第2話 引っ越し

 翌朝、春美が起きてキッチンに入ると、すでに母は朝食の支度をしており、兄は椅子に座って茶をすすっている。


「十時に迎えが来るから、それまでに準備をしておきなさい」と母の佐恵子が言った。


「分かったわ」と春美。


 春美は兄の隆文の目を見ることができなかった。無口な兄は普段通り何も言わない。気まずいまま別れなければならないのが悲しかった。


 離婚が成立してから、父親の雄一は一度もこの家に姿を見せなかった。佐恵子と春美の荷造りの邪魔をしないためだろう。春美は冷たい父親らしいやり方だと思った。


 佐恵子と春美は二人の荷物を引っ越し業者が運び出すのを見届けた。二人は家を出ようと玄関へ向かった。隆文が玄関に脇に立っている。


「元気でいるのよ」と佐恵子が声をかけた。「ちゃんとご飯を食べなさい」


 泣き顔の隆文がこくりとうなずいた。


 しばらく兄とは口をきいていない。春美は何を言っていいかわからなかった。「お兄さん、どうかお元気で」とかろうじて声が出た。


 隆文が「春美も……」と口ごもった。どうしていいかわからないという表情で涙をあふれさせた目で春美を見つめた。


 二人は靴を履き、ドアを開けて出て行った。隆文はひとり残された家の中で立ち尽くしていた。


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