アポクリファ、その種の傾向と対策

七海ポルカ

第1話【エデン・オブ・アポクリファ】





『長らくの御搭乗、誠にありがとうございます。

 間もなく【グレーター・アルテミス】空港に着陸いたします。

 

【グレーター・アルテミス】空港に着陸後はアナウンスに従い、空港三階にございます入国審査ゲートより入国いただきますようお願い致します。

 

 入国審査ゲートにて管理パスポートを発行いたします。

 この管理パスポートは紛失いたしますと、いかなる理由にせよ不法滞在とみなされ、ゾディアックユニオン捜査局に管理権が自動的に移行いたします。紛失された時は十二時間以内に警察、空港、及びユニオン捜査局に連絡、お申し出ください。


 ――なお、この管理パスポートではバビロニア地区には入場出来ません。

 

 バビロニア地区に入場される場合は、空港八階にございます、司法局・特別管理センターにて、IDチップの登録をお済ませください。


 ……入国の手続き、再度お願い申し上げます……。


 間もなく【グレーター・アルテミス】空港に着陸いたします。

【グレーター・アルテミス】空港に着陸後は、アナウンスに従い……』



    ◇    ◇    ◇



 飛行機の窓から、煌びやかな黄金の夜景が見える。

 四つの国が保有する絶海の孤島に、その場所はある。


 そこは【彼ら】の楽園だった。


【彼ら】がいつからこの世界に現われたかは、実のところ定かではない。

 曖昧な定義では、今から二百年前に起きた最後の世界大戦において、初めて月にある国際宇宙研究施設から大規模な地球への電波干渉が行われた時、何らかの変異が地球に起きたことが【彼ら】の起源の始まりではないかと言われている。


 月内部から派生するこの謎の電波は度々国際宇宙研究所のシステムをダウンさせて来たことから、大戦が迫る世界において地球にその電波を送らない、防壁の役目を担って来たゾディアックユニオンは、その任務を放棄してこの【ルナティックフレア】と呼ばれる月電波を地球へと送り込むことで、地球に多角的な、過去に類を見ない広範囲のシステムダウンを意図的に起こしたのである。


 これにより日常生活もままならなくなった地上では世界大戦の激しい衝突は回避されたが、

 それから地球において、生物に変異が起こる様になったと言われている。

 ゾディアックユニオンは月基地から研究者を地球に送り込み、絶海に四つの国による保護・保有された完全に独立した地球における研究施設を作り上げたのだ。

 ここには今もまだ、世界中で変異を起こし続けている様々な生物が収集され、月の系譜たる最新鋭の設備において研究が行われている。



 ゾディアックユニオン、アルテミス生命科学研究所。研究特区グレーター・アルテミス。

 正式名はそういうことになるが、

 二百年の英知、もしくは更にその前から派生していた様々な月の変異を肯定するこの場所は、国際連盟の中でも独立し、完全なる治外法権を保有することを許されていた。

 それはこの場所の独立性を守る意味も勿論あったが、要するにこれ以上地球に異質な影響を持ち込んでほしくないという、国際連盟側の意図もあった。



 エデン・オブ・アポクリファ。


 十二の州から成る、今では多種多様な民族が属する国家である。

 月の系譜の末裔……或いは、【人間の亜種】などとも表現される人々だけが、その地に住まうことを許されており、他は観光で訪れることしか出来ない。

 世界中の変異生物がこの地で保護され、光の中で発育することを許される。

 それと共存し、対峙し、人類の未来との戦いを推進することがこの地に課せられた使命だった。


 世界において唯一無二の、存在理由と価値を持つ場所。

 そこに住まう人々と、その暮らし。

 この地を訪れた、居住資格を持たない人々はその最新鋭の都市環境を褒め称え、美しい特区だと認めながらも、必ずこう付け加えた。


『彼らはもはや、普通の人々ではない』


 羨望、嫉妬、純然たる感動。

 そこに込められた想いは千差万別ではあるのだが。




   ◇   ◇   ◇



Apocryphaアポクリファ】と呼ばれる能力者が歴史の中に確認されてからおよそ二百年。

 

 

 派生の理由は未だに謎とされる一方でアポクリファ同士の結婚により、一時アポクリファの人口が爆発的に増えたとされる以後、非能力者と能力者の権利主張は、長らく平行し多くの対立を生んだ。

 この対立はゾディアックユニオン内でも断続的な暴動や戦闘を生み、地上におけるゾディアックユニオンを取り巻く環境は約五十年間、内紛状態にあった。


 この内紛状態に終止符を打ったのが【グレーター・アルテミス】の独立である。


 全てのアポクリファは【グレーター・アルテミス】へ。


 元々非能力者からの迫害を受けた能力者移民が多かったこの街は全ての非能力者の居住権を奪い、国際社会から独立宣言を行った。反対は大きかったがゾディアックユニオン本部が月にあることから、その権威に基づいてこれが許可される。

 同時にゾディアックユニオンは能力者による犯罪捜査を【グレーター・アルテミス】全域において開始する。

 これには能力者が、観光で訪れた非能力者に害を与えた場合における特別厳罰措置も加えられ【グレーター・アルテミス】及び、整備された十二の州による『議会政治』を行い能力者による、能力者の為の自治体制が取られるようになった。

 

 独立当時は能力者による強権を、周囲の国々や国際社会に非常に警戒された【グレーター・アルテミス】だったが、彼らはアポクリファによる非能力者への暴力や排除に対して、非常に厳しい司法制度を用いたために、独立より五十年経った今では『アポクリファによって完全に統治、管理をされた国だが、非能力者に対しても安全、安心』を謳われており、国際社会において【理想郷】とまで呼ばれる国になった。

 


 名高い土地に、名高い起業家たちが集まれば、経済が動く。



 首都ギルガメシュ。

 中でもバビロニア地区は特別商業特区とされており、関係者以外の居住を許さず、数多のホテル、カジノ、アミューズメントパーク、ショッピングモールなどが建ち並ぶ、【グレーター・アルテミス】随一の娯楽都市へと変化していった。


 その【グレーター・アルテミス】の心臓部であるバビロニア地区を囲う十二の自治体は州境にもなっており、それぞれが黄道十二星座の名で呼ばれる独自の地域へと続く……。


 ここではすべてのエンターテイメントが楽しめる。


 アポクリファは【人間の亜種】とも揶揄され、世界中では色濃い差別に今も晒されていた。

 だがこの【グレーター・アルテミス】という絶海の孤島の中では、アポクリファの存在は完全に容認され、誰に憚ることもなく自由に生きることを許されていた。

 ここでは彼らが世界の中心である。

 非アポクリファはそれを垣間見ることを許された観客でしかない。

 アポクリファにより完全統治された、特別自治の中で繰り広げられる非日常の光景、体験は今や連邦内だけではなく、国外からも多くの観光客を呼び寄せる理由になっているのだった。



   ◇   ◇   ◇



 いかにもな観光客たちの列から一人外れ、彼は「よろしくー」の一言で空港のゲートをすり抜けた。

 一瞬係員が「あっ」と彼を止めかけたが、すぐに気づいたらしくビシッ、と敬礼の姿勢を取った。



 ――ここはなんて気持ちがいい街なんだ。

 


 茶髪の青年はサングラスの下で、上々の笑みを浮かべる。

 今のが普通の国だったら、やれ「アポクリファはまず入国管理局に連れて行って取り調べろ」だの「一体どんな能力を持っているのか洗いざらい吐け」だの「GPSをつけさせろ」だの「特別法に従うと署名をしろだの」なんだのとケチをつけられて、しまいにはさっさとアポクリファは出ていけ的な顔をされて嫌そうに入国許可証を貰う所である。


 それがこの街ではアポクリファが王様だ……。

 以前からずっと、来たいと思っていた街。


(ようやく辿り着いた)


 青年は巨大で賑やかで美しい空港を出て、長い長い地上へのエスカレーターに乗る。

 さすが、月の系譜と呼ばれる【グレーター・アルテミス】の斬新な都市環境作りだ。


 首都ギルガメシュから花開くように続く、十二の州。

 高層ビルがひしめき合う首都であっても、それとなく遠くまで見通せるように建物の高さなどを調節してあるため、十二の州境まで美しく見通せた。

 そこからごく近くに見えるのが首都の行政特区に隣接したバビロニア地区。

 特に格の高いホテルやカジノが集まる商業特区であり、噂の能力で戦うアポクリファ警官が街中でも平気で犯罪発生と同時に犯人を炎や氷で攻撃し始めるのが容認されているというのだから、たまらない。

 そうこうしていると、反対側のエスカレーターを急いで降りて行ったごく普通の女性が、急に居なくなったかと思ったら、随分下まで続く地上でキョロキョロしていた青年の許に一瞬で移動し、驚かすように背中から抱き着いて笑い合っていたりするのだから、やはり噂には聞いていたが最高の街である。


 どこもかしこも煌びやかで美しい。


 ここに来るために非アポクリファの世界に混じって肩身の狭い思いをしながら仕事をしてきたのだと、それを思えばようやく辿り着いた感動にどれだけでも浸れた。


「……ついに来たぜ……俺様の時代が!」


 青年は長いエスカレーターから降りると、まるで得点を取ったアスリートがする、両手で天を突くようなポーズを取った。



◇   ◇   ◇



 

「あんの~~~~もしかしておたく、ライル・ガードナーさん?」


「ん?」

 声を掛けられて見遣った方角に一台の車が止まり、そこに二人組の男が立っていた。

「おう、そうだけど。なんだお前ら」

「なんだっておたくのお迎えだよ。シザ、こいつだってさ」

「だからそうだってさっきから言ってるじゃないですか。PDAに情報出てるでしょ。

 ライル・ガードナー。今日からゾディアックユニオンの特別捜査官になる新人ですよ」

「なんでもかんでもPDA頼りにするんじゃない! 俺は俺のこの曇りなきマナコで見たものしか信じぬのだ!」

「信じないのはアイザックさん貴方の勝手ですが、僕は貴方のマナコよりも僕のセッティングしてるPDAを信じています。そこの人、早く車に乗ってくれますか。今日は後の予定がつかえているんです」


 たった今まで機嫌の良かったライルは腕組みをして、苦い顔を見せる。


「なんだよォ……折角俺様が栄光の第一歩を踏み出すってのに、お迎えが野郎二人ってなんの悲劇だ? 【グレーター・アルテミス】の女どもは皆、悪いもんでも食って体調不良起こしたわけ?」


「いいえ。そんな大層な話ではないので安心してください。

 僕たちをここへ派遣したのは【アポクリファ・リーグ】の管理室を統括するアリア・グラーツ室長ですよ。貴方も彼女にスカウトされた一人なんですから知ってるはずなので、女っ気がねーじゃねえかっていう不満は、彼女にどうぞ」

「ああ。俺をスカウトしたあの人ね。あの女研究所勤めの割にいいケツしてるよな~」

「ケツの話はいいですから、早く乗って下さい」

「シザ! てめー腐っても誇り高き特別捜査官なんだからケツとか言うんじゃねーよ!」

 シザはさっさと車に乗り込んでしまう。

「早く乗っとけ。あいつごね始めるとうるせーし」

 新人に言いつつ助手席を開けて、乗り込もうとするとシザ・ファルネジアがアイザックを睨んだ。

「貴方何を助手席に乗ろうとしてるんですか。そこには座らないで。僕は信頼する人以外は助手席に乗せたことが無いっていつも言ってるでしょう」

「えー! 俺後部⁉ この不良っぽい兄ちゃんと一緒に座んの⁉」

「おい、おっさん……。同じセリフを俺に言わせろよ。俺は有り難くもアリア・グラーツ室長が直接スカウトしたっつうスーパールーキー様なんだぜ?

 生来生まれ持った優しさで野郎二人の出迎えは、今日に限って運が無かったと諦めてやるところだが、何が間違っておっさんと後部座席に放り込まれなきゃなんねーんだよ。喧嘩売ってんのか?」


「売ってねーよ! 売ってんのもう一人の同僚のほう! 【獅子宮レオ】警察においてお前の先輩になるシザ・ファルネジア君だよ!」


 ライルがサングラスを外す。


「シザって……ああ! どっかで見たことあんなって思ったらあんたがシザかよ。

 運転手なんかしてるから分かんなかった。

 あんたのことは知ってるぜ~。色々世間、騒がしてるもんなぁ。

 でもあんたとアレクシス・サルナートの実力だけは買ってる。俺は【アポクリファ・リーグ】なんて半分お遊びだと思ってるけどよ。あんたの実力はホンモノみてーだし。

 まぁ、お互い頼れる同僚っつうことで! 握手握手~」


 ライルがシザに手を差し出す。

 彼は気の進まない顔をしながらも、一応握手には応じた。


「……挨拶は車内で済ませましょう。早く乗ってくれますか」

「早く乗ってくれますかってまだ『後部座席問題』が片付いてねーだろ」

「もう片付きましたよ。僕が現時点で【アポクリファ・リーグ】得点王。貴方はスーパールーキー様。――アイザックさん、貴方今月のランキング暫定何位でしたっけ?」


「俺は今ランキングの話したくない気分……」


 アイザックが誤魔化すようにそっぽを向いた。

「そうですか。では僕が調べてあげましょう。【獅子宮】所属のアイザック・ネレスさんは現在【アポクリファ・リーグ】のランキング十七位です」

「スゴイの? ソレ。まだ【アポクリファ・リーグ】制度よく分かってないんだけど」

 ライルが煙草に火をつける。

「【グレーター・アルテミス】の警察制度において選抜の【アポクリファ・リーグ】は、現在第一部が二十人、第二部が三十二人です。十六位までが降格圏になりますね」

「なんだ。おっさん両脚ずっぽりじゃねーか。トップ3にも入ってねえくせに俺の視界に勝手に入んなよ」

「ずっぽりじゃない! 十位くらいまではまだ僅差なんだっ! ここから四月までの三カ月間、いい感じに犯人捕まえまくればまだぜんっぜん大丈夫だ心配するな」

「さすがに貴方が第二部に降格したら、他の自治体に所属してもらっていいですか? 正直貴方【グレーター・アルテミス】が誇る特別捜査官というより、そこらへんの民間企業のガードマンの方が貴方より使えそうな奴だなって思うことあるし」


「えええええええ! いやだぞ! ぜってぇ俺は獅子宮警察退社しねえぞ! 今だって『シザさんが所属してる獅子宮って素敵♡』みたいな奴すげー多いんだからな! 獅子宮のサポーター【アポクリファ・リーグ】でもトップの多さだからその分給料も高い! 俺は死んでもお前にしがみついてやる!」


「貴方がしがみつこうが僕が嫌だと思った時点で蹴落としますから、貴方に決定権はないということだけは言っておきますよ。

 ああ……もう早くしてよ。ライル・ガードナーが予定より十二分遅れて現われたのに貴方までごねるから更に五分無駄に消費しました。二人とも早く乗らないのなら僕はもう、勝手に【アポクリファ・リーグ】本部に戻りますよ!」

 パッパーッ! と激しくシザがクラクションを鳴らす。


「おっさんトランク乗れよ」


「おっさんに向かってトランク乗れよとはなんだ新人。オルトロスの捜査局じゃ、口の利き方と年功序列って言葉、教わんなかったのか?」

「――まったく教わってねえ。」

「ほう。じゃあおっさんが丁寧に教えてやろうか?」

「うるせぇ、中年は引っ込んでろ。【グレーター・アルテミス】の警察制度は実力社会なんだろォ。いずれリーグ一位になろうかっていうこのライル様に向かって、てめーこそなんだその口の利き方は?」

「いいかお前も二十年すればおっさんになるんだからな。だから若い奴がおっさんを中傷するってことは、それは即ち自分自身の未来を中傷してるも同然なんだからな」

「よく分かんねえ理論言ってんじゃねえよ」

 ベテランとルーキーが腕を組んで威嚇し合っている。

 後ろのエスカレーターから降りて来る人たちは、なにかしら……と不審な顔で二人を見ていた。


 ――バン!


「えっ! あ!」

 アイザックが振り返る。

 見るとブォン! とエンジン音を立てて、本当にシザは二人を置いて車で走り去っていったのだった。

「ああああああ! シザああああああ! てめ……っ、クソコラーーーーーッ!」

「おいおいマジかよ……」

 アイザックは慌ててPDAでシザを呼び出したが、彼は一切応答しなかった。



◇   ◇   ◇




 咆哮が上がる。



 キメラ種の巨大な猛獣が前後の檻から解き放たれ【闘技場コロッセオ】の中央に立つシザに襲い掛かった。

 観客たちからどよめきと悲鳴が上がる。

 プロテクターと呼ばれる特殊な戦闘服を身にまとったシザは猛獣が躍りかかってから身構え、鋭い爪が振り落とされる寸前で瞬間的な補助を得て、素早く跳躍する。

 前後から迫った猛獣同士がぶつかり、怒りの表情で互いに牙を剥き合い、爪で引っ掻きあう。

 しばらく二匹は特殊なシールドを張られた闘技場の円形の壁に激突し合いながら暴れ合っていたが、頃合いを見てシザが一匹の顎に強烈な飛び蹴りを見舞うと、ギャオオオン! と叫び声をあげ、一匹が仰向けに倒れる。

 伝わる震動は、客達を盛大にエキサイトさせた。


【グレーター・アルテミス】では公に街に出て来る警察が、こんな巨獣狩りをしているのだから信じられない光景である。


 すぐにシザを捉え、もう一匹が再び襲い掛かって来た。

 左右から振り下ろす強烈な連撃が地面にめり込み、泥と石を跳ね上げる。

 シザの動きが俊敏だと見るや、キメラ種は長い尾に隠れていた毒針も剥き出しにして、更に激しく彼を追い立てる。

 攻撃を掻い潜りながらシザの鋭く、角度のある蹴りが的確に猛獣の首や腕にヒットしていく様を、闘技場の中央上部に設置された巨大スクリーンがピックアップして観客を煽って行く。

 さながら格闘技イベント会場だ。

 一瞬気を失っていた一匹が目を覚まし、二匹がまたシザを追い始める。

 闘技場のライトが少しだけ暗くなり、その拍子にキメラ種の身体が赤く発光した。

   

 カッ!


 剝き出しにした口から、炎が吐き出される。

【ルナティックフレア】を受けた生物の変異。

 異形の怪物。それがキメラである。


 一瞬、闘技場全体が赤い光で染まり、ガラス越しに見ていた観客たちも身を仰け反らせるほどだった。

 フィールド上に障害物など無いこの闘技場では、キメラ種のブレス攻撃を躱す術はない。

 アポクリファの中には自分の能力で障害物や遮蔽物を生み出して身を守れる者もいるが、シザはそうではなかった。

 さすがにプロテクターの効果もあり一瞬で火だるまになる、などということはなかったが凄まじい熱波の攻撃に、それまで敵の攻撃を俊敏に躱していた彼が、初めて防御の構えを見せた。

 耐熱反応を見せたシザのプロテクターが刹那、真紅に輝く。


 防御の体勢を取ったシザに、もう一匹の猛獣が勝機を感じ取り、襲い掛かる。

 巨大な腕が攫うようにシザの身体を掴み、反対側の壁にそのまま叩きつけた。

 そのまま捻り潰すのも嚙み殺すのも、焼き殺すのも、思いのまま――と思った瞬間、シザの体が白く発光する。

 捕縛した対象物を噛み殺すことに決めたのか、嬉々として大口を開けた猛獣の顔面に、シザの強烈な膝蹴りが炸裂する。


 アポクリファに与えられる能力は大きく【火風水地光闇】に分類される。

 更に細分化するとその中でも戦闘系、強化系などに分けられるが、無論のこと全てにおいて能力が定かになったわけではない。

【グレーター・アルテミス】はアポクリファの能力研究施設でもあるため、能力者が能力で犯罪捜査をする【アポクリファ・リーグ】の導入を決めたことも、他国では禁じられる能力を積極的に使って研究データを収集して行くという目的もあった。


 猛獣の手の中に掴まれていたはずのシザは、能力を発動させた瞬間、両腕を振り払う仕草一つで、猛獣の手の平を文字通り吹き飛ばした。

 光の能力者・戦闘系アポクリファであるシザは瞬間的に身体能力を飛躍させることが出来る。

 光の能力者は大きな分類では、時間や空間に介入する能力者とされた。


 六属性最速の力。


 その場にいた全員が納得するような戦闘力を誇るシザ・ファルネジアは【アポクリファ・リーグ】の今シーズンも優勝候補の一人だ。

 飛び散る血も肉片もこの合法的に認められた闘技場では、観客の興奮を煽り立てる一つの演出にしかならない。

 シザにとっても人間相手にこの能力を発動させるより、異形の変異生物となり各地で何人も人を食っていたこのキメラ種の猛獣を相手にする方が、手加減をする必要が全くないため気が楽だった。


 吹き飛ばした猛獣の身体が反対側の壁に叩きつけられるよりも早く、一足飛びで地を蹴り上げ、その身体に追いつくと、太い腕を掴み天井にめがけて投げつける。

 天井に取り付けられた設置型の照明が割れ、会場全体が点滅し震動する。


 闘技場の人々はどよめきながらも歓声を上げた。


 幾重にもしているセキュリティシールドの何枚かは壊れただろうが、それも想定内だ。

 なにより、【アポクリファ・リーグ】の総責任者アリア・グラーツからは「とにかく、ド派手に暴れて来て!」という命令が下っているのだから、このくらいのことを咎められたりはしないだろう。


 ヒビの入ったセキュリティシールドが再起動されて、壊れた部分を自動修復していくその時の特殊な光が、闘技場全体を絶妙な具合で明るく、暗く、照らし出す。


 天井にぶち当たり落ちて来た巨大な猛獣を、片手で受け止めたシザは襲い掛かって来たもう一匹に向かって投げつける。

 二匹は激突して今度こそ反対側の壁に当たり、外壁が衝撃で派手に崩れ落ちて行く。

 一匹は完全に仰向けになって動かなくなったが、奥の一匹は瓦礫の中で身じろいだ。

 プロテクターに仕込まれたセキュリティリミットが自動的にかかる十五分に向け、シザのプロテクターも発光場所が増えて、光も強くなって行く。

 強化系アポクリファには法により、セキュリティリミット内臓のプロテクター装備義務がある。

 彼らの能力を酷使すれば、自らの肉体にもダメージが起こるからだ。

 強化系アポクリファのセキュリティリミットは十五分とされ、一時間体を休めなければこれは解除されない。


 闘技場の演出スタッフももう小慣れたもので、観客に気づかれない程度に照明を絞っていくのが分かる。

 シザは低い体勢で地を蹴り、光の矢のように駆けた。

 

 ドゴォォォン!


 キメラ種の顔面にシザの流星蹴りが決まり、猛獣は特殊合金の壁が剥き出しになる壁の奥までめり込んで絶命した。

 蹴ったそのままの勢いで上空に飛び上がって、シザは闘技場の中央付近に降り立つ。



『セキュリティリミット発動 直ちに戦闘を終了せよ』



 一瞬静まり返った闘技場全体に、測ったようなタイミングで無機質なアナウンスが流れ、キィン……とシザの装備したプロテクターの発光が薄れ、消えていく。

 刹那の間を置いて、オオオオオッ! と闘技場全体が観客の歓声と拍手で震動した。

 シザは特別捜査官の携帯義務であるPDAと連動した、戦闘時のユーティリティ・イメージ・インテンシファイア搭載するゴーグルを解除し、観客に顔を見せ、軽く手を挙げる仕草をした。


 闘技場によるキメラ狩りは【グレーター・アルテミス】でしか見られない。


 今や地球上に出没する突然変異種、キメラは世界的な問題になっているが、人間には相手が出来ないこの巨獣を、戦闘に特化した能力を持つアポクリファならば打ち倒せることから【アポクリファ・リーグ】のアリア・グラーツがこれを見世物にしたのである。

 この企画が立ち上げられた当初は倫理的にどちらも問題があると批判の嵐を受けたが、現実では人々はこのアポクリファによる巨獣狩りイベントを見るためにこの地へ押し寄せることになった。

 闘技場の映像は観客へのエンターテイメントだが、同時に【グレーター・アルテミス】に出現する能力犯罪者へのデモンストレーションにもなる。

 この地で――【アポクリファ・リーグ】が展開されるフィールドで犯罪を行うと、どういうことになるかという。

 

 だから戦う以上は、一切容赦はしない。

 アポクリファの能力は世界中で警戒され、場所によっては排撃を受けている。

 長い間、アポクリファ達は自分たちの能力を隠して生きて来た。

 非能力者たちと共存していく為だ。

【アポクリファ・リーグ】がアポクリファの攻撃性に対して誤解を生み出すという一定の批判を受けているのも知っている。

 だが、残忍な事件なら非能力者の世界も日常的に起きていることなのだ。

 アポクリファだけが暴力的な力を持っているわけじゃない。

 力は、振るう者の意志による。

 それは能力者も非能力者も同じ。

 だからあとは、能力を使う以上は完全に制御した、アスリートのように美しい技で敵を圧倒する姿を見せつけるだけ。


 敢えて戦いにおける彼の信条を挙げるとすればそれだけだった。


【アポクリファ・リーグ】の特別捜査官達は能力も戦い方も千差万別だが、その中でもシザ・ファルネジアの戦い方は非常に美しいと言われていて人気がある。

 勿論いかに美しくとも『破壊力はバーサーカーのよう』と物騒な文言が付け加えられるのが彼ではあったが。



 シザはゴーグルを完全に外すと、戦闘時はいつも短く一つにまとめてある少し長めの髪を解きつつ、今だ興奮冷めやらぬ観客の歓声の中を平然とした足取りで、出口通路へと下って行った。



◇   ◇   ◇



 シャワーを浴びて全身の汗を流すと、新しいシャツに袖を通す。

 着替えが終わり細部の身だしなみも整えると、最後に腕時計を手に取り、時間を確認しながら腕に取り付ける。

 シャワールームから出て廊下を歩いていれば案の定向こうから、五月蝿い足音が聞こえて来た。


「シザこのやろーっ!」


 まだ姿も見えてないうちから声が聞こえる。シザは呆れた。

 数秒経って、角の向こうからアイザック・ネレスが姿を見せた。

 彼は怒った顔で真っ直ぐ駆けて来る。

「シザ!」

「そんなに犬みたいに何度も人の名前呼ばなくても、ちゃんと聞こえてますよ」

 冷めた表情と声でシザは言いながら、やってきたアイザックの脇をすり抜ける。

 ちなみにシザは二十三歳、アイザックは三十九歳である。

「てめー! ホントに置いてく奴があるか!」

「置いていくと二度ほど警告したはずですよ。従わない貴方が悪いと思いますが」

「警告が二度ぐらいじゃ、俺絶対従わないもん!」

「それは貴方の勝手で、僕が従う必要のないルールだよ」

 スタッフ用ラウンジに出ると、大きなソファに仰向けに踏ん反り返ってライルが寝ている。


【アポクリファ・リーグ】は十二の州が所属しその州警察から優秀な人材を三人まで登録して選抜された、いわば警察のエリート集団だ。彼らだけは越境し【グレーター・アルテミス】全域での犯罪捜査を許され、犯人逮捕や罪状の重さがハンデとなって付くポイントにより、要するに犯罪逮捕をスポーツのようにエンターテイメント化してしまっている。

 しかしながらこれが国内は勿論国外にも大人気で、サポーターもおり【アポクリファ・リーグ】所属の特別捜査官ともなると、警官というよりもはやタレントや有名アスリートに近い存在だった。

 今回シザの所属するレオ州【獅子宮】警察は、昨年引退したもう一人に代わりライル・ガードナーを新たなる捜査官として登録することになったのだが。


(先が思いやられる)


 シザは思った。

 アイザックは明らかに年齢から行ってもエリート警官としては活躍は下り坂で、自分が熾烈な【アポクリファ・リーグ】で【獅子宮レオ】の為にポイントを稼いでいかなければならないといけないというのに、もう一人はこんな不良のルーキーだ。

 公平な立場でなければならないのに自らがレオ州出身だからといって、やたら【獅子宮】の熱狂的なサポーターであるアリア・グラーツが「いい人材を見つけて来た!」と威張るので、どんな優秀な人物が現われるのかと期待していたシザは早くもがっかりしている。

 空港で見かけた時からちょっと様子がおかしいルーキーだなとは思っていたのが。


(これでは今年も【白羊宮アリエス】との優勝争いは、気が抜けなそうですね)


 ここ七年ほど【アポクリファ・リーグ】は獅子宮と白羊宮で優勝争いをしているのである。

 昨年は獅子宮が優勝して、シザがリーグMVPも獲得したが、その前は白羊宮が史上初の四連覇を達成していた時期もある。


「おうおう、シザ先生よォ、人を置き去りにしといて自分だけ先に帰って猛獣狩りして優雅にポイント稼ぐなんてのは、やりかたとしてどうなんだ……いいのかよォ?」

 こちらはアイザックと違って怒髪天を衝くというわけではないようだったが、納得は行っていないらしい。

「そんな姑息なやり方がまかり通るなら、俺もそれなりに姑息なやり方してくからな」

「いいじゃないですか。結局来れたんでしょう」


「ハァ⁉ 来れたじゃねーよ! そこのおっさんがタクシー止めようにも、お前を乗せたら必ず車を壊されるとか言って誰も乗せてくれねーし、ここに俺、今何で来たか分かってるか⁉ 

 バスだぜ! バス! B・U・S! この俺様を路線バスに乗せてここまで連れてきやがったんだぜ。十年ぶりぐらいだぞ、俺がバスなんてぇほのぼのした乗り物乗ったのは……。これもう……ライル式脳内裁判じゃ即刻死刑にしていいだろ!」


「アイザックさんがタクシーに拒否られたのは、僕のせいではないですよ」

「おめーの相方だろうが! どーにかしろよ」

「誰が相方ですか。僕は誰とも組んでません。会社の方針で仕方なく協力体制を取ってやってるんですよ」

「なんだそうなの?」

 ライルが片眉を上げる。

「そうですよ」

「いつも一緒にいるからコンビかと思ってたわ」

「失礼なことを言う新人ですね……僕は誰とも組んでいません!」

「違うっ! 俺が協調性のないシザ君の面倒を見てくれと、優秀なベテランとして会社に頼まれてこいつのフォローをしてやっているのだッ!」

「誰がそんなふざけたこと言ったんですか? 死にそうな目に遭わせたいから今すぐここに呼んでください」

「うるせー! ぜってぇ呼ばねぇ! 呼んでたまるか!」


「闘技場っていいなぁ~。お手軽にポイント稼げて化け物相手に憂さ晴らしも出来るって噂通り最高じゃねーか【グレーター・アルテミス】。そらエデン・オブ・アポクリファとか言われるわけだわな! 俺も早く闘技場にエントリーしてあまりの強さに女の子たちからキャアキャア言われたい」


「うるせぇ新人は黙ってろ。闘技場は一週間に三回有限だからエントリーは三人まとめてした方が獅子宮としてはポイント得するの!」

「でも単独エントリーした方が個人で得るポイント倍になりますから僕的にはお得なんですよ」

「へ~。色々ルールがあるんだねえ」

「署のポイントはまあ僕にとっては後から付いて来るって印象ですから。僕はあくまでも個人プレーですよ」

「それ一番言っちゃダメなやつ! 警官が俺のことしか考えないとか絶対一番言っちゃダメなやつ! 警察はチームプレーだって俺が毎日教え込んでるだろ! 味方にパス出せパスを!」

「嫌ですよ。貴方に付き合って僕がどれだけ個人ポイント普段損してると思ってるんですか。アレクシスさんは闘技場には思想上の理由でエントリーしてこないんだから、そういうところでポイントを巻き返さないとまた二位に陥落するじゃないですか。ほのぼの十七位にいる貴方と僕は緊張感が違うんですよ」

「誰がほのぼの十七位だ! 降格圏争いしてる俺の緊張感だってお前に匹敵するわ小僧!」

「あのさぁ……痴話喧嘩の途中で口挟んで悪いんだけど、オレ早くホテルに戻って寝たいんだよね。十四時間フライトしてたから寝てるはずなんだけど、こらもう完全に時差ボケだ……」

 どあ~~~~とライルが大きな欠伸をする。

「適当に、短く、簡単にバビロニア地区とかの説明してくんない?」


「アイザックさん、そんな説明もまだしてないんですか」


 シザがアイザックを睨む。

 先ほどまでに怒って勢いがあったアイザックだが、その一瞥には気圧された。

 シザは警官としての実力、戦闘系アポクリファとしての能力で名高いが、実のところ彼が【グレーター・アルテミス】において並のタレントよりも国民的人気なのは、その容姿の良さも大いに関係している。

 この男は口を開くと毒しか吐かないが、黙っていれば本当に「王子様のような美形」なのである。その王子様のような美形にこうも思い切り睨まれると、何年同僚をやっていてもやはり未だに迫力がある。

「いや……だって、バスの中で色んな人に話しかけられんだもんよ……。説明する暇ねーっつうか……」

「今日は時間が無いって何度言えば……!」


 シザが本当に拳を振り上げ殴りかかるような仕草を見せると、アイザックが身構える。

 だがすぐに、これも時間の無駄になるとシザは考えたようだった。


「一度しか言わないので、よく聞いて下さい」

「おー」

「貴方の明日からの所属は、この【グレーター・アルテミス】警察ということになりますが、正式にはゾディアックユニオン所属の特別捜査官、という肩書きになります。

 つまりあなたは【グレーター・アルテミス】所属の警官ですが、ゾディアックユニオンの所員ということにもなり、月宮研究所にも書類の上では関わっているので、その権限は地球上全域に及びます」


「ゾディアックユニオン本部は月にあるんだろ。そこの所員ってことは月にもタダで行く権利があるって聞いたことあるけどほんと?」


「本当です。申請すれば時間かかりますが行けますよ」

「へえ。俺って月に行ける人間になったんだ」

「まあ……月の話はこの際どうでもいいので脇に置いておきましょう」

「あんた女に絶対感動の無い人ねとか言われたことあるだろ」

「バビロニア地区は【アポクリファ・リーグ】活動の本拠地。

 バビロニア地区から続く十二の州は黄道十二星座の名を冠し、レオ州【獅子宮警察】が普段の僕たちの仕事の本拠地です。

【アポクリファ・リーグ】に所属している警官に特別出動要請が掛かったら、出動して各地へ飛ぶ。このサイクルを覚えて下さい。主にキメラ種出現、凶悪事件発生時に【グレーター・アルテミス】司法局本部からPDAに直接要請が届きます。

 プロテクターや個人バイクの性能、及び使い方などのマニュアルは一度ラボに行って、メカニックと確認をして下さい。質問は」


「はいセンセー。俺たちもカジノで遊んでいいんですかぁ」


「ダメです。僕たちは司法と治安、二権に関わっているのでギャンブルは出来ないことになっています」

「げ。そうなの?」

 知らなかったのか、ライルが少しだけ身を起こす。

「俺、前警察だったけどギャンブル出来たぜ?」

「だから【グレーター・アルテミス】には【グレーター・アルテミス】の法があると何度も言っているでしょう」

「何度もは言ってないよなぁ」

「【アポクリファ・リーグ】のシステムやランキングの説明については……まぁ、やってるうちに分かって来るからいいんじゃないですか」

「おっ。なんだその雑い説明は」

「時間がないので、僕は今日はこれで失礼します」

「まだ説明途中だろォ」

「あとはそこのおじさんにでも聞いて下さいよ。早くしないとユラが空港に着いちゃうじゃないか……アイザックさん! もういいでしょう!」

「ああ、わかったわかった……今日はもう帰っていいから」

 シザはそれを聞くと同僚にお疲れ様も言わず、本当にそこから駆け出して行った。


「よっ……と、」


 ライルが完全に身を起こす。

 彼は煙草に火をつけた。

「んで、人の説明とか全く受けてないんだけどさ。

 とりあえずユラって誰よ」

 アイザックがソファに腰掛ける。


「あいつの恋人」


「へぇ……恋人いんだ。なんか意外」

「いや。弟かな」

「あ?」

「弟だけど弟って言うとシザがすげぇ切れるから」

「弟と恋人間違えるってそれなんかの比喩なわけ?」

「まぁ、仲のいい兄弟だわな。たまに怪しいけど」

「……オイオイ、なんなの。ディープな話?」


「さ~な~。俺もよくまだ分かってねーんだよ。あいつの家庭環境っつうか……。

 あいつの本当の親は、小さい頃に死んだらしいんだよ。んで何人か養父みたいなのがいるっつうのは聞いたことがある。

 ちなみに【アポクリファ・リーグ】の最大大手スポンサー企業ラヴァトン財閥のCEO、あいつの養父だから」


「なんだそうなの? 養子なんて目ェ掛けられてんのに現場で働いてるわけ? のちのち事業継ぐなら、こんな猛獣狩りとかやってる場合じゃないんじゃないの」

「いやだからその辺よく分かんねーんだよ。

 シザはあんま養父の事業継ぐ気は無いみたいなんだよな。

 けど。……まぁ! あれだ、別にアポクリファが複雑な家庭環境で生まれ過ごしてたって、今更珍しくもなんともないだろ」

「まぁそりゃあな。アポクリファに生まれて、平凡平和な家庭でいられる方が珍しいからな」

 アイザックは頷く。

「おう、そういうことだ」

「んで、その『ユラ』って? 空港に迎えに行くとかなんとか言ってたけど」


「ユラ……ユラ・エンデはアポクリファだけど、ゾディアックユニオン加盟してる国立の音楽院卒業してるから特別ID持ってんだよ。だから外の世界で暮らしてる。最近世に出始めたばっかりだけど、相当優秀なピアニストなんだぜ。聞いたことねーか?」


「いや。俺クラシックなんか聞かねーからさっぱ分からん。へー、ピアニスト。そうなんだ。シザ・ファルネジアにピアニストの弟がいたとは。知らなかったな。兄貴は猛獣の顔面に平気で流星蹴り叩き込んでるような奴なのになぁ。弟芸術家かよ」

 アイザックが小さく笑う。

「まーな。ユラは大人しくて可愛いやつだぞ。ふわふわしてて、なんかちまっとしてる。うん、そう。あいつと違って小動物系。シザは小さい頃からユラのこと溺愛してたらしい。

 今も兄弟ですげぇ仲良くてさ。

 ユラも多忙なんだろうけど、何だかんだ定期的にこうやって会いに来て、ユラが来るって決まった数日前からは浮かれようが酷いし、当日になるとあれだよ」 

 呆れたようにアイザックが肩を竦める。


「……家庭になんか、色々あったみたいなんだよな。あいつ。絶対話さねーけど。

 でもそういう環境の中で、いつだってユラだけが味方だったんだとさ。

 だから大事にしてる」


「ふーん。【グレーター・アルテミス】の法ってやつでは近親相姦とかは咎められないわけ? 他の州だとアポクリファ特別措置法に適応されて死刑の所もあるよな。

 まぁ俺は他人の恋愛に口挟まねーし、アポクリファ特別措置法とか言ってる奴ら片っ端から並べて顔面蹴りたい気持ちはあるけどよ」

「バカ。それはどこでも一緒だよ。

 ……だから、まぁ、マズいんだけどな。あいつただでさえ司法局に受けが悪いだろ。

 目ェつけられてんだよ。なるべく静かに暮らしとけって言ってんのにユラのこととなると絶対に譲らねえし」



「ああ……。

 まー、シザは少なくとも【グレーター・アルテミス】以外の国にもどこにも、

 自由にはいけねえわな。

 だって、人殺しちゃってるんだからさ」




◇   ◇   ◇




 空港につくとシザは駐車場のスタッフにチップを渡して、車の駐車を任せる。

 自分はそのまま急いでエスカレーターを駆け上がり、空港の入場ゲートをくぐった。

 上方にある電子板に乗る情報で、すでに目的の飛行機が到着していることを確認すると彼は急いで到着口に向かう。

 到着ゲート付近を探したがまだ姿は見えなかった。ここには着いていないらしい。

 シザは小さく安堵する。

 彼の安堵とは別に、すれ違う人々が「えっ⁉」という顔をしてシザを二度見して振り返っている。

 彼は【アポクリファ・リーグ】所属の特別捜査官なので【グレーター・アルテミス】において彼の顔を知らない者はいない。

【アポクリファ・リーグ】所属の捜査官は国の、外界に対しての広告塔でもあった。テレビでも中継されるし、ネット配信も行われている人気一大イベントなのだ。

 そこに来てシザ・ファルネジアはただでさえ人の群れの中でも一つ頭が飛び抜ける、すらりとした長身美形なので、行き交う人の視線を引くのである。

 だがシザはそんな人々の視線になど、今は全く興味がなかった。

 窓ガラスに映った自分の姿に少し寄って、乱れた髪を整える。

 振り返って少し待っていると降着ゲートから一番最初の大きな人の波が引いて、まばらにやって来る人の中にその姿を見つけた。

 コロコロとキャリーバッグを後ろ手に転がしながら、少し心許なそうに辺りを見回しつつゲートをくぐってやって来る。


「――ユラ!」


 呼んだ瞬間、フラフラと見当違いの方へ歩いていきそうだった彼が振り返った。

 シザを見つけた途端、それまで不安そうだった彼の紫水晶の瞳が大きく見開かれる。

 輝いた嬉しそうなこの表情を見れただけでも、今日朝からそわそわしつつ急いでここに駆けつけて良かったと、彼は心の底から思った。


「シザさん」


 走り出そうとして手首に巻いていたキャリーバッグの紐が絡まり、ユラがあわあわとする。

 今日一日少しナーバスな表情を浮かべることが多かったシザが、初めて心から笑顔を見せた。

 シザは何をやらせてもそつなくこなす優秀なタイプだったが、

 血が繋がっているはずの弟は、不思議なことにピアノ以外のことは全くこうして不器用なのである。

 シザの方が駆けて行って、ユラの身体を思い切り抱きしめた。

 ユラもすぐにシザの胸に顔を埋めて身体に腕を回す。

 周囲の人々が二人の様子を、驚いたように立ち止まって見ているが、そんなことは兄弟には関係が無かった。


「おかえり」


 腰をかがめてユラの柔らかな髪に顔を埋める。

「ユラ……会いたかった」

「シザさん……」

 顔を覗き込むとユラも思いを込め来て、同じ心でいてくれたのだということが分かった。

 ユラの目元に小さく浮かんだ雫にシザは、彼の額に慰めるような優しいキスを落としてから、顔を上げたユラの唇に深く口付ける。

 普通有名人がこんな場所でこんなキスをしていたら、人々は嬉々として写真を撮るものだが、あまりにシザの表情や雰囲気がいつもの中継で映る彼と違うので皆、呆気に取られているのだ。


「さ、行こうか」


 シザは周囲の人々の驚きなどに興味を一切示さず、ユラの髪を優しく撫でて微笑むと、彼の荷物を持ってやり歩き出す。

 残された人々はぽかーん……とした顔で二人を見送ったが、彼らがエレベーターに乗り込んでいくと、慌てたように携帯を取り出して一生懸命書き込みを始めたのである。



   ◇   ◇   ◇



「んで、ここがトレーニングルームな。ここは【アポクリファ・リーグ】所属の捜査官全員使う所だから、私物は置かずに綺麗に使うこと。あと他所の捜査官と喧嘩はしない。――以上! 

 ま~ざっとこんなもんだろ。他にもプールとかマッサージルームとかもあるけどそれはそのへんのスタッフに聞いてくれ」

「うぃ~っす」

 ライルが適当に返事をする。

「しっかし最高の待遇だなぁ~。夢の街じゃねえか【グレーター・アルテミス】。これで適度に犯罪者逮捕してりゃいいんだろ? あとはこーいうところで優雅にメンテナンスか。たまらんなァ~」

 アイザックが笑った。

「気楽な街だろ」

「うん、そお。いい街」

「オルトロスではこき使われてたか」

「まあな。けどそこでも超能力警官まがいのことばっかしてたから、人気はあったな。

【グレーター・アルテミス】に行くっつったら、すんげぇ引き留められたし、署のオンナノコ達が泣いてたし、独房で捕まってる女まで今度は【グレーター・アルテミス】に捕まりに行くって泣いてた」

 ライルが適度に短くなった煙草を捨てて、新しいものに火をつける。

「オレ女に甘いからなぁ。好みのタイプの女だと、それとなく甘めの調書とか取ってやってたから」

「バカ。来んなってちゃんと言っとけよ? 【グレーター・アルテミス】は非アポクリファにも優しいなんて言ってっけど、犯罪者にはアポクリファだろうが非アポクリファだろうが、容赦全くしねー街だからな。

 この街じゃ俺たち特別捜査官は裁判免除されてっから、何でもアリなのよ。

 俺だってあれだ、他の州でこれやってたら物壊した賠償金だけで食えなくなって、今頃首吊ってなきゃなんなかっただろうしな。

 けどここじゃあ【アポクリファ・リーグ】に所属する特別捜査官は訴えられないから。だからタクシーの運転手があんなにオレ乗せるの嫌がんのよ。俺にぶっ壊されたら自分で直さなきゃなんねーから」

「お咎めなしか?」

「咎めはあるよ。さすがに行き過ぎるとアリア・グラーツっていういいケツしてんだけど鬼軍曹みたいな上司にヒールの鋭利な踵でグリグリされるしな」

 ライルは口笛を鳴らし、バビロニア地区【アポクリファ・リーグ】本部の上階から見下ろす夜景を上機嫌で眺めながら笑った。

「ますます興奮すんねェ」


「まぁ何事も適度にやれってことだな。シザの見ただろ、容赦のねえ戦い方。あいつ人間相手でもあんな感じでやるからな。顔面完全理系だけど戦い方バーサーカーみてぇだから。あいつがいる限り【グレーター・アルテミス】の犯罪者にとってはここは地獄……おっと」


「ん?」

 アイザックが携帯を見て、深い溜息をついた。

「なによおっさん。どーしたの」

「いやどーしたもこーしたも……」

 アイザックが投げて寄越した携帯を見て、ライルはぶはっ! と煙を吐き出しながら笑った。

 そこには速報情報として『今、空港にシザいた! そんで恋人とキスしてたぁっ!』などという情報が入り乱れ飛んでる。


「あの人自分は【アポクリファ・リーグ】現在得点王だとか威張ってたけど、それってお馬鹿ポイント担当なの?」


 携帯を放って返しライルがおかしそうにくっく、と喉を鳴らした。

「まー。俺も時々あいつ実はバカなんじゃねえかなって思うことは正直ある」

 自分のPDAを起動させる。通常モードならば、すぐに速報ニュースの情報に繋がる。

 エンターテイメントジャンルの速報ニュースがあっという間にシザ情報一色になった。

「んでもさ俺、今までも他国いてシザのことは知ってたけど、恋人アリっていうのは聞いたことなかったぜ」

「当たり前だろォ? 【グレーター・アルテミス】のネット回線は規制掛かってて、他国には基本一切流せねーんだよ。

 それに【グレーター・アルテミス】の情報統制牛耳ってんのどこだと思ってんだよ。アリア・グラーツなんてあいつ正式な肩書【ゾディアックユニオン司法局情報統制管理室室長】なんだぜ。シザはあいつ自らスカウトして来た【アポクリファ・リーグ】の花形だ。誰が自分の贔屓のスキャンダルを喜んで流すんだよ。シザのこういう情報が飛び交うの【グレーター・アルテミス】で一瞬だけ。あとホントにヤバい映像とかはゾディアックユニオンが潰してんの。だから他国に情報が飛んだって、こっちには何の証拠も残んねぇんだって……。よく出来てるだろ」

「んじゃこういうキスの写真も一時間もすりゃ消えちゃうわけね」

「一時間も掛かんねえよ。下手すりゃ三分で消えらぁこんなもん」


 ライルは三十分ほど前までここにいて落ち着かず不機嫌そうだった同僚の、熱烈なキス写真に呆れた溜息をつく。確かにこういう余裕のないキスぶちかまして来るような奴には全然見えなかった。


「シザ・ファルネジアってクールキャラで売ってんじゃねーのかよ」

「売ってるよ。いつもはな。けどユラの前じゃあいつの仮面ベロベロに取れるからしょーがねえもう。つうかこういう情報が出回ると、俺がアリア・グラーツとか養父のCEOに怒られんだぜ? お前の監督不足だとか、絶対納得いかねー」

「いや、こりゃあ確かに監督不足だろ。絶対舌入れちゃってるもんコレ」

「近頃の若い子の情熱ってそら恐ろしいよおじさんは……」


「ちょっと歳離れてるように見えっけど。弟の方何歳? シザ二十三歳だったよな」


「ユラか? ユラは確か……十五とか六じゃなかったかな」

「同じ金髪だけど顔あんま似てねーな。作りの系統が違うっつうか。実の兄弟じゃないんじゃねーの? アポクリファって多いだろ。家庭の環境で義理兄弟だの義理家族だの」

 アイザックは髪を掻く。

「……いや俺もそうなんじゃねえかって思ったことあるんだけど、どーも血は本当に繋がってるみたいなんだよな……。前に一回シザが捜査中にすげぇ傷を負ったことあるんだけど、居合わせたユラから血は採れなかったんだよ」

「それは……アレか?」


「そう。似すぎてっから。俺からしてみると確かにあいつら、兄弟っぽいとこもあるんだよ。だから多分、そのこと自体は本当じゃないかなと」


「んじゃ義兄弟ってわけじゃねーのか」

「はっきり聞いたことはねーけど。でもあいつ子供の頃大分家庭環境ごちゃついてたからなあ。もしかしたら、ずーっと一緒に暮らして来たってわけじゃねえのかもしんねえ。そら、半分他人みたいに育って来たなら……兄弟の情に恋情が勝っちまうのも、……あんのかもなあ」

 あんのかもなあと言いながらも、アイザックは難しい顔をしていた。


「ユラの方がこんなに懐いてるってことは、あれか。シザが殺したっていう、あいつの父親ってユラの実の父親じゃないのか?」


「そこはホントに知らねーわ。聞ける雰囲気と隙、【アポクリファ・リーグ】に所属する記者会見の時に養父殺害を自供した時以外あいつ出したことねえし。……お前よく知ってんな」

「そらこんなでも警官やってたからな。当時殺人犯が【グレーター・アルテミス】に逃げ込んだのに捜査させねえってすげーこっちじゃ社会問題になってたんだぜ。

 殺された父親……なんだっけダリオ……」


「ダリオ・ゴールド」


「そうそれ。そいつがシザに虐待加えてたって、証言や証拠はあるらしいからな。そいつ実父じゃないんだろ」

「ああ。養い親」


「だったら多分裁判になってもシザ側が有利だって、うちの署でもよく話題に上がってた。なんでこいつ国際裁判所に早く出頭して裁判受けねえんだってさ。

 裁判受けてとっとと無罪確定させちまった方が、どう考えても楽だろ?

 おかげで【グレーター・アルテミス】を一歩でも出たら国際指名手配犯だぜ。

 殺人容疑じゃ時効はねーし」


 アイザックは側の珈琲メーカーでコーヒーを入れて、戻って来る。

「そんなこたあいつだって分かってるよ。だから今の養父の養子になったんだって。新しい養子縁組して十五年経てば、それまでの戸籍上の関係で行われた全てのことが無効になるからな」


 それは、実の親族と上手く行かないことが多いアポクリファを救うために作られた国際法の一つ【アポクリファ特別措置法】の一つだ。

 

 一時期爆発的に増加したアポクリファも、この五十年ほどの間に『アポクリファ狩り』という悲惨な出来事に晒され、珍しい能力者が攫われて闇社会で売買されたり、アポクリファというだけで戦う力のない者は、非能力者が当時強く抱いていた能力者に対する憎しみの攻撃対象にされたのだ。

 彼らは迫害に晒されやむを得ず戦わなければならないという事件なども増え、徐々に国際社会でもアポクリファに対して寛容な法を制定すべきだという、穏健派の意見が主流になっていったのである。

 世界規模で見てもアポクリファしか居住していない【グレーター・アルテミス】は他国からこの時期、かなり厳しい目に晒された。

「あ、なーるほど……。そんで養子になったのか。んじゃ、シザはいつそれが適応されんの?」

「ん~確か事件が起こったの七年前だろ」

「んじゃあと八年。……なんだよ、まだ全然じゃん。もう国際裁判所に出頭しとけよ。そっちの方がずっと手っ取り早いっつーのに」

「仕方ねーだろ、それは嫌だってシザが拒否ってんだから……」

 アイザックは珈琲を飲みながら、足を組み替えた。


「いや、俺は別にそれはいいのよ。あいつの育った環境、ちょっと聞いただけでも劣悪だし。ダリオ・ゴールドは、ただ児童虐待してただけじゃねーらしいんだよ。どうやらあいつの持ってた会社も、裏社会と繋がりがあったらしいんだよな。それがアポクリファの人身売買なんかにも絡んでんじゃないかって話がある。あいつの本当の両親、四歳の時に両方事故死してんだけどな。……それもどうやら噛んでるんじゃないかって、あいつは言ってる」


「マジで?」

「おー。ここ、地上におけるゾディアックユニオンの総本山だから。別に外界に行かなくても世界中の犯罪者のデータには事欠かねえしさ。なんてったって本部は月にあって地球を神様みてえに監視してる連中だからな。シザは仕事の合間にも、個人的な捜査とかしてるよ。今も。そっちの方は俺には一切話さねーけど」

 ライルは煙草を灰皿に押し付ける。

「ちょっと待てよ。おっさん。今、四歳で両親が事故死してるっつったよな。んじゃユラはまだ生まれてねーだろ。つーことはなんだ……」

「そ。体外受精児」

 PDAに次々と挙げられてくる『シザの恋人だ』というコメントと共に写真を撮られている少年の横顔を、ライルは見下ろした。少し気弱そうだけど確かに整った顔はしてる。

 少し波掛かった髪は長めなので、横顔なんか見ると性別どっちか分からない雰囲気がある。

 しかし兄貴が迫力ある美形なら、こちらはなるほど小動物系の可憐さという感じだ。系統が違う。


「シザの両親ってゾディアックユニオンの研究者だから、なんかそういう素材が残ってたんだってよ。凍結保存っつうの? ダリオの奴はシザの両親の同僚だったから、そういうこと知ってたらしくて。そんでそれを使って代理出産させたらしい」

「ふーん……んじゃ血は一応ホントに繋がってるわけか……」


「やべーなオレ。いっぱい喋っちまった。お前、あんま色んなとこでこの話ベラベラ喋んなよ。ダリオ・ゴールド事件はな、シザの話じゃとにかく単なる児童虐待話じゃないんだよ。

 それにユラとあいつが兄弟っつうことも、あんま口にすんな。

 ゾディアックユニオンの司法局は今のところダリオ・ゴールド事件に関してはシザを擁護してるけど、けどあそこは近親相姦に関しちゃ法を遵守してる。そこ曖昧にすると、たちまち国内外から叩かれるからな。だから本当にマズいんだよ兄弟の件の方は。

 俺も別に兄弟仲良くしてる分には全く構わんからあんま恋情は表の世界に持ち込むなって注意してんだけど……。

 いや。俺は別にいいんだよ。シザが誰を好きでもさ。それにユラは弟だし。性別違ったらさすがに性行為とかは気を付けろくらい言ったかもしれんが」


「そんなアポクリファ同士の子供が能力者で生まれる確率が高いってのも、アレ都市伝説だろ? 科学的根拠なんか何にも示されてねぇんだぜ。それで来て数で圧倒的に勝る非能力者が能力者を迫害するもんだから、各地に【グレーター・アルテミス】みたいにアポクリファだけのコミュニティが形成されんのが嫌で、あんなデタラメな法律作ったんだろ。

 アポクリファ特別措置法のアメと鞭の鞭の方。近親相姦は場所によっては死刑っつうくだらねえ法律。近い血が交わって、純血種が増えてより力の強いアポクリファが増えると困るとか、本気で思い込んでんだろ。

 作ったてめーらがアポクリファ差別とかしてっから、アポクリファがアポクリファに縋るしかねぇってどーしようもない世界を作ったんだよ」


 ライルは新しい煙草に火をつける。

 アイザックは笑った。


「それシザも言ってたぜ。

 じゃあてめーらが同じ状況になってみろってさ」


 へえ。ライルが片眉を吊り上げた。




『自分が楽園から追放されて独りにされてみたら分かりますよ。

 自分の目の前に現われてくれたのが【イブ】なら。

 それが妹だろうが親友の女だろうが異星人だろうが――僕はそれに縋る』




 何者でも構わない。


 切実な光を宿した碧色の瞳で、シザはアイザックに話したことがある。






『世界の仕組みが例えどうなっていたって構わない。

 僕にはあの人以外いないんです』




◇   ◇   ◇



 今回の留守は二カ月近くに及んだから、シザは自分の家に入った瞬間からもう歯止めが利かなくなっていた。

 言葉で会いたかったなどと、分かり切っていることを重ねることすら億劫だ。

 ユラの姿を一日でも見ないことなど彼には耐えられず、各国でピアニストとして行われる彼のツアーの様子は、配信されるものならば全て目を通す。

 

 ファンと家族に感謝します。


 ツアーの最中に、きちんと毎日更新される彼のSNSの最後の言葉に、優れたピアニストであるわりに口下手なユラはいつもシザに愛情を示してくれた。


『僕の家族は、おにいちゃんだけだよ』


 幼い頃ユラは泣いているシザをいつもそう言って抱きしめて、撫でてくれた。

 ユラが口にする『家族』という言葉には、この世でシザ以外は含まれてはいない。

 それはシザの口にする『家族』にも『恋人』にもユラ以外の可能性が一ミリたりとも含まれていないのと全く一緒のこと。

 二人は全く同じ感性を、二人だけの世界で共有して来た。


 会いたい。

 会って抱きしめたい。


 貴方の身体を感じたいと、メールで打ってしまうことは簡単だ。

 それでもその一言を言えば、必ずユラは自分の元に戻って来てしまうだろう。

 それが分かるからツアー中は、家族として収まる程度の、愛しているという事実以外は口にしないと心に決めている。


 今の不自由を選んだのは自分で、ユラに選ばせたのも自分だ。


 シザ自身は、それ以外選ぶ可能性を考えられなかったとは思っていたが、ユラがシザに付き合って同じ道を歩むことはないと、そのことは強く思っている。

 ユラは四歳の頃からずっとピアノをしていて、今ではプロのピアニストとして活動をしている。

 

『言葉にしなくても 伝わるから』


 ユラが音楽を愛するのは、たったそれだけの純粋な事実。

 彼は幼い頃から……いや、生まれた瞬間から何一つ、自分の気持ちを言葉に出来なかったのだろうと思う。

 


『たすけて』



 そのユラがたった一度だけ、シザに願ってくれたこと。

 その願いを聞こえないふりをしてまで、平穏に暮らしたいなどと思ったことはない。

 いや平穏な暮らしなど、最初から望むべくもなかったのだ。

 だからユラは今でも時々、自分がシザを巻き込んでしまったということを言うけど、それは全く違うのだ。


 あの一言で、ユラはシザに勇気を与えてくれた。

 自分一人の為では決して逃れられなかった、あの運命からもがき出す勇気を。

 同じ光や未来を望んでくれる人間がいるから、人は、あれほど強くなれるのだとシザは思うのだ。


 だからユラの強さも弱さも……それは全ていつだって、シザを救ってくれる。

 

 シザに首筋を唇で探られ、感じて首を反らしたその拍子に、ユラの耳に取り付けられたピアス型特別IDが眼に入った。

【グレーター・アルテミス】は独自の法で動くため、その居住者が他の州や国に行った時に問題を起こさないよう、常にGPS機能を所持して動くことを義務付けられていた。

 ユラは国際法に基づいて国境越えを許された音楽家なので、それを示すための特別IDチップがはめ込まれたピアスなのだ。彼はこれに、GPS機能も内蔵させている。


(ああ、忘れてた……)


 アポクリファだから管理されるという、不自由と。

 世界各国どこにでも行けるという自由。


 そのどちらも強く望んだことのないユラにとって、これは枷のようなものだ。

【グレーター・アルテミス】に戻ったら、入国した瞬間に装着義務の消えるこれをシザの手で取ってやることが二人の間の決まりだったのに、初めてそれを忘れた。

 どうせ枷なら貴方につけられたいとユラが望んだピアスを、シザが抜き取ってやる。

 そういう約束になっているのだ。

 サイドテーブルに軽く投げてようやく、いつも通りになった。


(段々余裕が無くなっていくな)


 自分は。

 強請るように彼の首元に顔を埋めると、髪がそっと撫でられて、ユラがシザの耳朶に唇を寄せて来た。


 自分からは手を伸ばさない。

 この手はもう血に汚れたから、大切な人に伸ばせばその人を汚すことになる。


 だからシザはユラの優しい手に撫でてもらうと、この世で一番安心するのだ。

 そして人間だとかアポクリファだとか関係なく、一番大好きな人に自分の中の何もかもを許してもらったような気持ちになる。

 彼は防衛本能から、普段の暮らしの中で自分自身の率直な思いを十分の一も表現していない。

 でもユラが優しい手や言葉で語り掛けてくれると、少しだけ素直に言葉に出せるようになる。



「……もう、こんなに離れてるのはいやだ」



 キスの合間にどこか遠く聞こえて来たシザの声に、ユラは感じながら唇を微かに微笑ませる。

 シザは――これは少年時代からだったが――、あまり自分から何か強く願うということがないひとだった。

 きっと彼にも望みや願いがたくさんあるはずなのに、彼はあまりにもそれを口に出すことがないし、「そんなにやりたいことはないんだ」とさえ口にする。

 同時に、ユラの望みや願いは聞きたがって、いつもそれを叶えようとしてくれる。


 ……彼は、昔からそういう兄だった。



(うれしい)



 珍しくシザが願ってくれた。

 この世の誰に必要とされなくてもいい。

 世界が自分をいらないといっても構わない。

 シザだけが自分を欲しい、必要だと言ってくれれば、それでユラは堪らないほど幸せになれるのだ。


◇   ◇   ◇



『おにいちゃん』





 家に帰るとユラが泣きながら駆けて来た。


 ユラ・エンデは非常に内向的な子供で、日常的にもあまり言葉を発さなかった。

 自然と、兄弟だと言われても和気藹々という感じにはならず、弟が生まれた事情も知ってるだけに、両親が死んだ後にも関わらずその血を継いで生まれたユラを、シザは幼い頃少しだけ得体の知れないように思っていた気がする。

 だから、いつも感情表現の乏しいユラが泣きながら駆けて来た時は驚いた。

 どうしたのか聞くと家の庭の木の下に、鳥の巣が落ちていたらしい。

 行ってみると確かに巣が落ちていて、中に四つの卵が見えた。そのうち二つが割れてしまっている。


「もとに戻る?」

「もう割れてるのは無理だ。二つは割れてないから、今から温めれば孵るかもしれない」


 二つの卵は小さな箱に入れて、庭の隅に埋めてやった。

 卵は死んでいないようだった。

 希望はあるかもしれない。温室の中で温めてやった。

 シザは後は自然の成り行きに任せるしかないと思ったけれど、その日から温室の側を通るたびに、幼い弟がじっと卵を見守ってる姿を見ることがあった。


 両親の、友人だったというダリオ・ゴールドは、最初はシザに対しても優しかった。

 それがその両親の研究所を受け継いで、仕事を引き継ぐうちに、徐々に何か様子が変になっていったのだ。


 鳥の卵を拾ったこの頃シザはすでに時々、養父の不条理な怒りを受けることがあって、それを受けないこの弟を自分と比較して、どちらかというと疎ましく思っていたように思う。

 精神不安はすでにシザの発現していた能力の制御力も不安定にさせ、色々なものを壊すことが多くなった。

 ユラは能力を発現しておらず、この先アポクリファではなく普通の人間としてさえ生きていけるかもしれないのだという羨望は、シザのユラに対する態度を余計に硬化させていった。


 数年のうちにダリオは日常的に、シザに暴力を振るうようになっていった。

 彼はよく、殴っている時に父の名を口にした。

 おまえのせいだと言っていたがシザにはよく分からなかった。





 ある日のこと。養父母が出掛けている時に限って、ユラが遠出をしたいと言ったのだ。


 ユラとは不仲な兄弟だと自覚があったシザはこれで断って、泣き虫のユラを泣かせればまた自分は、弟を溺愛する養父に殴られると思い、苦い思いのまま弟を連れ出した。

 自動運転の仕方は知っていたから、海が見たいというユラの為に設定をして車で向かった。


 車内はずっと気まずい空気が流れていたが、途中で後部座席にぬいぐるみを抱えて座っていたユラが聞いた。


「おにいちゃん 痛くないの」


 シザがフロントミラーで後ろを見遣るとアメシストの瞳がじっ、と自分の方を見ていた。

 綺麗なその瞳に、ユラの身体には傷一つない。

 これで自分たちは兄弟だ。

 シザはこんな弟は、この世に生まれなければ良かったんだと思った。


「お前も叩かれてみれば分かるよ」


 シザが冷たい声で言うと、ユラは肩を縮めて押し黙った。

 大して懐いているわけでもないのに何故今日に限って、自分と出かけたいなどと言ったのか。

 シザにはユラが分からなかった。







 海に着くとユラは一人で砂浜に行き、貝殻を集めて遊んでいた。


 シザは車の中で海の遠く向こうにある水平線を眺めたまま、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

 こういう時に諦めて幼い二人で遊ばないほどに、当時は疎遠な兄弟だったのだ。

 三時間ほど経って、ユラが戻ってきた。


『おにいちゃん』


 ぬいぐるみが無くなったと、ユラが言った。

「どこで」

「あっちのほう」

 見て来て、といつになくはっきりとユラが言った。

 面倒臭かったが、シザとしては一刻も早くこの時間から解放されたかったので、仕方なく車を降りる。


「おにいちゃん」


 シザは振り返った。


「ごめんね」


 謝るくらいなら最初からやるなよな。

 シザはつんと顎を反らして、立ち去った。


 ユラが抱えていたフクロウのぬいぐるみは呆気ないほど普通に、ベンチの上に置いてあった。

 落としたという風でもなかったから、誰かが拾っておいてくれたのだろう。

 すぐに取り上げて駐車場に戻ると、車が無かった。





 当時十二歳のシザにとって、それほど背筋がゾッとしたことはなかった。

 




 それは単純に、遠くに置いて帰られた子供の恐怖とかではない。

 人間の暗面に突き合わされたという、漠然とした恐怖だ。

 それまでシザは、ユラを自分とは違う恵まれた子供だと思っていたから尚更ゾッとしたのだ。


 人の良い顔をしていた人間が豹変する様は、ダリオ・ゴールドを見てれば分かったが、自分には傍観こそすれ、牙を剥いて来るような人間ではないと思っていたはずの、ユラ・エンデまでがこれほどまでに自分を馬鹿にし、嘲笑っているのかと、人間の暗面を見た気がしたのだ。


 ……だが同時にシザは自分の中に、一つの光も見い出した。


 それは『怒り』である。

 ダリオが自分に手を挙げるのは友人だった父への嫉妬や劣等感で、自分の知らない所で紡がれた大人たちの話の、歪みなのだと思えばどこか仕方ないとシザはそんな風に諦めていた。


 ――だがユラは違う。


 大人たちの話が真実ならば、ユラは自分と同じ血を引く、弟だった。対等なはずだ。

 そんな人間に自分がこれほど屈辱を与えられる道理はないと、シザは内心激怒したのである。

 シザは全てに対してムキになった。

 そこから徒歩で誰の力も借りず、家に帰ってやろうと思ったのだ。

 そして辿り着いたらユラを同じようにここに置き去りにして、お前も帰ってみろと言ってやると、心に決めたのである。

 彼は怒りながら、歩き続けた。

 泣きながら十二歳の少年が人気のない道を歩いていたら、すれ違う車から声が掛かったかもしれないが、シザは強い意志で歩き続けた。


 当時は周辺の土地勘も知識も無かったのだから、今にして考えても街を五つくらい越えたあの場所から、地図もなしに、帰れると思って帰った自分はなかなかだとシザは思うのだが、とにかくシザは歩き切った。


 二日目の夜に、根性で家に辿り着く。


 すぐに、温かい寝床で安心しきって寝ているだろうユラを叩き起こして、ぶん殴ってやると思って駆け出したが、その時物が壊れる音がして庭先から家を覗くと、家の中に『自分』がいた。

『自分』が蹲ってそこにいてダリオが殴り、蹴りを加えていたのだ。それはこの家ではいつもの光景だった。

 お前のせいでユラがいなくなったのだと、声が聞こえる。

 ユラの代わりにお前がいなくなれば良かったんだと怒鳴りながら、激しい暴力をふるっていた。



   ◇   ◇   ◇



 地下室のカギは、能力を使えば簡単に破壊出来た。

 音を立てないように長い階段を下りていく。

 すすり泣く声が聞こえた。


「……ユラ?」


 声を掛けると、隅の方で影が身じろいだ。

 月明かりで微かに周囲が見える。

 やはりそこに『自分』がいた。

 狡猾な父親はどんなに暴力をふるっても、それが見える場所には傷を作らない。

 だがその時の自分の顔には、酷い傷があった。

 だから地下などに閉じ込められたのか。


 シザはゆっくりと、自分の姿に近づいて行った。


「……ユラ……か?」

 

『シザ』は俯いた。

 膝を抱えて、丸くなっている。

 泣く時のその仕草が、まったくユラと同じだった。

「……おまえ、能力が目覚めたのか。姿が変えられるのか?」

 そんなことが出来ることも、いつそうなっていたかも全く知らなかった。

 とにかくピアノを弾いてる以外、喋らない弟だったからだ。


 その頃にはとっくの昔に、二日間シザの原動力となったユラへの怒りなど、どこかへ消えてしまっていた。


「ユラ、元に戻れ」


 しゃがみ込んで頭に触れたが『シザ』は首を横に振った。


「いいから戻れ。…………もういいから」


 シザがそっと体を抱き締めてやると『シザ』が嗚咽を零して泣き出した。

 そのうちに一瞬の白い光を纏い、腕の中の身体が変化した。

 やはり、ユラだった。

 アポクリファの能力は千差万別だが、水や闇の能力者の中に、姿を自由に変化させられる能力者がいると聞いたことがある。


「ごめんね おにいちゃん……」


 ユラが大粒の涙を零している。






「助けてあげられなくて……」



 



 ――シザはその日初めて自分がユラに、ずっと長い間、兄として愛されてきていたことを知ったのだった。



   ◇   ◇   ◇



 子供の浅知恵だと言えばそれまでだったが、

 ユラはこの能力でシザに化け、シザをこの家から逃がそうとしていたのだ。

 自分が児童虐待をしているためダリオ・ゴールドはユラの姿が消えても、警察には事情を話せないだろうと彼は読んだ。

 あとは自分がずっとシザの姿でいて、未来のことなんて考えないでもいい、とにかくあの男の手の届かない場所まで逃げてほしかったと言っていた。

 同時にこの能力を使っているとはっきりとではないが、相手が自分を好きか嫌いか、どう思っているのかなどを、時々強く感じ取ることが出来るらしい。


 ユラはシザが、自分を嫌っていることも分かっていたという。

 だから自分の慰めも優しさも必要としてくれないと思って、長い間助けられなかったとそのことも謝った。


 その日シザは初めて、弟を抱きしめて地下で眠った。

 胸にはよく分からない感情がまだあった。

 でも、世界に自分は一人だけじゃないんだと思えた、そういう気持ちはあの日から初めて芽生えた。愛情というより、安堵だ。初めてあんなに安らかな気持ちで眠った気がした。


 シザが戻り、ユラが地下から出てくると、シザがダリオに事情を全て話した。

 変に隠しても、ユラが今までどこにいたのかなど疑いをかけられたら困ると思ったからだ。


「貴方が僕を殴るから」


 シザはダリオの目を見て、言った。

 この男のことがいつしかとても怖くてたまらなくなっていたのに、不思議なことにその時シザは、怒りに満ちた目で自分を睨みつけて来るダリオが少しも怖くなくなっていた。


 たった一人もいないことと、

 一人でもいてくれるということは、

 これほど違うことなのかと彼自身初めて知って、驚いたほどだ。


「ユラが僕を憐れんだ。

 僕が悪くないことを、ユラが知っているからです。

 それで可哀想で助けた。それだけです」


 ダリオは拳を振り上げようとしたが、ユラがシザの身体にしがみついて怖がった表情を見せると、なにか良心が咎めたような表情を浮かべてやめた。



 ……それから以前より、養父の暴力は減った。



 何かが許せるようになったわけではなく単純にシザの側に、ユラがずっと寄り添うようになったからだ。

 不思議なことにダリオはユラには一度も手を挙げたことが無かったし、その事件後もそれは変わらなかった。

 ユラがシザの側にいると、彼は暴力を振るおうとしなかった。


 アポクリファという存在が嫌いなのかと思っていたが、そういうわけでもないようだ。

 確かに、シザの能力とユラの能力は、破壊力という点で比較にはならないものだが、とにかく彼はアポクリファの能力を単純に疎んでいたわけではないらしい。

 ユラが能力者だと分かったあとも、彼のことは大切に愛情を持って育てていたから。


 奇妙な、……気味の悪い、静かな数年間が過ぎた。


 だがそう思ったのは過去を振り返り遡ってこそ。

 当時は、シザは幸せだった。

 ユラが側にいて、笑ってくれるようになった。

 今まではこの世にたった一人だと思っていたが、自分にはたった一人血の繋がった弟がいると思えるようになったから。


 ユラはダリオが自分を殴らないことを知っているのではなく、自分といない時にシザを殴ろうとするのを知っていたから、だからどんな時も彼といるようにした。

 眠る時も、心配だからと同じベッドで眠るようになった。

 父とダリオの間に……そしてもう一人、奇妙なほどダリオが名を出さない、母と。

 古い、幼馴染みのような関係から始まったというこの三人の間に何があったかなど、シザはもう興味がなくなっていた。


 どんなに迷って不安に思ったところで、時は過ぎていく。



(僕にはユラがいてくれるから)



 もう何があろうと、平気だ。

 彼はこの時期そんな風に思うようになっていた。

 シザの背は、伸び始めていた。

 ユラという心の拠り所を手に入れて精神的に安定したシザは、能力を悪戯に発動させるようなことも減った。

 どうせその方が互いの神経を逆撫でないからいいだろうと、全寮制の学校に入学をしたいとシザが言い、それをダリオが許した頃は暴力を振るわれることも滅多になくなって、表面上は、この家は仲のいい家庭に見えていただろう。


 しかしシザとユラの結びつきが強くなる一方で、ダリオは苛立ちの矛先を向ける相手がいなくなり、彼の暗面と向き合うことの多くなった若い妻とは上手く行かなくなり、この頃離婚をしていた。

 ユラを家に一人残すことは心配だったが、ダリオはユラにはひたすら優しい父親だったし、世話役の女性なども住み込みで暮らしていたから、きっと自分こそユラに会えなくなるのが寂しくて、一人は可哀想だなどと思いたくなっているのだろうと思ったほどだ。


 アカデミーに入って一年は、二週間に一度ずつほど定期的に家に戻っていた。


 戻るとユラはいつも嬉しそうに出迎えてくれる。

 ダリオも過去の自分を忘れたかのように「学校はどうだ」などと、笑顔で話し掛けて来る。

 シザはとうにこの男の本性を見抜いて愛想が尽きていたが、今更責めるような気持ちはなかった。

 どうであれ、今日まで両親を失った自分を引き取って育ててくれたことは事実だからだ。

 シザは成績優秀を収めて、特別にノグラント連邦共和国首都の大学に飛び級で通うことになった。

 さすがに家からは遠かったので寮に入り一年は帰れないということになっていたが、その頃のシザの夢は一刻も早く大人になり、立派な仕事について自立することだったから迷わずこの話を受けた。

 規律の特に厳しいと有名な寮に入ったので、携帯もパソコンも私用のものは禁じられたがシザは構わなかった。

 ユラとは一月に一回必ず手紙を送るという約束をして、それは守られた。


 約一年が経ったクリスマスの頃、シザは家に戻った。


 一年前と変わらず、笑顔で玄関に出迎えてくれたユラを抱き留め、光のように明るい、柔らかい髪を撫でている時には、シザはすでに離れて暮らしていた間にさらに強くなった彼への想いを、自分の中で『恋』と名付けていいものだと、素直に心に思えた。


 だけど別に成就などしなくていいとも思っていた。


 ユラが誰かを選んで幸せになるなら、きっとそれも心から喜べたと思う。

 ……自分はすでに家庭というものに失望しきっていて、望みたいとも思わなかったからだ。

 自分で働いて自分の家を持ち自立することが出来れば、あとは社会貢献でもなんでも、別に家庭を作るという以外にも生き甲斐は見つけられる。

 

 同時にユラには幸せになってほしかった。

 彼が誰かと結婚してユラの子供が生まれるなら、兄としてそれは必ず祝福できると思ったし、出来ることならそうなって、もし幸いにも自分が何かを成してそれが財になるというのならそれは全てユラに譲りたかった。


 自分の子供などにシザは全く興味がなかった。

 自分が父親になるということに、これほどまでに実感や希望が持てない。

 想像しようとすると、ダリオ・ゴールドとの過去を鮮明に思い出す。

 父親に殴られ、世界を憎しみで満たされる辛さ。

 シザは誰かの子供にも二度となりたくなかったが、

 自分が父親にも、もうなりたくなかったのだ。


(僕がユラに与えられるのは、それくらいしかない)


 彼に貰った救いと優しさ……愛情に、報いられるのは。


 シザは十六歳になった。

 ユラは九歳。


 この神が与えた七年の時の長さを遥かに超えて、ユラにだけは幸せになってほしい。



「……シザ……、……兄さん?」



 部屋の扉が小さく叩かれた。

 シザは身を起こす。

「ユラ?」

 扉が開かれる。

 そっと、顔を出したのはユラだった。

「……入ってもいい?」

 ユラも少し大人びたと思ったけど、幼い顔でそう言った。

 シザは優しい表情で頷くと自分の毛布を捲ってやった。

 ユラが目を輝かせて駆けて来ると、四年前と同じように毛布に潜り込んで来た。

 ふわふわとしたユラの髪を撫でて、自分の胸に押し込んでやる。

 ベッドの端に足を乗せたシザを見て、ユラがくすくすと笑っている。


「……また背が伸びてる」


 自分の足の指を動かして、シザは笑った。

「そうだな。……母さんが背の高い人だったから」

「そうなの?」

「うん。父さんより背が高かった」

「兄さんはお母さんに似てるんだね」

 シザはそれには答えず優しく、ユラの髪を撫でてやった。

「……人の見かけなんて当てにならない。お前が一番分かるだろ。どんな姿に変わっても。その器に宿る魂は変わらない。お前は誰の姿にも変われるけど、ユラには誰にもなれない」


 見せかけの話じゃない。

 シザは確かに姿は母親似だ。

 だがダリオ・ゴールドからすれば、シザは父親に似ているのだろう。だから彼はシザに牙を剥く。

 姿などではない言動や仕草……気配、雰囲気、そんな曖昧なものさえ血は確かなものにする。


「……父さんは、ちゃんと優しくしてくれてるか?」


 少しだけ眠そうにしていたユラはシザの胸に顔を埋めた。小さく頷く。

 良かった。

 だけどそうだろうとは思っていた。

 幼い頃からあの男が憎しみを抱き殴りつけて来たのは自分だけだったから。

 ユラにとってあの男が優しい父親であるなら、それでいい。


 そういえば自分の妻は自然妊娠が出来ないからと、望んで代理出産を行ったのは、ダリオの強い希望だったはずだ。

 亡くなった親友が強く二人目の子供を望んでいたから。

 今から思えばよくもそんな偽善ぶった嘘が言えたものだと言いたいが、だから精子も卵子もシザの両親のものが利用されて……結局ユラとは紛れもなく、同じ二つの血を引いた兄弟になっている。

 一人きりになってしまったシザに血の繋がった妹弟を作ってあげたいからと、ダリオはかつてそんな風に言っていたことさえあるのだ。

 人間というものは本当に人生のある時、突然運命がどうなるか全く分からない。



 ……きっとユラは母親に似てるのだろう。



 今は亡き母親の血が、必ずユラをあの男から守ってくれる。

 その血がある限り、あんな男でもユラのことは大切にするはずだ。



「兄さん、学校は楽しい?」

「ん?」

 突然ユラがそんなことを言った。

「厳しい学校だから、大変だよね」

 ああ、とシザは笑った。

「大変なこともあるけど、学ぶことは楽しいよ。もっと知識をつけて、勉強して大人になって働けるようになりたい」

 確かに規則は厳しいし、勉強漬けの毎日だ。

 それでもそれを懸命にこなしていれば、誰も自分を叩いたり詰ったりはしない。

 今まで生きた環境を思えば、あそこは天国のような場所だ。

 うん、とユラは小さく頷いた。


 翌朝早く、シザは家を出た。

 ユラが父親と並んで笑顔で手を振っている。

 あの男は確かに昔から、ユラにだけは暴力を振るったことは一度もなかった。

 自分がこの家にいなければ、きっと普通の幸せな家庭でいられるはずだ。

 

 空港に送られ、飛行機で首都に戻り大学寮に帰る。

 自分の部屋のベッドがいつもよりやけに広く、冷たく感じられた。

 その日はあまりよく眠れなくて翌日、大学の講義の最中に眠くてどうしようもなくなった。

 手の甲で額を押さえて軽く眼を閉じていると、少しだけ夢を見た。



『兄さん、学校は楽しい?』



 唐突に呼びかけられた、あれと同じ感覚を以前どこかで――その同じ違和感を味わったことがあると思ったのだ。



 ――『おにいちゃん』



 あの日ユラと海で別れた時に、不意に呼び止められた時の夢だった。




『ごめんね』




 アメシストの瞳が静かな、悲しげな光でシザを見つめている。

 

 あれは別れの言葉だったのだと、当時のシザは気づけなかったのだ。

 だから恵まれた弟の卑怯な策略だとあれほど怒り、憎んでしまった。

 本当はたった一人の兄をなんとか助けようと、幼い弟が必死に勇気を絞り出して行ったことだったのに。





 ハッ、と数分のことだっただろうが、眠りから醒めたシザは勢いよく立ち上がっていた。


 目を見開いたまま、あの言葉を聞いた時何か違和感を感じていた、

 自分はそれに気づいていたのだとはっきり理解した。


 周囲の学生と下方の講壇で喋っていた教授が、驚いたようにシザを見ている。

 どうしたんだと聞かれたがシザは鞄を掴むと、すぐに駆け出していた。

 待ちなさい! 後ろから制止の声が飛んだが、彼はもう振り返らなかった。

 





 夕暮れの、雲の上を飛ぶ飛行機の中でシザは指を組み、ただ祈っていた。


 どうかユラだけは傷つけられないようにと。





(この世に本当に神がいるのなら) 

 




 あのやさしいひとだけは守ってくれと。



◇   ◇   ◇




 ――シザは目を覚ました。





 ぐしゃぐしゃに下や上に重なった毛布に埋もれて、眠っていた。

 すぐに横向きに眠った自分の腕の中に、ユラを抱いていることを確かめシザは安堵した。

 そっとユラの体に回していた腕を抜き取る。

 額を押さえて天井を見上げた。

 ここはラヴァトン財団が所有するホテルで、今の養父であるドノバン・グリムハルツが養子であるシザに与えている私室だ。


【グレーター・アルテミス】の首都ギルガメシュ。


 商業特区バビロニア地区に建った高層ホテルの最上階、VIPルーム。

 これが今の自分の居場所だ。


 豪華な天蓋付きベッドの天井。

 惨めだった少年時代の家の天井でもなく、孤独だった大学時代の天井でもない。

 シザはそのことに、安堵した。

 深く息をつく。


「……。」


 シザの包む腕が無くなったからなのかユラが身じろいで、寝返りを打った。

 シザは遠くの方にぐしゃぐしゃになり半分落ちかけている毛布を、腕を伸ばして取った。

 ユラの身体にかけてやる。


 深く寝入る、……ユラ・エンデは十五歳だ。


 惚れた贔屓目などではなく、ユラは最近本当に美しくなった。

 写真を見れば分かるが、母親がそういう造りをした人なのだ。

 欲を言えば、自分だけが分かっていればいいそれに、メディアや周囲の人間が気付き始めていることは若干鬱陶しい。

 ユラは優れた音楽家だから、これからもっとメディアと関わって行くことになるはずだ。

 内向的な性格をした彼にとっては辛いこともきっと多くなる。

 

(そういう時に、僕は側にいてやれない)


 エデン・オブ・アポクリファ。

 

 この街はそう呼ばれている。

 その楽園のような場所から自分はどんなに足掻いてもあと十年、一歩も外に出ることが出来ないのだから。



 シザは側の椅子に掛けてあったガウンを羽織って、隣の部屋に出て行った。

 いつもは外さないPDAも今日は外していたから、緊急報告など入っていないか確認する。

 幸いにも、眠らない街と言われる【グレーター・アルテミス】の首都は、今日は平和なようだった。

 シャワールームに入って、温かい湯を浴びる。

 顔を洗った手を見下ろすと不意に、その手が真紅に染まったあの日のことを思い出して、シザはシャワーの水圧を強くした。



   ◇   ◇   ◇



 大学から強い不安と、ある種の予感に突き動かされて戻ったシザは、ダリオ・ゴールドが別れたはずの若い妻と、ユラの寝室で交わっているのを見つけた。


 ――最初から。


 この男が死んだ人間の血になど一切敬意を示さないということを、もっと強く考えるべきだったと。

 寝室に踏み込み、女を組み敷いている男を殴りつけてどかし、男の下で泣きじゃくっていた女をベッドから助け出すと、一瞬光を帯びてから元の姿に戻ったユラが床に崩れ落ちた。

 

『ユラにこんな真似を二度とさせないで下さい、父さん』


 ユラの身体を抱きしめてシザは言った。

 声が揺れる。これは恐怖じゃない。

 激しい怒りの為だ。


『ユラの能力は、……ユラが幸せになるために、神が与えてくれたもの。

 それを、別れた妻に変化させて抱くなんて、残酷すぎる。

 ――僕は! 貴方に何度殴られようと、貴方に歯向かわなかった。

 でも貴方がまた一度でも、こんなことをユラにしたら――』


 シザは碧色の瞳を怒りに揺らして、養父の瞳の奥を見据えた。



『……今度は貴方を殺すしかなくなる』



 例え自分の命や人生を懸けてそうしてもいい。

 忠告なんかじゃない。これは誓いだ。

 守ることが出来なかったら、僕は自分自身を殺す。


『僕にはその力があると、貴方は知ってるはずだ』


 拳を握り締めて、初めてシザはそう言った。

 この力があればそう出来るのだと思った時、彼は小さい頃から大嫌いで仕方なかった自分の強い能力を肯定し、愛することが出来た。


  ◇   ◇   ◇


 シザは大学を休学し、両親のものだった研究所の寮にユラと一緒に移った。

 研究所には知り合いが多かったから、何も事情を聞かずにそうさせてくれた。

 養父がいつからユラにあんな触れ方をしていたかは分からないが、ユラは例えシザがいてもあの家の、寝室では眠りたくないだろうと思ったのだ。

 大学だの、勉学だの、そんなものどころではなかった。

 辞めることは簡単だ。それでもあの男と決別をするのなら自分で働いて、金を得なければならない。

 自分だけがこの苦境から抜け出すだけじゃない。ユラの将来のことも考えてやらなければならないのだから。

 

 一番いいのはダリオ・ゴールドの虐待自体を明らかにしてしまうことだったが、自分はともかくユラがあの男に性的虐待を受けたと、そんな風に騒がれることは何より避けたかった。

 だが自分が殴られていたという事実も、今や過去のものになりつつある。

 今訴えて、どれだけ何故今それを? という声と戦えるかは疑問だ。

 しかし理由を話さず、資産家である父も健在であるのに『寮に弟も住まわせてほしい』と言ったところで、却下されるに決まっている。

 ならいっそ言わずに住まわせることも考えたが、そうすればユラが隠れるようにして息を殺して生きて行かなければならなくなる。

 それは絶対に嫌だった。

 両親の同僚だった人たちの中に、どれほど頼れる人がいるのかも分からない。

 虐待を受けていた時に、すでにそういう人たちとの繋がりはほとんど断たれてしまったのだ。

 シザは強く後悔した。


(僕が、僕自身に不条理な痛みを与えられている時に我慢なんかせず、全てを公にしていたら)


 あの時に何かをしていればユラまで、苦しむことはなかったかもしれないのだ。

 何故もっと早く、自分はユラと生きているのだと。

 たった一人の弟で、自分が守ってやらなければならないんだと……、

 生涯そうしていくことが、自分に与えられたこの世でたった一つの使命なのだと思わなかったのだろう。

 苦悩するシザを側で見ていたユラはやがて、自分の心が落ち着くと「家に帰る」と言った。


「……お母さんと別れて、……寂しかったんだと思う。……兄さんがちゃんと話をしてくれたから、きっとお父さんももう、あんなことはしないはず……。

 十歳になったら、全寮制の学校に入りたい。

 来年までの一年だけ、あの家で暮らす。……一年だけ、我慢すればいいんだから。だから僕の一年の為に、兄さんの将来を全部だめにしないで」


 自分の将来よりユラの、この幼い時期の一年の方がずっとずっと大切だとシザは思った。


 それでもユラがそうして欲しいと強く願ったから、ダリオに全てを話しに行った。

 何かあれば今回のことを全て公にすると釘を刺し一年後、必ずユラを全寮制の音楽学校に入れることを約束させた。

 そしてお手伝いとして通ってくる女性の複数に、父が離婚してから精神不安定なので、必ず夜は屋敷に複数人を留めてほしいと頼み込んだ。


 出来る手を全て尽くしてからノグラントの大学に戻るため、空港に行くとユラは見送りについて来た。


 シザの寮は、非常に規律に厳しい。

 家に帰れて一月に一度、戻る許可が下りればいい方だ。

 それでも必ず一月に一度は帰るからと、シザはユラを抱きしめて約束した。

 強く抱きしめたのはもう非力ではなく、理不尽な父親に対して何も出来ない自分ではないことを伝えたかったから。

 いざとなればこの力で必ず守ってもらえるんだと、ユラに理解して欲しかったから。

 

 本当は大学などもうどうでもいい。

 今すぐやめても良かった。

 それでもユラが折角素晴らしい大学に入れたのに辞めてほしくないと願ったから、留まることにした。

 でも、まだ迷っている。


 不安でたまらなかったが、笑った。

 自分が不安な顔をしていればユラも不安に思うだろうから。


 搭乗ゲートをくぐった時シザは振り返った。

 離れたところで手を小さく振っていたユラが、それを見てぎりぎりのところまで歩み寄って来る。


「来年、ユラが全寮制の学校に入ったら僕は就職するから。ユラが卒業するまでにお金を貯めて、……卒業したら一緒に暮らそうか」


 ユラはアメシストの瞳を大きく開いた。

 それは、言われると少しも想像していなかった話を聞いたような驚き方に見えた。

 だがシザの中では今回のことが発覚してから、ずっと胸にあったものだ。


「別に僕はいいんだ。何か特別したい仕事があるわけじゃない。働けるところならどこでも構わない。でも、僕の家族はユラだけだから。……兄弟で幸せに暮らすことが出来たら、それが僕の一番の夢だよ」


 ユラの瞳から涙が零れた。

 手を伸ばせば、まだ、頬に触れられた。


「ここに詰めて、連れて行ってやれたらいいのに……」


 自分の手に持つ鞄を揺らしてシザは小さく笑んだ。

 一歩ユラが近づいたから、額に唇が届いた。

 額に届くなら、唇にも届くはずだ。

 そこに触れたかったけど、自分は兄なのだからと強く言い聞かせる。


 自分の過去も、自分の恋情も、もうどうでもいい。

 この人のことが世界で一番好きで愛してるけど、そんな気持ち捨て去って全然構わない。


 強い兄になって、この心優しい弟が誰かと幸せになるまで、彼を守れること。




(僕の願いはそれだけ)




 ユラの額に優しく口付けると、シザは背を向けて歩き出す。

 強くならなければ――なにも大切なものは守れないのだと分かったから。










 その三ヶ月後、シザはもう一度ユラに手を出したダリオ・ゴールドを殺した。








『たすけて』



 彼はユラを先に家から連れ出し、必ずあとから行くと約束して飛行機のチケットを渡した。

 大学に戻ったあの日から、すでに決めていたこと。

 

 ――行き先は【グレーター・アルテミス】。


 アポクリファが集い、アポクリファ達の法により動く街。


 そこでならきっと、生き直せる。

 ユラと二人でなら。


 ユラの乗った飛行機が発つのを空港で見送ると、シザは一人で自宅に戻った。

 

 




『ユラにもう一度触れたら、お前を殺すと言ったはずだ』





 言い訳も罵声も、これ以上何も許さず、シザは能力を発動させてダリオ・ゴールドを撲殺した。後に発見された遺体についてノグラント連邦共和国の連邦捜査局は「完全に顔面を容赦なく叩き潰されている。物盗りではなく、強い怨恨による殺人」と発表していた。

 

 殺害後すぐに家を出て【グレーター・アルテミス】に向かう。

 飛行機が空港から無事に飛んだ時、心の底から安堵した。

 



(これでユラの元に帰れる。もう心配ないと言ってやれる)




 遠ざかる母国の夜景を見下ろしながら、

 シザはそれだけを思った。



◇   ◇   ◇




「シザ……?」


 熱いシャワーを頭から浴びつつ、深く目を閉じていたシザは瞳を開き、振り返る。

 ユラがシャワールームの扉を開き、心配そうな顔をしていた。

「ずっと、シャワーが流れてたから……」

 シザは「ああ」とシャワーを見上げる。

「煩悩を流してたんだ。あのまま寝てたら、またユラに手を出しそうだったから」

 心配そうだったユラが瞬きをしてようやく、くすくすと笑った。


「……ぼくは、そうしてもらっても嬉しいけど」


 シザが息を呑むような顔を見せた。

 数秒後すぐに手が伸び、ユラはガウン姿のままシャワールームに引き込まれる。

 何をするのかと問う間もなく、シザはユラを抱えたまま張られたバスタブに飛び込んだ。

 ガウンのまま湯に引き込まれたユラは目を丸くして言葉も無かったが、シザはというと、呆然としてもこういった時に人を怒ったり詰ったり出来ない、そういう反射神経を持たない弟の反応が可愛くて、少年のように声を出して笑ってしまった。

 自分ならこんなことされたら、反射的に何をすると相手に肘鉄でも食らわせて失神させている所だ。

 幼い頃は自分と弟を比較してその違いを憎んだこともあった。

 だけど今は、自分と違う弟の優しさや穏やかさを、シザは深く愛している。

 

 驚いたものの目の前のシザが笑っているので、数秒後ユラは体の力を抜いた。

 

 こういった兄弟の戯れを、二人はあまり持つことが出来なかった。

 ある時期は分かり合えず不仲で、

 ある時期からは逆に相手が大切過ぎて、からかって困らせることなど出来なかったから。

 だからシザは今自分といる時、時々こんな子供のような悪戯をすることがある。


 今、こうして兄弟で笑い合える。

 シザがあの男をこの世から、消し去ってくれたからだ。

 ユラは分かっていた。

 臆病な自分はきっとあの男が刑務所に入ろうと、生きている限り安堵して生きていくことが出来なかったと思う。

 ――だからシザは殺したのだ。

 虐待していた父なのだと誰かに訴えるのではなく、二度と存在しなくした。

 そうしてくれたからユラは今、段々と普通に笑えるようになっていっている。

 

 ……だけどその為にシザの手は血に汚れてしまって、


 彼は【グレーター・アルテミス】から一歩も出ることが出来なくなった。

 それでも幸せだと、彼は言ってくれる。

 過去のどの時間よりも今が幸せで自由だと。


 ユラはシザが笑ってくれると安心するのだ。

 シザは自分がいくら殴られようと、能力を使って養父に反撃するようなことはしたことがない少年だった。ユラはそれをずっと見て来た。

 一度も、あの男に逆らったことが無かったのに。

 自分が暴力を振るわれた時、たった一度。

 彼は力を使ってくれた。

 自分の為じゃない。弟のために。

 

 全てを犠牲にして自分をあの暗がりから救い出してくれたひと。


 ユラはだからシザが何をしてこようと、彼の全てが大好きだった。

 笑いながらシザがシャワーを手繰り寄せて、髪だけは濡れていなかったユラの頭から浴びせて来る。瞬く間にユラの身体も、頭のてっぺんから温かい湯に流されて行ったけれど、ユラは楽しそうなシザに優しい表情を向けたまま、彼の額に張り付いていた髪をそっと指でよけてやった。

 その仕草を見た途端シザは笑みを消して、真剣な顔になるとユラの両頬に手を当て、鼻先に見つめて来る。

 湯気の立つシャワーの降り注ぐ中で、体を抱き寄せて、足を絡めて、指を絡め、口付けを交わす。

 しばらくそうして、ようやく唇が離れると、

 ユラは静かに瞳を開いた。


 シザの美しい碧の瞳が、一瞬の静けさで自分を見下ろしている。

 シザはユラの瞳の奥を探っていたのだ。

 そこに求めるものが自分と違っていたら、たった今の瞬間欲情に戯れていたとしても、一瞬で兄の表情に戻らなければならない。

 いつだってそのことを自分に課している。

 自分はユラが幸せになるために存在している。

 そうでない自分になるくらいなら、この世からいなくなった方がマシだ。


 だから彼と自分の望みが違うと分かったら、

 どれだけ愛しく思ってもこの場から去らなければいけない。

 それを望んだりしてないけれど、

 そう出来る自分であることはいつも願った。


 だから尚更、見つめ返してくれるユラの瞳の奥が優しいと、

 泣きたくなるほど幸せでたまらなくなるのだ。

 自分は何も間違ったことはしていないと、この世で彼だけが教えてくれる。



【グレーター・アルテミス】はアポクリファだけが居住権を許される国だ。

 ここでは世界中で迫害を受けるアポクリファも普通の人間のように堂々と暮らしていける。

 だけど、この地でも認められない倫理観はある。

 許されないことが。

 ここも完璧な楽園というわけではない。



(世界が許してくれなくてもいい)



 ユラが微笑いかけてくれる限り、

 シザは自分を許し、愛せる。 


 ユラはシザの裸の胸に頭を預けた。

 安心しきったように彼は目を閉じている。

 こうしていられるのは数日だけだ。

 彼の音楽家としての才能は天から与えられたもの。

 音楽の神に呼ばれたら、彼はまた旅立たなくてはならない。

 自分の弟でも、

 ……彼はそういう人なのだ。


 シザは一瞬、辛そうな表情を浮かべた。

 それをユラに見られる前に、彼の体を両腕で深く抱きしめる。


「ユラ……、愛してる」


 うん、とユラは頷いた。


「愛してるよ。」


 繰り返すと、ユラもシザの体に腕を回してくれた。



◇   ◇   ◇



「おっ、来た来た! シザてめぇ、遅いぞコラ!」



 すでに戦闘服に身を固めたアイザックと、ルーキーであるライル・ガードナーが私服姿のまま立っていた。

「……うるさいな……出動発令十五分以内には来たでしょう……」

「ぶぁーか! 十五分以内なんて最低ラインだっていつも言ってんのお前じゃねーか! なにが十五分で来たからいいでしょうだよくねーよ! てめー三分で来いよ! お前のホテル目の前じゃねーか! 三分と十五分じゃえらい違いだわ! その天パのセッティングを遅刻の言い訳にしたら直ちに丸坊主にしてやっからな! ったく……三分じゃカップラーメン完成するだけだけど、十五分ありゃ食い終わってるわ!」

「うるさいですよ……なにを一度くらい僕より早く準備が出来たからって偉そうに……僕はいつも貴方より早くスタンバック……、スタンバッてるんですから、文句言われる筋合いないんですよ」

「あ~~~~ッ! 駄目だ! 噛んだからもー駄目だ! お前の噛んだ毒舌なんてもうそれ以上聞きたくねえ!」

 アイザック・ネレスが苛々している。

 ライルはバイク用ゴーグルを額の上にあげて、腕を組んだ。


「ん~。こんなにも朝までセックスしてましたって顔隠さねぇもんかね? それ【グレーター・アルテミス】流ってやつなの? すげぇ風紀乱れてんだね。最っ高の街だな~」


「うるせぇ馬鹿野郎新人! 俺たち特別捜査官がプロテクター着てる時はなぁ! 助けを求めてる人を助けに行く時なんだよ! だから緊張感のない発言とか! 態度とか単語とかは絶対にすんじゃねーよ! 戦闘服着てるのにセックスとかいう単語言いやがったら、てめー校舎の裏に呼び出してボコボコにすっからな!!」


「おれ今戦闘服着てねーし。どこの校舎裏にだよ」


 言いながら火をつけたライルの煙草を、すぱあああん! と鮮やかな手刀で叩き落としアイザックは地面にぐりぐりした。

「これから出動っつう時になに煙草咥えてんだてめぇッ! 大体なんでお前戦闘服着て来ねーんだよ!」

「いや。今日は単なる銀行強盗で現場しょぼそうだから、このままでいいかなぁって思ってさ。

 ほら、俺スーパールーキーだから。もっとヤバい現場で初出動の方が見栄えもいいし。

 今日は先輩方の活躍を見物させてもらおうかと思ってさ。

 アッハハ! まあ、いいじゃん? いざとなったら俺も加わってやっからさ。俺戦闘服とかプロテクターなんか着てなくてもこの状態ですげぇ強えし」

「てめえ絶対特別捜査官舐めてんだろ……」

「アイザックさん、新人への教育的指導は後でいいですから、とにかく出発しましょうよ……」

「やめて! シザ先生バイク逆さに乗るのだけはお願いだからやめてっ! お前クールな完璧キャラで売ってんのに、そんな姿見たら【グレーター・アルテミス】に生息する見かけでしか人を判別出来ないシザ・ファルネジアファンが一撃で死滅する!」

 余程そんな姿を見たくなかったのか、アイザックは顔を両手で覆っている。

 ああ……、とシザは緩慢な動きで、座席に座ったまま不精しながら身体を反対に戻す。


「……いいんですよ僕は別に……ファンの為に警官やってるわけじゃないんだから……金の為ですよ」


「それ人前で言っちゃ絶対ダメなやつだから! あと特別捜査官が『金』っていうのもやめろ!」

「今日は毒舌にも全然パンチ利いてねえな……」

 ライルが二人のやり取り呆れている。

「一人は恋に浮かれててもう一人はシンプルな不良! ちょっともうさすがの俺でも今更こんな駄目な若い子二人会社から指導とか任されても全然無理なんだけど! 立派な捜査官に育てていく自信全然ねーよ!」

「別にあんたに育ててもらう必要ないですよ……。僕はとっくに立派な特別捜査官なんです。今の僕の【アポクリファ・リーグ】のランキング、何位か分かって言ってるんですか? 一位ですよ」

「シザさん、……シザさん、三本指立ってるから! 一位って言いながら出してる指が三本立っちゃってるから! 今日あの、活躍しても絶対メディアで喋んないでくれる?

 じゃないと【グレーター・アルテミス】以外にも生息してくれてる奇特なお前のファンも死滅しちゃうから! 絶滅の運命だから!」

「……いいんですよ僕はファンなんかどうでも……。僕はユラだけが僕のこと世界で一番カッコイイって目で見てくれれば、他の奴らなんかどーだっていいんですよ……あんなやつらアリンコですよ……」

「オーイ! 誰かユラ・エンデここに連れて来ーいッ! じゃないともうこの体たらく直せねーよ!」


 ライルがケラケラと笑っている。


「いいねぇ、連れて来てよ。

 シザ・ファルネジアを弟の分際でここまで骨抜きにしてるユラってのがどんなもんか、一度見てみたいしさ。朝まで燃えちゃうってのは、やっぱ身体も相性よくて気持ちイイんだろうなぁ~。羨ましーっ 興味あるう」

「だからてめえらふざけてないで……」


 ――ガン!


 いきなりすごい音がして、見遣るとプロテクターに包まれたシザの長い足が、側に停まっていたアイザックの車にめり込んでいた。

「えっ。あのシザさんおみ足が……」


「――今、何て言いました?」


 半分眠っていたシザが突然覚醒し、ライルを睨みつけている。

「お?」

「聞き間違いでなかったら貴方今、ユラのことを気やすく『ユラ』と呼びました? 貴方は新人で、僕の後輩になりますよね? 貴方の今まで生きて来た世界では、先輩の恋人を気安く呼び捨てるんですか? それはまぁ、胸糞悪い躾のなってない場所で過ごして来たものですね。

 あと今、弟の分際でとも言いましたよね? あなたは新人の分際で【アポクリファ・リーグ】MVPの最愛の人間を分際呼ばわりするんですか? 命、いらないんですか?」

「お? どうしたいきなりいっぱい喋り出して」

「おまえ……初日からシザをキレさせるとは……」

 アイザックが両手で顔を覆っている。

 シザがバイクのエンジンを蹴り上げるような仕草で起動させる。

「命の要らない新人は早くバイク乗って下さい。強盗事件なんかとっとと解決して、躾のなってない新人に激しく鞭を振るう仕事が出来ましたから、急がないと」

「おう。なんかいきなりスイッチ入った理由はよく分からんが俺はいつでも出れるぜ」

 シザはサングラスをすると、合図も出さずに突然アクセルを踏み込み飛び出していく。

 アイザックは大きくタイヤを滑らせるようにして敷地を出ていくシザのその走行を見るだけで憂鬱になったが、ライルは恐れ知らずなもので、大笑いしながらもすぐに自分のバイクで追って行った。こっちも相当なスピード狂だ。

「あいつシザの運転にちっとも引いてなかったな……」

 それも嬉々としていた気がする。

 普通の人なら新しい仕事先にあんな幾つかの交通法確実に破っているような先輩がいたら勘弁してくれと嫌な顔をするところだ。

 ライル・ガードナーは【グレーター・アルテミス】に来る前はのアンタルヤ共和国のオルトロスという場所で警官をしていたらしい。

 そこもこの【グレーター・アルテミス】の首都ギルガメシュのように、世界でも有数のカジノ街を保有する歓楽街で、治安の悪い犯罪都市としても知られる。

 シザも感情が運転に出る男だが、ライルの運転の荒さも相当なことが分かる曲がり方だった。


「とうとう【獅子宮警察レオ】で俺が運転一番まともな人になっちゃったよ……」


 アイザックは深くため息をつくと車に乗り込み、サイレンをきちんと鳴らしながら発進していく。



   ◇   ◇   ◇



 ラヴァトンホテルの駐車場を出て緊急車両専用の、特別外周道路に入る。

 シザは自分に追いついてきたライルを振り返りもせず、冷たい声を響かせる。


「PDAを起動してください。僕の情報を今日は特別にそっちに連動させますから。

【アポクリファ・リーグ】が開始された時の他の特別捜査官の居場所、事件現場、犯人の場所、逃走経路、その他現在の各交通道路情報など、基本的な情報は情報部から流してくれますが、その他の好みは自分でセッティングしてください」


 シザの爆走を全く苦にもしてないライルが、口笛を吹いている。

「オーケイ オーケイ♪ おれ、自分の好みでセッティングすんの得意だし大好きだしィ」

「出動したら私語は慎んでくださいうるさいな」

「なんだよ、俺がユラを呼び捨てにしたのそんなに怒ってんの?」

「怒っていますし、今も呼び捨てましたね。僕の怒りを上塗りするなんて本当に新人のクセにいい度胸ですね貴方」

「じゃー何て呼べばいいんだよ。それをまず言えよ。ユラちゃん? 名前短いから愛称って感じでもないわな。ユラちゃんか」



「――貴方なんかがユラを呼ばなくていい!」



 元も子もないことを言ったシザを、ライルが大笑いしている。

 専用外周の下方の道路を、高速バイクが走行中だ。電子音が鳴る。

「おっ」

「【処女宮バルゴ】からエントリーしているルシア・ブラガンザです」

「これからよろしくね~!」

 追い抜いていくルシアに対して、確実に届いていない挨拶を送る。

「ルシアの戦闘の実力などは、僕や優勝候補のアレクシス・サルナートにとっては取るに足らないものですけど、彼女は漁夫の利も辞さない所がありますから女だと甘く見ていると痛い目を見ますよ。それに見目の良さからメディアがよくピックアップしたがるので、彼女はメディア露出ポイントでは侮れません」

「【処女宮】って伝統で女性警官一番多いんだって? どーせなら俺もそこに所属して彼女たちと仲良くなりたかったな~~~~」

「貴方元々警官だったんですよね? 余程実戦には慣れてるはずなのになんで緊張感そんななんですか? 警官時代も現場に行く時はそんな感じだったんですか?」

「うん。そお」


「…………そんなことをしてるから、表の世界でアポクリファが舐められるんですよ」


 シザは苛立つように言いながらも外周を高速で巻いていく。

 特別外周道路は法定速度が無い。

 緊急車両が緊急時、鮮やかな手際で現場に駆け抜けていく様子も【グレーター・アルテミス】の名物の一つだ。

 別の電子音が聞こえてくる。こうして【アポクリファ・リーグ】所属の特別捜査官が一定範囲に入ってくると報せているようだ。

「右側に走行中が【人馬宮サジタリウス】のバイク。事件現場にすでに【白羊宮アリエス】と【双児宮ジェミニ】がいますね。こういう風に所属する警察署のエンブレムで把握出来ます。エントリー表はこうして一覧にも出来、最大三人まで登録できる特別捜査官の固有識別も……」

 


「……ねぇ、あんたってさぁ」



「私語は慎んでくださいって言いませんでした?」

「なんでノグラントの国際裁判所に出頭しないわけ?」

 シザはライルを見た。

 それは睨みつけたと言っていい、強い見据え方だった。

 しかしライルは全くそれに臆することもなく、続けて来る。

「あんたの指名手配内容、俺も警察時代見たけどさ。どー考えてもあれ、裁判になったって陪審は無罪つけるだろうよ。最近の事例見てもアポクリファ養子にしといて虐待するとかは印象悪いし。けど今の容疑は殺人罪だから時効はねえだろ。【アポクリファ特別措置法】使って、今の親の養子になっても、あんたがホントに自由に【グレーター・アルテミス】以外に行けるようになんの十年後だぜ? 絶対出頭しちまった方が楽だろ」

「……。」

「おっさんから聞いたけど、養父のダリオ・ゴールドには児童虐待以外にもなんか黒い容疑があるとかってホント?」

 シザは舌打ちをする。

「あのおっさんは……余計なことをベラベラと……。

 ――そうですよ。児童虐待なんか、あの男からすれば些細な容疑なんですよ。

 今出頭したって、虐待されてた子供が養父を殺して、まぁひどい話だったわねえと頭撫でられて終わりですよ。僕はそんな茶番には興味ないんです」

「お涙頂戴はいらねぇって?」

「全てのあいつの罪を暴き出してから、あいつの地位も名誉もこの世に残っているもの全て、泥に塗れさせて破壊し尽くしてやるつもりです。

 僕が出頭しないのは、まだあいつとの勝負が終わってないからですよ!」


 専用道路から下り、通常の公道に合流する。

 遠くで発砲音がして、閃光が見えた。雷の光だ。

【アポクリファ・リーグ】が世界に誇る、アポクリファによる能力戦が始まっている。


「初めて人殺した時、どう思った?」


「――……」

「あ~悪い悪い。これ警察時代、いっつも殺人犯に聞いてた質問なのよ」

「……それを聞いて何か実りがあるんですか?」

「いんや何にもない。単なる興味」

「僕は興味本位でプライベートな問題に首を突っ込まれるのは好きません」

「あっそお。ならいいよ。聞いてみただけだし」




「清々しましたよ」




 ライルは遅れて聞こえたシザの声に、そちらを向く。

 サイドミラーにシザ・ファルネジアの冴えた表情が映り込む。


「ずっと僕を苦しめ続けていた男を、この手で殺せた。

 僕は躊躇いも無く、容赦もなく、一撃であいつを殴り殺してやりました。

 でもあいつがちゃんと人の心を持っていれば、それは決してしなかったことです。

 だから僕は少しも後悔していない。

 何度あの場面に時が戻ったって、僕は何回でも同じことをします!


 ――迷いもなく‼」



 犯人の逃走車が、方向を転換してこちらに向かって来る。

 シザはバイクを滑らせながら止めると、軽やかに飛び降りた。

「貴方はそこにいて下さい。プロテクター無しで戦闘に積極的に関わるのは、基本的には規約違反ですから。そういうことをすると【獅子宮】全体でポイント減点されかねませんので」

 ライルは肩を竦めた。

「りょーかい。ここで見てるわ」

 遠くで爆風が巻き起こっているのが見える。

 犯人が二手に分かれたらしい。

 まるでダンスフロアのように、様々な光が点滅している。

 聞こえて来る音も、発砲音や車両音ではない。

 壁や地上を破壊しているような、ドオン! というミサイル着弾みたいな音がして、ライルは声を出して笑ってしまった。

 これは【アポクリファ・リーグ】が世界世界最高峰のエンターテイメントなどと揶揄されるわけだ。


 

 ――キィン!



 シザ・ファルネジアの身体が、光を纏い駆け出していく。

 光の能力者であるシザは瞬間的に自分の身体能力を跳ね上げることが出来る。

 その彼のプロテクターは、通常では判別出来ない高速の視覚運動を補佐するユーティリティ・イメージインテンシファイアと、瞬間的に跳ね上がる身体能力から肉体を守る為の強化プロテクターである。

 これをしなければインパクトの瞬間に自分の体も傷つけてしまうのだ。

 つまり【アポクリファ・リーグ】所属の特別捜査官達は、全員自分たちの能力に応じた特別なプロテクターや補助器具を装備しているわけである。それを総じて戦闘服と彼らは呼んでいる。


 シザは一瞬でスピードに乗ると、暴走しながらこちらに走って来る車をドン! と正面から受け止めた。衝撃で後輪が跳ね上がり、ボンネットもひしゃげる。

 そのまま捻るようにして車を逆さまに、地面に叩きつける。


 バババババ……


 上空から風を吹き降ろして、二台のヘリが近づいて来る。

【アポクリファ・リーグ】の管理室が飛ばしてる中継ヘリだ。

 逆さまになった車の中にいた三人の犯人が狼狽した様子で、窓から発砲して来た。

 シザは素早くこれを躱した。

 しかしこれで、犯人に投降の意志がないとみなしたシザは、車をまるでボールのように上空に蹴り上げて、同時に地を蹴って飛び上がる。一瞬で高位に移動すると、ゆっくり飛び上がって来た車に向けて、渾身の踵落としを叩き込んだ。

 車は隕石のようにコンクリートの地面に叩きつけられてめり込んだ。

 土煙と瓦礫が舞い落ちる。


【処女宮】のルシア・ブラガンザが遅れて到着し、彼女は無駄足を踏まされたとばかりに大きく首を振った。

 すぐに、向こうの方でも【白羊宮アリエス】のアレクシス・サルナートが犯人を逮捕したという知らせが入る。噂のもう一人の優勝候補者もやはり手練れのようだ。


 近くのビルの窓から人々が顔を出し、拳を突き上げて喜んでいる。

 一番近い感覚がスポーツ観戦なのだろう。気に入っている州の州旗や警察署のエンブレムをフラッグにして振っている姿もたくさんある。

 逮捕劇がもはや街の一大イベントだ。

 確かにアポクリファの能力がこれほど迷いなく行使され、行使を推奨され、賞賛を浴びる場所は地球上どこにもない。


 エデン・オブ・アポクリファ。


「面白れぇ街だよな」


 バイクに頬杖をつきながらライルは愉快そうにその光景を眺めた。

 歩いているだけでこんな場面に遭遇するのだから、それは娯楽に飢えた人間にとっては、堪らない街だろう。


 シザ・ファルネジアが戻って来る。

 いつものように戦闘用ゴーグルを外し、まとめていた肩ほどまでの髪を解きながら。




『だから僕は少しも後悔していない!』




【憤怒】という妄執の光を纏い、アポクリファ達はこの地に集う。

 それまでの過去や、惨めな境遇から抜け出したくて。


 ライル・ガードナーはそのどちらでもない。

 彼も力の強いアポクリファで早々に孤児になった。

 それでもその時々で人の群れの中で友人知人を作り、それなりに楽しくも生きて来たし、

理不尽な扱いを受ければこの手で殴りつけて弾き返したから、別に鬱憤だらけだったというわけでもない。

 力は頼りにされたから、いつの間にか人間の世界でも有数の犯罪都市の警官になって、人の為に働いていたことさえある。

 この地に来たのは、そうかそんな待遇でそんなにも給料がいい場所があるなら面白そうだから一度行ってみるかと思ったからだ。


 ライルはこの地が楽園でも楽園じゃなくてもどっちでもいい。


 居心地が良ければ留まり、そうでもなければまたどこか別の場所を探すまでだ。


 この地は楽園ではないかもしれない。

 だが、この世のどこかに必ずそれぞれにとっての理想郷はある。

 彼はそう信じ抜いていた。





(――愛の為に殺した奴って、みんなそう言うんだよな)









【終】



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