十、最後の決戦
獅子に咥えられた凪が連れて来られたのは、見覚えのある場所だった。
つい先程まで鼓膜を震わせていた花火の音は一切しない静寂の世界。それが怖くて凪は思わず身震いをした。
「すまない、乱暴なことをして」
獅子はそう言うと、凪を床にそっと下ろす。ここはどこだと暗闇の中、目を凝らすと、そこは湯福神社だった。
冷たい風に乗り、蝋梅の甘い香りが鼻腔を擽る。火鉢も何もない神殿は震えあがるほど寒かった。
「もしかして、あんたは……」
「あぁ、君の察しの通りだ」
獅子が静かに言葉を紡いだ後、凪の視界が真っ白になる。思わず両手で顔を覆い目を瞑ると、辺りは恐ろしい程の静寂に包まれた。
煙が消えた後恐る恐る目を開くと、目の前には眉目秀麗な男が自分に向かって微笑みかけている。男は凪が見知った人物だった。こんなにも美しい男を、忘れるはずなんてないだろう。
「湯庵様、なんでこんな人攫いみたいなことを? 仮にもあんた、神様だろう?」
「人攫い……か。そうだね。僕は最低なことをしてしまったね」
凪の言葉に、湯庵が顔を曇らせる。
一体なぜこんな所に自分を連れてきたのだろうか……凪は湯庵をじっと見つめた。
以前ここで湯玄と口付けを交わした時に溢れ出した源泉の湯は、今はすっかり干上がってしまっている。廃れてきった神社にも関わらず、境内には蝋梅や桃の花が咲き乱れていて、それがかえって寂しさを掻き立てていった。
「実はね、僕も君は夕凪の生まれ変わりではないかと思っていたんだ。だって、君と夕凪はあまりにもそっくりだから」
「もし俺が夕凪だとしたら、なんだって言うんだよ?」
「そうだね、君が夕凪だとしたら……もしくは、夕凪と同等の力を持っているとしたら……。きっとこの村の源泉をもう一度復活させることができるはずだ」
「…………」
「凪。僕はもう一度この湯福神社の源泉を復活させたいんだ。そして福寿村を復興させたいと思っている。ねぇ、凪。この神社の庭を見たことがあるかい?」
湯庵が寂しそうに神社の境内へと視線を移す。その視線の先には干上がった池があり、誰の目を楽しませることのない蝋梅と福寿草が綺麗に花を咲かせていた。
「この村はかつて温泉で溢れ、多くの旅人で賑わっていた。あの干上がった池からは想像できないかもしれないけれど、あそこには湯畑があったんだよ。昼間は日差しを受けキラキラと輝いた温泉が流れ落ちて、夜になると灯篭に照らされた湯畑がとても綺麗だった。僕は、あの光景を忘れることなんてできない」
湯庵が顔を苦痛で歪めながら凪を見つめる。そしてゆっくりと距離を詰めてきたから、凪は思わず全身に力を込めた。
「福寿村を復興させるには、湯石と強力な生力が必要だ。しかし、今の僕に花嫁を捧げてくれる村人なんていない。それどころか、僕は神力が籠められた湯石さえ持っていないんだ」
「だから、なんだって言うんだよ⁉」
嫌な予感が頭をちらついた凪は、湯庵を睨みつける。しかしどんなに虚勢を張ったところで、かすかに震える声のせいで、ただの強がりにしか聞こえないことだろう。凪は思わず後ずさった。
――どこかに扉はないだろうか?
辺りを見渡してみるが、唯一外へと繋がっている扉の前には湯庵が立ち塞がっている。凪がここから逃げ出すことは不可能だ。そんな現実に絶望感を覚える。
「湯玄様、助けて……!」
凪は震える唇で、そっと湯玄の名を呼んだ。
「お願い、凪。抱かせてくれ」
「嫌だ、絶対に嫌だ‼」
「凪から生力を分けてもらう以外、福寿村を復興させる手段は残されていないんだ。この村の神として、僕にはこの村を元の姿に戻すという責任がある。僕が不甲斐ないばかりに、多くの人を不幸にしてしまったから……。この村の人たちはみんな優しかった。でも、今は僕のことを恨んでいることだろう」
悲痛に顔を歪める湯庵を見て凪は思う。
――あぁ、この人はこの村を純粋に復興させたいだけなんだ。
やり方こそ間違っているかもしれないけれど、凪には湯庵の思いがわかるような気がする。湯庵は、心の底から福寿村を愛していたのだ。
「ごめんね、少しだけ我慢して」
「湯庵様、待って……」
凪が拒絶する間もなく、床に押し倒されてしまう。冷たくて硬い床の感触に凪は短い悲鳴を上げた。自分より体格のいい湯庵に馬乗りになられてしまえば、凪にはもうなす術がないように感じられた。
女性のように美しい湯庵のどこに、こんな力があるのだろうか? 凪は呆然とそう思う。馬乗りになった湯庵が、そっと凪の頬に触れた。
「凪、可愛い。大丈夫、僕はずっと君を花嫁として大切にするから」
「嫌だ、怖い……湯玄様……湯玄様……!」
「なんで僕じゃ駄目なの? 僕だって湯玄と同じ湯の神だ。この村の源泉を二人で復活させよう? そして、僕の所にお嫁においで?」
「嫌だ、嫌だぁ」
凪は首を振り、最後の抵抗を見せる。そんな凪を宥めるように、湯庵が凪の額にそっと唇を寄せた。
「僕に体を委ねてごらん? 気持ちよくしてあげるから。湯玄のことなんて忘れてしまうくらいに」
優しく微笑んだ湯庵が、しゅるっと凪の着物の帯を解いていく。凪は恐怖からか体の震えが止まらない。どんなに噛み締めても奥歯がガチガチと音をたてた。
湯の神の花嫁になるためには、清らかな体でなければならないという決まりがある。今ここで湯庵に体を汚されてしまったら、凪は湯玄の花嫁になることができない。それは絶対に嫌だ……凪は最後の力を振り絞り、大きく息を吸い込んだ。
「凪の生力を僕にちょうだい?」
「嫌だ、嫌だ‼ 湯玄様、助けてぇ‼」
凪が絶叫した瞬間、物凄い風圧と共に神殿の壁が粉々に砕かれ、大きくて真っ黒な物が飛び込んでくる。凪は何が起きたのかが理解できずに、目を見開いた。
凪が目を凝らすと、そこには山のように大きな獅子が立っていた。大きく裂けた口からは真っ赤な舌が覗き、鋭く見開かれた目は明らかに怒気を含んでいる。荒い呼吸を繰り返す獅子の鼻息だけで、凪は吹き飛ばされそうになってしまった。
獅子の毛は闇より黒く、満月に照らされて艶々と輝いている。そのあまりにも猛々しい姿に、凪は思わず息を呑んだ。
「もう来たのか? 湯玄よ」
湯庵が苦虫を嚙み潰したように吐き捨てた言葉を聞いて、凪は言葉を失ってしまう。そして目の前にいる真っ黒な獅子を見つめた。
「あれが……湯玄様……?」
そんなことが信じられるだろうか? あの獅子があの湯玄だなんて。
「凪に触れるなと忠告したはずだ。これ以上凪をつけ狙うなら、同じ湯の神のお前でも許すことはできない‼」
大きな口を開け、湯庵に飛び掛かる湯玄を見て凪は思わず目を閉じて、体を縮こまらせる。いくら神と言っても、あの牙で噛みつかれたら一溜りもないだろう。
バリバリッと壁を突き破る爆音と、何かがもつれ合うけたたましい音に、凪はそっと目を開く。
「あッ!?」
あまりにも衝撃的な光景が目前に広がっており、凪は心臓が止まる思いだった。
湯福神社の境内では真っ黒な獅子と亜麻色の毛色をした獅子が、砂ぼこりをたてながら死闘を繰り広げていた。
獅子は激しく揉み合い、鋭い牙を剥き出しにして相手に向かって行く。そのあまりの迫力に、凪はその場から動くことさえできなかった。
「あの黒い獅子が本当の湯玄様の姿……湯の神の正体は、獅子だったんだ……」
凪はポツリと呟く。あまりにも信じられない光景を目の前に、二匹の獅子を呆然と見つめた。
「湯庵、福寿村を復興させたいというお前の気持ちは痛い程わかる! だが、凪を渡すことはできない!」
「黙れ‼ 湯石だけでなく、源泉まで失った僕の気持ちなど君にわかるものか⁉」
湯玄が天地を揺るがすような遠吠えをしたあと、湯庵に向かい突進していく。そんな湯玄を、湯庵は臆することなく待ち受けた。
ガンッ‼ 大きな獅子同士がぶつかる音に大地が大きく轟く。
「目を覚ませ! 湯庵!」
「グハァッ‼」
湯玄が湯庵の首筋に勢いよく噛み付くと、ゴリゴリッという骨が砕けるような耳障りな音が響く。湯庵は断末魔を上げた。
二匹の死闘は、一見湯玄が有利に見えた。しかし、獅子となった湯玄はフラフラしており、今にも倒れてしまいそうなほど荒い呼吸をしている。
神力が底を尽きそうな湯玄は、もう湯庵と戦う力も残されていないのかもしれない。
それでも湯庵を睨みつけ、今にも地面を蹴り飛び掛かっていきそうな勢いだ。
「僕だって湯の神だ。この村が、この源泉が、昔のような姿を取り戻してくれることを、ずっと願ってきた。そしてその夢が今叶いつつある。この源泉を復活させるためなら、俺は邪神にだって魂を売ってやる」
「湯庵、貴様……」
「凪は僕の花嫁だ‼」
「黙れ‼ 凪は、凪は私のものだ——⁉」
湯庵が勢いよく地面を蹴り飛ばし、湯玄に向かい突っ込んでいく。逃げ遅れた湯玄の首筋に牙をたてると、まるで間欠泉のように血飛沫が飛び散った。
「グワ゛ァァァッ‼」
湯玄が耳をつんざくような悲鳴を上げる。しかし最後の力を振り絞り、湯庵の体をなぎ倒した。
「湯玄様⁉」
凪が慌てて湯玄のほうへ向かうと、湯玄は天を見据えている。そのボロボロに傷ついた体でまだ戦おうというのだろうか? 止めないと……凪は無我夢中だった。
「駄目だ、湯玄様⁉ 行かないで⁉」
そのまま空高くへ飛び上がっていってしまいそうな湯玄の元へと駆け寄り、凪はその首にすがりついた。凪の着物が、一瞬で湯玄の温かい血液で染まっていく。その光景を見た凪は、ギョッと目を見開いた。
「湯玄様、もう戦ったら駄目だよ。これ以上動いたら傷口が開いて、もっとたくさんの血が出ちまう。だから、もうやめてくれ」
抱き締める獅子はひどく逞しくて、猛々しい。凪なんて簡単に吹き飛されてしまうそうだ。荒い呼吸を繰り返す湯玄は、今にも食われてしまいそうな程恐ろしい容姿をしているのに、その黒い瞳はいつもの湯玄のものだった。
それを見て凪は安堵する。
――よかった。この獅子は本当に湯玄様だ。
愛おしさが込み上げてきたから、凪は湯玄を力いっぱい抱き締めた。
「もう行かないで、湯玄様」
「……それはできない」
「なんで!? このままじゃあ、湯玄様が死んじゃう⁉」
凪が湯玄から少しだけ体を離すと、獅子は穏やかな声で言葉を紡ぐ。また湯玄が湯庵の元に行ってしまうのではないか……それが怖くて、凪はもう一度湯玄を強く抱き締めた。
「其方は私の花嫁だから」
「……花嫁……」
「あぁ、そうだ。私はこんなにも花嫁を愛おしいと感じたことはない。今までの私にとって、花嫁とは源泉を枯らさないためだけのものだった。それ以上でも、それ以下でもない。でも、凪……其方は違う。私は其方が愛おしくて仕方がないのだ」
「湯玄様、でも……」
「だから、私は其方を守るために湯玄を仕留めなければならない。凪はこの私だけの花嫁なのだからな」
そう囁いた湯玄が、凪の顔を大きな下でペロッと舐めてから、凪の体に頬ずりをする。大きな獅子に擦り寄られた凪は、あまりの力強さに倒れそうになってしまった。
「だから私は行く。凪はここにるんだ。巻き込まれてしまったら大変だ」
「でも……」
「いいか? ここで待っていろ。必ず迎えに来るから」
そう言い残すと、湯玄は再び空高くを見上げる。力強い前足で地面を蹴り空高くへと飛び上がった。
それを追うように湯庵も空へ駆け上がっていく。二匹の獣はまるで光の矢のように絡み合いながら、湯滝村のほうへ消えていってしまったのだった。
「どうしよう……早く二人を追いかけないと……!」
凪は急いで二人の後を追おうとしたが、まるで風のように飛んで行ってしまった二匹の獅子を追いかける手段が凪にはない。かと言って、悠長に走って向かう時間はなさそうだ。
「畜生……あのままでは、湯玄様が負けちまう……!」
湯玄はあんなにも勇敢に立ち向かっていったのに、自分はそんな湯玄を追いかけることさえできない。自分の無力さが情けなくて、凪は震える手をぐっと握り締めた。
「湯玄様……」
凪は自分の、人間の無力さを痛感する。所詮人間は、神の足元にも及ばないのだ。その現実が、悲しかった。
凪が湯玄の名前を呼んだ瞬間、後ろから「ワンワン」という犬の声が聞こえてくる。驚いた凪が振り返ると、そこには紅さんと青さんがこちらを向いて立っていた。
「なんでこんな所に、紅さんと青さんが?」
震える凪の傍に駆け寄り、顔をペロペロと舐める二匹の獅子に凪は救われる思いがした。先程目にした、二匹の山のように大きな獅子とは比べ物にならないけれど、今の凪には力強い仲間のように感じられたのだ。
「ワンワン!」
青さんが凪の胸に頬ずりをしながら、何かを訴えるかのように鳴く。何を言いたいのかがわからない凪が首を傾げていると、青さんは地面に座り込み、もう一度「ワンワン!」と鳴いた。
「……もしかして、青さんの背中に乗れってことか?」
「ワンワン!」
「でも……」
凪が躊躇っていると、紅さんが凪の着物の裾を引っ張る。その仕草は、まるで「早く青さんの背中に乗りなさい」と言っているように思えた。
「わかった。青さん、よろしくね」
「ワンワン!」
凪はおっかなびっくり青さんの背中に跨る。青さんは凪が想像していた以上に大きくて、逞しかった。
「紅さん、青さん。俺を湯玄様の元まで連れて行ってくれないか?」
「ワンワン!」
紅さんと青さんが嬉しそうに鳴いた後、まるで光の速さのごとく走り出したのだった。
「凄い! 青さんってこんなにも力持ちなんだね!」
凪は背中から振り落とされないよう、無我夢中で青さんの首にしがみつく。あまりの速さに呼吸さえできないほどだ。
凪を背に乗せた青さんと隣を走る紅さんは、脇目も触れず湯花神社へと向かって行く。
もうすぐ湯花神社に到着するというところで、季節はずれの雷鳴が辺りに響き渡った。ピカピカッと稲妻が走り、辺りが眩い光に包まれる。
「なんだよ、これ⁉」
青さんの背に揺られながら天を仰ぎ見た。目を疑うような出来事の連続に、凪は戸惑いを隠しきれずにいる。神々の怒りとは、こんなにも恐ろしいものなのか……凪はそれを思い知ったのだった。
祭りが終わった湯花神社に人はおらず、境内は暗闇に包まれている。そんな静寂の中、二匹の獅子が争う音が響き渡った。
「グワーーーーッ‼」
辺りを揺らすような遠吠えと共に、二匹の獅子が空中で激しくぶつかり合う。そのあまりの衝撃に、空気がビリビリッと揺れた。次の瞬間、湯庵が湯玄の腹に噛みつき、あたりに血の雨が降り注いだ。
「湯玄様⁉」
湯玄は勢いよく地面に叩きつけられるが、すぐに空を睨みつけ飛び立っていく。それを迎え撃つ湯庵の体にも無数の傷があり、ポタポタと血が滴り落ちていた。それでも争うことをやめようとしない姿に、凪の全身の血液が凍り付いていく。
「このままじゃ、二人共死んでしまう……止めなきゃ……」
凪は恐怖を振り払うかのように、拳を強く握り締める。恐怖から体が震えるけれど、もうそんな呑気なことを言っている暇はなさそうだ。
「青さん、二人の所に向かってくれ!」
「ワンワン!」
凪が争うことをやめようとしない二人の元に向かった瞬間、稲妻が天を引き裂いていく。大地が割れんばかりに大きく揺れた。
――どうか、二人共死なないで……‼
「湯玄様‼」
「ぎゃああああ‼」
凪が叫んだ瞬間、闇夜に二匹の獅子の断末魔が響き渡り……湯玄と湯庵は地上へと叩き落とされたのだった。
◇◆◇◆
「湯玄様‼」
凪は悲痛な声を上げながら、空から落ちてくる湯玄の体を受け止める。湯玄を受け止めた衝撃はすさまじいもので、凪は「グァッ!」と悲鳴を上げる。全身の骨が粉々に砕けてしまったかのように体中が痛んだ。
湯玄は先程までの獅子の姿ではなく、凪が見慣れた人間の姿だった。しかし、唯一残された耳と尾が力なく垂れ下がっている。
辺りを見渡し湯庵の姿を見つけるが、意識を失っているだけで呼吸はしているようだ。
それよりも、湯玄のほうが目に見えて危険な状況である。
「湯玄様、湯玄様‼」
湯玄の逞しい体を抱き上げ、そっと体を揺らす。脱力しきった湯玄の腕がダランと地面に落ちた。その光景に凪の体から血の気が引いていく。
「なんだ、これ……」
自分の手に温かくてぬるぬるしたものが纏わりつく感覚に、思わず顔を顰める。恐る恐る自分の手を見た凪は思わず呼吸が止まった。
「血だ……」
凪の手がカタカタと小さく震える。抱き上げた湯玄の腹には深い傷があり、そこからおびただしい量の血液が流れ出していた。仰天してしまった凪は、自分の着物の袖を口で破り、その傷に押し当てる。
神とは不死身なのだろうか? 凪の心が不安で埋め尽くされる。こんなに出血をすれば、普通の人間であれば恐らく命を落としてしまうことだろう。そう考えると、凪は半狂乱になってしまいそうになる。
「お願い、湯玄様。死なないで……お願いだ……」
凪の着物は湯玄の血液で真っ赤に染まり、地面には血だまりができている。でも凪は湯玄の傍にいることしかできない。歯痒くて、苦しくて……。
「わ゛ぁぁぁぁ‼」
大声で泣きながら力任せに湯玄を抱き締めた。凪の頬を大粒の涙が流れ、鼻水で顔はグチャグチャだ。でもそんなことはどうでもいい。凪は声を上げて泣き続けた。
そんな凪の傍に寄り添い、紅さんと青さんが「クーンクーン」と心細そうな声で鳴いている。
「何が夕凪の生まれ変わりだよ⁉ 夕凪は湯玄様を助けることができたのに、俺には何もできないじゃないか!? 俺は、本当に出来損ないの花嫁だ‼ わぁぁぁぁ‼ 湯玄様、湯玄様ぁ‼」
空からヒラヒラと粉雪が舞い始め、音もなく地面に吸い込まれていく。
どんなに泣いても湯玄が目を覚ますことなんてない。体は氷のように冷え切って、獅子だった時の耳と尾が力なく垂れ下がっていた。
「湯玄様、戻って来て……」
凪は静かに湯玄に口付ける。いつも温かかった湯玄の唇からは全く体温が感じられない。それが悲しくて、凪はもう一度湯玄を抱き締めた。
「湯玄様、俺の生力を受け取って……! 俺の生力を全部あげるから。俺はあんたが元気になってくれるんだったら死んでも構わない……! だから、受け取ってくれ……!」
繰り返し湯玄に口付ける凪が持つ湯石が、徐々に熱を帯び始める。先程まであんなに冷たかった湯石の変化に、凪は思わず目を見開いた。
「もしかしたら……」
震える手で湯石を懐から取り出すと淡い光を放っている。どんどん熱くなっていく湯石は、心臓のように拍動を打っているようにも感じられた。
もしかしたら湯玄が息を吹き返すのではないだろうか……凪は祈るような思いで湯玄を見つめる。雪が湯玄の頬に落ちて、スッと消えていった。
――パリンッ‼
静かな空間に、硝子が割れるような音が響き渡る。ハッとした凪が手の中にある湯石を見ると、真っ二つに割れてしまっていた。それを見た凪は絶句する。
やっぱり湯玄は助からないのではないか……最悪の結末が凪の頭の中を過っていった。
凪の手の中から、二つに割れた湯石がコロンと地面に転がり落ちる。そんな様子を、呆然と眺めた時だった。
「なんだ、凪。泣いているのか? 其方は気が強いのか、泣き虫なのかわからないな」
「……ゆげん、さま……」
「泣くな、凪。私は大丈夫だ」
力なく地面に投げ出されていた湯玄の腕が動き、凪の頬を優しく撫でた。疲れ切っているだろうに、懸命に微笑む湯玄の姿に凪の心が熱くなる。
――よかった、湯玄様は死んでなどいなかった……。
安堵した凪は、意識が遠退いていくのを感じる。そんな凪を見た湯玄が、目を細めて笑った。
「心配するな。神は病や怪我では死なない。それに、其方が生力を分けてくれれば、こんな傷たちまち治ってしまうぞ」
「あんたって人は、こんな時まで……」
「ふふっ。凪、ようやく笑ったな」
「あ……」
あまりにも普段通りの湯玄に凪が呆れ顔をすると、湯玄が声を出して笑いだす。その笑顔に、凪まで嬉しくなってしまった。よかった、湯玄様が笑っている……凪は、もう一度湯玄が生きていることを確かめるように、力いっぱい抱き締めた。
「いいよ。俺の生力を分けてやるよ」
「ん? どういうことだ?」
「だから、抱いてもいいって言ってんの! 恥ずかしいんだから、こんなこと言わせんじゃねぇよ!」
顔に一気に熱が籠ってしまった凪は、照れ隠しに唇を尖らせる。「抱いて欲しい」と素直に言えないけれど、凪にしてみたら精一杯の愛情表現だった。
「確かに俺はあんた程長く生きることはできないけれど、それでも俺の命が尽きるまで、あんたの傍にいるからさ」
「……そうか、わかった。これでようやく、私たちは夫婦になれるんだな」
「あぁ、大事にしてくれよ? 旦那様」
「は?」
「な、なんだよ……」
湯玄がまるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているから、凪は眉を寄せる。今更凪を嫁にすることが嫌だ、と言い始めるのではないかと勘繰ってしまった。
「其方、今、私のことを旦那様と……?」
「ん? あー、言ったかもしれないな」
「おい、もう一度言ってみるんだ! 今度は聞き逃さないよう、ちゃんと聞くから」
湯玄が真剣な顔をしながら凪の手を握り締める。つい先程は勢いで言えたが、いざ「言ってみろ」と言われると恥ずかしくて言えたものではない。かと言って、凪が嫌だと言っても湯玄が引き下がることはないだろう。
「仕方ないか……。湯玄様、耳を貸しな」
凪は大きく息を吐きながら、覚悟を決めた。
こんな深手を負う程必死に戦ってくれた湯玄を思えば、今くらいは素直な花嫁になりたい……凪はそう思ったのだった。
「一生大切にしてな? 旦那様」
「…………」
「な、なんだよ? なんか言えって! 恥ずかしいだろうが⁉」
凪が顔を真っ赤にしながら湯玄を責めたてると、湯玄まで頬を赤らめている。その予想だにしていなかった反応に、凪は度肝を抜かれてしまった。
「どうしたらいいのだろうか……私は今凄く嬉しい。こんなに花嫁を愛おしいと感じたのは生まれて初めてだ」
「湯玄様、そんな大袈裟な……」
「大袈裟などではない。凪、其方を大切にする。一生な」
「ありがとう。すげぇ、嬉しい」
二人で見つめ合うと、なんだか照れくさくて。顔を見合わせて笑った。
それからそっと瞳を閉じて、口付けを交わす。触れ合う湯玄の唇は温かくて、凪の心が熱く震えた。湯玄との口付けは温かくて甘い。頭の芯がチリチリと痺れていくのを感じた。
「湯玄様との口付け気持ちいい」
「凪、私も気持ちいいぞ」
「蕩けそうだ……」
湯玄との口付けに陶酔してしまった凪は、夢中でその唇を堪能した。
まるで夢現の中、凪は地面が揺れ動くのを感じる。地面に転がり落ちた湯石が赤い光を放ち、高温からか辺りの草が焼き焦げていた。
源泉の湯が急激に沸騰し始めて、ボコボコと大きな泡がいくつもできては、すぐに割れていく。温泉が煮えたぎる音が辺りに響き渡った。凪と湯玄はあっという間に白い煙に包まれてしまい、何も見えなくなる。
次の瞬間、勢いよく間欠泉が吹き出した。
吹き出した間欠泉は一つだけでなく、どんどんと源泉に湯が溜まっていく。溜まった温泉は物凄い速さで流れていき、滝下へと落ちていった。
「あぁ、よかった」
凪は思う。
きっとこれからは、源泉が枯れることなんてないだろう。なぜなら、湯玄には生力を分け与えてくれる花嫁がいるのだから。これから先、湯玄と二人で源泉を守っていこう……凪はそう心に誓った。
「凪よ、椿屋に帰ろう」
「うん!」
二人で見つめ合ってから、もう一度微笑んだ。
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