転生賢者の異世界商会

折口詠人

第1話:死の瞬間

 蛍光灯の微かな音が佐藤一郎の耳を刺した。深夜のオフィスは彼一人だけだった。青白い光に照らされたモニターには、未完成のコードが並んでいる。


「締め切りまであと三日か……」


 一郎は椅子に深く沈み、天井を見上げた。疲労で目が痛む。三十六時間、彼は席を立っていなかった。


 システム開発部のエースとして、システム障害は彼の管轄だった。大手企業の基幹システムの最適化——これが今回のプロジェクトだった。


 デスクの上のコーヒーは冷え切っている。一郎はそれを手に取り、一口含んだ。苦味だけが口に残った。


「佐藤さん、まだいたんですか」


 警備員の声に一郎は振り向いた。初老の男性が心配そうな目で見ていた。


「ああ、もう少し作業が」


「無理しないでくださいよ。昨日もここでしたよね?」


 警備員の言葉に一郎は微笑んだ。「大丈夫です。慣れてますから」


 警備員は渋々頷き、巡回を続けた。その足音が遠ざかると、再び静寂がオフィスを支配した。


 一郎の目はモニターに戻った。画面の日付表示——10月15日、午前3時12分。外は雨だった。窓を打つ雨音が、彼の孤独を際立たせる。


 ***


 朝の光がオフィスに差し込んだ。一郎は瞬きをした。時計は午前7時を指していた。彼はいつの間にか机で眠っていたらしい。背中が痛む。


「おはよう、佐藤さん。また徹夜?」


 同僚の山田が元気な声で挨拶した。彼女は常に明るかった。


「ああ、ちょっとね」


 一郎は目をこすりながら答えた。頭が重い。


「課長が会議室であなたを待ってるわよ。プロジェクトの進捗報告だって」


 一郎は急いでパソコンを閉じた。会議の存在を忘れていた。彼は立ち上がり、スーツのしわを手で伸ばした。


 会議室では課長と取引先の担当者が待っていた。一郎はPCを開き、進捗状況を説明し始めた。説明の途中、彼の視界が一瞬ぼやけた。


「佐藤君、大丈夫か?」


 課長の声が遠くから聞こえる。一郎は無理に笑顔を作った。


「はい、少し疲れているだけです」


 会議は予定より長引いた。取引先からの追加要望が次々と出された。それぞれに一郎は「対応可能です」と答えた。彼は自分に課せられた期待を知っていた。


 会議室を出ると、一郎は壁に寄りかかった。胸が締め付けられるような痛みがある。「コーヒーを飲めば良くなるだろう」と自分に言い聞かせた。


 ***


 午後11時。オフィスは再び彼一人になっていた。追加要望の対応で、コードは完全に書き直す必要があった。締め切りまで二日——不可能に近かった。


「佐藤さん」


 一郎の名を呼ぶ声に顔を上げると、部長が立っていた。


「いつまでここにいるつもりだ?」


「あと少しで……」


「無理するな。健康あっての仕事だ」


 部長の言葉に一郎は黙って頷いた。しかし、部長が去るとすぐにコーディングを再開した。期待に応えなければならない。責任を果たさなければ。


 天井の蛍光灯が一瞬ちらついた。一郎はそれを気にも留めずコードを書き続けた。それから一時間後——突然、胸に激痛が走った。


「うっ……」


 痛みに一郎は椅子から転げ落ちた。冷たい床に頬が触れる。呼吸が苦しい。携帯電話に手を伸ばそうとするが、腕が思うように動かない。


「こんな……ところで……」


 声にならない言葉が喉から漏れた。視界が徐々に暗くなる。


 三十二歳。未婚。両親は地方に住んでいる。友人とは久しく会っていない。恋人——そんな存在も遠い記憶だった。


「もっと……違う人生を……」


 後悔の念が彼の心を満たした。仕事だけの人生だった。何を残せたのか。誰かの役に立ったのか。


 部屋の隅に小さな光が見えた。それは徐々に大きくなり、一郎の視界を埋め尽くした。その瞬間、すべての痛みが消えた。心地よい浮遊感。彼の意識は光の中へと溶けていった。


 ***


「目を覚ましなさい、少年」


 優しい声が一郎の耳に届いた。彼はゆっくりと目を開けた。


 天井は木造だった。蛍光灯ではなく、暖かな日光が窓から差し込んでいる。彼は小さなベッドに横たわっていた。


「よく眠っていたな」


 声の主は白髪の老人だった。長い髭を蓄え、青い服を着ている。その表情は慈愛に満ちていた。


「私は……」


 一郎が口を開こうとして、驚愕した。声が違う。彼は自分の手を見た。それは幼い子供の手だった。


「混乱しているだろう」老人は微笑んだ。「君はレイン。昨日から高熱で寝ていたのだ」


「レイン……?」


 記憶が混乱していた。佐藤一郎としての記憶。しかし同時に、レインという少年の記憶も頭の中にあった。


「ギルバート先生……」


 その名前が自然と口から出た。レインとしての記憶によれば、この老人は村の賢者だった。


「よかった、私のことを覚えているようだな」ギルバートは安堵の表情を見せた。「熱で記憶を失うこともあるからな」


 一郎——いや、レインは部屋を見回した。石造りの壁。質素な木製の家具。窓の外には見知らぬ風景が広がっていた。


 これは夢なのか? いや、あまりにも鮮明すぎる。胸の痛み、光の中への消失——それらの記憶が鮮明に蘇った。


「私は死んだのか……?」


 レインはつぶやいた。ギルバートは不思議そうな表情を浮かべたが、やがて理解したかのように目を細めた。


「興味深い」彼は椅子に腰掛けた。「君は『記憶者』なのかもしれないな」


「記憶者?」


「前世の記憶を持つ者だ。めったにいない」ギルバートの目が真剣さを増した。「君の前世の記憶、話してみないか?」


 レインは躊躇した。しかし、この状況を理解したいという思いが強かった。彼はゆっくりと口を開いた。


「私は……佐藤一郎。三十二歳のシステムエンジニアでした」


 話し始めると、言葉が自然と流れ出た。日本での生活。会社での仕事。過酷な労働環境。そして最後の瞬間——。


 ギルバートは黙って聞いていた。レインが話し終えると、老人は深く息を吐いた。


「まさに記憶者だ。君は今、アルカディアという世界にいる。そして新たな人生を歩み始めたのだ」


 窓から見える景色——中世ヨーロッパを思わせる家々。遠くには緑の森が広がっていた。


「これが……現実なのか」


 レインの声は震えていた。喪失感と同時に、不思議な解放感も感じていた。佐藤一郎としての重圧から解き放たれたような。


「さあ、起きられるか?」


 ギルバートが手を差し伸べた。レインはそれを握り、ゆっくりとベッドから降りた。足取りはおぼつかない。


「新しい人生だ、レイン。前世の知恵を活かして、この世界で何を成し遂げるか——それは君次第だ」


 老人の言葉が心に響いた。窓の外の風景が、新たな世界の幕開けを告げていた。


 レインは窓に近づき、外の風景を見つめた。異世界での人生——それは終わりではなく、始まりだった。


(第一話 終)

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