第2話【光の街に降り立てば】




 フラッシュが瞬く。

 

「ハイ! 最後撮ります!」


 ポーズを変えるともう数度フラッシュが光り「お疲れさまです!」という声が掛かった。

 カメラの前から歩き出す。

 数人いたモデルは自分も含め新人なので、マネージャーのような人ですらついていない。

 それでもスタッフがタオルを差し出して来た。

「お疲れさまです」

 タオルを受け取り冷えたペットボトルをもらうと、ディレクターが歩いて来る。

「シザ君、お疲れ様。急な呼び出しで申し訳なかったね」

「いえ。呼んでいただいて、ありがとうございます」

「君はモデル経験ないって言ってたけど、信じられないな。

 自分の見せ方をよく分かってるよ。本当に感心する。

 演技なんかは興味ないのかな?」

「演技は考えたこと無いですね。勉強したことも無いですし……」

「じゃあモデルとしてこれからも考えてるの?」

「そうですね……」

 シザは少し言葉を濁したが、それに何かを察したのはディレクターの方だった。

「ああ、いいんだ別に。君は本当にいい仕事をするなと思って。本格的に仕事を続けるつもりがあるなら、一度そういう話をしてみたいと思ったんだよ。次の仕事は明後日だったね。時間があったら話そう」

「はい」

「今日は本当に助かったよ。お疲れ様」

「お疲れ様でした」

 シザは頭を下げると、着替えるために更衣室に下がった。

 家は今日の撮影スタジオから比較的近かったので、シャワーは家に帰って浴びることにして、手早く着替え更衣室を出た。

 エレベーターへ続く通路を歩き始めると、後ろから声を掛けられた。


「ねえ」


 シザは振り返る。

 そこに見慣れない女がいた。見慣れないだけでなく、今日のスタジオなどにも似つかわしくない服装をしている女だ。要するに撮影作業をしやすい服でもなく、モデルスタジオに出入りするスタッフらしく、そこそこカジュアルを着こなしているわけでもなく、政府の役人のようなスーツ姿である。

 撮影現場でも見なかった。見ていたら、必ず気づいていたはずだ。

「そう。あなた」

「……僕ですか?」

「ええ。貴方がシザ・ファルネジア?」

「……はい。そうですが」

「ちょっと今、時間いい?」

 それには答えず、シザは女に視線を向けた。

 明らかに素性を探る視線に、女は名刺を差し出す。

「突然声掛けて、悪かったわね。私はアリア・グラーツ。

 そこに書いてある通り【アポクリファ・リーグ】の総責任者よ。貴方は事務所所属じゃないし、連絡先も分からなかったから、直接現場に来るしかなくて」

 名刺に視線を走らせると、シザはジャケットのポケットにそれをしまった。


【アポクリファ・リーグ】と言えば、【グレーター・アルテミス】が用いている特別な警察制度だ。簡単に言うと、アポクリファしか居住権を許されないこの地では、当然犯罪者も能力者となるし、警官も能力者になるわけだが、特にその中でも凶悪事件や重要な案件を担当する特別捜査官が存在すると、そういうことを軽くシザも聞いたことがあった。

 

「【アポクリファ・リーグ】の総責任者さんが僕に一体何の用でしょうか?」


 モデルのバイトをしている者が【アポクリファ・リーグ】の総責任者に声を掛けられたら、普通はもっと色めくような顔を見せるものだ。

【アポクリファ・リーグ】はこの街では一大産業なので、広告に起用されればギャラは跳ね上がる。

 しかしシザは名刺を見るとより冷静な顔になった。

 自分には関わりのない人間だ、と判別したような印象にアリアには見えた。

「仕事の話がしたいんだけど、今時間あるかしら?」

「仕事ですか……。どんな話でしょう?」

「あなたモデル志望なの?」

「志望というわけではないですが。お金を溜めたいのでしばらくは今の仕事を続けるつもりです」

「じゃあどこかの事務所と契約も考えてる?」

「そういう話を頂けるなら前向きに考えるつもりです」

 アリアは片眉を上げた。

「……もしかしてあのディレクターからなんかそういう話が出た?」

「いえ。はっきりとは」

 略式には出たということだ。アリアは腕を組む。

「悪いことは言わないわ。シザ。金ならここの会社よりはうちの方が出す。うちの会社っていうのは【アポクリファ・リーグ】を専門に放送している【バビロニアチャンネル】のこと。私はそこのプロデューサーもしてるから。話を聞いて欲しいの」

「何故僕に?」

「先週【エティン】のファッションショーに貴方出てたでしょ? 私も招待されて会場にいたの」

「そうですか」

「最近目ぼしいファッションショーを見て回っていたのも、番組起用出来るタレントを探す為だったのよ。貴方を見た時ピンと来て。すぐに【エティン】の広報に貴方の連絡先を聞こうと思ったんだけど、専属モデルじゃないから話せないって断られて」

「欠員が出たので急遽呼ばれたんです」

「そうだったの。とてもそうは思えなかったわ。貴方には何て言うか……華があるわ。天性のね。そこに立ってるだけでその場の雰囲気を変えるような。

 モデルは確かに、合ってるわよね。

 ただプロデューサー目線で言わせてもらえれば、こういう雑誌や写真撮影より、貴方はこの前みたいな舞台モデルの方がより魅力が引き立つわ。動いていた方が断然いい」

【アポクリファ・リーグ】は警察機構なので一瞬は身構えたのだが、どうやら本当に目の前の女が興味を持っているのはモデルの話だったようなので、シザは微笑んだ。

「ありがとうございます」

「番組に起用したいといっても確かに漠然としてるわよね。

 ねえ、絶対に聞いて損をしたなんて思わせないから三十分だけ私に時間をくれない?

 すぐそこにカフェがあるからそこで座って話せないかしら」

 シザは腕時計を見る。

「そういうことでしたら、構いません。弟に連絡を入れてもいいですか? 先ほど今から帰るとメールを入れてしまったので」

「どうぞ。構わないわ。悪いわね突然で」

「いえ」

 二人は歩き出す。

 シザはすぐメールをして、エレベーターに乗り込んだ。

「弟さんが帰りを待っているの?」

「はい。二人暮らしなので」

 アリアは一階について「どうぞ」と先を譲ったシザを見る。

「ご両親は?」

「いません」

 特に何の複雑な感情も見せない声で、シザはそう答えた。。



◇   ◇   ◇



「あなたの能力ってどんなのかしら?」


 カフェに着いて珈琲を二つ注文し、店員が下がった途端アリアは早速そんな質問をしてきた。確かに【グレーター・アルテミス】にはアポクリファしか居住していない。それでもやはり初対面の人間に能力のことをまず尋ねることはかなり不躾になる。

 能力を持って、普通に暮らせて来た人間の方が珍しいからだ。いくら相手も同じ能力者である可能性が高いといっても、気遣いは必要な話題なのである。

「いきなりですね」

 さすがにシザが目を瞬かせてから笑った。

「ちょっとどうしても必要な質問だからよ。不躾なのは分かってる」

「僕は分類で言うと強化系の光の能力者です」

 言った途端アリアの表情が輝いた。

「光の強化系っていうと、身体能力が跳ね上がるやつよね?」

「ご存じなんですか? かなり珍しい方の能力らしいんですけど。あまり日常で使いどころもないですし」

「日常で使いどころがないねえ……。まあ普通の国ではそうかもしれないわね」

「?」

 珈琲が運ばれてくる。

「貴方ってなんか……例えば護身術みたいなの習ってたりする?」

「護身術? ……いいえ」

 変な質問だと思ったのだろう。

「スポーツとかやってる?」

「スポーツにはあまり興味ないので何も。大学まで勉強ばかりです。……あのこれってなんか意味ある質問なんですか?」

「もちろんよ。無意味な質問なんてしないわ」

「そうですか……」

「貴方の外見や、雰囲気はもう私的にピンと来てるから何の問題もないのよ。だから戦ったり出来るかなあっていうのが気になって」

「戦う?」

 シザは怪訝な表情をした。

「一体僕に何をさせようとしてるんですか」

「いいわ。この際はっきり言う。

 貴方に【アポクリファ・リーグ】に参加してほしいのよ」

「【アポクリファ・リーグ】? 参加って……なんですか? あれは警察機構なんですよね?」

 アリアは片眉を吊り上げた。

「【アポクリファ・リーグ】は勿論見たことあるわよね?」

「いえ一度も。うちテレビもパソコンもないんで……」

「なんで?」

「引っ越して間もなくて。まだ家具が全然揃ってないんです。元々テレビもパソコンもあんまり見ないので、いいかなあと」

 アリアは一瞬【アポクリファ・リーグ】を知らないと言った途端、怖い気配を見せたが、説明を受けると渋々、理解したらしい。

「引っ越して間もないの?」

「はい。【グレーター・アルテミス】に来てようやく三カ月です」

「そうか……まあ……それなら仕方ないわね。前は国外にいたわけね?」

「はい。ノグラント連邦共和国の方に」

「まあそれなら許すわ。【アポクリファ・リーグ】はアポクリファ特別措置法の幾つかに抵触するから海外発信が出来ないのよ。だから国外にいたなら……まあ、知らなくても仕方ないわね。ただしこれからは【グレーター・アルテミス】で暮らしているのに【アポクリファ・リーグ】を知らないなんて言ったら怒るわよ」

 シザは笑った。

【アポクリファ・リーグ】と【バビロニアチャンネル】の両方に関わるアリアの怒りはかなり真剣だったのだが、彼女はシザのその笑い方に目を留めた。

 大抵の人間はアリアが眉を吊り上げると怯えたり身構えたりするのに、シザは笑った。

 それはアリアの怒りを気にも留めてない落ち着いた笑い方で、泰然としており、随分と大物感を感じさせる青年だった。

 ファッションショーで見せた雰囲気も非常に気に入ったのだが、こうやって実際に話すと幼く見えたり、イメージと違うようなタレントやモデルはたくさんいる。

 シザはイメージが会って話しても全くブレなかった。

 この落ち着きをアリアは非常に気に入った。

「【アポクリファ・リーグ】は【グレーター・アルテミス】において起こる凶悪事件を特別捜査官と呼ばれる能力者の選抜エリートが捜査したり逮捕したりするのを放送する番組ね。キメラ種討伐なんかも含まれる」

「キメラ種って……あの突然変異生物のことですか?」

 シザは本当に知らなかったようで、へえ、という顔をした。


「そうよ。大概他の国ではそこまで巨大化したキメラ種って出ないんだけど、【グレーター・アルテミス】に出るものは特に巨大化してる。これはこの土地の持つ独特な波動が関わってるとも言われているし、私たちの能力者の中に、キメラ種を巨大化させる能力者がいて、巨大キメラ種の出現には犯罪組織が関与してるとも言われてる。十メートルや、二十メートル級のものも頻繁に現れるので、特別捜査官がこれに対処するの」


「それを番組で放送してるんですか?」

「そういうこと」

「すごいことしますね」

 自分の番組が海外でも話題になっている自覚のあるアリアは少なくとも【グレーター・アルテミス】に住んでいて知らない人間がいるなんて! と矜持が傷ついていたのだが、シザの様子では見たことが無いというのは嘘ではなさそうなので諦めた。

 まあこのご時世、多種多様な家庭で育つ人間はいるだろう。

「凶悪事件の犯罪者も能力で逮捕するんですか?」

「ええ。戦ってね」

「どんな能力者がいるんですか?」

「発火能力者や、氷の能力者や、飛行能力者、雷を操ったりもいるわね」

「なるほど……【グレーター・アルテミス】ならではですね。でも僕は……さっきも言いましたが戦ったり出来ませんが……」

「プロテクターっていう特殊な装備を身に纏って戦うの。耐熱スーツや、ある程度能力に耐えられるような装備よ。生身じゃないからダメージはかなり遮断できるわ」

「ああ、なんだこのままじゃないんですね」

 本当に知らないんだなとアリアは諦めて、ノートパソコンを取り出した。

「見て。こういう感じよ」

 すぐに番組のプロモーションビデオが流れる。

 初めて見るシザは目を瞬かせていた。

「なるほど……。逮捕できるんですか?」

「司法局の正式な認可を得て、特別捜査官になるから、逮捕の権限は与えられてるわ。

 それに特別捜査官は訴えられないという特権があるの」

「訴えられない?」

「ええ。勿論各々の正義感や良識には求めていくわよ? でもこの特権がないと、さすがに発火能力者やら氷能力やらを街中で使えなくなるのよね。

 この許可をもらうために、番組が認可される時死ぬほど苦労したわ。

 でも最終的に認可は下りた。それくらい、昨今の【グレーター・アルテミス】では能力者の犯罪が増えてるの。まあこの街はアポクリファ以外住んでないから犯罪者も自然と能力者になるのは必然なんだけど。

 それでも【アポクリファ・リーグ】が始まるまでは、普通の警察が彼らを相手にして、多くの未解決事件や被害を拡大させた。

 司法局は最初国際連盟寄りの考えを持っていたから、能力者が能力で治安に関わることを禁じていたのよ。それで、時代遅れの司法をこの街に持ち込んだ、負い目があるのよね」


「……皆さん元々警官なんですか?」


「基本的にはね。ただ、最近は能力次第では元々一般人だったりアスリートだったり、大学生だった者とかもいるわ。中には特別捜査官になってから護身術とか戦闘に使えるような体術を習って参戦する者もいるわよ。

 アルテミス生命科学研究所が作るプロテクターの耐久性と、運動性のフォローアップは信頼してもらっていいわ」

 元々月の研究所から地上に派遣された研究者たちが作り上げた、地上における研究施設が【グレーター・アルテミス】の始まりだ。今でもアルテミス生命科学研究所の名声は世にも名高い。

 シザの両親も、実はアルテミス生命科学研究所の研究者だった。

 しかし【グレーター・アルテミス】ではなく、ノグラント連邦共和国の研究施設にいたので、この地を訪れたことはない。


「……何故僕に声を掛けたんですか?」


「見てくれる?」

 アリアは新しい画像をアップした。

「犯人逮捕や現場先着、他にも色々な項目でポイントを獲得し、年間ポイントを競うんだけど。年間トップになった特別捜査官はシーズンMVPの名誉が与えられるけど……彼がアレクシス・サルナート。【白羊宮アリエス】所属の特別捜査官で、二年前にデビューしてからデビュー年にシーズンMVPを取り、連覇している。今季ももう決定だから三連覇ね。ちなみに四連覇になると番組始まっての快挙になるわ。

 彼はまだ若いし、この通り戦闘力も抜群。人気実力共に揺るぎないわけ。

 このままじゃあと三年、五年と彼の時代が続いて行くこと間違いないのよね。

勿論【グレーター・アルテミス】の治安を預かる身としてはこういう強い能力者が【アポクリファ・リーグ】にいてくれるのは嬉しいんだけど【バビロニアチャンネル】としては、それじゃ困るのよ。変わり映えしないんだもの」

「つまり、彼に対しての対抗馬を探しているんですね」

「そうなのよ。貴方、話が早いわね」


 シザは画面の中で、キメラ種と戦う一人の青年の画像を見ていた。

 二十メートルほどある異形のキメラ種と、海上で戦っている映像だ。飛行能力があるらしく、風を操って敵の腕や翼を切断するような技を放っている。映像としてはかなり残酷な分類になるだろうが、これが普通に中継されているとは、さすがにシザも驚いた。

 あまり詳しくないシザが見ても、このアレクシス・サルナートという青年が卓越した戦闘能力を持つアポクリファであることが分かった。

 顔を見ると若く見える。自分とさほど変わらないようにも思えた。

 幾つなのだろう?

「彼は飛行能力を持っているようですが……風の能力者ですか?」

「ええ。風を操って自分を浮かせたり、攻撃したり防御したりも出来る万能型の能力者よ。

 ちなみにアレクシスも元々は一般人。街中でキメラ種が出現した時に居合わせて、人を助けたことがあるの。それでスカウトされてそのまま特別捜査官になった」

「そうなんですか。ちょっとそういう風には見えませんね。戦い慣れしているように見えます」

「非凡なのよ。それにこの通り見目もいいし若いから人気も絶大で。

 アレクシスの対抗馬にするなら、そのあたりも凡庸じゃ駄目だから、だからこの半年普段興味もないファッションショーにお呼ばれして色々モデルを吟味してたのよ。

 まあ見目いいくらいならさすがにモデル業界だからゴロゴロしてんだけど……なんか違うのよねえ。確かに顔がいいのは求めてるけど、それだけじゃ困るのよ。

 人を惹き付ける容姿をしてないと。

 いいだけじゃすぐ飽きられるでしょ? 

 貴方を見た時、なんていうか【アポクリファ・リーグ】にエントリーさせたら人気出る感じがしたのよね。覇気があるっていうか……睨みつけるみたいな表情した時に貴方すごくいいわ」

「人を睨む顔を誉められたのは初めてですね」

 シザは笑ってしまった。

「笑顔もいいわよ。怒りの表情ありきだけど。でもあなたモデル歴が長いわけじゃないのね。現場で聞いたけど、ただの大学生だったんだって?」

「ええ」

「何でかしら。そうは見えなかったんだけど。随分カメラ慣れしてる感じもするし。モデル経験も長いのかと思ったわ」

「勉強しかして来ませんでしたよ」

「そう。――でもいいわ! うちは戦術面のインストラクターも、貴方の為に用意する。

光の能力者は統計でも少ない方だし、戦い次第では見せ場が作れる能力だから大歓迎。

 ギャラもモデルバイトなんかより比べ物にならないほど出すわ!

 貴方を使ってみたいのよ。どう?」


「……。僕なんかに声を掛けていただいてありがたいんですが」


 断わる雰囲気を覗かせた言葉に、アリアが眉を吊り上げた。

 しかし、次の言葉は彼女の苛立ちを霧散させた。



「司法局が関わるとなると、

 多分僕では特別捜査官になるための認可が下りないと思いますよ」



 静かにシザは微笑んだ。

 アリアはその笑顔を見た時、背筋が何故かひやりとした。

 美形の綺麗な微笑みだが、何か壮絶なものに見えたのだ。

 背筋が震えたその時である。

 事情も聞かずアリア・グラーツはこの青年を絶対に説得し【アポクリファ・リーグ】に参戦させよう! と心に決めたのだった。



◇   ◇   ◇



 市街を走るバスに揺られ、夕暮れ時、帰宅する人々でバスの座席は埋まっていた。

 だが【グレーター・アルテミス】のバスは本数が多いので、立ってる人はちらほらという感じだ。

 長身で端正な顔立ちをしているシザは立っていると、とにかく人の視線を集める。

 彼は本来、他人にじろじろと見られるのは嫌いだ。

 それでもどれだけ大人しくしてても見られるので【グレーター・アルテミス】に移住した時に、もう開き直ったのである。

 どうせなら見られることを仕事にしてしまえと思ってモデルの仕事に就いた。

 おかげで日常見られることにも随分慣れた。注がれる視線は仕事の時に見る観客だ、とでも思えば、気にならなくなった。

 暮れて行く街並み。

 眠らない街と呼ばれる首都ギルガメシュは夜景の美しさで知られているという。

 降りる駅が来て、シザはバスを降りた。


 総合公園の側。


 賑やかな市街の中でも、少しでも緑があり、静かな生活が出来るようにと大きな総合公園を囲んで、マンションが立ち並ぶ。

 綺麗に花が植えられた歩道を歩きながら、目指す自分の家があるマンションが見えてきた。

 なんとなくシザはいつもここから自分の家を探してしまう。

 高層マンションも多いが、シザのマンションはゆったりとした作りの八階建てである。

 こちらに家が面しているので、六階……。上から一つ、二つ、と目で追い、

 明かりがついてるのが分かると、移動の間終始平然とした顔をしていたシザが、初めて表情を優しく緩めた。


 シザは昔から、「家」というものが嫌いだった。


 そこにいる家族、閉鎖的な空間。

 大学生になって寮生活を始めたが、狭い寮生活でも「家」よりそこは遥かに自由で、安堵できる自分だけの空間だと思えた。

 同級生がよく休みのたびに家に戻っていた。

 家に帰ると安心すると彼は言っていたが、シザは家で安心したことなど一度もない。

 でも、ここに引っ越して三カ月。

 ようやく日常を感じ始める中で、この公園の歩道を夕暮れ時歩きながら帰り、見えてきたマンションを見上げると、自分の家に明かりがついているのを見た時、嬉しくなるようになった。

 何故嬉しいのかなと考えてみたのだが、それが要するにかつて同級生が言っていた「安心する」という気持ちなのだとある時気づいた。


【グレーター・アルテミス】に来て、自由になった。


 自由というのは聞こえはいいが、

 ある意味で孤独だ。自分で全てをなんとかしなければならない。

 精神的に自由になったという安堵感とは逆に現実は、食いつないで行かなければならないし、仕事では失敗は出来ないから常に緊張もしてる。

 前は家の中に全ての緊張があったから、外の世界など大した意味も無かった。

 今は外の世界の方が緊張を強いられる。

 そのかわり、帰宅すると心底安心した。



◇   ◇   ◇



 このマンションはシザが探して見つけたが、決め手は休日などは様々な人が集まりのんびり過ごすような総合公園が側にあることと、マンション内の雰囲気だった。

 広く明るく、安心出来るような雰囲気を求めていたので、このマンションの明るくゆったりした作りと、品のいい内装が気に入ってここに決めた。


 立地がいいので、正直元々単なる大学生だったシザが楽に住めるところではなかったのだが【グレーター・アルテミス】の賃貸契約形態が他の国に比べて、三カ月の収入の見積もりが家賃を三十パーセント越えていれば、簡単に契約できるものであったのは幸運だった。

 ここは基本的にアポクリファしか居住権を許されない国なので、普通の国とは様々なことが違う。訪れる非アポクリファは皆短期滞在で、ホテル暮らししか出来ず、居住権は許可されない。

 また国際連盟加盟国の中で唯一、完全なる治外法権を持ち【グレーター・アルテミス】の法で犯罪を裁くことを許可されていた。

 ただし【グレーター・アルテミス】においてアポクリファ達は様々な優遇を受けるが、一歩海外に出るためにはGPS付きのピアスを身に着けることを義務付けられ、違反した際にはかなり厳しい罰則を受けることになっているのだ。

 しかし他の国より易しい規定により、一定期間の収入の記録を提示すれば、こんなマンションであっても、シザのように若くて保証人を持たない青年でも契約は出来る。


 六階にエレベーターが到着し、水槽の置かれたラウンジを通り、各階にも設置されたセキュリティ用のゲートを解錠し、廊下を通り過ぎて自分の家の前まで来ると、鍵を開けて入った。



 ――すぐに奥から聴こえて来る、旋律。


 シザがこのマンションを選んだ最後の理由。

 全部屋防音設備が完備してあることである。

 立地も良くマンション自体も新築でありながら、ここに空きがあったのは理由があった。

 このマンションを持つ個人オーナーが、優先的に居住を許す条件があったのだ。


 音楽家であること。


 音楽をこよなく愛するオーナーが、都会でも音楽家が自由に音楽を楽しめるようにと願い、契約時に好きな自由な楽器で奏でて、オーナーが許可をすれば優先的に入れるのだ。

 シザはこの条件をクリアして、契約が出来た。

 彼が音楽をするのではない。

 彼の弟が、音楽家だった。

 何一つ持たず【グレーター・アルテミス】に来た。

 契約の時、提出したのは音声動画だったのだが、演奏を気に入ったオーナーがぜひ会いたいと言っていると仲介業社のスタッフに言われて、シザは会った。

 僕ではなく弟の演奏ですと説明し、弟の年齢を聞いたオーナーが顔色を変えた。


 九歳。


 しかし兄弟でこのマンションを借りるということで、ある程度のことは察したようだった。

 事情を抱えていることを。

 だが【グレーター・アルテミス】はアポクリファだけが住む街である。

 昨今増加傾向にある、アポクリファの子供が親に捨てられたり虐待されて一緒に暮らせなくなることは世界的にも社会問題になっており、尚更この街はそういう事情に寛容だった。


「私の孫もアポクリファなんだよ」とオーナーは少しだけ優しい声で言った。


 その場には、シザは弟を連れて来れなかった。

 非常に人見知りをするのでと謝れば、気にしないでいいのだと音楽家を理解する彼はそう言った。

 それから少しだけこれからどうするのかという話をした。

 シザは【グレーター・アルテミス】で仕事を見つけて、弟を音楽学校に通わせたいと考えていることを話した。

 オーナーは自分のマンションに住む住人以上に気を掛けてくれたが、将来のことは弟と話して決めたいと、あまりに他人の温情に頼るような申し出は、感謝しながらも断わった。

 彼はその応対に「非常に君はしっかりしたお兄さんだね」と好感を持ち、断わったことも悪く思わないでいてくれたようだった。

 そのかわりシザは、音楽学校に入る前にもピアノはずっと弾いておかなければならないから、とピアノを買いたいと思っていることを相談した。

 するとオーナーは明るい顔をして、「それなら私の持っている楽器店から、安く貸してあげよう。中古だがきちんと管理されて調律もしてきたし、グランドピアノだよ」と話してくれたのである。

 シザはこれは感謝して、申し出を受けた。

 ピアノの相場などは分からなかったが高いことは知っていたし、出来る限りはいい楽器を弟に弾かせてやりたいと思って色々悩んでいたからである。

 グランドピアノなど、今のシザには買うことなど到底出来ない代物だ。

 提示された月ごとのレンタル料は、音楽のことはあまり分からないシザから見ても、格安だということが分かるくらいだった。

 数日後にオーナーの厚意で搬入された、まるで新品のようなグランドピアノを目を輝かせて見ていた弟の顔が、シザは忘れられない。

 その日は嬉しそうに弾き続けて、彼は気づくとグランドピアノを抱きしめるようにして眠っていた。

 搬入時に渡されたカードにレンタル料の振込用紙があったが、そこに直筆で別のカードが添えられていた。


『もしくは、私がリクエストした曲をまた音声動画で送ってくれたら、レンタル料の代わりとするよ』


 新しい街で初めて受けた、親切だった。

 もしかしたら、人生で初めて受けた他人からの親切だったのかもしれないとすら思う。

 弟は極度の引っ込み思案で他人と話せない子供だったが、この話をすると曲を録って送りたいと言ったので、オーナーの厚意に感謝し受けることにした。

 だからこの美しい音色を出すグランドピアノも、お金を出さず借りることが出来ている。

 グランドピアノはリビングの中央に置いた。

 普通は他の部屋に置くらしいが、一番広い部屋に置きたかったのだ。

 食卓が別の部屋だ。

 余計な家具は一つも無い。

 楽譜を入れる本棚だけ置いた。

 対面キッチンがあるが湿気や熱気はピアノに悪いので、このキッチンは一切使わないようにしている。

 簡易コンロを別の部屋において、調理はそこでする。

 対面キッチンの備えつけの食器棚には、シザが読む雑誌や本や、仕事関係の書類が綺麗に本棚のように入っている。

 家にいる時は、シザはそこを執務机のようにして過ごす。

 洗い場は板を置いて塞いでしまった。

 広い机のようにキッチンの洗い場を使っている。

水もガスも使わない。

 一日中ピアノを弾いている弟の側で、彼の曲を聞きながら、時々姿を眺めながら過ごす。

 今は側にいることが何より大事だと思うからだ。


 シザは幸せだった。


 旋律が途切れたのを確認して、廊下の壁に凭れかかって聞いていたシザはリビングへの扉を開いた。


「兄さん」


 楽譜をめくっていた弟が気付いて、振り返って微笑ってくれた。


「おかえりなさい」


 シザは弟のその言葉を嬉しく思いながら近づいて行って、両腕で弟の身体を抱きしめた。


 持ってないものは、多分たくさんある。



(でも僕は今、すごく幸せだ)



◇   ◇   ◇



 街のことを話したり。

 モデルの仕事のことを話したり。

 それから音楽関係のCDや、有名作曲家の伝記の本などをシザは【グレーター・アルテミス】に来てからこつこつと集め始めたので、それを聞きながら音楽のことを話す。

 元々いた家には、趣味で揃えられたクラシックのCDやDVDが書斎の本棚に山ほどあった。  

 一つも持ち出すことが出来なかったが、弟は楽譜も無くそこにあった曲を覚えていて、弾くことが出来た。そういう才が彼にはあるのだ。

 ひたすら弾くことに情熱を傾けて来たので、実はこの曲を誰が作ったという知識の方がかなり抜け落ちている。

 音楽学校に通うのにそれはあまりよくないだろうと思って、シザは実技は教えられないけれど音楽知識なら勉強の手助けは出来る、とそういったものを集めているのだ。

 二人で読み込みながら、色々話す。

 そうしていると時間なんか瞬く間に過ぎていく。

 その日もオペラの曲を聞いているうちに弟がうつら……とし始めたので、今日はこの辺りにして寝よう、と声を掛けた。


 一つの大きなベッドに一緒に寝そべってシザは弟を片手で抱くようにして、部屋の電気を消し、サイドテーブルに置かれた小さなライトの明るさを適度な所まで落とした。

 腕の中で安心したように眠る弟は、真っ暗の中で眠ることが出来ない。

 シザは撮影が夜中まで続くこともあり、帰りが遅いことも多い。

 だが家にはいつも明かりがついていた。

 弟が起きて帰りを待っているのではなく、眠っているのだが一人では電気を消せないのだ。

 僕が帰ったら消してあげるから、つけっぱなしでいいと弟には言い聞かせている。


 シザは大学の寮生活時代、逆に真っ暗じゃないと眠れなかった。

 でもこの生活が始まるとそんなことはどうでも良くなった。

 少しのライトをつけたまま、弟の華奢な身体を抱きしめて目を閉じると、安心して眠れるようになったのだ。


 その日の深夜シザは弟を起こさないように注意しながら、ベッドを出た。


 眠る時は必ず一緒に一度寝に入る。

 だが、仕事のことでシザがそのあと、数時間リビングの方で書類を見たり次の仕事の確認やスケジュールを組んだり、そういう作業をすることはあった。

 弟は理解してくれているので、何をしているんだろうなどと起きて来るということはない。

 シザはいつものそういうつもりのように、リビングの方に行くと物音を立てないように家を出た。

 マンションを出るとさすがに住宅街の通りは人気が無いが、足早に総合公園を横切って、大通りの方へ出た。

 並木を通り過ぎれば、市街である。

【グレーター・アルテミス】の市街はこの深夜にも賑やかしい。

 タクシーはこんな時間でも走っていた。

 停めて乗り込む。


「【バビロニアチャンネル】本社へお願いします」


 走り出したタクシーの中、窓に寄り掛かってシザは煌びやかな夜景をぼんやりと見つめていた。



◇   ◇   ◇



『司法局の認可が下りない?』



 アリアは意外そうな顔を見せた。


「それって……、……どういうこと?」

「言った通りの意味ですよ」

 シザは微笑んだままだ。

 アリアは怪訝な顔をしてから、額を指先で押さえる。

「ちょっと待ってよ? ……なんか……、犯罪を犯したことがあるとかじゃないわよね?」

 少し笑いながらアリアは言ったが、シザの表情が笑んだまま動かなかったので、数秒後、表情に衝撃が走った。

 それで話し合いは終わったとシザは見たようだ。

「アリアさん。貴方はそんな愚かじゃないだろうし、酷い人だとも思いませんけど。

 僕の……僕たちの事情をこれ以上探ったり漁ったりするようなことがあればそれこそ、僕の持つ光の強化系能力がどんな能力か、貴方自身の目で確かめることになりますよ。

 僕には弟の人生を守る義務がある。正しい方へ導かなければいけない。それを邪魔して、僕たちを暗がりの人生に引きずり込もうとする人間がもしいるなら……」


 立ち上がり、微笑んでいたシザの表情が一変する。


 強く、アリアを両目で見据えて来た。

 激怒する、一歩手前のような空気があった。



「――僕はどんな相手にも絶対容赦しません。」



 大学生とは到底思えない空気で言い放つと、シザは歩き出した。

 ハッ、とアリアが遅れて立ち上がる。

「待って!」

 あまりに大きな声で、カフェの人間達がなんだなんだと驚いたようにアリアの方を見ている。

 彼女は顔を顰めると、頼んだ以上の金をテーブルに置いて「ちょっと来て!」とシザの腕を掴み店の外へ出た。

 辺りを見回し、駐車場の方は人気がないと見て、アリアはシザを引っ張って行った。

「まだ何か?」

「シザ」

 アリアは振り返る。

「事情を話してくれない? 貴方たちの……。

 私はこの業界長いのよ。才能あるタレントを見る目も、それなりにあるつもり。

 貴方をどうしても起用したいのよ。

 事情が分かれば、何かの対処も出来るかもしれない。そうすれば認可は取り付けるかもしれないわ。

 私は司法局にも話が出来る相手がいるし。……悪いようにはしないわ」

「貴方をそこまで信用する理由がありません」

 アリアは腕を組む。

「それは分かってるけど……どうすればいい? 信用して話してくれとしか言えない」

 シザは少し考え込んだようだ。

 アリアが普段相手にする同僚ですら、こんな状況になったらもっと慌てふためくはずだ。

 彼女もまだ混乱の中にはあったのだが、そんな状況でも冷静さを見せるシザが一体何を要求して来るのか、若干楽しみに思ってしまった。

 やがて。


「では特別捜査官の個人情報を僕に今教えてください」


 アリアは目を見開いた。

「一応司法局管轄の機密よ」

「じゃあ僕が他所で触れれば貴方は法律違反になるわけだ。

 司法局管轄の情報漏洩は確か最大で三十年刑でしたね」

「……貴方もしかして法学部?」

「ええ」

 シザは微笑んだ。

「なるほどね……」

 手強いはずだわ……アリアは考え込む。

「私の人生が掛かってるのよ。

 貴方の人生もつまり、掛かっているのね?」

「いいえ。僕の人生と弟の人生が。貴方は一人。こっちは二人。

 リスクはこれでも、僕の方がずっと高い」

 険しい顔をしていたアリアだが、シザがそう言った途端とうとう笑ってしまった。

「あなた、本当に頭いいわね。何て言うか、頭の回転が速いわ。

 いいわよ分かった。そういう人間は敢えてリスクを背負って暴露しようなんて考えないと思うわ。貴方を信じる」

 アリアはそう言って、自分の腕にあったPDAを起動させた。

「このファイルに全特別捜査官のプロフィールが入ってるわ」

「見せてください」

 本当に賢い青年だ。バカなら、携帯で撮らせて下さいなどと言うはずである。

 この情報がどんなものか、物的に所有していると自分の足枷にもなることをよく理解している。

 アレクシス・サルナートは実力だけではなく、人柄も特別捜査官として申し分がない。

 優し気な言動がお茶の間に大人気だが、あれでいて、戦闘時は冷静で非常に知的な戦術家だ。

 アリアが自分の出身州であるため、子供の頃から贔屓をしている【獅子宮警察レオ】所属の特別捜査官は、今はうだつが上がらない状況だ。到底彼らではアレクシス・サルナートを出し抜くことは出来ないが、シザのこの怜悧さなら勝負が出来るかもしれないと、期待はどんどん膨らんでいく。

 じっと集中した様子で、個人データを頭に叩き込んでいるらしいシザの様子を、アリアはカメラに映したかった。この様子を撮っていれば、きっとこの人材を起用したいとCEOに持ち掛ける時の判断材料になったのに。

 十分ほど見続けて、シザは頷いた。


「ありがとうございます」


「もういいの?」

「現ランキングが書いてありましたから。トップ5の五人の情報はほぼ頭に叩き込みました。パーソナルな部分も入ってますからアリアさん。本当に僕の情報を悪用しようとする時は覚悟してくださいね。貴方が僕を裏切れば、容赦なく僕もこの情報を暴露します」

「いいわ。覚悟してる」

 シザは頷いた。それから。

「申し訳ありませんが、貴方のパソコンを貸していただけますか? ニュースが見たいんですが」

「ニュース? いいけど……」

 シザはパソコンを受け取ると、壁と膝を使いパソコンで検索を掛けている。

 パソコンを持っていないと言っていたが、随分手慣れていた。

 数十秒後、すぐに「どうぞ」とアリアに見せる。

 彼女は見て、息を飲んだ。

「この事件……、知ってるわ。最近のよね? ノグラント連邦共和国の資産家殺害事件。まだ犯人捕まってないし、この家の二人の子供も行方不明になってるっていう……」


「三カ月前の事件です。

 殺された資産家はダリオ・ゴールド。僕の養父です」


 アリアがシザを思わず見遣る。

 シザの方は彼女を見なかった。

 別の方を見ている。

「彼は僕の父の古い友人で、僕の両親が事故死した後に僕を引き取って養父になりました。

 僕が四歳の時です。

 僕と弟は七つ違い。でも僕の父と母は研究者だったので、凍結保存された精子と卵子を体外受精させたので、完全に血は繋がってます。

 ダリオ・ゴールドは引き取った僕たち兄弟を虐待していた。

 僕は幼い頃から殴られて育ってきましたが、あいつは長い間弟には手を上げなかった。

 僕があいつを許容していたのは、その一線を越えていなかったからです。

 僕は大学では寮生活に入り、あいつの暴力からは解放され始めていましたが、家にあいつと残った弟が今度は暴力を受けるようになった。

 ――だから僕が殺しました。

 能力を使っての撲殺です。

【グレーター・アルテミス】はノグラント連邦共和国に対して治外法権が発動しますね?

 ですからいずれ捜査は僕たちに及ぶでしょうが、僕がこの街にいる限り彼らは僕を殺人罪で逮捕は出来ません」

「ちょ、ちょっと待って……貴方が殺した?」

「ええ」

「この行方不明の二人の子供って」


「僕たち兄弟のことです。僕と弟のユラ・エンデ。

 ただし、これは知っておいてくださいアリアさん。

 ダリオ・ゴールドは僕が殺しました。

 でもその殺害時刻、ユラはすでに【グレーター・アルテミス】に到着していて、それは搭乗記録を遡れば絶対に証明できます。

 僕は殺人者ですが、弟は違う。それは忘れないでください」


 あまりのことに、さすがのアリアも声が出なかった。

 彼女は司法局にも関わっているし、様々な事件も見て来た。

 それに【バビロニアチャンネル】では番組プロデューサーとして奇抜な設定の番組もドラマも撮って来たはずだが、現実にまさか自分の前に殺人を行った人物が立っているなどと、考えもしないから仕方ないのだが。


「……ちょっと二、三聞いてもいいかしら」


「どうぞ。僕がここまで事情を話したのは貴方が初めてですし」

「貴方のその……犯行……だけど。……貴方法学部の人間よね? 客観的に見て、裁判になったら陪審員はどっちに肩入れすると思う?」

「十中八九、僕の正当防衛が認められると思います」

 意外なほど、しっかりと自信を持ってシザは言った。

「じゃあなんで逃げたり……貴方が被害者なら逃げずに警察に話して、正当防衛を訴えたら?」

「そう出来ない、したくない理由は幾つかあります。

 それはさすがに今ここで貴方に話すことではないから言いません。

 ただ僕の養父は資産家で、僕の父は有名な科学者で幾つもの研究所と財団を所有していました。父の亡き後それは全て友人であったダリオ・ゴールドの管理下に入りました。

 僕の家は、元々普通の家とは少し違います。

 家にも家族以外の人が出入りしていてその人たちから虐待の証拠や、証言が手に入れることが出来る。

 裁判ではこれが、僕たちの無罪に大きく効力を発揮すると思います」

「……。そう。そういうものはあるのね?」

「ええ」

「弟は犯行時刻に【グレーター・アルテミス】にいたと言っていたわね。貴方がそうさせたの?」

「そうです。弟は一切事件に関わらせたくなかったから、そうしました」

 アリアは息を飲む。

 まるでドラマのようだ。

「そして、養父を殺して……」

「すぐに僕も【グレーター・アルテミス】に来ました。事件を起こしてすぐに発ったので、捜査も及ばなかった」

「そうか、この事件全く動きがないと思ったら」

「ノグラントの連邦捜査局あたりは、すでに僕たちが【グレーター・アルテミス】にいることを把握してるはずです。でも治外法権があるから、捜査が進んでいない。

 しかし水面下では【グレーター・アルテミス】の司法局に、捜査局から僕を捜査させてほしいと連絡が来ているのではないかと思います」

「でもそれは叶わないわね」

「ええ。【グレーター・アルテミス】の国際的治外法権は国の存続に関わる。この国はアポクリファの国です。様々な事情を抱えたアポクリファが集っている。悪しき前例を作るわけにはいかないでしょうから」

「つまり【グレーター・アルテミス】にいる限りは、貴方はその罪では逮捕されることはないのよね」

「治外法権が絶対的である限りはまずないでしょう。

 捜査が進まない理由はもう一つあります。関係者が養父、僕、弟だけだからです。

 養父の離婚した妻はもう他人ですし、養父は死んでる。

 養父は僕たち兄弟への虐待を隠すために、周囲の人を暮らしから遠ざけていました。

 だからこういう時にも聞き込みできる相手がいない。

 家に出入りしていた人たち以外、誰も僕たちのことを、知らないと思いますよ。

 あいつは自分の悪事を隠すために、僕たち兄弟をあまり外には出さなかったですから」


「なるほど。よく分かったわ。シザ。

 ……正直に話してくれてありがとう。私は、貴方が言ってることを信じるわ」


 シザは視線を落した。

「……ありがとうございます」


「改めてお願いするわ。貴方を起用させてほしい」


 さすがにシザも、少し驚いた顔をした。

「いいじゃない! だって相手が悪人なんでしょう? 貴方は自分と弟の命を守ろうとした。何も悪くないならなんで私が今、貴方との契約はやっぱ諦めるなんて言わなきゃなんないのよ」

「本気ですか?」

 重い事情過ぎて相手は引くと思っていたのに、アリア・グラーツが身を乗り出してきたので驚いた。シザは自分たちの正当防衛を固く信じているが、それでも倫理観を無視しているわけではなかったから。

「もちろん本気よ!」

「……僕も弟も、何一つ確かに自分たちは悪くないと思っていますが……、殺人を犯したことは確かですよ。そういう人間をテレビが起用したがるっていうのは非常に珍しいと思いますが……」


「何を言ってるの。こういう時こそテレビマンの腕の見せ所なのよ!

 シザ。いずれは自分たちの行方は知れるって言ったわよね。なら、この事情を私の上司である【バビロニアチャンネル】のCEOに話しても構わない?

 彼は【グレーター・アルテミス】でも屈指の大富豪、ラヴァトン財団の当主だけど、今の話を聞けば絶対に貴方に悪いようにはしないわ。

 彼を説得出来れば、貴方を起用することは可能よ。

 だってうちの番組なんだもの!

 貴方はどうなの。【アポクリファ・リーグ】に参戦する気持ちはある?

 プロテクターや戦闘服の耐久性は非常に優れているけど、危険は伴うわよ。

 突発的な事件に駆り出されることもあるし。特別捜査官は激務と言っていい。

 街の平和を守るために戦う。

 装備は万全でも、危険はあるし、凶悪事件担当だから怪我や、死の可能性だってゼロじゃない。実際放送されている映像の中でキメラ種や事件に巻き込まれて亡くなった者もいる。番組でも、そこのところは真剣なのよ」


 殉職者や死者が出るような事件も放送していることは、シザは知らなかった。

【アポクリファ・リーグ】はそこまで司法局の許可を取り付けているのだ。

 アポクリファ特別措置法に幾つか抵触する内容だから、他国には流せないが、この国では人々にそこまで許容されている。

 命のやりとりさえ。


 シザはアリアの直視を受けて、視線を落した。


「僕は……」


 アリアは期待する。

 必ず彼なら顔を上げて頷くはずだと願った。

 数秒後予想した通りシザは顔を上げ、正面からアリアを見て来た。



「僕の願いはこの街で金を稼いで、弟を音楽院に通わせること。

 僕は大学まで行って、自分の勉強はやりたいだけやりました。

 でも弟の人生はこれからなんです。

 何があっても弟には普通に笑って夢を叶えられる、そういう人生にこれからはしてやりたい。

 そう出来るなら――どんなことだって僕はやる」



 アリア・グラーツの瞳が輝いた。

「シザ。今夜【バビロニアチャンネル】本社に来てくれる?

 悪いけどこのあと仕事があって……それからCEOに話をして、何としてでも貴方の起用を許可してもらう。相当遅くなるわよ。深夜二時に来れる? 守衛には私が話しておく。

 貴方は賢いから、冷静にさせればどんどんいい案が出て来るでしょう?

 一気に契約を決めないと、どこに行くか分からないわ。

 私は、契約の話を決めるつもりで書類を用意しておく。

 貴方もそのつもりで来て」


「……分かりました」



◇   ◇   ◇



「着きました」


 ハッとした。

 礼を言って代金を払い、タクシーから降りる。

 深夜二時。

【バビロニアチャンネル】のタワービルはさすがに全体的には明かりは落ちていたが、それでも人がいる気配はして、使われてる部屋には明かりが見えた。

 まだ半信半疑な感じだ。

 シザは【グレーター・アルテミス】に来た時、これからは誰も自分たちを助けてはくれない。

 兄弟二人だけで生きていくしかないんだと思って、生きる覚悟を決めた。

 生きるための手助けをしてくれたり、味方になってくれる人間がいるなどとは、彼にはまだ思えなかった。

 自分が信じて裏切られたら弟まで傷つくことになる。

 それが尚更シザを注意深く慎重にさせた。

 裏門に周り、守衛室に近づく。


「あの……シザ・ファルネジアです」


 まだ疑ったまま声を掛けると奥にいた守衛が「ああ」という顔をした。

 すぐにパスを用意してシザに手渡す。

「こちらへどうぞ。アリアさんから聞いています」

 守衛はエレベーターまで案内してくれた。

「このパスを差し込んで、五十階を押してください。エレベーターを下りて左手に大会議室があります。すぐ、分かると思います」

「分かりました。ありがとうございます」

 シザが頭を下げると守衛は笑顔を見せ、去って行った。



◇   ◇   ◇

 


 大会議室までは迷うことはなかった。

 というのも明かりの無いフロアに出た時、側の休憩用スペースでアリア・グラーツが煙草を吸っていたのである。

 彼女はすぐに振り返って手を上げた。

「シザ」

 シザはまだ探っている状態だったが、アリアの表情は明るかった。

「すみません。少し遅れてしまって」

「いいのよ。こっちこそこんな遅くに呼び出して悪かったわね。

 そうCEOと話した時に気付いたのよね。

 貴方って結局何歳なの?」


「十六です」


 はっきりとアリアの表情が固まった。

「……今現在?」

「はい」

「驚いた。じゃあ大学は飛び級で入ったのね」

「そうです」

「秀才なんじゃないの。CEOと話した時に結局その彼は何歳なんだって聞かれて、多分二十歳くらいって言っちゃったわ。見えないわね。背が高いからもっと大人びて見えた。

それじゃ貴方、本当にしっかりしてるわ」

「あの……僕の年齢が問題ですか?」

 シザが言うとアリアは笑って、煙草を携帯用灰皿に捨てる。

「冗談。そんなこと問題にするほどこっちだって遊びじゃないわよ。

 この世界は才能があるかないかなの。

 やる気と責任感があるなら何歳だって構わないわ。 

 ただ、知ってたら未成年をこんな時間に呼び出さなかった。ホント悪かったわね。急いじゃって。

 CEOにも年齢の確認もしてなかったから、笑われたわ。

 私が、いつになく焦ってるって」


 アリアは言って、名刺をシザに渡した。

「CEOに全て話したわ。全てというのは、貴方が昼間に私に話してくれた限りのことと、私が貴方をどうしても起用したいということ。

 彼は非常に興味を持ってくれてた。元々番組を私に一任させてくれてる人なんだけどね。

 ドノバン・グリムハルツ。【グレーター・アルテミス】ではホテル王として知られているけど、大富豪ラヴァトン財閥の当主。首都ギルガメシュにホテル以外の会社も持っていて【バビロニアチャンネル】もその一つ。だからメディア界にも詳しいわ。

 まあ簡単に言うと、豪気な人よ。

 貴方とノグラント連邦捜査局の複雑な関係性だけど、事件概要を話したら【グレーター・アルテミス】にいる限り治外法権は守られるはずだと彼も言っていたわ。

 本当は今日も貴方に会いたがったんだけど、どうしても次の仕事があってさっき出国した。でも実は出国予定はもっと早かったの。私がどうしても相談したいことがあるとねじ込んで時間を取ってもらったのよ。

 普段はねじ込んだくらいで時間をくれる人じゃないんだけど、そういえばなんでか今日は承諾してくれたわね。

 彼とはいずれ一度話してほしいわシザ。貴方の現状と、貴方自身が考える未来への展望。

 ドノバンはそれがどんなものであろうと、うちと契約してくれればバックアップはしていくつもりだと言ってくれた」

 昼間話したことは一切問題がないと言われてシザは驚いた。

「ただし! 一つだけ彼が条件を出したわ」

「……何ですか?」

「【グレーター・アルテミス】を出ないこと。ここにいる限り、ノグラント連邦捜査局の捜査は及ばない。つまり考える必要はないわけ。

 ただ貴方が【グレーター・アルテミス】外に出ると、いずれ逮捕状は出るはずだから、逮捕されると所属タレントとしても、政治的な意味合いでも厄介なことになるから、それだけはやめてほしいと。どう? 出来る?」

 何を言われるんだろうとシザは身構えていたが、言われて呆気にとられた。

「なんか『なんだそんなこと』って顔に見えるわね」

「ええ……。そんな感じです。――元々僕はそのつもりでした。全く構いません」

 アリアは満足げに頷いた。

 すぐに座って、とソファを指差す。


 大会議室に行くのももどかしいらしい。

「貴方は【アポクリファ・リーグ】のことをあまり知らないみたいだから、よく分からないと思うけど。犯人逮捕以外にも特別捜査官には【グレーター・アルテミス】全体の広告塔にもなってもらうの。

 要するにこのアポクリファしか住んでない国をアピールするわけね。

【アポクリファ・リーグ】は十二州の警察署から最大三人まで選抜される警官のエリートよ。昼間に話したアレクシス・サルナートは【白羊宮アリエス】所属している。

 元々地味目の警察署だったのに、アレクシスが所属するようになって【白羊宮警察アリエス】の知名度も人気も爆上がりしてるわ。そういうものは州の経済にも大きく影響を及ぼしてる。

 ドノバンが出国だけは禁じてくれと言ったのは、貴方がこれから【グレーター・アルテミス】や【バビロニアチャンネル】、【獅子宮警察レオ】の広告塔にもなるからよ。

 逮捕はイメージダウンや株価も暴落させるから絶対やめてね」


「分かりました。それは必ず守りますし、そのつもりでここに来たから大丈夫です」


「シザ、これは私とCEOが話し合った上の『提案』よ。

 貴方が聞いて思うことがあったら、ちゃんと意見を言っていいし、嫌なら断ってもいい。

 私は貴方と契約したいから、貴方が何かを言ってもそれを理由に契約の意志が無くなったりはしない。要するに、貴方から指摘があるならそれを改善したい気持ちがあるということ。貴方は抱えている事情が特別だからお互い腹を割って話して、いい契約を結びましょう」

「分かりました」

 シザは頷く。

「私の意志をドノバンは支持してくれたから、これは二人の考えだと思ってくれていい。

 私は貴方が【アポクリファ・リーグ】にエントリーする記者会見で、ダリオ・ゴールドの事件は【グレーター・アルテミス】の国民には隠さず発表した方がいいと思う」

 シザはっきりと驚いた表情をした。

「いずれ逮捕状が出るなら、それより前の方がいい。

 貴方に非がないこと、正当防衛だったこと、虐待のことも、話せるところまででいい。でも限界まで話して自分の正当性を明らかにしてほしいの。

 アポクリファの子供が虐待されることに【グレーター・アルテミス】国民は元々同情的だし、その事情を伏せるとなると、逮捕状が出た時に打撃になってしまう。

 でも伏せたいならそれでもいいわ。無理強いはしない。

 ただ……かといって現実の貴方や弟の存在が隠れるわけではないわ。

 逮捕状が出たらプライベートはいずれにせよメディアに嗅ぎ回られるだろうし、そういう時、うちはメディア系だから必ずしもすべては守ってあげられない。

 ――それに、何より私は、貴方は本音を隠さずデビューした方がいいと思ってる。

 貴方の素顔には何て言うか……単に美形ってだけじゃない。人を惹き付けるし、紡ぐ言葉にもパワーがある。それは隠さない方がいいわ。

 私は明確にアレクシス・サルナートの連覇を止めるための対抗馬として貴方を起用したいと思ってる。

 光の強化系能力者なら一撃のインパクトは今からだって見込めるはず。

 貴方の戦闘シーンでのインパクトの出し方はこれから詰めて行くけど。 

 契約したら、貴方にはアレクシス・サルナートの今シーズンの戦いぶりを全部見せる。

 彼が実力者であることは必ず納得するはずよ。

 忠実な実行力もありながら、魅せる戦いっぷりっていうのがどういうことか、彼の戦いを見てれば分かるはず。

 存分に見て、彼の戦い方を学んで。

 真似をするためじゃなくその中から、彼には無い、貴方だけの戦いの魅せ方を見い出してほしいのよ。

 他の特別捜査官のことは一切考えなくていい。

 アレクシス・サルナートの万能的な所は、総括的に彼というイメージを作り上げてる。

 彼に対するヒールではなく、本音の表情や言葉を見せて、人間味のある感情で【グレーター・アルテミス】の人々を自分に共感させてほしいの。

 昼間貴方は私の前で、そういうパワーのある表情を何回ももう見せてる。

 絶対出来ると私は確信してるから」

 シザは頷いた。


「貴方が僕に望むことは理解しました。

 事件のことを話すことは、会社がそれでいいと言うのなら僕は構いません。

 僕がカメラの前で全て事情を話します」


 アリアが明るい顔をした。

「あなた、本当に強いわね」

「いえ……貴方の言った通りです。いずれノグラント連邦捜査局は僕に対して逮捕状を出して来る。例え逮捕の手がこの国にいる限り及ばなくても、現実の生活では逮捕状が出れば僕やユラの生活はどのみち追い回されます。

 一般人として何か発言しても、確かに威力はないでしょうし、殺人者だとただ罵られるかもしれない。

 でも正当防衛なんだと訴える場を作ってもらえるなら、僕はむしろありがたいです。

 あの悪魔のような男を手にかけたことは一切後悔してませんが、ただ殺人者と罵られるのは避けたい。

 僕と弟がどれだけ今まで必死に戦って、戦った末にどうしようもなくて、身を守ったことを分かってもらいたいと思っているからです。

 理解してもらいたいんじゃない。理由のない犯行だとは、絶対に思われたくないから」


 十六歳で、両親がおらず、幼い弟と二人きりの兄弟。

 それでシザはこの苛烈な魂を持っている。


 アリアは決して犯罪を称賛するわけではないが、正当防衛である以上シザの抱えるこの複雑な事情と、それに負けまいと必死に生きるような姿は必ず視聴者の興味と、共感を惹き付けるだろうと確信を持った。


 アレクシス・サルナートはまさに絵に描いたような優等生である。

 強く、正しく、温かな人柄。

 彼を包み込む、安定感のある世界。


 シザの持つ悲劇性と、憤怒でその残酷な運命を切り拓こうとする意志の強さ。

 鋭い刃のような、緊張感ある世界観。


 必ず【グレーター・アルテミス】の人々を今までにない魅力で捕らえるはずだ。


「分かったわ。発表は出来るだけ早い方がいいと思ってる。日程や内容はすぐにまた話し合いましょう。

 それで……ここからは契約金の話。

 弟を音楽院に通わせたいって言ってたわよね。

 これは基本的な契約料だと思って。

 一応、三年契約を目安にしておいたわ。といっても年ごとに契約更新の話し合いの場は設ける。人気が出たらこっからでも跳ねあがるわよ。

 それに加えて私が個人的に推して加入させるタレントっていうことも鑑みて、これだけ出す。どう?」

 自信はあったのだろう、アリアはメモを見せた。

 シザは息を飲む。

 女プロデューサーは顔色を窺った。

「……それは……どういう顔?」


「【アポクリファ・リーグ】に所属する特別捜査官ってこんなに稼いでるんですか?」


 ようやく見せた十六歳の青年らしい戸惑いに「あっはっは!」とアリアは声を出して快活に笑った。

「そうよ。どんなもんを予想してたの?」

「……桁が違いました」


「貴方には【アポクリファ・リーグ】が興行収入でどんなもんか、いずれもっと話しておかなきゃならないようね。

 いい?

 シザ。【グレーター・アルテミス】はアポクリファの街なの。

 アポクリファしか居住を許されない、彼らの楽園よ。

【アポクリファ・リーグ】に所属する特別捜査官は【グレーター・アルテミス】に集まる全てのアポクリファの頂点に存在するのよ。

 それを絶対に忘れないで。

 犯罪者も当然能力者だし、どんな能力者かは分からない。

 でもどんな能力者だろうと負けることは絶対に許されない。

【グレーター・アルテミス】の治安はアポクリファによって完全に守られていると、国際社会にも強く思わせなければならないから。

 その使命に対して、うちはこれだけ払う。

 実は貴方がごねた時用にもうちょっとだけ上乗せするプランBも考えてたけど、私の番組を知らずに舐めた罰よシザ。これでサインしなさい!」


 言い切ったアリアに、シザはさすがに笑った。

「いえ。いいんです。僕は実績のない新人です。これだけ頂ければ最初の契約に何の文句もありません。ありがとうございます。アリア。

 CEOのドノバンさんにも、僕が喜んでサインしたと伝えておいてください。

 お二人の助言とサポートにも、……感謝していると」


「世界中を飛び回ってる人だからいつになるかは分からないけど。

 いずれ貴方の前に現れると思うわ。その時には一度じっくり話してみなさい」


「はい。楽しみにしています」


 アリアは頷いてから、豪快に小切手に契約料を書いた。



◇   ◇   ◇


 そっと、扉を開く。

 時間はAM4:13分。

 しん、としていたためシザは安心した。

 音を立てないように扉を閉めリビングに戻ると、息を飲んだ。

 グランドピアノがある広いリビングに置かれた、数少ない家具。

 ソファに弟のユラが座って、膝を抱えていた。

 リビングの扉を開いた時、驚いたように上げたアメシストの瞳が泣いていた。


「ユラ」


 シザが慌てて駆け寄って行く。

 抱きしめた。

「ごめんユラ。驚かせたな」

 幼い弟がユラの身体にしがみついて来る。

「兄さんがいなくて、びっくりした」

 それは真実で、同時に嘘だった。

 本当に驚いたのなら、携帯に掛ければいいわけである。

 ユラは掛けなかった。

 確かに感受性豊かで泣き虫な弟だったが、意味もなく泣いたりはしない。

 シザは察した。


「……僕が帰って来ないと思ったのか?」


「だって僕、【グレーター・アルテミス】に来てから、何も出来てない。兄さんは生活の為にいつも働いてくれてるのに、僕はピアノを弾いてるだけで……、こんな生活嫌なんじゃないかなって」


 契約が成るとは思ってなかったから言わずに出て行ったのだが、こんな不安にさせるならちゃんと話して出て行けばよかったとシザは後悔した。

 何もかも自分がどうにかするから心配しないでいてくれればいいなんて言って、これだけ不安にさせていたら意味がない。

 シザは優しく、弟の背を撫でた。


「ユラ。……聞いて。

 僕が今の生活を嫌がってるなんて思わないで。

 ユラは……来たくてこの街に来たわけじゃない。今もあいつのせいで苦しんでるのが分かるから、僕がはしゃぐのは違うと思って言わないようにしてたけど……。

 僕はこの街に来て、こうやってお前と二人で暮らせて、本当はすごく幸せだよ」


 ユラは目を見開いている。驚いたみたいにそうした瞳から、涙が零れる。


「……大学時代から、いつかあの家を出て、兄弟二人だけで暮らしていくのが……。

 お前が誰か好きな人が出来て、その人を選んで一緒になる為に家を出て行くまで、兄弟二人で仲良く暮らしていけたらいいなってずっと思ってたから」


「……兄さん……」


「ピアノを弾くだけなんて言っちゃダメだ。ユラ。

 お前は音楽家なんだから、音楽をするのは当然だよ。今までは好きで弾いてたけど、これからは仕事にして行くための準備を始めないと。

 お前の才能は、神様がくれたものだよ。

 生まれながらに、音楽の神様に愛されてた。

 他の人が趣味でピアノを弾くのとは全く違う。

 僕は小さい頃からお前のピアノを聴いて来たから分かる。

 お前が弾いている時は、大切な仕事を果たしてる時なんだってちゃんと分かってるから」


 ユラの淡い髪を、優しく撫でる。


「今日黙って出て行ったのは……、実は新しい仕事の話を昼間にもらって。

 でも契約できるかどうか自信がなかったから、話さずに行ったんだ。

 決まってから話したかったから。心配させると思って」


「僕が兄さんの心配をするなんて当たり前だよ」


 また涙を零した。


 ……本当は、笑って日常を過ごせるのも信じられないくらいなのだ。


 あの事件からまだ三カ月しか経っていない。

 そしてその事件より前の数年のうちに、ユラが心身に与えられた傷は、大学の寮生活に入り、共にいなかったシザの想像を絶する。


【グレーター・アルテミス】に来ると、ユラはすぐに、自分と二人だけで暮らすことにも慣れてくれた。

 笑ってくれたし、

 またピアノを弾けるようになってくれた。

 奇跡のようなことなのだ。

 シザはユラの身体に回した腕に力を込めた。

 そんなことで「自分はお前を傷つけない人間なんだよ」と、どれだけ正確に伝えられるかは分からないけど。

 想いも、込めた。


「一人にしたり絶対しない。ユラ。僕を信じて。

 僕は、……今こうやって兄弟で暮らせて、毎日がとても幸せだよ。

 一人きりだったら、絶対にこの街に来て新しく生き直したいとすら、思えなかった……。

 ユラがいるから、

 僕はこの世で独りじゃないって思えてる。

 だから今、間違いなく幸せなんだ」



◇   ◇   ◇



 数日後、仕事から帰って来たシザがちょっと外を歩かないかと言った。

 ユラは【グレーター・アルテミス】に来てから、ほぼ外に出ず過ごしていた。

 出たい、と思えなかったのが一番大きな理由だ。

 それでもその日は、初めてそんなことを兄が言ってくれたのがなんだか嬉しくて、ユラは頷いた。

 遅い時間だった。

 こんな時間に外を出歩いたことは、前の家でも一度としてなかった。

 でもシザが手を握って歩いてくれるから、怖さはない。

 総合公園には小高い丘があり、そこは対岸の旧市街と中心街を一緒に見れる見晴らし台がある。

 話しながら、緩やかに上っていく歩道を歩いた。


「……ユラ」


 途中で、シザが不意に呼んだ。


「僕は、亡くなった父さんと母さんの代わりに、ユラを幸せにする義務がある。

 だから危険からは遠ざけたいし、家を一歩出た外も危険がたくさんあることを教えなきゃいけない。

 僕たちには、父さんたちが死んでから一人も味方がいなかった」


 ユラの小さな手が、ぎゅ、と力を込めて来たのを感じて、シザは微笑んだ。

 いつもこうして、彼はシザがこの世で一人じゃないということを伝えてきてくれる。



 ――この小さな手が無かったら、僕はとっくの昔に世界に絶望して死んでたんだ。

 

 

「でも本当は、これから世界に出て行くユラに、信用出来ない人ばっかりだ誰も信じるなとそのことだけを言いたくはないんだ。本当は……世界には、……僕たちのことを気にかけて、親切にしてくれる人もきっといる」

 うん、とユラが頷いている。

「でも人には裏表があるから、表面からだとそれは分かりにくい。

 僕はユラが、信じた人に裏切られて傷つくのは絶対にもう嫌なんだ」

 これにも、弟は小さく頷いた。

 シザは立ち止まってユラの髪を優しく撫でた。


「だから、当分は付き合ってもいい人間は僕が見極める。

 ユラのことを傷つけない人だと僕が思った人なら、お前も信頼して大丈夫だから。

 そうやって過ごしているうちに、ユラもきっとこの人なら大丈夫だと思う人が自分でも分かって来るようになる。

 信じたいと思う人が、信じられる人だった時の喜びや安堵は、絶対にかけがえのないものだよ。ユラもそのうち分かるようになるから、焦って人と付き合って行こうとしないでいいからな」


「うん」

 ユラが微笑ってくれた。

「新しい仕事が決まったんだ。今日正式に契約が決まって、まとまったお金も入ったから。

 当分、お金の心配はしなくていいんだ」

 また手を繋いで、歩き出す。

「どんな仕事か聞いてもいい……?」

 ユラの問いかけ方はいつも優しい。

 自分の問いがシザの迷惑にならないか、気遣う感じがある。

 普通の兄弟だったら、多分こうじゃないんだと思う。

 彼らは確かに血の繋がった兄弟だったが、養父により引き離されて育って来た。

 一つ屋根の下にいても、別々の生き方を強要されたのだ。

 だからいつも一緒にいて笑い合い、喧嘩もし、転げ回って遊べた兄弟じゃない。


 自分とは別の人間だという、相手への気遣いと優しさがいつもある。


 ……それでもシザは、この弟が大好きだった。


 弟も、自分を兄として頼りにし、慕ってくれてることを強く感じられる。

「ちょっと一言で説明するのは難しいんだ。でも、変な仕事じゃないよ」

 ユラが首を少し傾けて目を瞬かせている。

「あとでどんな仕事か動画で見せてあげる。護衛や人助けっていうのかなあ……。

 今日パソコンを買って来たから家に帰ったら一緒に見よう」

 ユラはシザを見上げた。

 幼い頃はほんの少し目線が上だっただけなのに。

 大学生になってシザは一気に背が伸びた。

 遺伝なのだろうか?

 だったら僕もいつか、こんな風に背が高くなって素敵な人になれるのかなあとそんな風に思う。

 家にはテレビもパソコンもない。

 その理由をユラは理解していた。

 シザはあの事件のことをユラに聞かせたくないと思ってるのだ。

 自分だけが苦しんでるんじゃない。

 シザは自分を守るために手を汚した。

 一生、苦しむことになるはずだ。

 ユラも、きっと問題を先延ばしにしてるだけだろうけど、シザにあの事件のニュースはあまり聞かせたくなかったから、全く構わなかった。以前の暮らしを思えば、今のあのマンションには幸せに思うものがあり過ぎるくらいなのだ。


 大好きなピアノと、

 大好きな兄がいてくれる。


(他になにもいらないよ)


 でもシザがパソコンを買ったというのならきっと前向きなことだから、いいのだと思う。

「パソコンがあれば音楽の動画も、もっとたくさん見れるよ」

 シザは丘の頂上までやって来ると「おいで」と言ってユラを抱え上げて歩き出す。

 総合公園は深夜0時にゲートが閉まり、車の通行が出来なくなる。

 それに住宅地だから警察のパトロールも多く、治安は良かった。

 ぽつぽつと夜景を見る人がいたが、怪しいような人はいない。

 一番見晴らしのいい奥の柵まで行って、

 下を見下ろせば眼下の明かりが広がり、右手に多段構造の【グレーター・アルテミス】首都ギルガメシュの煌びやかな夜景が見え、左手の川の向こうには、旧市街のそっとした光が、遠くにある星のように瞬いていた。


「わぁ……!」


 ユラが思わず感嘆の声を出して、シザは微笑った。



 この世界にもたくさんの美しい光があることを、

 彼に教えてあげるのが自分の使命だ。



【終】

 

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