怪物の徘徊

 その瞬間、ペドロが何をしたのか……吉村の目には、はっきりとは見えていなかった。そのくらい速く、自然な動きだった。

 わかっているのは、ペドロが接近した直後、木嶋が宙に浮いたことだ。百キロを超えているはずの男の体が、ふわりと浮き上がったのである。まるで、重力がなくなったかのようだ。

 次の瞬間、ドスンという音がした──

 吉村の目の前で、木嶋の巨体が仰向けに倒れていた。続いて、呻き声が漏れる。木嶋の口から出たものだ。

 それは、ほんの数秒間の出来事であろう。だが、吉村には数十倍の長さに感じられていた。なぜか、心臓の鼓動さえ遅く感じられる。目の前で起きたことは、完全に理解を超えていた。UFOが着陸しエイリアンが降りて来たとしても、ここまで驚かなかっただろう。

 ペドロの目が、こちらに向けられる。いつのまにか、手で触れ合える位置まで接近していた。

 それは、半ば反射的な動きだった。吉村は、両腕を伸ばし相手の首を抱え込む。首相撲に捕らえ、顔面への膝蹴りを叩き込む……つもりだった。

 だが、首を両腕でロックした瞬間、愕然となる。全く動かないのだ。首と、それに連なる体幹が強すぎる。まるで大木のようだ。どんな鍛え方をしたら、こんな肉体が出来上がるのか。

 次の瞬間、吉村の体が宙に浮いた。直後、意識が途切れる──

 気がつくと、目の前には青空が広がっている。仰向けに倒れているらしい。何が起きたのか、まだわからない。悪い夢でも見たような、奇妙な気分だ。

 その時、ペドロの声が聞こえてきた。


「運がよかったね。君らを殺すほど、今の俺は暇じゃない。ここでじっとしていたまえ。運が良ければ助かるだろう」




 ペドロが去って、どのくらいの時間が経過したのだろう。

 不意に、吉村の口から声が漏れる。クックック、という笑い声だった。


 怖くねえ。

 ペドロや桐山に比べれば、ムエタイのチャンピオンも怖くねえや。

 やっと吹っ切れたよ。


 ・・・


 徳田昇トクダ ノボルは、地面に座り込んでいた。もう、これ以上は歩きたくない。山歩きの過酷さを、身を持って理解する羽目になった。

 座り込んだまま、周りを見回す。そもそも、今どのあたりにいるのかさえわからない。これ以上歩くと、迷ってしまうかもしれない。


「来るんじゃなかったよ」


 ぽつりと呟いたのは、隣で座り込んでいる福沢フクザワである。

 ふたりとも二十代だが、裏の世界ではそれなりに知られている。裏社会の仕事師として今まで生きてきた。現金輸送車を襲ったり、要人を誘拐したりといった荒事を専門にやってきた。

 しかし、山の中ではまるきり勝手が違う。徳田も福沢も、街中での仕事に特化したタイプだ。山歩きには慣れていない。山道を歩くのは、舗装された道路を歩くことに比べるとスタミナの消耗が激しい。

 ましてや、スマホの通じない場所での探索など初めての経験だ。


「本当だよな。楽な仕事だって聞いてたけどよ、ぜんぜん楽じゃねえ。割り増しもらいたいくらいだな」


 徳田も答える。

 事前に徹から聞いた話では、田舎の村に誘拐されたふたりの娘を連れ戻すだけ、のはずだった。金もいい。求められている仕事は、万一の事態に備えたバックアップ要員である。徳田も福沢も、何の迷いもなく引き受けた。

 ところが、来てみればスマホも通じない山の中である。まさか、こんな場所を探索することになるとは。


「もうさ、全部あいつに任せてよくねえか」


 ボソッと呟いた福沢に、徳田は顔を上げる。


「あいつって、桐山か?」


「ああ。俺さ、あんな奴見たことねえよ。矢部さんを病院送りにしちまうは、広田の拳銃を一瞬で取り上げるは、人間じゃねえよ」


 語る福沢の表情は、どこか虚ろなものだった。徳田も、大きく頷く。


「確かにな。あんな奴がいるとはな」


 そう、桐山のインパクトは凄まじいものがあった。彼らとて、それなりに喧嘩慣れしている。街のチンピラが相手なら、簡単に捻り潰せる自信はあった。

 だが、目の前で見た桐山の喧嘩は、勝手が違っていた。あんなものを見たのは初めてである。鍛え抜かれた元自衛官の矢部が、いとも簡単に倒されたのだ。

 しかも、昨日は皆の目の前で広田の拳銃を奪い取ってみせた。あんなことのできる人間が、現実に存在するとは……。

 その時だった。すぐ近くに、男が立っていることに気づく。顔の造りから見るに外国人だ。

 徳田は、反射的に立ち上がっていた。いつのまに現れた? 音も立てず、どうやって近づいた? そもそも何者だ?

 様々な疑問が浮かぶ。なぜか、足が震え出していた。その震えをごまかすため、凄まじい形相で怒鳴り付ける。


「誰だてめえは!?」


 だが直後に、桐山の言っていたことを思い出した。


(ペドロ博士はとんでもないバケモンだってこと)


 確かにそう言っていた。ひょっとして、この男がペドロなのか?

 そのペドロと思われる人物は、飄々とした態度で口を開いた。


「名乗るほどの者ではない。それ以前に、君ら相手では名乗る気にもなれないな」


「はあ? 何をふざけたことを……」


 言った時だった。突然、ペドロが動く──

 その瞬間を、徳田も福沢も捉えられていなかった。ペドロは動きが速いだけでなく、動き出すタイミングも完璧であった。

 人間には、ふっと緊張が途切れ意識が空白になる瞬間がある。目の前にいる相手に視線を向けているが、実は見えていない。あるいは、見えていても変化に反応できない。ほんの零コンマ何秒ではあるが、そんな瞬間があるのだ。

 格闘技の試合には時々、なぜこんなパンチが当たった? と疑問に思うような場面がある。大半のケースは、フェイントなどを混ぜ意識を散らした上で放たれたパンチである。ただ、中には意識の途切れた瞬間を、偶然に捉えたケースも存在する。

 言うまでもなく、常人に狙えるようなものではない。しかし、ペドロはそのタイミングで動いていた。拳銃を向けている徳田に、一瞬にして接近する。拳銃を撃てば、確実に当たる距離だ。指にほんの少し力を入れるだけでいい。にもかかわらず、徳田にはそれが出来なかった。

 そこからのペドロの動きは、舞踊のごときものであった。拳銃を掴み、銃口を上を向ける。と同時に手首を捻り関節を破壊しつつ、足払いをかける。

 徳田は、何の抵抗も出来ず転倒させられた──

 全ては、一秒ほどの間に起きた出来事だ。傍らにいる福沢はもちろん、やられた本人ですら何が起きたかわかっていなかった。

 一瞬遅れて、徳田の口からゴホッという声が漏れる。投げられた衝撃により、全身の機能が一時的に麻痺してしまったのだ。動くことすらできない。

 それを見た福沢が、拳銃を構えた。怯えた顔で喚く。


「てっ、てめえ! 何しやがる──」


 言い終えることは出来なかった。ペドロが、すっと動き間合いを詰める。拳銃に対し怯む気配は無い。

 続いての動きも滑らかで、流れるように進んでいく。福沢の拳銃を構えた手は横に逸らされ、首に手が伸びる。

 直後、喉を掴まれた──

 福沢の思考は、すぐに消えた。片手で喉を掴まれ、一瞬にして持ち上げられる。直後、地面に叩きつけられたのだ。後頭部を強打し、意識を完全に失う。

 ペドロは、倒れたふたりを見下ろした。その目には、何の感情も浮かんでいない。ややあって、口を開いた。


「これで、残るは竹内徹氏と桐山くんだけだ。君らは、ここでしばらく休んでいたまえ。自然の中で休暇を満喫できると思えば、そう悪いものでもないだろう。ただ、このあたりには野犬も棲息している。動けない間に遭遇したら、不運と思って諦めてくれたまえ」





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