現実とは何か

「先ほど君は、この島をSF映画における機械に支配された世界になぞらえた。だがね、その主人公は本当に目覚めているのかな。実は目覚めておらず、機械の選択した夢を見ているだけなのかもしれないよ。自分が超人的な力を持つヒーローとなり、世界の人々を救う……そんな夢だよ」


 ペドロに言われ、昭夫はハッとなった。

 確かに、その通りなのだ。強大な悪の存在に支配される世界。超人的な能力に目覚める主人公。そして、善と悪との戦い。

 まさに、古典的な物語だ。少年時代、誰もが一度は心躍らせる冒険活劇……だが、現実は善や悪で簡単に割りきれるものではない。

 呆然となっている昭夫だったが、話はまだ終わっていなかった。


「ひとつ言っておこう。高木和馬氏はかつて、犯罪者集団のボスだった。大勢の人間を、不幸のどん底に突き落としてきたんだよ。高木氏のせいで死んだ者も、少なからず存在した。これは、君も知っているだろう。俺も、高木氏が人を殺すところを見たことがある」


 否定することの出来ない事実だ。

 高木は、あまり深く語ることはなかった。だが、昔の彼が大勢の人間のしかばねを踏みつけて歩いていたことは間違いない。

 だが、それが今の話と何の関係があるのだろう。昭夫は黙ったまま、ペドロの話に耳を傾けていた。


「確かに、高木氏は立派な人間だった。そのことを否定するつもりはない。しかし、彼が大勢の人間を不幸にしてきた罪人である事実もまた、変わるものではないよ。高木氏は、清廉潔白とは言えない人間だ」


 そこで、ペドロは言葉を止める。昭夫の中に、自分の語った話が染み込んでいくのを待っているかのようだった。

 少しの間を置き、再び語り出す。


「今の君になら、もう話してもいいだろう。岡田雄一氏は、かつて広域指定暴力団『士想会』の一員だった。若い頃は、武闘派として有名だったそうだよ。彼もまた、大勢の人間を不幸にしてきた。何人かの命を奪ってもいる。雄一氏もまた、清廉潔白という言葉からは程遠い人間だ」


 聞いていた昭夫は、思わず顔を歪める。予想してはいたが、こうもはっきり言われるとショックが強い。


「もちろん、岡田結菜さんの身に起きたことは悲しむべきことだよ。許してはいけないことでもある。しかしね、雄一氏もまた大勢の人間を不幸にし、悲しむべき状態に追い込んできた。その事実だけは、どう頑張っても変えられない」


 そこで、昭夫はようやく口を開いた。


「どうすれば……どうすれば、罪を償えるんですか? 高木さんや岡田さんの犯した罪は、何をすれば許されるんですか?」


「それは、俺にはわからない。ただ、生き方の選択は出来る。高木氏は、村人たちの生活を守るため己の命を捨てた。雄一氏は、結菜さんのために一生を捧げる決意をした。彼らの生き方そのものは立派だ。だからといって、犯した罪が全て許されるのかい? 俺は、許されないと思うよ。少なくとも、彼らの被害者は絶対に許さないだろう。これもまた、君の言う現実なんだよ」


 ペドロは、淡々とした口調で語っていく。昭夫は、彼が何を言いたいのか少しずつ掴めてきた気がしていた。

 同時に、自分は何もわかっていなかったことも悟る──


「ひとつ、面白い話を聞かせよう。旧約聖書にはね、こんなエピソードが載っている。イスラエル人であり、神の忠実なしもべであるヤコブという男がいた。そのヤコブの家族が、とある町を訪れた。ところが、ヤコブの娘ディナは、町の権力者の息子に乱暴されてしまう。話を聞いたディナの兄であるシメオンとレビは激怒し、町の男を皆殺しにしてしまった」


「そ、そんな……あなたは、何が言いたいんです?」


 思わず口を挟んだ昭夫だったが、この話が何に繋がるかは、何となく想像できていた。


「君にもわかるだろう。復讐というものは、必ずエスカレートする。目には目を、歯には歯を……では済まないんだよ。一回殴られたから、一回殴り返す。そんなことは、まずありえない。一回殴られた者は、俺は何もしてないのに相手が先に殴ってきたから……という理由で、二回殴る。二回殴られた方は、俺は一回しか殴ってないのに……と憤り、三回殴る。それも、現実だ」


 ペドロの口から語られる話は、昭夫の心を浸蝕していく。


「先ほど引用した聖書のエピソードは、人間の血生臭い本性について書いているのだと俺は解釈している。だからこそ、法律が必要なんだよ。法律で、きちんと管理されなくてはならない。人間の感情、特に正義感は必ず暴走する。被害者感情のみを重視していたら、目は目を、では済まないことになるんだよ。さらに困るのは、無関係な人間が正義の名の下に攻撃してくることだ」


 聞きながら、昭夫は以前に見たネットの書き込みを思い出していた。かつて罪を犯した者に対し、法による裁きは甘すぎるから徹底的に攻撃すべき……と主張し、実名や住所まで晒していたのだ。これはやり過ぎだ、と眉をひそめたのを覚えている。

 だが、直後の言葉は昭夫の胸を打った──


「君とて、結菜さんをこんな目に遭わせた犯人を殺してやりたい、と言った。だがね、人殺しは法的にも倫理的にも、間違いなく悪だ。付け加えるなら、君に犯人を裁く権利はないよ。それは傲慢というものだ」


 そうなのだ。

 あの時、ペドロの前で怒りに任せ、殺してやりたいという言葉を口にした。だが、自分にそんな権利はないのだ。法治国家に住んでいる以上、それは許されない。個人的感情による裁きは、必ず暴走するからだ。

 衝撃を受け、何も言えない昭夫。だが、ペドロの言葉は続く。


「俺の生まれ育った町では、食べる物がなく飢えを紛らわせるために工業用のシンナーを吸っていた子供がいた。自分の子供を、泣き声がうるさいという理由で殴り殺した薬物依存の母親もいた。これもまた、君の言う現実なんだよ。だがね、大半の人間はそこから目を逸らして生きている。都合の悪い部分からは目を逸らし、見ないようにして暮らしている」

 

 あまりにひどい話に、昭夫は思わず顔を歪める。

 これは本当の話なのだろう。この怪物は、子供が虫の足をちぎるような感覚で人を殺す。だが、つまらない嘘はつかない。

 ペドロは、そんな環境の中で成長してきたのだ。ある意味、人間の本性を知り尽くしている。


「ほとんどの人間は、知りたくもない情報から目を逸らしている。この島の住人と、何が違うんだい?」


 違う、と言おうとした。いや、言いたかった。

 だが言えなかった。ペドロの言葉は間違っていない。ほとんどの人間は、結局のところ見たいものだけを見ている。聞きたいものだけを聞いている。知りたいことだけを知る。

 そして、全てを知った気になり死んでいく──


「わかったかい。君の言う現実もまた、健太くんの見ているイマジナリーフレンドと大した違いはないのさ。はっきり言えば、大多数の人間は自分の意思など持っていないんだよ。常識と呼ばれるものを盲信し、ネットなどに己の欲望をコントロールされ、そのために自分の時間の大半を消費している。見たいものだけを見て、見たくないものは拒絶している。そんな者たちの住む世界に、皆を戻そうというのかい? 彼らを、再び好奇の目に晒そうというのかい?」


「いいえ……」


 昭夫はどうにか答えた。

 正直、もう充分だった。あまりに重すぎる話を立て続けに聞かされ、強い疲労感すら覚えていた。実のところ、ここで終わりにしたかった。

 だが、まだひとつ残っている。絶對に聞かなくてはならない疑問が……。

 

「もうひとつだけ、教えてください。あなたは、これからどうするんですか?」






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