第3話 不安と、楽しい気持ち
それから数日後。
「はじめまして」
家から車で一時間の場所にあるファミレスで、俺と両親と浅見さんで待ち合わせていた。
お父さんとお母さんが考えた結果、「浅見さんに直接聞きたい」と言ったのだ。
浅見さんは鞄と、バットのケースを持っている。俺たちと話した後に練習をするのだろうか?
午後三時。店は空いていて、落ち着いて話ができる。
お母さんは少し無理をしているように見えるけど、「大丈夫」としか言わない。だから俺からは何も言わないことにした。
「友樹から話を聞きました」
お母さんがいつもと違う張りのある声だ。髪を綺麗に結いあげている。カジュアルだけど、人と会うときに着る服を着ている。病人ではないように見えた。
浅見さんが遠園シニアの説明をした。
「友樹くんなら、通用すると思います。一年生からレギュラーになったとしてもおかしくありません」
そんなに認められていたなんて。俺は嬉しさと照れ臭さで、浅見さんの顔を見れずに俯いた。
お父さんとお母さんはちっとも照れていなくて、ひたすらに嬉しそうだ。
だけど、送り迎えが片道一時間であること、当番制で親が手伝いに行くことの話になると、お父さんとお母さんの様子は変わってしまった。
やはり駄目だろうな。お母さんが俺に野球をやらせたいと思っている気持ちは本物だ。それは分かってる。だけどだからってできないことはできない。
しかたない。「大丈夫だよ、中学でやるから」と言おうとした、そのときだった。
「事情を話して誰かに当番を代わってもらうことはできますでしょうか? ささやかながらお礼もします」
お母さんが思いきったことを言った。
「私らが直接他の子の親御さんに頼みます。よろしいでしょうか?」
お父さんも続いた。
俺はそんなことをちっとも考えていなかったので驚いた。だけど浅見さんは大して驚いていないようだった。
「今度、新入生同士の紅白戦が行われます。子供たちのご両親も皆さん集まると思いますから、その日に挨拶すればいいと思います」
お父さんとお母さんが熱心に頷いている。
俺の中にいろんな気持ちが生まれた。
俺のことなのに、お父さんお母さんと浅見さんが話を進めていることに、ちょっと不安になる。
普段は弱弱しいのにお母さんなのに、頼もしさを感じる。
仕事とお母さんの面倒をみるのでいっぱいいっぱいのはずのお父さんもやる気にあふれていて、びっくりする。
「シニアに入団するかどうかはその後に決めていただいて構いません」
穏やかな笑顔の浅見さんにお父さんとお母さんが頭を下げるのを見て、俺も慌てて頭を下げた。
その後は、大人三人でお金の話をしていた。俺は入れない話だ。お金の話は、なんとなく胸がざわざわして不安になる。
そろそろ話し合いは終わったかと思ったとき、浅見さんが俺に笑いかけてきた。
なんだろう。
浅見さんがバットのケースをテーブルの上の食器にぶつからないように、慎重に友樹に手渡した。
「開けてみて」
ファスナーを開ける。
硬式用の練習用バットだ。
「俺が高校生の頃まで使っていたものだよ」
相当な努力をしたようで、傷がたくさんある。
でも大切に保管していたようで、まだ十分に使える。
今までの大人たちの会話を聞いていた不安な気持ちが全部吹っ飛んだ。
バットに手を沿わせる。ひんやり硬い感触が気持ちいい。
「ありがとうございます!」
このバットを持って練習する自分をイメージできて、シニア入団に一歩近づいた気持ちになった。
「硬式用のグラブのご用意は?」
「まだです」
浅見さんがそのままスポーツ用品店に連れていってくれることになった。お父さんとお母さんは先に車で帰ることになった。お母さんの体調を気にしていたお父さんは浅見さんに感謝していた。
棚と壁にずらりと並ぶ、存在感を放つ硬式グラブ。
今まで俺が使っていた軟式のグラブは近所のお兄ちゃんのおさがりだった。他の野球道具もおさがりだ。スポーツ用品店に来たのは初めてだ。
サイズを測った後、いくつかの候補の中から選ぶが、「これだ」と思ったものがあった。
黒のシンプルなデザインのグラブ。そのグラブに手を入れた途端に、このグラブは俺のものになった、といえるほどにしっくりきた。
愛おしく思える。これをうまく使ってあげられる気がする。もう他の人に渡したくなくなる。
「これにします」
お父さんから預かっていたお金と浅見さんがくれた割引券で購入した。
たくさんの道具を一つ一つ見ていると、浅見さんに手招きされた。
「これは俺からプレゼントだよ」
硬球六個だ。これで硬式の練習ができる。
「ありがとうございます!」
帰りの車の中でも、家に着いてからも、ずっと左手にグラブを身につけていた。
やっぱり、このグラブを選んで正解だ!
○
四月に入ったばかりのまだ肌寒い土曜日。
家族三人で、車で遠園シニアのグラウンドに向かっている。運転席のお父さんは上機嫌で、助手席のお母さんはぐっすり眠っている。俺は後部座席で手にはめたグラブを抱きしめるようにぎゅっと持っていた。少し不安だった。
町中から離れた、丘の上の林を切りひらいて作られたグラウンドに到着した。車から降りた途端に鳥の鳴き声がたくさん聞こえる。
「ようこそ!」
浅見さん改め浅見コーチが俺たちに手を振った。お父さんとお母さんは保護者たちがいる方に案内されていった。俺一人になってしまった。
当たり前だけど弱いチームから来た俺に知り合いは一人もいないし、誰も話しかけてこない。
遠園シニアは、主に硬式の遠園リトルと軟式の遠園中央少年野球チームから人が来る。既に何人かで固まって話している人たちで、いくつかの輪ができている。
なんとなく、遠園リトル出身者と遠園中央少年野球チーム出身者で派閥ができてるようにも見える。
「ようこそ遠園シニアへ。私は監督の海野だ」
監督がこれからについて説明しているが、緊張のせいでいまいち頭に入ってこない。頭の中までドキドキしている感じだ。
「今からウォーミングアップだ! ついてこい!」
「「「はい!」」」
挨拶の大きさが、『東チーム』とは全然違う。遠園シニアは全員がやる気にあふれている。
まずは、スキップでダイヤモンドをぐるぐる回った。何周したのか、途中で分からなくなった。脚が重くなってきた……。
次に、サーキットトレーニングをした。全身が重くなってきた……。
全員で足並みを揃えてけんけんぱみたいにステップを踏む。俺以外は既に息が合っているように見えて、心細い。だけど落ち込む余裕はない。
ウォーミングアップだけで疲れた……。
「水分補給しとけよ! 十分後に紅白戦を始めるからな!」
紅白戦が始まる前からへとへとだった。
そのとき、遠園リトル出身者の輪からヒソヒソ声が聞こえてきた。
「誰? あいつ」
「弱そう」
間違いなく俺のことを言っている……。俺は暗い気持ちになって、俯いてしまった。
浅見コーチは俺が通用すると言ってくれたけど、本当なんだろうか。あの人は果たして信じていいのだろうか。
「チーム分けのくじ引きだ!」
割りばしが入った箱が回って来る。一本引くと、割りばしの先が白で塗られていた。
白チームの一塁側に集まると、見覚えのある顔があってびっくりした。
「あれ? ここに来たの?」
向こうも驚いている。
遠園中央少年野球チームの人だ。小学生最後の大会で、初戦で『東チーム』をぼこぼこにしてくれた人。別に恨んではいないけど。
スポーツ刈りも、はっきりした目鼻立ちも、小学生の頃と印象が変わっていない。
「俺は
「井原友樹だよ」
ようやく知ってる人と会えて少し心強いが、茜一郎の仲間たちは俺をちらちら見てくるだけで話しかけてはこなかった。やっぱり少し心細い。
白チームの監督を務めるのは浅見コーチだった。
「守備走塁コーチの浅見渚です。オーダーを発表するよ」
浅見コーチがメモを片手に、一人一人呼んでいく。
「遠園東少年野球チームの井原友樹くん。スタメンのショートで、打順は六番」
今まで黙って話を聞いていた白チームの皆が、ざわっとした。
「なんであんな弱小出身がいきなりショートなんだ」と言いたげなざわめきが、とても気まずい。
「へーえ」
茜一郎がにやにやする。
何か言ってくれた方が、まだ気が楽だったかもしれない……。
白チームの皆で、キャッチボールをする。ペアで数球投げると、人を入れ替えて新たなペアでまた数球投げるというのを繰り返し、白チームの全員と一通りキャッチボールをした。
誰もが俺より背が高いし、送球をグラブで受け取ると、いい音がする。
うまい人と一緒にやると、なんだか俺まで一気にうまくなったように感じて気持ちがいい。
バシッ! バシッ!
グラブの音がいくつもグラウンドに響いた。
『東チーム』の皆と段違いだとキャッチボールだけで分かってしまう。同じ年なのにこんなに違うのかと、怖い気持ちもある。だけどそれ以上にわくわくした。
うまい人たちと一緒にやればもっとうまくなれる。
それなら、俺はこれからどうなっていくのだろうか。
試合前のボール回しとノックが始まる。怖いけれど、やはりここにきて正解だった。
『東チーム』の監督兼コーチのしょぼいノックとは全然違って面白い。打球に力があり、生き生きしている。ボール回しも面白い。一人一人がうまいから、グラウンドを駆け回るボールが嬉しそうだ。
やっぱり楽しい。
楽しい気持ちが大きくなっていくと、怖さや心細さはどこかにいった。
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