第20話 あなたと溶け合って
「唯、気持ちいいねぇ!」
わたしの胴に腕を回し、気持ちよさそうな声を上げる先輩の声を聞きながら、わたしは心の中で毒づいていた。
……気楽な奴め。
口に出す余裕はない。
普段とは違う自転車、普段なら絶対しない二人乗り。
普段しないことに軽く脳がパンクしている。
残った脳みそでどうにかして安全運転を心がけているというのに。
偉い人……それこそ総理大臣とかをのせるドライバーの人の気持ちが、少しわかる気がする。
自分は絶対にバスやタクシーの運転手にはならない。
そんな決意を固めながら、ブレーキを握る力を強める。
通学路の坂を勢い良く下っていく自転車の周りには、意外にも人影は少ない。
部活が始まっている時間だし、部活休みの人達ももう帰ったのだろう。
風はわたしの身体から少しずつ体温を奪っていき、授業中の悩みも頭痛も、少しずつ空に溶けていくようだった。
「唯、突き当りまで行って、右」
「了解です」
「そこ左の歩道に入っといて」
「ん、了解」
「歩道橋上がろっか」
「ん」
少しずつ返事がおなざりになっていく。
決して先輩を無視しているわけではない。
むしろその逆、先輩を意識しなくても先輩のことがわかるのだ。
回された腕から先輩の思考が流れ込んでくる。
右、左、まっすぐ。
どうすればいいのか、どこへ向かえばいいのか。
わかる。
背中に触れた胸から、肩から、腕から。
自分の思考も、先輩のそれに溶けてしまいそうな気がする。
恐怖は、無い。
安らぎも、無い。
ただ一切の感情が溶けていくようだった。
思考の海に、脚から溶けていくように。
先輩と溶け合って、一つの存在になってしまうように。
唯一自分として残った部位は、サドルに乗せたお尻だけ。
道の凹凸の感覚を直に受けたそこだけが、自分は自分だと主張してくれる。
自分が自分でなくなって、それでも自分が確かにそこにいるという感覚。
眠たいような、寝起きで意識がハッキリとしていくような、そんな感覚。
心音は止まってしまったのかと心配なるほど静かで、それでも上下に揺れる自転車の存在が確かに自分は今生きているのだと教えてくれた。
お尻の感覚も、次第に薄れていって、わたしと、先輩と、自転車の境界がほぼゼロになる。
ケンタウロスになったような気分だ、下半身は馬ではなく自転車だけれども。
このまま、空気に溶け込んでしまいたい。どこからもいなくなってしまいたい……。
そう願った心の片隅で、声が響いた。
「着いた、ここだよ」
その声で、わたしと先輩と自転車の境界が再び具現化し、わたしをわたしの身体に引き戻した。
真っ赤な鳥居の先、建物に挟まれた山道の向こうには、赤い柵の橋と立派な門らしき建物がある。
学校から大体20分。
確かに4時までに間に合った。
「ここが、伊賀八幡宮?」
「そそ、この池の蓮がきれいなんだよ」
「さっさと撮影しちゃいましょう」
心残りをそれに押し付けるように先輩が首から下げているカメラに指先で触れながら、言葉を絞り出す。
どこからもいなくなってしまいたい。
マイナスの意味では、決してない。
自分が消えて、周りのものと同化すれば、もう自分の耳や他人との関係に悩まされることは無いのかもしれない。
もっと言えば、先輩と一つになったあの感じを、もっと感じていたい。
水面に浮いた蓮の群れから、少し離れた位置にある一株の蓮を眺めながら、そう思う。
わたしのような蓮だな、と思う。
水面を埋め尽くす蓮と、水面にポツンと浮かぶ蓮。
どちらも絵になると思う。
美しいと思う。
先輩はどっちが好きだろう。
聞くことに意味も、価値もありはしないけれど。
それでも、ほんの少しだけ、一人ぼっちの蓮を美しいと言ってほしいとシャッターを切りながら、思った。
――――
「唯、帰ろう」
10分と少ししてから、先輩が声をかけてきた。
「わかりました、帰りましょう」
制服のボレロの裾をつまんだ先輩に向き直り、答える。
「次、私が乗ろうか?」
「大丈夫ですよ、普段から自転車乗ってますし、家族から『自転車クラッシャー』って呼ばれてますから」
そのあだ名は、自分がよく壊すからではなく、それだけ長い時間乗っているという意味だ。
それだけ故障の頻度が多く、それだけ場数を踏んでいると。
「え、やっぱり私が前に乗るよ」
「やっぱり?」
さすがにそのニュアンスで通るとは思っていない。
それに、ほんとのことを言えば、少し疲れた。
自転車に乗った先輩の後ろに乗って、先輩の胴に腕を回す。
ゆっくりと先輩はサドルを回し、自転車はゆっくりと加速する。
しかし、思い描いたような一体感は感じない。
自分と先輩と自転車の境界線は変わらずにそこにあって。
自分がここにいるというのを、嫌でも意識させられる。
自分の醜い部分を先輩に見られたような、世界に醜い部分を見透かされたような。
回した腕を締め、肩甲骨の間に額を乗せる。
「どうしたの、唯」
「風強いから、寒い」
「私は熱いんだけど」
「疲れてません?」
熱いなら、疲れているのなら、わたしに代わってほしい。
そんなことまで、二人っきりの時ぐらい無理なんてしないでほしい。
自分を頼ってほしい。
「せんぱ……」
「唯、近い」
「え」
先輩の言葉はわたしのせっかく揉んだ気遣いをきれいにかき消した。
「近いって、何で」
二人乗りとは、こういうものではないのか。
「好きな女の子にくっつかれると、緊張する……」
「自分でくっつくのも、キスをするのもいいのに、わたしからするのはダメなんですか?」
「ダメっぽい……」
「なんで!?」
意味が分からない。
ならなんで前に乗ろうとしたのか。
「だって唯がえろいから……」
何言ってんだこいつ。
「あっ、『何言ってんだこいつ』って目してる!!」
「当然の権利だと思う」
「唯は気づいてないかもしれないけれど、唯は魅力あるんだよ!」
「今時酔っぱらいのオジサンでもそのニュアンスでえろいって言葉を使いませんよ」
そもそも面と向かってえろいと言われたのが初めてだ。
「ここにいるよ、ひとり」
「そんなものいなくなってしまえ」
「キスしていい?」
「話聞けよ」
「聞いたらキスさせてくれる?」
「馬鹿なこと言ってるとさせませんよ、まずわたしの言うこと聞けよ」
矢継ぎ早に声を上げ、先輩の言葉を撃ち落としていく。
「キスしたい」
「まずは前向け、事故で心中なんて御免だ!」
自転車はグラグラと揺れ、辛うじて倒れないようにわたしがバランスをとっている状態であった。
伊賀八幡宮からずっと続く川を下るわたしたちの視界に、図書館が映る。
「取り敢えず図書館に入ろう、入りさえすればキスでもなんでもしてあげますから!」
「よーし、入ろ入ろ」
キスでもなんでもという言葉に反応したのか、やけに素早く反応した先輩は、先ほどまでのグラグラした自転車をものすごい速度で立て直し、駐輪場へと向かった。
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