、シザの瞳は揺れなかった。


「【グレーター・アルテミス】はアポクリファの街なんだ。

 アポクリファしか居住権が許可されない、アポクリファの為の街。

 そこでなら、僕たちは生き直せる」


 シザが言わんとすることを察して、ユラは彼の肩に顔を埋めた。

「……一緒がいい。僕も兄さんと一緒にいる」

「だめだ。これ以上……あいつのことでユラを苦しめたくない」

「……、」

「すぐに僕も【グレーター・アルテミス】に向かうから。心配しないで。ユラ。待ってて」

「……僕のこと、ひとりにしない……?」

 シザは涙を零したユラの瞼の上に、そっと口づけを落とした。

 想いを込めた――それは誓いの印でもあった。


「しない。僕たちは同じ血が流れる、この世でたった二人の兄弟だ。

 この世界に味方が一人もいないなら、僕たち二人は、絶対に離れては駄目なんだ。

 僕にはユラが必要だから……絶対に離れたりしない」


 搭乗口を越えて、幾度も幾度も不安そうにユラは振り返った。


「今日だけは強くなって。ユラ。今日だけでいい。僕を信じて、言う通りにしてくれ。

 明日からは、強がらなくていいから。

 後は僕が全てユラのことは守るから」


 

 ――心を決めて。



 歩き出したユラの方に駆け出して、その身体を抱きしめてやりたかった。

 

 ……ユラの存在をこの世で唯一の光にして。

 支えて来たのは自分の方だ。

 一人だったら、これほど強くはなれなかった。

 今、ようやく訪れ始めた穏やかな日常……それを、今も幼い頃と変わらずユラと過ごせることを。





(僕はそれだけは、底意地の悪い運命の神にも感謝をして)






 手の平を握り締める。





(僕のこの手は、ユラの手を掴むためのもので、見放すためにあるんじゃない)





 幸せになるんだ。

 そして自分たちで証明する。

 どんな不運も、邪悪な人の心も思惑も、

 僕とユラの宿縁だけは決して切り離せなかったと。


◇   ◇    ◇


 すでに夜は更けて、白み始めていた。

 待合室にはアイザックとユラ、ダニエルとミルドレッドの四人が残っていた。

 扉が開かれ、一斉にそっちを見る。

 医者が少しだけ笑みを浮かべた。

「手術が終わり経過を見ていましたが、取りあえずは山を越えたでしょう。

 気管が傷ついており自発呼吸が困難になっていましたが、器具を当てて補助をさせています。状態が落ち着いたら、もう一度手術をして、補助器具を体内から取り出します。それで不具合が無ければ大丈夫です。回復するでしょう」


 アイザックがソファに腰を下ろし、額を押さえて息をつく。

 ミルドレッドはダニエルに抱き付き、きゃーっと喜んでいる。

 ダニエルは困った顔をしながらも、この時だけは彼女を邪険にはしなかった。

「……あの、……シザさんは、目を覚ますんですか?」

 ユラが恐る恐る、尋ねる。

「はい。その他の傷の縫合は全て終わりましたから。呼吸も、現時点で落ち着いていますし、傷の他の不具合は見当たりません。数日のうちには、目を覚まされると思います」

 ユラは膝から崩れ落ちる。

 アイザックが寄って、背を撫でてやった。

「よかったなユラ。もう大丈夫だ」

「シザさん……」


 ユラは泣き出す。

 アイザックがシザの代わりに抱き締めて、彼の頭を撫でてやった。


◇   ◇   ◇


 病室に入ると眠っているシザの側に、ユラの姿があった。

 シザが通常の病室に移されて三日経つが、いつここに来ても変わらない光景だ。

 ユラはいつも、そいつの顔そんなに眺めて何か楽しいですかと聞きたくなるくらい、延々とシザの顔を側で見つめていた。

 雑誌を見てもいいしテレビを見たって音楽を聞いたっていいと言っているのに「はい」と頷きながらも結局そこから動かず、シザの手を握って顔を見つめて過ごしている。

 ユラはこういうところは見た目に寄らず頑なな所を見せた。

 シザもそういう、頑なに譲らない部分は持ってる。


(……確かにこうして見ると、ちょっと似てんなこいつら)


 アイザックは早くも、そんな風に思い始めていた。

 今日は、珍しくユラが眠っていた。

 この三日間ほぼ寝てないんじゃないかという感じだったので、さすがに限界だったのだろう。

 いつもの特等席でベッドの端に伏せるようにして、シザの手を握ったまま眠っていた。

 アイザックは苦笑してから、起こさないように毛布をユラの身体に掛けてやった。

 彼は窓辺の椅子に腰かけ、抱えて来た新聞を広げた。

 この三日間ユラとは少しだけ、言葉を交わした。

 彼が現在、プロのピアニストとして各国を回っていたこと、それで卒業と同時に音楽活動に入って二年【グレーター・アルテミス】には戻っていなかったこと。

 頻繁に戻っていれば、そういう話にもなっただろう。

 シザに付き合っている女の影が全く無かったのは、そういう事情からだったのだ。

 

 一度、養父であり【バビロニアチャンネル】CEOのドノバン・グリムハルツが病室に訪ねて来た。

 大丈夫かと彼はユラに声を掛け、ユラはシザが怪我をしたのは自分を庇ってのことで、本当に申し訳ありませんと、深々と頭を下げ、そんな風に謝っていたのが印象的だった。

 ドノバンはそんなユラを特に咎めることもなく、この一週間ほどは【グレーター・アルテミス】に滞在するから、目覚めたら連絡を入れるようそれだけ言って帰って行った。

 傍から見ていた印象としては、シザの弟ならばドノバンにとってもユラは養子であるはずだが、随分素っ気なく他人行儀な印象があった。

 もしかしたらドノバンはユラとシザが兄弟ということを知らないのかともアイザックは思ったが、そのあたりのことはよく分からなかった。

 こういうこともシザは一切同僚であるアイザックに話さない男だったので、分からないのだ。


 その時視界の端で、身じろいだ。


 アイザックはハッとして新聞をテーブルに投げ出して、ベッドに駆け寄る。

「シザ」

 碧の瞳がうっすらと開く。

「目が覚めたか。大丈夫か」

「僕は……」

 少し目線を彷徨わせてから、シザは「ああ……そうでしたね」と頷く。

「おまえな……心配させんなよ」

 シザはすぐに、側で寝顔を見せているユラに気づいた。

 自分の手を、握り締めたまま眠っている。

「ユラの名誉の為に言うけどな、お前が寝てるこの三日間、こいつほとんど寝ずに側に張り付いてたんだぞ」

「……知ってます」

 シザは微かに笑ってからユラが握っているのと、反対の腕を動かそうとして顔を顰めた。

「動かすなっつの。おまえ、そっちの腕折れてんだよ。分かってんだろ、それはあの犯人の襲撃云々とかじゃない、お前咄嗟に能力使ったから、体にダメージ負ったんだよ。プロテクターしてねえのにそういう能力の使い方すると強化系は命の危険があるっていつも言ってんだろ。チャージが不必要な能力は使い方ちゃんと考えねえと」

「……分かってますよ。だから咄嗟だったんです」

「咄嗟でもやめろよ」

 アイザックは深く息をついた。

 ユラを起こそうとした、それをシザが止める。

「……いえ。……寝かせてあげてください」

「そっか。……んじゃ、医者にだけお前が目を覚ましたって報告しておく」

「はい。ありがとうございます」

「あのよぉ、シザ……ユラって」

 シザが眠るユラの顔を、優しい表情で眺めている。

 アイザックは自分の髪を掻き混ぜた。

「……なんですか?」

「……いや。……お前のこと、すげえ大切に想ってくれてんだな。

 ピアニストのこととか、ちょっとだけ聞いたけどよ。

 退院したら、ちゃんと俺に恋人だって紹介しろよな」

 アイザックはそれだけを言って、病室を出て行った。



◇   ◇   ◇



 次に目を覚ますと、すぐそこに、アメシストの瞳があった。

 心配そうにシザの方を覗き込んでいる。

「ユラ」

 呼ぶとユラがシザの胸に伏せて、涙を零した。


「……あなたが死んだら、ぼくも死のうと思ってました」


 シザはユラの髪にゆっくりと、動く方の手を移動させて、泣いている彼を慰めるように手を動かした。


「貴方以外のひとを、僕はもう誰も愛せないから」


 自分は多分そうだと思うけど、

 ユラは別に、そうならなきゃ理由はないし、そうでなくてもいいのだ。

 そのことも、ちゃんと伝えておいてあげなきゃならないなと思った。

 シザは優しく笑った。


「死んだらユラに二度と会えなくなる。それだけは寂しくて耐えられそうにない。だから僕は死なないよ」


 うん、とユラがシザの頬に手を触れさせた。



◇   ◇   ◇


「シザさんが眠ってる間ずっと、考えてたことがあって」


 シザの隣に潜り込んで、一緒に病室のベッドで眠った。

 ここは完全看護の病室なので、面会時間を越えて、病室に留まることは出来ない。

 今までは事情が事情なだけあって、張り付いているユラは大目に見られていたが、シザが目覚めるとナースに「ちゃんと帰ってください」とユラは叱られるようになったので、ユラは人が来ると側に飾られた花瓶の花の一輪に変化して、看護婦の目を躱すようになった。

 そうして誰も来なくなると、安堵してシザのベッドに潜り込んで一緒に眠る。

 シザは巡回ナースに怯えて変化をするユラを、笑いながら見守っている。

 別に見つかった所で、僕が構わないんだからそうさせてくださいと言うのは簡単だったが、一生懸命自分なりに考えてシザの側にいようとするユラが可愛かったので、そのままにしておいた。


「……ぼくと、貴方の能力が逆だったらよかったなって」


「……どうして?」

「この能力があれば、シザさんはきっと幼い頃のうちに、あの家から逃げ出せた。

 ぼくはそれでもあの人が貴方を苛めたら、その力で守ってあげれた。

 貴方がぼくにそうしてくれたように」

「これでいいんですよ」

 シザはユラの額に唇を触れさせた。


 アポクリファの能力は千差万別だ。

 特に【グレーター・アルテミス】は国民全員が多少なりとも能力者である。

 隣のあいつの能力が良かった、なんて思い始めたらキリがない。

 結局能力者だろうが非能力者だろうが、

 自分が天から与えられた力を受け入れて生きていくしかないのだ。


「……確かに辛いこともたくさんあったけど今は、こうやってユラと一緒にいられる。貴方に愛されることが出来るし、こんなにも貴方が好きだ。

 だからこれでいいんです。

 何か一つでも違ったら、僕はただ逃げることしか出来なかったかもしれないし、ユラが兄として、僕を慕ってくれていることにも気づけなかったかもしれない。

 今と同じようにユラを愛しく思っても、助けてあげられなかったかもしれない。

 今まで起きたことすべてが、自分にとっての実りになって、起きて良かったことだなんてそうは思えないけど。……でも僕は、『今』は好きです」


 ユラは小さく頷いた。


「どうして泣くの」

 シザが笑っている。

 ユラは慌てて目元を拭った。

「……しあわせで」

 そっかとシザは傷が開かないように慎重に身体を動かして横を向くと、

 ユラの身体を片手で包み込む。



「よう! おはようシザ君!」



 扉を思いっきり開いてから、わざとらしくそのあとコンコンッとノックをして、アイザックが入って来る。

「可愛いカノジョが帰っちゃって寂しいだろうからってみんなで、……あれ?」

 ベッドで一緒に眠っているユラと目が合い、アイザックが不思議そうな顔をする。

「あれ? ユラなんでいんの? 俺たち今、面会時間開始と共に入って来たんだけど……」

 ユラは慌てて身を起こす。

「え、えと……」

「おはようシザ……あら。ウフフ、どうしたの一緒のベッドに眠っちゃって……やだわぁ、退院まで待てないの? でも分かるわその気持ち! 病院ってなんだか興奮するものね!」

「病院で興奮してるのお前か白衣フェチの人かなんかだけだろ……」

 ダニエルが呆れている。

「い、いえ違うんです、別に変なことしてたわけじゃなくって……」

 ユラが慌ててベッドから降りて自分の寝癖や、服を整える。

 シザは折角いい雰囲気だったのになあ、という感じで空になった自分のベッドの隣をぽふぽふと手の平で押さえている。

「いいんだユラ。こーいう時は彼氏の方が大概悪いんだよ。コラッ! シザてめー脇腹に穴開いてんのになにベッドに恋人連れ込んでやらしーことしようとしてんだ!」

「今日は皆さんお揃いで……どうしたんですか?」

「うわ~もう普段のシザに戻って来てる……あんたなんかもう一ヶ月くらい眠りについてればよかったのよ! 安心しなさいその間私がバリバリ【アポクリファ・リーグ】のポイント稼いでやるから」

 ルシアが文句を言っている。

 メイがユラに、抱えて来た花束を渡してやった。

「みんなでお見舞いの花束持ってきました」

「あ、ありがとう……」

「シザ君、怪我の具合はどうだい?」

「はい。アレクシスさん多忙なのに申し訳ありません来ていただいて。明日手術をして、中の器具を取り出すことになると思います。一日様子を見て、平気そうだったら退院して、自宅療養に変えてもらおうかと」

「あら、あんなに死にかけたのにそんなもんで平気なの?」

「はい。傷の修復の経過はいいようなので」

「あんた見かけによらず丈夫な体ねえ~。割と好きよそういう男は」

「ミルドレッド、恋人の前でちょっかいかけるなよ」

「そうよ。ユラの顔強張ってるじゃない」

「なによ。タイプって言っただけじゃない。誉め言葉よ。フワフワ頭が顔強張ってるのはあんたが思いっきり叩いたからでしょ」

「叩いた?」

 目敏くシザが聞き返した。

「ユラを叩いたってどういうことですか。ルシア。説明を求めます」

「しらな~い。忘れたわ~」

 ルシアがそっぽを向いて口笛を吹いている。

「傷の経過は良さそうなんだね。よかった。君が【アポクリファ・リーグ】に復帰するのを、私たちも市民も待っているからね」

「ありがとうございます」

「あんまりワイワイ騒いでるとシザの傷開くからな。

 今日は出勤前にみんなで寄ってみただけだ」

「早く元気になれよな」

 仲間たちが賑やかに、出て行く。

 ユラはくすくすと笑っている。

「みんな、楽しい方なんですね」

「楽しいかどうかは考えようですが……」

「でもぼく、シザさんの仕事環境とか何も知らなかったから。今回それが少し分かって、嬉しかったです。安心しました。あの人たちがちゃんとシザさんのこと、大切に想ってくれてるんだなって分かったし……。アイザックさんも、とてもいい人ですね」

「調子がいいだけですよ。あの人は」

 シザが拗ねた様な口調で言うので、そんなのは珍しくてユラは笑った。

 シザは贈られた花を綺麗に活けているユラの方を見た。


「……ここに来てください」


 シザがベッドを押さえてユラを呼ぶ。

「余計な邪魔が入って中断してしまったけど、二年ぶりの再会の途中でした」

 ユラは歩み寄って来てくれる。

「これからの二人のこと、まだ話してなかった。

 音楽活動とかどうしたいのか、ユラの気持ちを聞かせて下さい」

 ユラは頷いて、もう一度そこに寝そべった。


「貴方の公演はマネージャーに録ってもらって、全部見ました。

 貴方には音楽の才能がありますよ。

 ユラが音楽を続けたいなら、僕は応援する」


 ユラはシザの身体に腕を回した。

 シザは【グレーター・アルテミス】から一歩も出れないのだ。

 それはユラの為に養父を殺したからである。

 この二年間の活動で、幾つかの音楽事務所から契約の話が来ている。

 ユラは仕事の拠点は【グレーター・アルテミス】以外に持つ気は無かったから、続けるならまた各国を回って公演中心の生活になる。

 自分だけが自由に世界を飛び回っていいのかという気持ちと。

 自分の音楽が他人にとってどれだけの価値があるのかはまだ未知数で、自信が持てない。


「僕なら大丈夫。【グレーター・アルテミス】で貴方の帰りを待っています。

 いつでも。

 戻って来たら、行った国の話をして、どんな音楽を奏でたのか、僕に聞かせて下さい。

 そしてこうやって、必ず僕を優しく抱きしめてくれること。

 それを守ってくれるのなら、……本当はユラをずっとこうして抱え込んで、どこへもやりたくないけど。音楽の神様になら、少しだけ貸してあげてもいいですよ」


 シザはユラの髪を優しく撫でて、彼にキスを落とした。



◇   ◇   ◇


 四日後シザは退院して、自宅に戻った。

 とりあえず二週間自宅療養となっている。

 ソファに寝転んだシザを、荷物をテーブルに置いたユラが覗き込んで来る。

「寝室のベッド、整えてありますよ」

「ベッドに寝てると、本当に怪我人になった気がするから嫌だ。

 家にいる時はソファで寝ます。ベッドは夜だけでいい」

 変なこだわりを見せたシザに、ユラは笑った。

「でも……今のシザさんは怪我人ですよ」

「そうだった」

 本当に忘れたようにシザが言う。

 彼の怪我の修復力は、病院の医者たちも驚かせた。

 これは強化系能力者特有のものなのだという。

 瞬間的な筋力強化を行う能力は、発動時に身体に負荷がかかる。

 幼い頃から繰り返しているとそのことに耐性が出来て、傷の治りが異常に早くなるらしい。

 能力に付随した、こうした身体的特徴を持つ能力者もいる。

 そう言えばユラは変化能力を使うと、時々相手の気持ちを感じ取ることがあった。

 これは感応能力の一種で、相手を真似る変化能力に付随したものなのかもしれない。


 そして数日のうちに驚異的な回復力を見せたシザは、今では傷口さえ気にしていれば日常生活を普通に送れるようになっている。

 だからいくら怪我人だからと必要以上にベッドに寝かされるのは、不本意のようだ。

「じゃあこっちに少し毛布、持って来ておきますね」 

 寝室に行こうとしたユラの手首を、シザが掴んだ。

 ユラは振り返る。

 引き寄せられるまま唇が重なった。

「ん……」

 唐突にこの前のような雰囲気に変わった。

 まるで続きのように、ごく自然に舌が絡む。

「……はぁ、」

 長い口づけから解放されると、シザは両手でユラの頬を包み込んで来た。額が触れ合う。

「……シザさん……」

「ごめん……、でも、……ユラが欲しくて堪らないんだ」

 苦しげに吐露したシザの頬に、真似をするように両手をそっと当てる。

「…………ぼくもです」

 アメシストとエメラルドの瞳が見つめ合う。

 シザの頬が紅潮した。

 彼がこんな風に、少年のように感情を顔に出すのは、非常に珍しいことだった。

「ほんとうですか」

「……はい」

「……貴方は昔から、僕の感情に同調する傾向があるから」

「同調しなくても、答えは同じです」

 ユラは、今日は怯えを見せたシザにそっと笑いかける。

 自分たちはもしかしたらそうなのかもしれない。

 お互いの心が迷ってたり怯えたりした時に、兄弟という絆を辿って、お互いがお互いを支えたいと思ったり、自分が強くならなければと思える。

 だから兄弟であることも、本当に二人にとっては大切なことなのだ。


「…………だいすきです、シザさん」


 シザは碧の瞳を一度伏せた。

 ソファの上で身を起こす。

 ユラから手を放した。

「……なら、ここへ来て」

 ユラはゆっくり大きなソファの裏を回って、シザの元に歩いて来る。

 シザが何かを言う前に、ユラはリビングの明かりを消して、自分で服を脱ぎ始めた。

 シザは息を飲む。

 ユラの後ろに【グレーター・アルテミス】首都の、煌びやかな光の影だけが、差し込む。

 全ての衣服を脱ぎ捨てて、そこに立ったユラの裸体は白く、淡い光の中に浮かび上がって見えた。

 ユラはシザの衣服に手を掛けた。

 シャツを脱がせると、当然その腹部にまだ、厚く押し当てられた包帯が眼に入る。

 その時初めてユラはさすがに、たじろいだようだった。

 その動揺を鋭く察したシザがユラの二の腕を掴んで、ソファに引き倒す。

 

 今まで……、運命だと思ってユラは色んな不条理を受け入れて来たけれど。


 シザは紛れもなく、二つの血を同じくした兄だ。

 彼の幼い頃を知っている。

 こんな風に愛してもらう以前に……疎まれ、嫌われていたことも思い出せる。

 それがこうして今、身体を繋ごうとしている相手であるとは。


 どんな運命の力が働いて――こうなっているのだろう?


 それは分からないけど。

 

(分からなくてもいい)


 この人ほど大切な人は、自分の世界には存在しない。

 ユラはそれだけは分かった。






 ――多分待ってくれと言われれば待てたはずだ。


 ユラの心を破壊したり、彼に忌み嫌われることになるかもしれないと、それを強く思えばきっと心は怯えて慎重になり、どれだけでも待てたと思う。

 普通の兄弟の関係のままでいたいと願われれば、きっと出来た。

 それはシザの望みとは勿論違うけれど、一番はユラの願いを叶えたいとシザは強く思っているからだ。

 だからこの夜も、ユラが求めるような気配が無ければ、兄弟のままその日は終わっただろう。

 自分に彼のような感応能力はないけれど、ユラが求めて来てくれたのは伝わって来た。

 シザは感情が溢れ出し、ユラの首筋や輪郭や、肌を、手や唇で夢中で探った。

 ユラはただ優しい呼吸と、時折掠める、優しい指先でシザの愛撫に応えてくれた。


 今まで生きてきた中で、この夜が一番幸せだと、シザは強く思った。



◇   ◇   ◇



「おまえ、馬鹿だろう」


 数日前に見た光景がそこにある。

 しかもその光景が、綺麗にウサギさんの形に剥いてあげた林檎を、少女漫画みたいに「はい、あーん」と言わんばかりにイチャイチャ食べさせてもらっているという図に悪化していたものだから、さすがにアイザックは大人として切れた。


「なんでてめー自宅療養で傷開いてんだよ!」


「なんでって言われましても。開いたもんは開いたもんで仕方ないので」

 平然とベッドに座る怪我人は言った。

「てめぇ……居直りやがって……どーせなんかやらしいことでもして大はしゃぎしたんだろ!」

「まぁそれは否定しませんけど」

 シザは嬉しそうにニコニコしていたが、ユラは素直なもので真っ赤になりつつ、両手で顔を覆っている。

 どうやら林檎の下りもシザは調子に乗っているが、ユラはひたすらお詫びの印にやっていたことらしかった。

「ね、ユラ」

「……えと、……、すみません」

「ユラがこの人に謝ったりしないでいいんだよ。僕の方がいつもアイザックさんに迷惑かけられてるんだから。一回くらい僕が迷惑かけてもいいんです」

「てめーなんだその理論は!」

「わああああっ! ごめんなさいごめんなさい! 僕が悪いんです! ごめんなさい!」

 本当にアイザックがシザに殴りかかろうとしたので、ユラが慌ててシザを庇った。

 シザはユラが抱き付いて来たので、嬉しそうに両腕で抱きしめて柔らかい髪に頬をふわふわさせる。

「ぐぬぬぬ……お前居るとなんかシザ殴りにくいなっ……」

「シザさん、あんまり動いてはだめです」

「はい。ユラがそう言うなら、そうしましょう」

「ったく~~ここぞとばかりに甘えやがって……とにかく、今日は泊まり込みは許さねーからな。今日は俺の家に来いユラ。

 ……ちょっとまて。お前らなんでそんな目で俺を見る。

 ユラはなんつー悲しい顔してんだ

 シザは人でなし見るみたいな顔やめろッ!」


「今日はユラと一緒にいたいんです。愛する二人を引き裂くんですか」


「引き裂いてんの、俺じゃねーからな! 病院のルールが愛する二人を引き裂くことを善しとしてるんだからな。お前特別捜査官なんだから社会のルールに則れよ」

「ユラが貴方の家に泊まったら、あの塩気の強い料理食べさせられそうで可哀想だからイヤだ」

「塩気の強い料理って言うなパエリアだパエリア! お前もう一回脇腹に穴開くか?」

「シザさん、ぼく今日は帰ります。明日一番早く会いに来ますから」

 シザが小さく息をついた。

「ユラがそう言うなら……まぁ、仕方ないですね」

「ホントにお前ユラには弱いんだな。知らなかったわ。ユラ、こいつこうと決めたら普段梃でも動かなくなる奴なんだぞ。俺の言うこと絶対聞かねえし」

「そう……なんですか?」

 ユラが首を傾げている。確かにシザは意志は強い青年だが、何事にも無理強いするということは絶対ないので、言うこと聞かないというイメージはユラにはなかった。

「まあ、ユラの言ったことと貴方が言ったことを同じ次元で語ることがそもそも間違ってますよね」

「素敵な笑顔でどんな毒舌吐いてんだお前は」


「こんにちは~!」


 ルシアとメイがやって来た。

「仕事終わりに見に来ました。お元気そうですね」

「あんたなに傷開かせてんのよ。馬鹿じゃないの?」

「わざわざすみません」

「ユラ。ちゃんと家に帰りなさいよね。あんたが側にいると、コイツ絶対浮かれて休まないんだから」

「そうなんだ。そう思って今日は吾輩がちゃんとこのフワフワ頭を我が家に持ち帰ることにした」

「えっ、ユラ今日アイザックの家泊まるの?」

「まー。こんな時に一人で家に帰すのは可哀想だしな」

「それなら、私とメイも今日一緒に泊まってあげるよ」

「お泊りですか! それはいい考えですね」

「おいまて……ちょっと待て……なんだ『それなら』って」

「だってあんたってガサツだし、ユラ慣れない【グレーター・アルテミス】でおじさんと二人で泊まるのもなんか可哀想だし」

「なに? 時代はもうおじさんと二人で泊まることが可哀想という概念になって来たの?」

「ユラさんピアニストなんですよね。なんか弾いて聞かせて頂きたいです」

「うん! 聞きたい聞きたい!」

「おい、お嬢ちゃん達よう、お言葉だけど俺の家にピアノなんて高尚なもん、ねえからな」

「えっ⁉ なんでピアノないの?」

「逆にあると思うかァ⁉ 俺三十代独身男! その家にピアノがあっておじさんが仕事帰りに一曲弾いてたらなんか悲しいだろ!」

「もーっ! 使えないんだから……仕方ないなあ。メイ、ミルドレッドの持ってるライブハウス、帰りに寄ってよ。電子ピアノ借りて来るし」

「了解しました。何か美味しいお菓子でも買って行きましょうか?」

「いいわね。賑やかに行こうか!」

「ああああ……なんか一気にパーティーピーポーな夜になって来てしまった……こんなはずでは……」

「そうと決まれば、善は急げよ! 行くわよユラ。メイ! アイザック! 私について来なさい!」

「了解!」

「えええええ! なんかもはやお前が今夜のリーダーなの⁉」

 三人が賑やかに出て行った。


「あれなら、今夜は寂しくなさそうですね」

 シザが小さく笑った。正直彼も今はユラを一人にはさせたくなかったから、ルシアの提案はありがたかった。

「明日、何か必要なものありますか……?」

 ユラの手を握り締める。

「ユラが来てくれれば、他には何もいりません」


 病室の方を振り返ったアイザックは、シザがそっとユラの額に慰めるみたいなキスをするのを目撃したので、思わず足を止めた。

 見つめ合うユラが不安げな表情を和らげて、笑ったのが見えた。


 

 それは紛れもなく、恋人同士のやりとりだった。



【終】



 


  



 

 


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