五章 黎明は遥か遠く
第16話 黎明は遥か遠く.1
燐子は、黄昏の残光がカランツの村を美しく照らすのを、女児のように瞳を大きく見開き眺めていた。
広がる河川の水面が、蜜柑色にキラキラとした光りを放って、とても懐かしい気持ちにさせられる。
砦を作るための木材がひたすら往復している大通りには、黒い影と、橙色の道がどこまでも伸びていた。
静かな虫の音が春の夕暮れに響いて、とても落ち着く。
「どう、この景色は」
ミルフィのこちらの返答が分かっているような自信満々の笑みに、「まあ、風情があるな」と素直半分、ごまかし半分で答える。
「そうでしょう、燐子が好きそうだと思ったのよ」
「なぜだ?」
「だって、アズールに向かう途中で、ぼうっと沈む夕日を見てたときがあったじゃない」
両膝を曲げて抱きかかえるようにして座り込んでいたミルフィが、少し子どもっぽく笑った。
「…よく分かったな」
「分かりやすいのよ、あんたは」
「ふん、そうか」
そうして二人は、しばらく眼下に広がる景色を見つめていた。
もうだいぶ暗くなってきたわけだが、それでも、あちらこちらから作業を続けている音が絶え間なく響いてくる。
金槌で釘を打つ音、鋸で木材を切る音、野太い掛け声…。
作業の休憩を告げる鐘の音が木霊したのを契機に、燐子は両腕と膝の間に顔を突っ込むようにしていたミルフィへ尋ねる。
「どうして、わざわざ私をここへ連れてきた。まさか、好きそうだったから、というだけではあるまい」
ミルフィは燐子の問いかけを受けると、口の形を『え』の形に変えて、それからいっそう深く顔を埋めてもごもごと呟いた。
「まあ、そのぉ、森ではごめん、っていうか、んー…ごめん」
「…いや、謝ることはあるまい。私だって、そうだな…気が、利かなかった」
互いに素直に謝られるとは思っていなかったからか、奇妙な居心地の悪さを感じて押し黙る。
こういうときに何と口にすれば良いのかが分からない、経験不足が過ぎるのだ。
向こうにいた頃も、誰かと話すにしても戦いの話ばかり。そのせいで、歳若い友人はいなかった。
女で戦場に出る物好きなんて、自分以外いなかったし、寄り付く男性も手合わせを頼まれるだけで、恋愛沙汰なんてまるで縁がない。
父からは、『刀と婚姻しているのか』と何度もからかわれた。だから私が、『結婚しているのは戦とです』と冗談交じりで言い返すと、哀れみを含んだ目つきで閉口されたのをよく覚えている。
(なぜ、今になって恋愛沙汰のことなど考える…。普通の女のように…)
何となくミルフィのほうを一瞥する。すると、偶然彼女もこちらを見ていたようで、視線が正面から交差してしまった。
普段なら小言の一つでもぶつけてきそうな状況だったが、ミルフィは二度、三度素早く瞬きしてから、目を背けただけであった。
もう一刻もすれば、背後に広がる林からは夜鳥のさえずりが、雨の降り始めのようにぽつぽつと響き出し、月と星の光が淡く辺りを浮かび上がらせることだろう。
宵の明星が、空の果てで輝いているのをぼんやりと目を細めて眺める。
こんなにも穏やかな夜なのに、次に日が昇り、月が沈み、そしてまた日が昇ろうというときには、この村は戦地になっている可能性が高い。
燐子は、この場から動きたくなくなっていることに、自分でも驚きを感じていた。
当然、戦いが怖いのではない。この奇妙な落ち着きと、それとは相反する居心地の悪さがそうさせていたのだ。
その感情が我ながらおかしくて、無意識のうちに苦笑を浮かべていると、ミルフィが小さく笑った。
「燐子って、不思議ね」
「そうだろうか…どのあたりが?」
「うぅん…全部?」
「ふ…何だ、それは」
「いいじゃない、別に」
その明るい笑顔を見て、今日は本当にミルフィらしくないな、と思った。
不意に、ミルフィが天を仰いだ。
「星が綺麗ね」
「…ああ」
燐子は目を細め、一番星を見つめていた。
遠く、小さい星が必死で輝いているのを見ると、物悲しくなるときがある。
天命を尽くした人間は、ああして夜空を彩る星になるのだと、父は私に教えてくれた。
仲間が大勢死ぬ度に夜空を見上げた。
そうして、いつもと変わらない星空を睨みつける度に、やり場のない憤りを感じていた。
『信念や誇りのために戦うのが、侍の果たすべき天命…ならば、私の天命とは何だ…?何を成せば、私は星になれる?侍ですらない私は…何を成せば…』と。
仲間の死を嘆く者たちに檄を飛ばしながら、私は怯えていたように思う。
自分の生きる意味を、変わらない夜空に奪われたような気になっていたのだ。
(…だが、ここにはそれすらもない)
日の本で見ることができた星空とは、全く違う景色が仰いだ頭上に広がっている。
たとえ星の数が変わらないように思えても、もう気にする必要はない。
形のないものを、守りようのないものを奪われないよう、必死にかき抱く必要もない。
ここでは、誰もその価値を知らず、奪おうともしないのだから。
「もしかすると、私は…」
「え?何?」
ふと、ミルフィが声を上げた。
どうやら心の中で呟いたつもりの声が、口に出ていたようだ。
適当にごまかそうかとも考えたが、結局、続きを語ることにした。
「このような場所に来ても死ねない自分のことを、認めたくなかったのだろうか」
「死ねない、自分を?」
「ああ」
「でも、燐子、あんたは腹を切らせろーってうるさかったじゃない。私たちが止めたから、やめたかもしれないけどさ」
「…それでも、切ろうと思えば腹を切れた」
そうだ。いつだって、機会はあった。
それをしなかったのは…。
「誇りや誉のために、侍の娘として恥ずることのないよう死のうと思っているのは、嘘ではない。だが、ここに来てしまってからというものの、私は――」
理由のない焦燥感に襲われて、反射的にミルフィへ身を寄せた瞬間に、頭の後ろのほうで何かが千切れる音が聞こえた。
それと同時に、縛り上げていた後ろ髪が急に緩み、重力に引かれるままに背中へと落ちた。
「…あ」
ミルフィが小さい声を上げ、こちらの顔をまじまじと見据える。
手を背中にやって、何が起きたのかを確かめる。
どうやら、髪をまとめていた紐が千切れてしまったようだ。
その紐は、昔、父から貰った年季の入った一品だった。
別に高価なものでも、特別なものでもない。ただ、太刀、小太刀に加えて元の世界から持って来た数少ないものだった。
それが今千切れてしまったというのは、何か良くないことが起こる予兆に他ならないのではないかと、心がざわついてしまう。
燐子は、千切れた夜緑色の髪紐を拾うと、そっと胸の前で握りしめた。
その姿は、壊れた宝物を抱きしめて、泣き出しそうになっている子どものようだった。
「大事なものだったの?」
ミルフィがゆったりとした唇の動きでそう尋ねる。
「…なぜ、そう思う」
「だって、そういう顔をしているわ」
心配そうな目つきで返された燐子は、紐を握り締め長息を吐き、ぽつりぽつりと返事をした。
「向こうから持ってきた、数少ないものだ。それが壊れるとなると、どんどん元の世界から切り離されていく、そんな気がして…」
不安なのだ、という言葉は飲み込む。
すると、ミルフィがそっと、燐子の固く握った掌に自身の手を乗せた。
「少し、見せて」
ミルフィは思いのほか硬い指先で燐子の掌を軽く押して開くと、中から夜緑色の紐をつまみ上げた。
「うーん…」
ミルフィは、妙に高く間延びした声を出したかと思うと、何かに納得した様子でふわりと微笑んだ。
「これくらいすぐに直せるわ。任せておきなさい」
「本当か?」
「ええ、少し短くなるでしょうけど、誤差の範囲よ。明日中には直すから、それまでは…」
一度口を閉じたミルフィは、じっと燐子の顔を見つめて何やら逡巡した後、「まあ、いいか」とほんのり頬を染めた。
それから、ミルフィは垂れ下がった自身の三編みの毛先をまとめているヘアゴムを外した。
燐子のようにそれだけで髪が解けるわけではなく、彼女の赤色の髪は一本に束ねられたままだ。
「後ろを向きなさい。これで結ってあげるわ」
「だが、また汚れてしまうかもしれぬぞ」
「別に、ヘアゴムぐらい構わないわよ」
そう言われては反論のしようもなく、燐子はされるがままになってミルフィに背を向けた。
烏の濡れ羽色をした髪を、ミルフィが一本、一本、丁寧で、優しい手付きでまとめる。
「…髪、綺麗ね」
「あ、ああ…そうか…」
その優しさに、燐子はむず痒いような、心苦しいような、でも、どこか懐かしいような…そんな感覚を抱かされて、なぜか泣きそうになってしまった。
人前で泣くなんて、侍の名折れだ。
いや、自分は侍ではないのか。
だったら、何のための誇りだ。
あぁ、こちらに来てから、迷いばかりの自分が情けない。
ミルフィの繊細な手付きが、水筒の中の、最後の一滴のような涙を加速させる。
燐子は、それがこぼれてしまわないようにぎゅっと瞳を閉じた。
「こうしとかないと、落ち着かないのよ」
「誰がだ?」
「私がよ」
「妙なことを言う。なぜだ」
「そ、それは…」
背中越しに響いてくるミルフィの声が、かすかに揺れる。
言うか言わないか、迷っているようだった。
たいして時間も経たないうちに髪を束ね終えたミルフィが、やがて、燐子を向き直らせると、消えそうな声で呟いた。
「――…髪を下ろしてると、意外にも、その、ちゃんと可愛い女の子なんだなぁと思っちゃって…」
「じょ、冗談はよせ。そういう女ではないことぐらい、自分でも分かっている」
「…冗談で、こんなこと言わないわ」
うっ、と息が詰まった。収縮する心臓に、切ない息切れを覚えそうだった。
一瞬流れた妙な空気を厭うように、ミルフィが手を鳴らした。
「はい、これでお終い」
ミルフィは少しだけ燐子から体を離して、上手く結べているかどうか確認した。上手くできたと思っているのだろう、どこか得意げな微笑を浮かべている。
「…あ、結んだことは内緒にしておいてね」
「なぜだ」
「いいから、色々面倒なのよ」
山と空の境界が朧気になり始めた頃合い、うっすらと貼り付けられたような空に、月が浮かび上がってきていた。
(もう夕食の時間だ。そろそろ帰らなければ…)
頭ではそう分かっているのに、動き出すのが億劫になっていた。
欲を言えば、月に照らされる村も一望してみたい。
だが、月明かりが辺りを本格的に照らし出すには、もう少し時間がかかりそうだ。
「夕飯の支度をしなきゃいけないし、戻りましょうか」
そう言って立ち上がりかけたミルフィの手を、名残惜しさから無意識に掴む。
急な出来事に彼女も驚いたような顔で燐子を見下ろしたのだが、同じように困惑した顔をしていた燐子と目が合ってしまい、互いに目を瞬かせた。
「な、何?急にどうしたの」
「あ、いや…」
自分でもよく分からなくなっていた燐子は、何と言うべきか必死で考えた挙げ句、別に、『自分はもう少しここに残る』と伝えればいいのだと気がついて、手を離そうとした。
しかし、その瞬間、見上げるミルフィが小首を傾げたのを見て、思わず違うことを言ってしまう。
「もう少し、いいだろう」
「ええ…燐子はまだいてもいいわよ、でも、もう半刻もしたら」
そこから先の言葉が想像できて、早口でそれを塞ぐ。
「お前もだ、ミルフィ」
自分でも気が付かないうちに、手に力が入ってしまう。
「ど、どうして?」
「分からん」
燐子は、ミルフィの赤らんだ顔から少しだけ視線を逸し続ける。
「だが…許されるなら、もう少しそばにいてくれ」
自分は寂しいのだろうか、それとも、話し相手が欲しいだけなのか。
いや、どうせ考えても無駄だ。
考えてもどうしようもないことが、この世界に来てから増えた気がしてならない。
燐子はもういっそのこと開き直って、はっきりとした口調と瞳でミルフィに告げた。
「お前との時間は、やけに落ち着く」
ミルフィはしばらくぽかんとして、燐子の真剣そのものの表情と向き合っていたのだが、ややあって吹き出すと、「素直に寂しいって言いなさいよ」と母のような表情で微笑むのだった。
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