第2話 動画の中のショート
それから一週間後。
「俺とキャッチボールしない?」
また、浅見さんが公園に来た。この人は一体何の仕事をしているのだろう。まさか、無職!?
聞かないでおこう。
俺が何も言わないうちに、浅見さんは鞄からグラブを出した。気が早い人だなあ、と思ったけれど、すぐにそんなことはどうでもよくなった。
浅見さんのグラブが、草野球などではまず使われないようないい物だって、一目で分かった。
浅見さんのことはよく分からないし、怪しい。でも、あんなにいいグラブとキャッチボールする機会はきっと滅多にない。楽しそうだ。
「いいですよ」
俺は鞄からしまったばかりのグラブを取り出した。
「よく手入れしているね」
浅見さんが俺のグラブを褒めてくれた。
グラブを褒められることは、俺が褒められたってことだ。こんな、よく分からない人に褒められたっていうのに、褒められればやっぱり嬉しい。
浅見さんが軟式ボールを持ち、投げようとする。
モーションがいい。体をしっかりと使えている。うまい人だと分かった。
子供相手に手加減した緩いボールではなく、ノビのあるいい球だ。
バシッ。
俺のグラブがこんなにいい音を出したのを初めて聞いた。
ぞくっとして、頬やうなじが熱くなる。
なんなんだ、この人。
「ほら、投げ返して」
はっとして、慌てて投げそうになったが我慢して、丁寧な動作を意識して投げ返す。
よし、体幹の力を使えたいい送球ができたぞ。
それなのに、浅見さんが笑いだす。うまく投げていたと思うのに、と焦っていると、浅見さんはにっこりと満面の笑みを見せた。
「あはは、最高」
最高ですか?
そう聞く前に返ってきた球は先ほどより強い。
バシッ!
グラブが立てる音が響く。
そっか。浅見さんは認めてくれたんだ。
投げ返すと浅見さんが受け取り、右手にボールを持ちかえる。
浅見さんはうまいだけでなく強い。
強い送球でありながら捕りやすい。投げ返せば綺麗に受け止めてくれる。
「温まった?」
「はい」
少しずつ俺と浅見さんの距離が遠くなり、その度に体から無駄な力が抜けていく。無駄な力が抜けた分、必要な力が満ちてくる。
ちらちらと雪が舞い始めたけど、ちっとも寒くない。
浅見さんがついにステップして投げた。
俺もステップして投げようとしたが、浅見さんが慌てた様子で走って来たので、投げるのをやめた。
「駄目だよ、小学生がこんな距離投げちゃ」
「確かにそうですね」
浅見さんから投げたくせに。なんだか面白い。
子供のうちから遠投をしすぎないほうがいいとネットで見たのを思いだした。
それ以来、内野の距離を完璧に投げることを目指し、外野からバックホームの距離は投げないようにしていた。
知識だけの練習方法。それでずっとやってきたのに、そんなことも忘れてしまった。
気持ちのいいキャッチボールだった。
試合をしなくてもこのキャッチボールだけでも楽しいと言えるくらいだ。
やっぱりここの地域にはいない人だと改めて思う。都会から来たのだろうか。
「君みたいに才能がある子が……しかも野手が中途半端な軟式に行ったらもったいないなって思うんだ」
もったいないという言葉が俺に向けられている。もったいないって言葉は、こんなに強い意味を持っていたんだ。知らなかった。
こんなに、胸に刻みつけたい言葉を誰かからもらったのは、初めてだ。
浅見さんが鞄の中からタブレットを出して、立ち上げる。雪で濡れてしまいそうなのに、浅見さんは気にしていないみたいだ。
「見て」
画面に綺麗なグラウンドが映っている。
上はネイビーにライトイエローのアクセントのあるデザインで、下は白いズボンのかっこいいユニフォームを着た内野手たちがいる。
キャッチャーがサードへボールを投げ、サードがショートに投げ、セカンドへ、そしてファーストへ……と、ボール回しをしている。
速い。
そして綺麗だ。
試合前なのに、ボール回しだけでいつまででも見たくなる。
試合が始まった。
うまい人たちに心惹かれる。
うわ、あんな打球に届くんだ。
あんな位置から投げられるんだ。
あんなフルスイングなのにしっかりと当たるし、あんな余裕そうな送球でランナーを刺せるんだ。
そのとき。
画面の中のショートがセンターへ抜けようとしていたライナーを、ダイビングキャッチした。
待って。この人のプレー、もっと見ていたい。何度も何度も巻き戻して、巻き戻して、見ていたい。
「この子たちと、君も一緒にやらない?」
俺は求めていたものをたった今自覚した。
もしかしたら、今まで押さえつけてきたのかもしれない。
俺はずっとずっとこれが欲しかったと分かった途端、もう戻れないところまで心が決まった。
欲しい野球がここにある。
「よろしくね」
浅見さんの手を握った。
ごめん、お母さん。
俺は野球と出会ってしまった。
夜は雪が止み、静かだった。
「あのね、お母さん。ごめんなさい」
「どうしたの?」
ごめんなさいという気持ちは当然ある。だけど、もう駄目だ。
「今日、遠園シニアの浅見さんって人と会って……」
浅見さんの名刺を見せて、遠園シニアに誘われたと説明した。お母さんがどんな顔をするか、怖かった。
困った顔をするだろうか。俺に「ごめんね」という顔をするのだろうか。
「凄いじゃない!」
お母さんは凄く嬉しそうな顔をした。いつも俺に心配をかけないようににこにこするお母さんだけど、いつも以上に明るい笑顔になっている。
「『東チーム』で友樹が一番うまいってずっと前から思っていたけど、シニアに誘われるほどうまかったんだね! 凄いよ! 誰に似たんだろう!」
なんだか、俺よりテンションが高い。
「ただいまー」
そのとき、お父さんが帰ってきた。
お母さんから遠園シニアの話を聞くと、お父さんも嬉しそうにしてくれた。
「よし! 今夜は飲むぞ!」
お父さんはいいことがあった日しか飲まないビールの蓋を開けた。
「でも……いいの? 送り迎えとか……」
俺の声は弱々しくて、喜ぶ二人とは違う。
「それはお父さんとお母さんで相談するよ。でも、まずは自分が評価されたことを喜んでよ。見てくれる人がいたって、とても嬉しいことだよ」
お母さんは体が弱いけど、こういう強い言葉をくれる。
「うん!」
先のことは分からないけど、それでも、今まで頑張ってきてよかったと思った。
ちなみに、お父さんは三缶も飲んだ。
お風呂からあがると、適当に髪を乾かして、机の上にキャンパスノートを開いた。
『三月二日』と書いて手が止まる。
あのキャッチボールをどんな言葉で書けば表せるだろうか。
浅見さんから動画データをスマホに貰った。去年の岩手県一年生大会の決勝の動画だそうだ。
あのうまさで一年生かと驚いた。
浅見さんが見せてくれた一回の守備で、ショートがセンターへ抜けるライナーをダイビングキャッチしている。
自由に巻き戻しができるから、動画って凄い。
ショートの思いきりのいい飛びかたは何度見ても飽きない。
次は六回の守備を繰り返し見ている。
ショートがセンターに抜けようとした打球を、ワンバウンドで横っ飛びで捕球して、すぐさま起きあがり一塁に投げてアウトにしている。
「凄いなあ」
巻き戻して巻き戻して、何度もそのプレーを見ている。
横っ飛びの後、すぐ起きあがれる体幹の強さ、バランス感覚。
そして捕球から送球へとボールを持ちかえる速さ。
その二つのシーンばかり見ていると気がつき、他のプレーも見ることにした。
それ以外にショートに派手なプレーはなかった。だけど捕りかたと投げかたがいい。
ショートの彼の守備機会を全てメモすることにした。
ノートに打球と彼の立ち位置をそれぞれ書いてみて、恐ろしいことに気がついた。
ダイビングキャッチと横っ飛び以外、彼はごく普通に処理しているように見えたが、そう見えるだけだった。
一歩目が早く、打球の来る位置につくのが速かったために、普通の処理に見えていただけだったのだ。
反射神経だけだとしたらありえない。
『打球予測か。むしろダイビングキャッチと横っ飛びは予測の失敗だったのか』
ノートに緑のペンで書いた。気づけば字が大きくなっていた。
本当に凄いものに、気づかずに素通りするところだった。
この人は誰だろう。
この人がいる遠園シニアはどのようなチームなのだろう。
この人からショートを奪えるだろうか?
怖いけど、それ以上にわくわくする。この人と競い合うこと、そのものが幸せなことだ。
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